関心領域のレビュー・感想・評価
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死角
人間の五感は優れていると言いますが、私たちが関心をもって見ているものはかなり限られているんだろうな、と改めて考えさせられました。
ましてカメラを通して記録された歴史的記録映像、ドキュメンタリーから見て取れるものはごく一部なんでしょうね。
登場する家族も、家の隣で起きていることばかりか、家のなかのことも無関係であるかのように見えました。そこも、モデルになった実在の家族も実際は、隣で起きていたことをもう少し気にしていた可能性もあるよな、と期待してみたくもなりました(目や耳は塞げても匂いは避けられなかった気がしますし)。
関心すら寄せられていないもの、関心を持っていながら目を向けられていないものも多いですが、見えているのに無関心というのが危ういものをもたらすんだと実感させられました。
とはいえ、リンゴを配ってみるような想像力や行動力を持つことは難しいですね。
音だけでなく臭いも感じる
映像の背後に絶え間なく聞こえる音。画面に写っていることより、音で察せられる画面に写っていないことの方に気持ちが向いてしまう。これは確かに、拡張された映画体験と言えるものだろう。
ドキュメンタリー調とも違う、自然でありながら無機質で表層的な映像は、無数の隠しカメラで撮った断片を繋ぎ合わせたものとのこと。登場人物たちの感情を読み取ることが難しい。
壁の向こうから立ち上る煙や、闇の中の炎を見ていると、音と相まって臭いも迫ってくるように感じられて、気分は悪くなってくる。
直訳のタイトルが深い。制作時には意識していなかっただろうが、今は期せずして、パレスチナの現況を思い起こさずにはいられない。
最も映画的と言えるのが、ヘンゼルとグレーテルの読み聞かせでの反転映像の少女のシーンだが、観ているときは意味がわからなかった。後で公式サイトで確認して理解はできたが、効果を上げていたとは言いづらい。
エンドロールの不協和音のような音楽もあり、後味は悪い。映画館を出たあと、目に入る街の灯りが不穏なものに見えた。
抽象化しすぎてないだろうか?
『関心領域』(原題:The Zone of Interest)。
マーティン・エイミス原作、ジョナサン・グレイザー脚本・監督の米・英・ポーランド共同製作。
2023(日本は2024)年公開。
アカデミー賞国際長編映画賞、音響賞。
冒頭、タイトルバックに不穏な音(音楽?)が鳴り始めスクリーンが体感3分ほどブラックアウトする。
テレビなら放送事故だ(笑)。
その後、川のほとりに楽しむ家族のシーンに切り替わる。
アウシュビッツ強制収容所に隣接した豪邸に住むルドルフ・ヘス一家の日常を描く。
※Wikipediaでは、副総統のヘスと区別するため
「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」で表記されている。
ほとんどすべての挿話が、
◆婉曲表現
◆暗示や暗喩
で構成されていて、スッキリとは入ってこない。
人類の歴史に残る愚行は、
具体的に描写できるようなスケールでないことは理解しているつもりだが、ここまで抽象化されると、
もう「前衛芸術」のように感じてしまう。
確かに、本作はアートだろう。
だが、狂気の表現としては
『ヒトラーのための虐殺会議』
には及ばないと感じてしまった。
ヘスの妻ヘートヴィヒ役のザンドラ・ヒュラーの演技には脱帽しつつ、☆2.5
前知識が必要
学生時代のどこかで習ったんだろうけど、勉強しなかったので、新たに前知識として、予習しました。
アウシュビッツ強制収容所で罪なく亡くなったのが、110万人と言われてるが、110万人って??
