関心領域のレビュー・感想・評価
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想像力を発揮するということ
映らないが確かにそこにある何か
音響賞は伊達じゃない
アウシュビッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘス家族の日常を描く物語。
アカデミー賞国際長編映画賞・音響賞を受賞した佳作。
物語は、本当に日常生活を中心に淡々と描きます。豊かな自然、暖かい家族、ヘスの妻が拘る理想の生活・・・ただ、その生活の描きながら合間々々に銃声や悲鳴、怒声が漏れ聞こえてきて、その音との対比が人間の残酷さと不気味さを際立たせます。
映画としての面白みには欠けますが、映画としての完成度の高い作品だと思います。
私的評価は、4にしました。
凄すぎる映画体験
レビューが消されてた!?
無関心妻
1943年、ナチスドイツの将校で収容所所長のルドルフ・ヘス。家政婦を雇い、妻ヘートヴィヒと子供五人とともに豊かで平穏な日々を過ごしていた。収容所と家とは、塀を隔ててあった。
物語は、何も知らないと全く面白みがありません。子供が見ている歯や妻が選んでいる服は、ユダヤ人から奪ったもの。川に流れてくるものや庭園の肥料として撒かれているのは、遺灰だろうか。夜も四六時中煙突から出る煙は、焼却され続ける死体のため。暗視野のシーンがよくわからなかったけど、家政婦がこっそりやった行動とのこと。現場にいるルドルフはストレスで疲弊しているが、今の環境に満足している妻が恐ろしい。妻の母は、逃げだしたのに。ラストの現代に資料として、大量の遺品が展示されていて声が出ました
制作にドイツが参加していないのは、右傾化する懸念への警告なのか。
見終わった後も、耳の奥で鳴り響く音
身の回りや世界で起きていることに対する自分の「関心領域」について、問いかけられる作品なのだが、衝撃的な映像が日々流れてくる中にあるためか、今作で描かれている映像を観ても、それほどまでには心が動かない自分に、軽くショックを受けた。
Wikipediaをみると、主人公のヘスは以下のようなことを語っているようだ。
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
『アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』179頁
映画は、全くこの通りに、忠実に描かれていたと思う。「悪人ではなかった」かどうかは、見解が分かれるかもしれないが、少なくとも自分の中にも、ヘスと同様のものが存在しているのは間違いない。
見終わった今も、耳の奥で、映画から聴こえてきた様々な音が鳴り続けているような気持ち。
恐怖と隣り合わせの幸せとは。
なぜ、これが高評価?
モノクロの少女が何をしていたかは、見終わった後で監督のコメントを読んだから分かった
それまでは意味不明過ぎて、心温まるどころか逆に怖かった
とにかく無駄だと思えるシーンの連続
STARTが真っ暗なのにとまどい、自宅のTVやコード類が壊れたのかと調べる羽目に
録画に問題があったのでは?と勘ぐるところまで行きついた
途中でもまた真っ暗シーン
そして真っ赤なシーンへの入り方も???
何の変哲もないいくつもの場面をダラダラと流されて、見ているこちらもイライラする程、時間の無駄だった
再生スピードを1.5倍にして見たのに、それでも長く感じた
フィルムだって勿体ないけど、アカデミー賞をGETしたから元は取れたのかな
実話を元にしたという驚きは凄かったが、それは原作者によるところ大
音や撮影場所等、忠実に再現したこだわりは評価するが……
狂ってたのはヒトラーだけではないということが改めて分かったので1ポイント足した
いかに大量の人間を焼き尽くすかを考える人
自分の理想の住まいや環境を夫さえ犠牲にして守る妻
己の地位や名誉にしがみつき、嘔吐さえするルドルフ
相手のこと等考えない人事を強行する上司
そして、山積みされた夥しい数のユダヤ人達の靴等を見ながら、当たり前のように掃除を淡々とこなす人達
今の日本でも無関心は蔓延ってる
平和ボケしたせいかな?
