関心領域のレビュー・感想・評価
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精神や体調に支障がでていることを祈る
・新しい効率的な焼却炉の商談 ⇒ それはゴミではなくユダヤ人を焼却する炉
・好きな服を選んでいい ⇒ それはユダヤ人から剝ぎ取った毛皮や服
・歯で遊ぶ子供 ⇒ それは恐らくユダヤ人の歯
ここまで麻痺するのか。いや麻痺しうるな。そういう空気、ご時世、雰囲気になっても人間らしさを見失わず正しいことを全うできるか?恥ずかしいことに100%の自信がない。だからこそ自戒し続けなければ。
最初から最後までずーっと叫び声や怒声や銃声がバックに流れる。
これが音響のいい映画館で観た方がいい「これまでにない理由」だ。
あの音をBGMに暮らすのは、いくら裕福でも精神に支障を来すはず。
そういえば、妻も子供も少しずつそういう兆候(ヒスなど)があったような。
また、裕福とはいえ、幸せそうにも見えなかった。「自分は恵まれている」と無理に思いこもうとしているように見えて仕方がなかった。
いや、きっとそうであって欲しい。
人間として、全く平気であって欲しくない。人間はそうじゃないと思いたい。
※リンゴを挿していくシーンは何なんだろ?そういえば塀の向こうでリンゴで争いになっている(と思われる)シーンもあったな。このリンゴなんだな。
※よく分からなかったシーンがたくさんあった。川に流れてきたのは何?とか。あらすじを書いたサイトや考察を早く読みたい。
※A24っぽさ全開。しかし、なんかパターン決まってきたな。
音と映像の関係について批評的な作品
予想以上のヒットになっているようだが、これは確かに観ると「何か言いたくなる」タイプの作品だし、鑑賞後に他の人がどう思ったのか気になるタイプの作品だろう。考察要素もかなりあるので、意外と現代の観客の嗜好にあった作品かもしれない。
僕自身は、この作品はカメラのあり方に上手さがあったと思う。定点観測的に据え付けられたカメラで観察する態度を徹底させて、のぞき見の視点を持っている点が多様な解釈を生み出す。そして、家の敷地の向こう側に決してカメラがいかないで、音だけでアウシュビッツの惨状をほのめかすという点が本作の優れたポイントだが、音と映像の関係について考えさせられる。映像はフレームが決まっているが、音の空間的な拡がりは映像よりも広い。映像が洩らした情報を音が拾っているわけだ。音の表現力を突き詰めて考えているからこそ出てくる発想だと思う。音はただ映像を補完する存在ではない。音の空間表現力は映像を凌駕することがある。画面だけ見るとひとつの家の中だけしか情報を提示していないが、音はより広い空間を表現している。音が良い作品は映画館でこそ本当の力を発揮する。その意味で、これが劇場でヒットするのは、必然とも言える。
“関心の壁”を可視化した鋭い眼差しが、時を超え現代人を射抜く
ナチスドイツとホロコーストの歴史に明るい人なら、映画の題名の元になった用語に聞き覚えがあっただろうか。ドイツ語でInteressengebiet、英訳でZone of Interestは、第2次世界大戦中のナチス政権が占領下ポーランドのアウシュビッツに建設した強制収容所群を取り囲む一帯を指した呼称。interesseとinterest(どちらもラテン語から派生)には「関心;利権;重要」などの意味があり、この地域で農地を接収し農作物を販売して利益を得ることや、住民と囚人の接触を減らすことを目指す「重要な地域」というニュアンスがあったようだ。
英作家マーティン・エイミスは2014年に発表した小説「The Zone of Interest」で、登場人物らの関心と無関心を重要な要素として描いており、interestの語義のうち「関心」をより強く題に込めたのは明らか。なおエイミスは、初代所長ルドルフ・ヘスとその妻をモデルにした架空の2人と、妻と親密になる将校、ユダヤ人ゾンダーコマンド(労務を担う囚人)を主要なキャラクターにして物語を構築した。
ジョナサン・グレイザー監督はこの小説の映画化権を獲得し、自らの脚本で所長夫妻を実名に戻したことをはじめ、原作から大幅に改変してより史実に近いドラマとして再構成(原作小説の将校とゾンダーコマンドは映画には登場しない)。ルドルフ(クリスティアン・フリーデル)と妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族が、収容所から壁一枚隔てた敷地に建てた邸宅で過ごす“幸福な日常”を、淡々と観察するかのようなカメラワークで描いていく。
