関心領域のレビュー・感想・評価
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怖い
冷ややかな恐怖。
ラストの現代で、背景で何が起こっていたかが、グロテスクなくらいに突きつけられる。音が怖い。
ユダヤ人から奪ったものを、当たり前のように身につける。
もの以下の扱い、殺処分。
あってはならない。
人が人を殺す権利はない。
こんなに耳をすましながら映画を観ることはなかなかない。見て見ぬふりどころではない
人間は自分の罪悪感に気づかせないために意識すらも消す。
洗脳された人たちのよう。
後半息子か弟(かな?子供)を閉じ込め遊んでる様に
ゾッとした。こんな環境に育っていると
きっとまた同じようなことをしようとする大人が育つのではないかと思えて。
壁の向こうは海の向こう。
音と淡々とした幸せそうな書き割りのような家庭でこの恐怖を感じさせるとはすごい切り口だった。
現代版 フルメタル・ジャケット~新しい反戦映画の形~
ミッドサマーでお馴染みA24制作
監督は「記憶の棘」のジョナサン・グレイザー
「記憶の棘」はかなり前に見た映画ですが今でも鮮明に覚えていてニコール・キッドマンのショートヘアも印象的でしたが何より非現実的な情景が淡々と進み徐々に観客を恐怖に引き込む手法は本作でも受け継がれていると思います。
物語は第二次大戦中のアウシュビッツ収容所と壁を一枚挟んだお隣に住む収容所の所長とその家族の話ですがそれだけでは映画は終わりません。
本作同様にサム・メンデス監督(イギリス出身ユダヤ系)の「ジャーヘッド」やユダヤ系監督のスピルバーグの「シンドラーのリスト」とは異なる視点の戦争映画でありユダヤ系監督が自ら現在のイスラエルのガザ侵攻に対する痛烈な批判と差別、侵略、戦争。そしてそれを無関心に過ごす私達に向けられた作品にも思えました。
この監督の勇気にアカデミー賞以上の賞が贈られる事を願います。
「常に音の圧に襲われる」
暴力を音だけで表現した本作はS・キューブリックの「2001年宇宙の旅」張りに何も映らない真っ暗な映像から始まり音の強い圧がかかりその暗闇と音の時間の長さに観客は緊張に包まれます。
この音の異変は予備知識が無くても気が付く程、主人公達の生活の風景にもずっと付いて回り、常に鳴り響く不快な音は主人公達が住むお隣のアウシュビッツからの音だった事が映像の中で徐々に明かされる。この映画は105分ですが暴力を音だけで伝える作品だけに常に鳴り響く音の圧に耐える、例えるならばクラブでかなり強めのベースミュージックを聴き続ける様な忍耐力が必要でした。
「音に負けない痛烈なセリフ」
主人公の妻が笑いながらに放つ
「私はアウシュビッツの女王」メイドには八つ当たりで「お前なんて夫がすぐに灰にするわ」は映画で無かったら国際的問題になりかねないパンチラインだ。主人公に新しい焼却炉の提案をする営業マンの会話では、図面を元にユダヤ人を連続して焼却炉で処分出来るシステムについて淡々と語られ、
(主人公も電話でそれを採用する意向を示す電話シーンもある。)
主人公も「パン屑(焼却されたユダヤ人)から真珠や宝石」や主人公が子供を寝かしつける時のおとぎ話でも「魔女(ユダヤ人)を生きたまま暖炉で焼き殺した」など妻に負けない印象的なフレーズを連発するがそれがどれも淡々としていて、無感情なのだ。
これは同じ戦争映画の「地獄の黙示録」の「朝のナパーム弾の香りは最高だ!!」
のセリフや「フルメタル・ジャケット」で主人公の仲間が死んだベトナム兵で遊ぶシーンと同様、不快ながら自然に描写され戦争の当たり前を冷淡に演出しています。
「定点カメラ」
冷酷な話をする主人公達が無表情で記憶に薄いのもそのはず、殆ど人物の後を追ったりズームしたりとカメラの動きが無いから臨場感が生まれない。