「今だけ金だけ自分だけ」
農家が悲惨な目にあってても、教員や研究者が雑務に追われて疲弊していても、看護■達が同調圧力で✕✕を打たざるをえなくても、国土や水道や電気等が外国に買われようが、コ●ナ枠で人が沢山▲▲になろうが、『そんなの関係ねぇ』?
自分がよければそれで良しとする風潮は残念ながら今後も続くだろう
気がついた時には完全に手遅れなのに、急な坂道を日本全体が勢いよく転げ落ちてるのに、無関心
そんな人達はこの映画を見ても、自分のことを振り返りもしないだろう
怖すぎるだろ
さすがに昨年の話題作だったし、予告編からどういう設定かはわかってはいたが、いやー、それでも最後は驚かされた。
どういうエンディングにするのかと、見ている最中は考えていた。例えば住んでる家族がソ連軍の侵攻で因果応報な目に合うのかとでも思っていた。イングロリアスバスターズじゃないけどさ。もちろんタランティーノみたいに笑えるトーンにはしないと思っていたが、ミヒャエルハネケのような抑制の効いた、乾いた見せ方で家族が殺されるとか。
ただ、そのような因果応報のオチにすれば、本当の意味でのこの「関心領域」というタイトルの意義が無くなってしまうわけだ。観客にカタルシスを与え、遠くで起こっている悲劇をドラマとして消費すること。復讐は果たされたと溜飲を下げ、消費した後、我々は日常に戻り結局その悲劇について考えることもないと。
で、この映画はそれをどのように避けたのか。それがラスト間際、いよいよ最終的なユダヤ人を地上から抹殺する計画が決まり、主人公が暗闇を見つめてのあのまさかのアウシュビッツの内部へのジャンプである。
しかもポイントは現代だということ。我々は先ほどまでここで何が行われたかを見ていた。その後に見せられるこの圧倒されるような物量の被害者たちの遺品。そして実際に何万という人々が焼かれていった焼却炉。映画を観ていた我々はそこに目がいってしまう。
ところが、それらには目もくれず、普通の美術館のオープン前のようにその前でただ清掃する人々が映し出される。毎日接してる彼らにとって、そこは職場であり、悲劇の場所ではない。同じ場所なのに文脈がちがうのだ。ここで我々は気付く。人間てひょっとして、本質的にこういう生き物なんでは、という恐ろしい事実に。ここがこの作品の二重構造であり、肝になっているゾクッとさせられるパートだと思う。(ここでそんな意図はあるはずはないと思われた方がいたら、ではその反論として言うが、なぜわざわざ清掃されている人がいる時間を最初から最後まで撮っているのかを考えてみてほしい。普通であれば、誰もいない時間に撮影するはずである。そこに意図が無いと考える方が不自然だ。)
戦争という非常時でなくとも、我々はもともと「意味の無化(Decontextualization)」の能力を持っているのだ。つまり、意識しなければ、抗わなければ、人間は普通にこれが出来てしまうんだと。そこがこの映画の批評性だなと思った。
ハラリのサピエンス史で述べられていたように、人間は何事にも意味や背景、物語、文脈を見出すことのできる生き物である。が同時にそれを無化する事も出来る生き物なのだ。
実はこの映画の前に、ウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督のアウステルリッツ という作品が既に存在している。その映画はかつての強制収容所をダークツーリズムで訪れる観光客たちをただ淡々と映すという批評性のあるドキュメンタリーだった。ただ、関心領域ではドキュメンタリーのシーンを劇映画からの突然のジャンプでエンディングに持ってくることで、観客たちにより違和感とショックを与えることに成功している。もっと自分事として突きつけられるしかけになっているわけである。