わたしは広島人なので、原爆で亡くなった人は15万人ぐらいらしい。
110万人とは、現在の広島市の人口に等しい。
と、思うと…
そのアウシュビッツ強制収容所の司令官が、塀の外のすぐ隣で悠々自適に暮らしてる様を描く。
収容所の残虐なシーンは一切出てこないが、セリフが心ない言葉で残虐だったり、何より音楽がとても恐い❗
今から規模が大きくなり、効率良く大量虐殺が行われるんだろう所で終わる。
現代の観光になってる、アウシュビッツ強制収容所のシーンもあるので、是非 YouTubeとかで、予習して見て欲しい。
個人的には、パーフェクトデイズ推しだったけど、世界的にはそうだな。。
納得の、アカデミー外国作品賞である。
装う無関心の闇深さ
嫌な映画だけど気になってしょうがない
映画全体の最初の印象としては、現代美術館で流しっぱなしにしているインスタレーションの映像をボーッと見ているような気分になって不謹慎にも気持ちよくなってちょっとウトウト。ほぼ全編を通して鳴っている「ゴーッ」という感じの音もいわゆるホワイトノイズ(空調の音とか、ジェット機のエンジン音)のようで心地よい(すみません)。
ただその音の中に不快な悲鳴や銃声らしき音が混じっていてそのたびに画面の状況に引き戻される。
よくよく見ると画面の中の様子も一見普通で平和に見えるが、まちがい探しの絵のように異質な部分が気になってくる。あれ、そう言えばなんであのメイド長靴洗ってんだ?とか、なんであのお母さん急に窓閉めたんだろう?とかいろいろ気になってくる。
そもそも関心領域というタイトルが絶妙で、個人的には視聴動機の半分はこれのせいだと言っていいくらい。
もちろん言葉自体はナチスドイツがつけた古いものだがたぶん「要監視区域」みたいなニュアンスであって、関心・無関心の関心とわざと曲解してみせたマーティン・エイミスはすごいなと思いました。
まさにヘス家の「関心領域」はヘス夫人ヘートヴィヒを中心に同心円状に広がっているが、基本的に無理やり自己暗示にかけてなんとかしようとしているので、子どもたちにはストレスが身体の不調として出てきているし、ヘス本人もアウシュビッツに帰れることになって喜んでいるにも関わらず、体が拒絶反応を起こしている。それから、ユダヤ人の灰や体に触れるとゴシゴシ洗うくせに、衣類や貴金属には平気で触れるのはなんか不浄観がバグってる感じで気持ち悪かった。
一見クールに見えるこの映画もジョナサン•グレイザー監督の熱い思いに裏打ちされていると思うと映画の見え方も自ずと変わってくる。
ラストシーンで未来を幻視したヘス。こっちを見て何も言わないけど「オレにとってはこれがベストの選択なんだ、なんか文句あるのか?おまえはどうなんだ?」と目で言っている。あっえーっと焦ってる間に、「おまえの答えなんか興味ねえ」と言わんばかりにさっさと階段を降りるヘス。
正直もう一度見るのは気が重い。でも見ていろいろ確認しないわけにもいかないそんな気分にさせる映画。
関心
本当に淡々と、家族の日常が流れていきます。私は、映像そのものよりも...
本当に淡々と、家族の日常が流れていきます。私は、映像そのものよりも、そこに漂っているだろう「臭い」を想像して気持ち悪く感じました。だって、隣では・・・・。賛否両論の音については、わざとらしく、かつ映画の流れを分断させているだけの印象であまり好きではありません。
地味な画面が想像を掻き立てる「塀」の話
おそらくこの映画はアウシュビッツに強い関心がなければ理解が難しい。説明もなく、ドラマもなく、淡々と日常が写されているからだ。私も一見しただけでは消化できないエピソードも多く、自分の知識不足を感じた。