主人公の子供達がはしゃぐシーンでもすぐ真上にユダヤ人が輸送される機関車の煙がもくもくと上がっている。主人公が釣りをし子供が遊ぶ川にはユダヤ人の灰が流される。普通の会話シーンでも処刑の際の銃声や悲鳴が聞こえるがそれも気にする事なく会話は進んで行く。あえての定点カメラの動きの無い映像は残虐な処刑をしている現場のすぐそこの人達の無関心の恐ろしさを際立たせる見事な手法だ。主人公の妻が誇りに思う生活だが娘が不安で寝れない、妻の母親が不気味過ぎて逃げ出すなどさり気ない皮肉も写している。
これはイスラエルのガザ侵攻やロシアのウクライナ侵攻で人が虐殺されても無関心な私達にも向けられている視点だとも思う。
「サーモグラフィ」
映画の途中、アニメーションの様なサーモグラフィを使ったシーンがある。
ここで登場するのが収容所の人達に善意で食材を運んでいた少女で実在の人物を描いたようだ。本作でも彼女は林檎を収容所の人達の為に埋めるなど、献身的なシーンがあり家やピアノ、着ているワンピースまで本人の物と言うのは驚き。
暗闇での隠密行動を現代の技術のサーモグラフィで写したのも斬新で目を引く。
本来であれば彼女はこの映画で光に照らされる唯一のヒーローであるはずが暗闇に映るダークヒーローと言うのも記憶に残る手法だ。
そんな彼女が収容所のユダヤ人が書いた楽譜を拾い上げピアノを弾く印象的なシーンがある。
ピアノの音だけで歌が無いはずなのだが本作では和訳の歌詞が表示される。実在したその悲しみに満ちた歌詞は是非、劇場で見て頂きたい。
映画は現在のアウシュビッツ、処刑されたユダヤ人の私物や靴が大量に積まれた映像でクライマックスを迎える事なく終わる。レビューで多くを語ったが、主人公の下らない営みや音や映像が凄いなどの要素一つ一つはどうでも良い話。
日本でもロシアのウクライナ侵攻は多くニュースや番組でも取り上げられるがイスラエル(ユダヤ人)によるガザ侵攻によるニュースは前者に比べ余り多くない。
日本も関東大震災で復興の為に、ユダヤ人の富豪から恐ろしい額のお金を借りた歴史もあり、アメリカ含む海外もイスラエルとパレスチナと言ったら利益的に影響力や大富豪が多いイスラエルと宜しくやるのが情勢的に正解だ。そんな中でユダヤ系の監督自らこの様な映画を作った事が一番重要で現に日本の私達にも届いているので立派な功績だと思う。
映画のラストが弱い、(良い意味で今風で良いと思う)反戦ならばストレートに描けば良かったと言う意見もあるかも知れないが、上記で述べた事情の中ではこれが最善だったのではとも思う。何の知識も無ければ、ハーケンクロイツの氷の飾り、虐殺されるユダヤ人のシーンも出て来ないのでナチス賛美映画、ホロコースト(ユダヤ人迫害)だけを訴える映画にも見て取れる。
これでも実際は多くのユダヤ人やそれを支持する著名人からも批判を受けている記事も目にしたので(映画関係者だけで1,000人)ストレートに作ったら公開すら危うかった可能性がある。昔から身を守りながら手法を変えて民衆に差別や反戦を訴えるアーティストは居た訳だけど今回はユダヤ系の人が世界で公開される映画を使ってガザ侵攻を否定している。映画業界から消されたり命を狙わられる危険性まで本人のリスクも相当高いはず。上記を除いても重低音含む音の厚みによる表現やサーモグラフィなど音も映像も進化した現代だから出来る表現であり、レビュータイトルの「フルメタル・ジャケット」は反戦映画では無いのですが本作を見て初めてキューブリック作品を見たあの「新しく、とんでも無い物に出会った」感覚を思い出し使わせて頂きました。作品自体の技法や映画に対する熱意もキューブリック作品に勝るとも劣らない俊作であると思います。
自分では戦争を止める事が出来ませんが、この作品を通じて戦争の愚かさを一人でも多くの記憶に棘が刺されば良いと心から願います。
アウシュビッツ強制収容所の真横で幸せに過ごすドイツ人一家の物語。家...
