関心領域のレビュー・感想・評価
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ある意味で「無関心領域」ともいえるが
今年231本目(合計1,323本目/今月(2024年6月度)31本目)。
(前の作品 「アニマル ぼくたちと動物のこと」→この作品「関心領域」→次の作品「」)
他の方も多く書かれているのですが、いわゆる収容所をへだてたところに一つの家があり、そこの家の住人(うすうす気が付いていたはずですが…。描写からもわかる)を描いた作品で、収容所それ自体のシーンはほぼ出ないという映画です(いわゆるガス室のことも「荷下ろし」などと言葉を変えて表現される)。
確かにそういう観点でみれば、それは「関心領域」であると同時に「無関心領域」であるとは言え、ここをどうとるか(かつ、この点に論点があたるため、ナチスドイツのこの政策については是とも非ともあまり述べていない)といったところです。
この時期になるとナチスドイツを(否定的に)扱った映画があると思いますが、その中ではストレート球であると同時に「視点が少し違う」ように描かれていて、それは当然「そういうみかたでもみてほしい」というメッセージがあるものでしょうが、こうした作品「も」公表されること、それ自体に意味があるかなと思います。
採点に関しては特に気になる点まで見出せずフルスコアにしています。
観終わったあとに改めて。
大まかな内容だけ把握してした状態で鑑賞。
鑑賞する側の想像力が問われる映画でした。
観終わった後にネットを見ておさらい。
なるほど、ところどころでてくるあのシーンはこういう事で、これと繋がるのか…。
当時の悲惨過ぎる事態も改めて調べておさらい。この映画の音響、評価されている事にも頷けました。
関心領域
凄い、良い得て妙な題名だな。
劇中にユダヤ人は全く出てこない。いや出てるか。遠くから聴こえる叫び声。嘆きの声。怨嗟の声。そして黒い煙として。それらは常にBGMとして流れ、舞台装置として映り続ける。
オープニングもエンディングも館内は不協和音で満たされて、エンドロールでは途中で立つ人が続出していた。テーマがテーマだけに、観客に気持ちよくなってもらっては困るんだろう。ヘスの破滅する後半生とか描いて観客の溜飲とか、絶対下げさせない、そんなどこまでも残酷な映画でした。
現代と何ら変わりない
世界で戦争、殺戮、差別が続いていることを横目で見ながら、いわゆる「豊かさ」を享受していると錯覚しているのは誰なのか。収容所の壁は、現代でいうメディアである。壁から音声が聞こえてくるが、自分事とは現代人は誰も感じてない。そして勘違いしてはいけない。収容所の壁の内側に生じていることが間違いだとは映画は語ってない。収容所の外側にいる現代人が、狂っていると喝破している。今日も食事が美味しいし、映画が楽しいが、きっと誰かの犠牲の上に成り立っているのでないか?最後の「嘔吐」は哲学者サルトルの、あの嘔吐だろうか?嘔吐できないのなら、なおさら問題である。
仕組みや日常となる恐ろしさ
「愛を読むひと」を観たときにも感じた、仕組みや日常の一つになる恐ろしさ
今ある「自分にとって」の幸せを手放したくない妻と多少なりとも違和感を感じていそうな子ども、子どもが成長して思想が固定化されていくさま、
驚いたのがアウシュヴィッツを博物館のように手入れするシーンが急に挟まれたこと
急にすべてが自分ごとに…
関心領域とは、もともと映画で感じるような意図とは別の意味でナチス下で使われていたようです
どこまでいっても、いつの時代も、自分のおかれた環境、周囲を1番に考えてしまうのは仕方ないことなのかもしれませんが、その環境はどういった仕組みで成り立っているのでしょうか、
考えなければ同じことが繰り返されても気づかないのかもしれません。
今の自分を突きつけられる物語
この映画のテーマ、設定、評価などを全て事前に知った上でなお、映画を鑑賞している最中に、不覚にもよくある家庭内のエピソードと思ってしまう瞬間が、何度もありました。あの不穏な音楽が聞こえているにも関わらず。
まさに、今の自分の「関心領域」を突きつけられているようで、ぞっとしました。
今の自分に、できることを始めようと改めて思いました。
メンタルに直接響く恐怖