しかし、注意を払って見た部分は印象に強く残る。収容所の煙突から常に煙が出ていて、平和で裕福な家族の外では常に死体が燃やされ続けている。主人公であるルドルフ・ヘスのミーティングのシーンでは回転式焼却炉の話をしている。もう殺すことは日常であり、その処理をどうするかが目下の関心事。時折り、塀の外から脱走者の処刑の銃声や叫び声が聞こえてくる異常な環境でも、ヘスの妻は収容所という地獄から塀を挟んだ自宅を楽園であり、永遠に続くものと思ってる。転勤の可能性を告げられると感情を露わにして拒否する。妻の母が訪れるが、彼女はおそらく異常さを感知して突然帰省してしまう。別に妻の母も良識派な人間ではなく、ユダヤ人が使っていたカーテンを隣の人に奪われたと愚痴る程度には、当時の差別や収奪を当然のことと思っている。家の使用人もユダヤ人から収奪した衣類を配られると、一目散にお気に入りを選ぼうとする。一見すると何気ないシーンだが、アウシュビッツの存在が当然のことと捉えられている。一度、無関心を決めると人間は徹底して無関心を貫き、それが普通の人間なのだと印象づけられる。
時間が経過するにつれて、ドイツの状況は悪くなっているはずだが、画面からはまったくその状況は見えない。ヘスの家族はヒトラーによって幸福を得たのだから、ヒトラーに従えばずっと幸福であると信じているのだろうか。それともヒトラーが誤る可能性を考えなかったのだろうか。思考の外に関心を払うことはない。
後半、ヘスが嗚咽を繰り返し、現代の博物館化したアウシュビッツが映る。そこでのアウシュビッツも館員が掃除をしているシーンであり、これもまた、ありふれた日常である。これには感情を揺さぶられた。アウシュビッツの清掃員もまた悲惨な遺産や遺品を日常的なものをして扱わざるを得ない。仕事という性質にはそういう部分がある。関心領域が違う。本来ならとても強い関心があるだろうから、アウシュビッツに関わっているだろうに、どうしても仕事となると関心領域の外に置いてしまったように見える。
ルドルフ・ヘスの嗚咽が彼の良心なのか違和感なのか、精神的な不協和音からのものだとすると、彼はそれを隠すように自分の仕事と割り切って関心領域の外に置いて平静を保ってきた。その点ではアウシュビッツの清掃員もそうだし、この映画も見た私も普段はあらゆることを関心領域の外に置いている。そうじゃないと精神が保てないから。
映画は日常を徹底的に描くことで、異常を浮かび上がらせるものだった。当時のドイツ人は今こうしてみると異常であるが、私たちもまたアウシュビッツの塀をあらゆるところに作っているのではないかと感じた。
境界型の鉄槌
The Zone of Interest
展開が少ない映画だと聞いていたが(とんでもない)、作中では無数の「重要な」ことが起こっている。子供の成長、夜泣きの過酷さ、母は生活ぶりを見に来る、家族の大黒柱は栄転したが、家族は着いて来ずに体良く一人で追い払われている、そして出先において更なる昇進をして暗黒に沈む。
ヘートヴィヒが家を離れたくないのは
姉妹にお揃いの服を仕立てたように
一から時間をかけて設計し作り上げた庭、教育環境、そして周囲との関係性があるから、だけではない。壁の向こうの音は最早聞こえないものではない、むしろ常に耳の中に響き自分の優位性を再認識させてくれる。
無理やりボートに乗せられて泣き出す子供に人間の文化を感じる。しかし文化は、それぞれを大切にするどころか、まるで相手から奪い取るべきものと、宣言をしている。
人間味を残したサーモグラフィー、しかし自分の生活を捨てる気はない。
今となっては、ホロコーストを、「歴史」として扱うことを自然の摂理としている。
今も展示も壁と隔てて、内側を綺麗にしているだろう。
興味は展示としての関心領域に移っているだろう。
観る人を試す映画
まず、ドラマの基本構造の起承転結に従っていないので、監督が伝えたいことが分かりやすくダイレクトに表現されていない。延々と続く小エピソードの果てにエンドロールが出てくるので観る側が意識しないと伝えたいことがわからないのでないだろうか。また、登場人物のアップ映像が少ないので各シーンで何を思っているのかが伝わりづらく、観る側の想像に委ねられている。さらには、説明的シーンが削ぎ落とされているので、各シーンが何を表しているのかは事前の知識がないと把握しにくい。
この映画の一家の主人はルドルフ・ヘスなのだが、私はエンドロールが出るまでわからなかった。映画の前半に夫を部下の兵士が「司令官」と呼称している段階で気がつくべきだったが不肖にも知識不足で気がつかないまま、終わりを迎えてしまった。もし、このことに気付いていれば各エピソードの捉え方は相当に違っていたような気がする。