アウシュビッツ強制収容所の真横で幸せに過ごすドイツ人一家の物語。家の真横でユダヤに対しての粛清が行われているにも関わらず、ドイツ人一家は無関心で自分を取り巻く平穏な日常にしか興味のない人たち。すごく暗くて、すごく怖い。
アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた
人の背ほどの壁一枚を隔てて収容所の隣に暮らす家族。
広い家に家族や使用人、豪勢な庭や温室まで揃う一見理想的な暮らしをしている。
そこに暮らす全員が無関心でいるようで、収容所から受ける潜在的な影響が少しずつ見えてくる。
子供たちはスタンフォード監獄実験を思わせる描写が描かれ、妻の母親は(恐らく)異様な雰囲気に耐えられず手紙を置いて去る。
幸せに見える妻も執着と二面性が垣間見え、夫は着々と心を閉ざす。
映像が途切れても音声が続いたり、響くような音が漏れ出して消えるような演出が印象的。
視覚的に遮られても確かに届くその音に、作中の人物や観客の関心はどれほど作用するのか。
現代の収容所は観光地となり、淡々と清掃を行う姿が映される。
時を隔ててもその領域は確かにそこにある。
様式美と靴の生々しさ
ホロコーストをアートに描くことの是非はあるが、その様式美との対比で、最後の靴の生々しさが際だった。
庭園、家庭菜園、壁紙一つとっても、ドイツの一般的な美しい家庭はこうあらねばならないという硬直した強迫観念が感じられる。
関心を持つことが危険で、なんの得にもならないと思えば、人間は簡単に無関心でいられる。口では人権がなんだのといいながら、町のホームレスのことは“自業自得”だと簡単に切り捨ててしまうし、移民を犯罪に結びつけて排除しようとする。
それはこの当時のドイツ人が、ユダヤ人は劣等民族であったから排除しても仕方がないと考えていたことと、なんらかわらない。
この当時の一般的なドイツ国民の多くは、大量虐殺が行われているのを知らなかったという。それを知ったときは驚いたものです。当時のナチがヨーロッパの地の下にユダヤ人そのものの歴史と存在を封じ込めようとしていたのだなと…。そんなことはできやしないのに。
ヘス一家の多くは、塀の中に無関心でいるようで、影響は受けている。息子たちには暴力的な一面があるし、赤ん坊は泣きやまない。意識にあがってくる死や殺戮というおぞましいものを、意識的に無関心の領域に押し込めている。その強いストレスの中にいてさえ、自分の夢見た家庭だけが全てで、夫の心にさえ寄り添わない妻が一番強烈な自意識を持っている。なぜなら夢を叶えてくれたのはユダヤ人の死体だから、彼らの死に同情などするわけがない。
私の視力ではよく見えない席に座ってしまい痛恨のミスだったが、真夜中に長女はなにを置いていたのだろう。一回目のリンゴはわかりました。二回目がよくわからず。とにかく一家の中では長女が正面から「事実」に向き合った人間だったことはわかった。事実、のちにレジスタンス活動に加わったという。
実際に収容所とナチ将校の家が同じ壁を共有していたことは流石にないだろうけど、あえて狭い画(え)の空間に押し込めることで、舞台のような演出に感じられた。
見て見ぬ振りは誰でもできる。国がそういったから、仕事だから、みんなそうだったから、と責任転嫁できる。ヘス一家は特別残虐なのではない。
最後のルドルフは画面の中からお前もだぞ、とこちら側に問いかけている。
新たな角度で迫る反戦映画
まさにタイトルを地でいく映画でした。
隣にあるアウシュビッツ収容所で恐ろしい出来事が日々起きているにも関わらず、まるでその存在すら知らないのが如く、(所長)家族の優雅な暮らしが淡々と描かれていきます。定点観測的なカメラワークでまるでその家族の様子を覗き見しているような感覚に陥ります。