私は前から思っていたのだが、ジョナサン・クレイザーにはスタンリーキューブリック的な遠くから出来事を客観視して見ているような視点があると思う。(映画のテーマによって映画のフォーム自体を変えてくるところも似ている。)そして、キューブリックが得意としていたのが、音楽やカメラの演出によって、前からそこにある物が全く違う意味を持つものに見えてきてしまう、あるいは人がただの物でしかないように見えてしまうという、まさにこの「意味の無化」作用や異化効果を狙った演出方法だった。それをある意味受け継いでいるジョナサンクレイザーの持つ作家性が生かされた作品だったと思う。
ジョナサン・グレイザーの決断
ジョナサン・グレイザー監督は「関心領域」の準備から
完成までに10年間以上をかけたといいます。
マーティン・エイミスの原作は第三者を主役とした小説でした。
もちろんグレイザー監督は多くのインスピレーションを原作から受けて
土台になっているのでしょうが、具体的な人名・アウシュビッツ収容所の
所長のルドルフ・ヘスの名前と妻のヘートヴィヒの実名を使用したのは
グレイザー監督の英断でした。
これは大成功だったと思います。
特に妻の役を演じたサンドラ・ヒュラーのヘートーヴィヒは
何者にも変え難いリアルな人物像でした。
豚鼻声のシーン・・・普通の女優には出来ない描写です。
粗末な塀一つで隔てられたアウシュビッツのガス室や焼却装置のすぐ隣。
そこにヘートヴィヒの理想の家・・・ユートピアがあった。
バラやタリアなどの花を咲かせ、温室で野菜やハーブを育て、
プールではしゃぐ。
轟轟とした機械音に人体が焼かれる煙の匂い、そして時折聞こえる
銃声とユダヤ人の叫び声。
ヘートヴィヒは音にも匂いにも不感症だったのでしょうか?
遊びに来た実母は夜中に燃え盛る焼却炉の音や匂いに耐えきれず
ほうほうの体で逃げ出します。
朝食の皿を用意したメイドに、
「わざと当てつけで皿を並べたの?夫に言って灰にして撒いてしまうから、」
と、なんとも恐ろしい事をポロッと言うヘートヴィヒ。
夫のルドルフも妻のヘートヴイヒも子供も、みんながユダヤ人が毎日何千人も
殺されている事に、集団ヒステリー状態に侵された異常な精神状態
だったのでしょう。
★★★もう一つの印象的な場面。
画面が白黒になるシーンです。
ルドルフが子供に「ベルゼルとグレーテル」の童話を読み聞かせてると、
夜中に若い女の子が自転車を押して、アウシュビッツの敷地内に入り、
目立たぬようにりんごやジャガイモを隠していたのです。
その少女はルドルフ邸に住み込みで働くポーランド人のメイドのマルタ。
グレイザー監督は生前の90歳のマルタに面談して、マルタが実際にその時に
着ていた洋服を役者に着せたし、使った自転車もマルタの物・・・
という凝りようでした。
(正直な所、ユダヤ人の土木作業所だったのは言われてみれば分かるけど、
(土が掘られてデコボコぬかるんでいましたね、)
またマルタは缶の中に入っていたユダヤ人の詩や作曲した歌も
持ち帰っていました。
映画で読まれる詩・・・それがその時のものです。
2025年の現在。
イスラエルは大きな戦争をしていて、どうしても加害者側に見えてしまって
戸惑うのですが、
ヨーロッパ諸国では、ユダヤ人のホロコーストを防ぐのにもっと
本気で食い止めなかった・・・そう言う負い目がある、だから
イスラエルに強い事が言えない・・・
またイスラエルにすれば、今、芽を摘み取っておかなければ・
またしても被害者になってしまうのでは?
そういう恐怖もあり、ハマスに強硬姿勢を貫いているとの記事を
読みました。
この映画のテーマは、突き詰めれば、
2度と【ホロコースト】を起こしてはならない、
2度と【ジェノサイド】を起こしてはならない、
だと思います。
そして一番度肝を抜かれたのは最初の3~4分間、
そしてエンドクレジットに流される7分以上の不協和音。
阿鼻叫喚のようなうめき声、呪い声、悲鳴・・・
なんとも言いようの無い恐ろしい音。
この映画は観るものの覚悟を推し量る物差しでした。
アウシュヴィッツ訪問を思い出した。主人公の奥さんの関心領域が怖かった。
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