恐ろしい作品だ。広い庭と素晴らしい家、仲の良い家族、誰もが羨む生活を淡々と写しているが、直接的な違和感を感じる。スクリーンには、エグ味があるシーンは何一つ映らない。しかし、背景の生活音の中にそれは紛れ込んでいる。悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所の隣に住む家族の話である。何千人と直ぐ真隣でユダヤ人たちが虐殺されているにもかかわらず、この家族には全く関心が無い。その恐ろしさは今の日本の根底にもある恐ろしさだと気付く。決して他人事ではない恐怖。現在、日本人にもヒタヒタと迫り来る恐怖だと、どれだけの国民が知っているのだろうか?これは私たち日本人の近い将来の姿にも思える。政治に関心を持たない私たち日本人の未来を写した映像だとも言える。
まったくの無関心
ただひたすらに日常
地獄と日常を隔てているのはこんなに薄い壁なのかと思わせられる映画
作中にでてくる家族は壁の向こうにまったくの無関心
音と映画のバランスが最高に不気味でとてももどかしくなりました
突然のラストシーンには考えさせられるものがありました
奥さんメッチャ腹立つ
歴史的な考察や撮影方法だったり語れる要素が無限に湧いてくる映画だし記事や考察を見る意欲が湧いてくるすごい映画だと思う。
ただ自分は頭の悪い自分が思った事は奥さんメッチャ腹立つってことだった。
あの異常な空間で奥さんだけがイキイキといしている何故かというと、あの立地に住む際の負担を他人に肩代わりしてもらってるからだと思う。
窓際の部屋は母に、赤ん坊の面倒や家事は使用人に
夜の焼却炉の明かりと赤ん坊の泣き声を他人の肩代わりして自分窓のない部屋でぐっすりと寝る。
毎日快眠でスッキリしてるからあの環境で受けるストレスが少ない。
コレは旦那にも言えてること。収容所の仕事も家のことも電話一本で済まし仕事におけるストレスが皆無に近い。
だから夫妻はあの異常の環境で平然とできる仕事や家事におけるストレスがないから生活の妨げになる騒音を許容できるようになってしまってる。
自分が背負うべき責任や負担を他人に背負わせると人間驚く程人に対して無関心になるんだと学んだ現場から嫌われたくなかったら生涯現役で現場に足を運ぶべき。
女王の宮殿
なるほど。まさに"なるほど"な作品。ただただ職務を遂行している旦那と、何かしらかの極々個人的な"闇"と"渇望"を抱えて生きている奥様。映画全体を覆う異様さは大半が音によるものなので、ホロコーストの側面のみを描いている様にも映るが、お母さん(奥様の母)の一件で"目に見えない吐き気"が"目に見える吐き気"へと転換されて一変する。そこからは前衛舞台の様な演出が更に際際になってきて混乱するのだが、女王の執着に気持ち悪さと我々も持っている部分としての"業"を取り出されているようで複雑な気分でした。
見る回数ごとに恐怖が増していく!
ドキュメンタリーの様な定点観測的カメラワークや、
どこの生活でもありうる日常会話を綴ったセリフなど、
1度目は、自分が何かを見過ごしてしまったんじゃないかという恐怖が過って
2回目に足を運ぶことになった。
案の定、それで味わう恐怖はこれまで経験したことないもの。
なんの外連もない描き方で、これほどまで斬新な表現があったのかと!
日頃、答え合わせを作品に求める鑑賞者には全く向かない深淵さがそこに。
映画とは平面に描かれるものだけではないと分かる。
日常会話に恐怖を味わう訳は、自分の中にもそれと同じ芽が
あるのではないかと気付いたとしたら、
その恐怖を取り払うことに必死にならざるを得なくなる。
音がフィーチャーされがちな作品だが、
味覚以外の全感覚が侵されてしまった。
淡々としながら、
これまでに無い斬新な体験を味わわせてくれた作品。
無関心であることの罪悪
第二次大戦中、アウシュビッツのユダヤ人収容所と塀一枚隔てて、暮らしていた収容所長一家の平凡で幸福な生活を描く強烈な作品です。収容所の中は一切見せず、遠くから叫び声や銃声が聞こえてくるだけでホロコーストを描く実験的な演出方法がポイントです。とは言え、ドラマらしいドラマもなく、短いカットと効果音だけで淡々と進行していくので、演出の意図は分かるんだけど、睡魔に襲われるのもしばしば。一方で、一枚の塀の向こう側で行われていることを知りながら、あえて目をつむり日々の暮らしに埋没していくのは、所長一家だけではなく現代に生きている私達自身のようにも思えてきます。塀ではなくTVやネットの向こう側で毎日行われている世界中の悲惨な事件も、所詮は他人事であり、やがて関心を失ってしまう。関心のない事は報道されなくなり、報道されない事はやがて実際に起こってない事になってしまう恐怖を感じました。役者では、『落下の解剖学問』に続いて、サンドラ・ヒュラーが嫌な感じの女性役を好演。
私は、この映画と自分との間に高い壁を建てるか?