でも、時々、収容所の様子が映像ではなく、間接的に「音」を通じて観客に聞こえてきます。でもそこに住む人々は気づいている様子はありません。そもそも「無関心」といった方が近いのかな?そのギャップに恐怖を感じていきます。
途中で妻のお母さんが訪ねてきますが、夜の焼却炉をみて、そして、それに無関心で熟睡できる娘をみて、突然いなくなります。翌朝、おそらくお母さんの置き手紙になにかしらアウシュビッツのことが書かれていたと思いますが、それをそっと捨てた?しまいました。ちょっと怖かった、、。
とにかくなにも起こらないが、終始なにかが起きるような不気味な感じで物語は静かに進んでいきます。
そしてラストシーン。
所長の内面が唯一垣間見れる階段を降りていく場面。突然、現代のアウシュビッツ収容所の場面とシンクロします。このシンクロさせたシーンの意図はなんだったのか?その他、敢えて間を与えて我々の想像力を試す工夫がいくつかあります。この映画の良心的な存在、りんごを隠す少女のアニメのシーンも印象的で、監督の巧みな演出で最後まで飽きることなく観賞出来ました。
昨年個人的ナンバー1映画だった「pefect days」を破ってアカデミー外国語作品賞を獲ったときいて観たが、インパクト考えると妥当な選択かな、と。ありとあらゆる手法で出尽くし感があった戦争モノに新たな角度を付けて反戦映画を作った監督に拍手👏
怪作也。
「軍用靴で表現」
今年133本目。
軍用靴を洗う所が印象に。
ドイツ人は当時履いていましたがそこで戦時中なんだと表現、素晴らしい。
アウシュビッツの女王。
日本に住んでいるのが恵まれていると思う気持ちも大切。
そこで行われた事は撮らず、叫び声などで表す。
隣の人間は関心を持っていたのかそこが関心領域のタイトルですが、最後のシーンで苦しんでいたんだと。
ある意味で「無関心領域」ともいえるが
今年231本目(合計1,323本目/今月(2024年6月度)31本目)。
(前の作品 「アニマル ぼくたちと動物のこと」→この作品「関心領域」→次の作品「」)
他の方も多く書かれているのですが、いわゆる収容所をへだてたところに一つの家があり、そこの家の住人(うすうす気が付いていたはずですが…。描写からもわかる)を描いた作品で、収容所それ自体のシーンはほぼ出ないという映画です(いわゆるガス室のことも「荷下ろし」などと言葉を変えて表現される)。
確かにそういう観点でみれば、それは「関心領域」であると同時に「無関心領域」であるとは言え、ここをどうとるか(かつ、この点に論点があたるため、ナチスドイツのこの政策については是とも非ともあまり述べていない)といったところです。
この時期になるとナチスドイツを(否定的に)扱った映画があると思いますが、その中ではストレート球であると同時に「視点が少し違う」ように描かれていて、それは当然「そういうみかたでもみてほしい」というメッセージがあるものでしょうが、こうした作品「も」公表されること、それ自体に意味があるかなと思います。
採点に関しては特に気になる点まで見出せずフルスコアにしています。
観終わったあとに改めて。
大まかな内容だけ把握してした状態で鑑賞。
鑑賞する側の想像力が問われる映画でした。
観終わった後にネットを見ておさらい。
なるほど、ところどころでてくるあのシーンはこういう事で、これと繋がるのか…。
当時の悲惨過ぎる事態も改めて調べておさらい。この映画の音響、評価されている事にも頷けました。
関心領域
凄い、良い得て妙な題名だな。