その意味で、私にとってアウシュビッツは関心領域外だという事実を突きつけられた。この映画はこんな感覚を持たせる映画ではないだろうか。
なお、この映画の紹介に「アウシュビッツの隣に住んでいるにも関わらず壁の向こう側に関心を持たない家族」という文脈が使われることがあるが、この一家がルドルフ・ヘスである事実を踏まえるとそういうぬるい表現ではすまされないかもしれない。彼が何を行い、研究者によってどう評価されているのかを踏まえたときヘスの夫人を単なる無関心者としてとらえていいのかどうか改めて考えたほうがいいのではないだろうか。
こんなもんでしょ、人間なんて
無理やり、「アウシュビッツの隣で平然と普通の暮らししてて怖ーい!」に持っていこうとしているのかもしれないが、
人間なんてこんなもの。
正直全く何とも思わなかった。
戦争を始める時、人はいちいち後世の人にそれが何と言われるかなんて、考えない。
自分の言い分、自分の国土、自分の家族を守るために、その時その時必死なはず。
それを後から見て、怖ーい!と言うのはどうなのか。
確かにアウシュビッツで行われたことは残虐非道。
でも、真面目な人間ほど上司に認められようと必死に忠誠を誓うだろうし、あの時代のあの立場のヘスはああなるだろう。
唯一怖いのはヘスの妻。
ここで子供達と何不自由なく優雅に暮らしたいからお前は単身赴任しろ、だからね。
怖い怖い。
ヘス、お疲れw
手練れな演出、不穏と恐怖
スタートから不安感が呼び起こされ、
それなのにそこからの展開は穏やかな家族の日常。
暴力的、支配的な激しいシーンがないのに、光、音、ちょっとした手元や仕草でとんでもない状況なことが
ひたひたと伝わってくる。
ラストに現代にパーンと切り替わり、音や状況で察していた以上の惨劇に向き合わされる。
エンドロールはもうその音止めて、恐怖に迫られるような思いになっていて…
残虐シーンがないにも関わらず、人の異常性が目の当たりになり、不穏で恐ろしくなる。
観る人に感じさせる、考えさせる演出はすごい!
ただ、もう一度観たいか、というと恐くてみたいとは思えないので。
《ハンナ・アーレント》を観ておけば充分な気がしたんだけど
収容所の隣で暮らす一般市民の話かと思ったら違うんだね。
ナチの高官でアウシュビッツを管理する人の家族だった。
そうなると、関心がないというより、敢えて見ないふりしないと暮らせないよね。
そこでちょっと、作品に対する興味を失ったの。
描き方ですごいなと思ったのは奥さんの家へのこだわりね。
奥さんにとってアウシュビッツの隣の家は「わたしの理想のおうち」なんだよね。庭の設計も一から自分でやって。人生を賭けてようやく手に入れたものだから手放せないの。だから転勤もごねて居座るのね。
「あなたの『理想のおうち』のために、ユダヤ人が何人殺されていますか?」ということなんだけど、それを考えたら今の良い生活を失っちゃうからね。知っているけど知らないフリしたいよね。
この人たちにも「悪の凡庸さ」があるなと思ったの。ちょっとアイヒマンとは違うかも知れないけど。
それと恐いのは「人間の弱さ」だなと思ったな。
主人公のポジションで出世しようと思ったら、最終的解決を効率的にやるしかないよね。
主人公がやらなくても誰かがやる。その誰かが出世して良い生活を手に入れているのを、横で見ていられるのか。
本当に強かったらね、自分はどうなってもいいからユダヤ人を救おうとか考えるかも。でも人間は弱いからね「みんながやってるから自分も」と甘い汁の誘惑に逆らえない。
話が、いまや天下御免で悪役にして良い唯一の存在となったナチスだから、「いやそれ駄目でしょ」と思うかも知れないけど、渦中にいたら売上至上主義のブラック企業とナチスと、そこまで大きな違いとしてとらえられるのか。
というようなことを考えるから、面白かったけど、その辺も《ハンナ・アーレント》観たら考える気がするから、敢えてこの作品を世に出す意味は、なんだろうなは思ったよ。
何も起こらない。
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