ホロコーストを題材にした映画として画期的なのは、強制収容所内の出来事を一切映像で描写しない点。ただし銃声や叫び声などの音と、高い煙突から上がる煙などの背景映像によって、すぐ隣でユダヤ人収容者の虐殺が延々と続けられていることを示唆する。そして、そんな煙や音を見聞きしながら意に介さず楽しげに暮らすヘス一家と来訪者らの姿が、観客を戦慄させもする。
人間の関心の範囲には限りがあり、その範囲を越えた先のことは、たとえ情報が五感を通じて体に入ってきても意識にほとんどとどまることすらなく通り過ぎてしまう。そんな関心の限界、言い換えるなら“関心の壁”を、グレイザー監督はヘス邸と収容所を隔てる壁で可視化してみせた。
そして、映画の眼差しは、単に80年以上前のドイツ人家族に向けられるだけでなく、ロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・ガザ戦争で大勢の兵士と市民が日々戦死し犠牲になっている世界に生きる現代の私たちをも射抜く。そうした世界の悲惨な状況をニュースやSNSで見聞きしても、すぐに意識が日々の衣食住や身近な人間関係などに移っているのなら、ヘス一家に恐怖したり批判の目を向けたりする資格はないのかも。あなたの関心の領域はどこまでか、関心の壁は今のままでいいのかと、映画が問いかけてくるようだ。
怒りや衝撃を超えて込み上げてくるもの
数年に一度、こんな類稀なる怪作と出会うたびに私の体は硬直する。アウシュヴィッツ収容所に隣接する邸宅という極めて象徴的な場所を使って、そこで何食わぬ顔で暮らす家族をまるで実験観察のように見つめるこのひととき。すぐ間近で起きているおびただしい人々の地獄のような日常はいっさい映り込まない。だがそこには、けたたましい音、衣服、立ち上る煙、灰塵など、何が起こっているか想像するのに十分な悲鳴や痕跡があふれている。歴史を知る我々はその一つ一つを意識的に受け止めうる。しかし、どうやらあの家族は、耳を塞ぐでもなく、聞こえないふりをするでもなく、そこでの暮らしを「手に入れた幸せ」として受容しているようだ。あたかも別世界の住民のような態度を見ていると、怒りを超えた衝撃と恐怖が込み上げてくる。が、翻って、戦争や災害などの苦しみが世界を覆う現代において、あの家族は他人事と言えるのか。あらゆる意味で、映画は写し鏡だ。
戦争や差別や殺戮を許す無関心の罪
壁を隔てたすぐ隣にある施設からは、強制収容されたユダヤ人たちが何らかの肉体的危害を加えられていると思しき"音"が聞こえる。目には見えない分、"音"が伝える恐怖は計り知れない。それは、観客が想像力のレベルを検査される時間でもある。一方、壁のこちら側では、ナチス将校一家が豪華な邸宅に住み、家庭菜園で土を耕し、子供たちは水泳や釣りに興じている。
ドイツ映画はこれまでも様々な形でホロコーストを描いてきた。しかし、イギリス人監督、ジョナサン・グレイザーはアウシュビッツの司令官、ルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグの生活にスポットを当てた小説を自ら脚色し、近年発表されたほぼ全ての同ジャンルのドイツ映画にも勝る、強烈な反戦映画を外国人の視点で作ってしまった。
本作の怖さは壁を隔てた2つの空間の対比よりも、むしろ、無関心を装うことがいかに戦争を放置することになるかという、現代人への警告だ。ヨーロッパやイスラエル、ガザ近辺だけではない、地球上の全ての場所に住まう人々への。戦火が止まる気配を見せない今、見逃してはいけない1作だ。
Infernal Audio Trip
An eerie pitch black overture unwinds you into a diabolic abyss, tuning your ears for a score to ungodly torment. Nixing a substantial percentage of story from its source, the film sticks to the daily life of a family's dream home perched by Hell, of which the breadwinner is a senior manager. A well-staged historical reenactment with the sounds of machinery and suffering saturating the atmosphere.
ねむい!