劇中にユダヤ人は全く出てこない。いや出てるか。遠くから聴こえる叫び声。嘆きの声。怨嗟の声。そして黒い煙として。それらは常にBGMとして流れ、舞台装置として映り続ける。
オープニングもエンディングも館内は不協和音で満たされて、エンドロールでは途中で立つ人が続出していた。テーマがテーマだけに、観客に気持ちよくなってもらっては困るんだろう。ヘスの破滅する後半生とか描いて観客の溜飲とか、絶対下げさせない、そんなどこまでも残酷な映画でした。
現代と何ら変わりない
世界で戦争、殺戮、差別が続いていることを横目で見ながら、いわゆる「豊かさ」を享受していると錯覚しているのは誰なのか。収容所の壁は、現代でいうメディアである。壁から音声が聞こえてくるが、自分事とは現代人は誰も感じてない。そして勘違いしてはいけない。収容所の壁の内側に生じていることが間違いだとは映画は語ってない。収容所の外側にいる現代人が、狂っていると喝破している。今日も食事が美味しいし、映画が楽しいが、きっと誰かの犠牲の上に成り立っているのでないか?最後の「嘔吐」は哲学者サルトルの、あの嘔吐だろうか?嘔吐できないのなら、なおさら問題である。
仕組みや日常となる恐ろしさ
「愛を読むひと」を観たときにも感じた、仕組みや日常の一つになる恐ろしさ
今ある「自分にとって」の幸せを手放したくない妻と多少なりとも違和感を感じていそうな子ども、子どもが成長して思想が固定化されていくさま、
驚いたのがアウシュヴィッツを博物館のように手入れするシーンが急に挟まれたこと
急にすべてが自分ごとに…
関心領域とは、もともと映画で感じるような意図とは別の意味でナチス下で使われていたようです
どこまでいっても、いつの時代も、自分のおかれた環境、周囲を1番に考えてしまうのは仕方ないことなのかもしれませんが、その環境はどういった仕組みで成り立っているのでしょうか、
考えなければ同じことが繰り返されても気づかないのかもしれません。
今の自分を突きつけられる物語
この映画のテーマ、設定、評価などを全て事前に知った上でなお、映画を鑑賞している最中に、不覚にもよくある家庭内のエピソードと思ってしまう瞬間が、何度もありました。あの不穏な音楽が聞こえているにも関わらず。
まさに、今の自分の「関心領域」を突きつけられているようで、ぞっとしました。
今の自分に、できることを始めようと改めて思いました。
メンタルに直接響く恐怖
恐ろしい作品だ。広い庭と素晴らしい家、仲の良い家族、誰もが羨む生活を淡々と写しているが、直接的な違和感を感じる。スクリーンには、エグ味があるシーンは何一つ映らない。しかし、背景の生活音の中にそれは紛れ込んでいる。悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所の隣に住む家族の話である。何千人と直ぐ真隣でユダヤ人たちが虐殺されているにもかかわらず、この家族には全く関心が無い。その恐ろしさは今の日本の根底にもある恐ろしさだと気付く。決して他人事ではない恐怖。現在、日本人にもヒタヒタと迫り来る恐怖だと、どれだけの国民が知っているのだろうか?これは私たち日本人の近い将来の姿にも思える。政治に関心を持たない私たち日本人の未来を写した映像だとも言える。
まったくの無関心
ただひたすらに日常
地獄と日常を隔てているのはこんなに薄い壁なのかと思わせられる映画
作中にでてくる家族は壁の向こうにまったくの無関心
音と映画のバランスが最高に不気味でとてももどかしくなりました
突然のラストシーンには考えさせられるものがありました
奥さんメッチャ腹立つ
歴史的な考察や撮影方法だったり語れる要素が無限に湧いてくる映画だし記事や考察を見る意欲が湧いてくるすごい映画だと思う。