新しいかたちの反戦映画
一人ひとりが自分の関心領域をどこに持つかが問われている
映画冒頭では真っ暗な中で不調和音が響き、しばらくすると明るい水辺での楽しそうな家族のピクニックの場面に切り替わる。ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒは自然豊かな郊外の一軒家で子どもたちと平和で幸せな生活を営んでいた。どこにでもいそうなドイツ人一家が普通の家庭と何か違うところがあるとすれば、彼らの家の塀を一枚を隔てた所にはアウシュビッツ強制収容所があり、ルドルフがそこの所長だということだけだ。
無知と無関心は異なる。本当に何も知らなければ無知だが、知っているにも関わらず、関心を向けない、或いはあたかも無いかのように振る舞うのは無関心である。ルドルフは職務として隣で何が行われているのか当然知り尽くしている(というより、指示をしている)のだが、ヘートヴィヒや子どもたちは無邪気に隣で何が起きているのか何も知らないかのように振る舞ってはいる。しかし、その言動をよく見ていると確実にわかっていることが理解できる。
人間は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いていたいと思うものであり、嫌なことから目を背けている限りは幸せでいられる。しかし、目を背けられた場所には「幸せ」とは対極な状況に置かれた人々がいる。それは第二次大戦の頃だけの話ではなく、いま現在でも全国各地で、そして世界各地で起きていること。
一人ひとりが自分の関心領域をどこに持つかが問われていることを突きつける作品だ。
無関心の壁
音楽が歪み感を増幅
なぜ今、
未曾有の表現
本作は、邸宅に据えられた隠しカメラのように家族の暮らしを淡々と映し出す。ドラマやスペクタルの代わりに、問答無用に音と向き合わせ観客の脳みそをフル回転させる。
母性的な老婆が人食い魔女であった〝ヘンゼルとグレーテル〟、リンゴを隠す光の少女、言葉なき詩のピアノの楽譜が、私に「想像せよ!」と訴えかける。
アウシュヴィッツの地獄はどんなに再現しようとしても表象不可能だ。不完全だからこそ、私たちは〝自分で想像すること〟しか、犠牲となった死者に応答する手段はない。それは人間としての倫理的債務だ。私たちに託された債務以外の何ものでもない。想像しない限り過去は繰り返されてしまう。
表象不可能なものに対する、真摯に考え抜かれた未曾有の作品だった。
怖い!美麗映像と緻密かつ重厚なる音響世界
ベルイマンやポランスキー作品に通じるエレガントなひたひたと内側に水が浸透するような恐ろしさ。
とにかく庭園、建築、衣装、部屋、何から何まで贅沢な一級品。
でもじぶんはあそこには絶対住みたくない!
一晩でも逃げ出したくなります^_^
塀の向こうで何が起きているか知っているのは、
収容所で日がな働くこの一家のあるじと、
われわれ観客だけという!
阿鼻叫喚の声や銃音が、
毎日遠くから聴こえてくる、気味の悪さ。
奥さんは、こんな恵まれた暮らしを手放したくない。
転勤の話が出たら、あなたが単身赴任して!というばかり。
あそこの煙は、銃殺された、おびただしい数の遺体を焼却炉で焼いているからなのだ。
その空気を吸って野菜や木花や人間が生きている日常。
焼却炉を増設するに、設備の冷却や運営をどうするか、淡々と会議がすすめられたり。
見る前から宣伝で、塀の向こうを全く映さないとは聞いていて。
なおさら、その闇が非常に深く感じられましたね。
隣で何をしているのか
Amazon Prime Videoの配信を視聴。
小説の映画化で、当時を知る者の証言などを参考にしてリアルに再現したとのこと。
今作の登場人物は、家の塀の向こう側で何が起こっているのか ある程度は知っていたとしても、自分たちで築き上げた氣に入った日常が続くなら 一家の主の任務に干渉するメリットは無い。しかし、今の場所を手放すとなると話は違うというわけだ。
何してるのか わかりにくい サーモグラフィのシーンが 意味深であった。
第二次世界大戦が どういうものだったのか、また アウシュビッツ強制収容所で 何が行われていたのか については諸説ある。
数十年前の戦争時代に限らず、現在も 隣や見えないところで 誰が何をしているのか 無関心だったり、関心があっても触れないように していたりする。
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