ただ自分は頭の悪い自分が思った事は奥さんメッチャ腹立つってことだった。
あの異常な空間で奥さんだけがイキイキといしている何故かというと、あの立地に住む際の負担を他人に肩代わりしてもらってるからだと思う。
窓際の部屋は母に、赤ん坊の面倒や家事は使用人に
夜の焼却炉の明かりと赤ん坊の泣き声を他人の肩代わりして自分窓のない部屋でぐっすりと寝る。
毎日快眠でスッキリしてるからあの環境で受けるストレスが少ない。
コレは旦那にも言えてること。収容所の仕事も家のことも電話一本で済まし仕事におけるストレスが皆無に近い。
だから夫妻はあの異常の環境で平然とできる仕事や家事におけるストレスがないから生活の妨げになる騒音を許容できるようになってしまってる。
自分が背負うべき責任や負担を他人に背負わせると人間驚く程人に対して無関心になるんだと学んだ現場から嫌われたくなかったら生涯現役で現場に足を運ぶべき。
女王の宮殿
なるほど。まさに"なるほど"な作品。ただただ職務を遂行している旦那と、何かしらかの極々個人的な"闇"と"渇望"を抱えて生きている奥様。映画全体を覆う異様さは大半が音によるものなので、ホロコーストの側面のみを描いている様にも映るが、お母さん(奥様の母)の一件で"目に見えない吐き気"が"目に見える吐き気"へと転換されて一変する。そこからは前衛舞台の様な演出が更に際際になってきて混乱するのだが、女王の執着に気持ち悪さと我々も持っている部分としての"業"を取り出されているようで複雑な気分でした。
見る回数ごとに恐怖が増していく!
ドキュメンタリーの様な定点観測的カメラワークや、
どこの生活でもありうる日常会話を綴ったセリフなど、
1度目は、自分が何かを見過ごしてしまったんじゃないかという恐怖が過って
2回目に足を運ぶことになった。
案の定、それで味わう恐怖はこれまで経験したことないもの。
なんの外連もない描き方で、これほどまで斬新な表現があったのかと!
日頃、答え合わせを作品に求める鑑賞者には全く向かない深淵さがそこに。
映画とは平面に描かれるものだけではないと分かる。
日常会話に恐怖を味わう訳は、自分の中にもそれと同じ芽が
あるのではないかと気付いたとしたら、
その恐怖を取り払うことに必死にならざるを得なくなる。
音がフィーチャーされがちな作品だが、
味覚以外の全感覚が侵されてしまった。
淡々としながら、
これまでに無い斬新な体験を味わわせてくれた作品。
無関心であることの罪悪
第二次大戦中、アウシュビッツのユダヤ人収容所と塀一枚隔てて、暮らしていた収容所長一家の平凡で幸福な生活を描く強烈な作品です。収容所の中は一切見せず、遠くから叫び声や銃声が聞こえてくるだけでホロコーストを描く実験的な演出方法がポイントです。とは言え、ドラマらしいドラマもなく、短いカットと効果音だけで淡々と進行していくので、演出の意図は分かるんだけど、睡魔に襲われるのもしばしば。一方で、一枚の塀の向こう側で行われていることを知りながら、あえて目をつむり日々の暮らしに埋没していくのは、所長一家だけではなく現代に生きている私達自身のようにも思えてきます。塀ではなくTVやネットの向こう側で毎日行われている世界中の悲惨な事件も、所詮は他人事であり、やがて関心を失ってしまう。関心のない事は報道されなくなり、報道されない事はやがて実際に起こってない事になってしまう恐怖を感じました。役者では、『落下の解剖学問』に続いて、サンドラ・ヒュラーが嫌な感じの女性役を好演。
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