隣と私は陸続き。河もつながっていて、空もつながっている。関係なくないのに、自分に都合よく見えなく聞こえなくなる人間の怖さ。
何も情報なく見に行ったがために、じわじわにじんてくるような恐怖にしばらく放心してしまった。
「この家族は恐ろしい」といって自分から遠ざけるのは、ヘス一家と私自身との間に高い壁を建てて、無関心でいることなのではないか?もう関係してしまったこの家族と私は、確かにつながっているのだ。そのことに気づいたとき、変な汗が出た。
無関心領域
冒頭から野音をやけに拾うなぁと思いながら観ていましたが、他の場面でも同じだったので、なるほど環境音をあえて取り込んでいるのかと理解しました。
なんか叫び声みたいなのが聴こえるなぁと思っていたら、アウシュヴィッツ収容所のすぐ隣が舞台だと気付いてゾッとしました。
異常な環境に居るのにふつうの、むしろ裕福な暮らしをしていて、子供たちも元気に遊びまわっている。この対比は辛辣で新鮮。
ただそこから物語が動かない。
異常な環境でも慣れてしまう。慣れてしまう適応能力を私たちは持っているのを知っているから。
アフリカの子供が毎日たくさん餓死しようとも、侵略戦争で命を落とそうとも、私たちは贅沢な悩みに真剣に苦しんで生きていく。
テレビ画面越しに伝えられる海の向こうの出来事に時折胸を痛めることもあるけれど、何ができる訳でもないし明日も仕事だし突然大雨は降るし、麻痺して生きていくしかないから。
だから次の展開が欲しかったなぁと思います。
もうひとつ物語自体に仕掛けがあっても良かったのではないでしょうか。
たっぷり寝たあとに観たのに猛烈な眠気で途中寝落ちしてしまいました。
アウシュビッツ収容所を主題とする映画の新たな貌
1所長一家の日常生活を通して、アウシュヴィッツ収容所のホロコーストを描く。
2映画は収容所の隣に住む所長一家のピクニック場面から始まる。そして一家の豊かで秩序だった生活描写が続く。しかし、そこに収容所の実像を示すショットが次第に挟み込まれていく。収容所から運び込まれた服飾小物や貴金属を使用人たちと楽しげに分け合う場面。釣りや川遊びの最中に不気味に濁って来る川。濁りの原因は焼却された遺骨や遺灰である。圧倒的なのは、昼夜問わず聞こえ来る所内の怒号や悲鳴、銃声などの音。そして煙突からの黒煙。所内の行状を一切見せずにそこで何が行われているのかを如実に示す。とても効果的であり、斬新な手法であった。
3 所長と妻の関心は、手にした権限や暮らしを守ること。収容所から聞こえる音や眼に入る煙、そして恐らく洩れてくる臭い、すなわち日常的なホロコーストの証には無関心。所長は現場の責任者として、国策を実現するため効率的な施設運用を実行している。その点では当時の価値観に照らせば優秀な組織人であり、仕事として割り切っている。強権的な所長像を想像していたが、冷静な軍人であった。それゆえ最後の場面では、ハンガリーを対象とする新たな抹殺計画を担う重責が作用し吐き気を催したと思う。
一方、その妻は家や庭は我が城であり、主として仕切る中で、収容所は暮らしを維持するための必要条件として捉えるようになったのではないか?
4 遊びに来た母親が一晩で黙って消えた。収容所で行われていることに想像が及びその恐ろしさに気づき忌避したと思う。また、地元の名も無き女性が夜陰に紛れて食べ物を運んだ姿は神々しい輝きを放った。映画は、歴史の記憶を残す博物館として、丁寧に維持管理されている現在の姿を示して終わる。この映画を通し、歴史を学ぶと同時に何に関心を向けるのか個人の度量を試されるように思えた。
どんな気持ちになったか色んな人に聞きたくなる作品
上映開始前から気になっていた関心領域。
アカデミー賞の音響賞を受賞していることから、これは映画館で観たほうがいいよなと思いつつも、アウシュビッツ収容所の塀の外に住む所長家族の話ということは知っていたので、内容が内容なだけに鑑賞するタイミングをずっと見計らっていた。
やっとちょうどいい時間ができたので鑑賞してきた。
言葉に迷うが、映画館で鑑賞してよかった。映画館で鑑賞したからこそ、気づいたこと、思うことがあったからだ。
ネタバレ…?は一応ご注意を。
最後に個人的な疑問を綴るが、あくまでも個人の考えです。
■日常に溶け込む虐殺と人権侵害
・生活と虐殺が同時進行している日常
2階建ての広々とした邸宅。プール付きの庭。毎日手入れする植物。自慢の温室。かわいいペットの犬。理想の環境。
子どもの見送り。庭の手入れ。家族の団らん。夜には夫婦で思い出を語る。
視覚的には、綺麗で美しい、家族の日常が描かれている。
そんな中で、少し遠くから、昼夜問わず、発砲音、怒号、叫び声が聞こえる。
家族のちいさな赤ちゃんが泣いている声と同じ、当たり前の生活音や環境音でしかなく、誰が気に留めるでもない。
この映画は塀の外の話なので、塀の中の人たちが殺されたり、殴られたりする描写はない。
塀の外では、遠くから聞こえる銃声と叫び声が聞こえ、焼却炉の煙突から絶え間なく出る黒い煙が家の中から見え、夜はカーテンを閉めても外が炎で明るい、ということが日常。
それでも、見えていなくても、確実に塀の中では人が殴られ、殺され、焼却炉で焼かれている、ということも日常なのだ。
この生活音や環境音、映画館だったからしっかり聞こえたが、家で観たら気づけるかわからないかもしれない。それくらい、日常に溶け込んでいる。
家に泊りがけで泊まりに来たドイツ人のおばあちゃんは、立派な家や働き者の旦那と幸せに暮らしている娘の様子を見て安心していたようだったけど、この異常な環境に逃げ出した。無関心ではいられなかったのだろう。
・冒頭、音が止む時
音だけでいうと、冒頭から印象的だった。
映画の冒頭、こもった「ぼーーーーーーーー」という音と、金属に反響したような、何かの音が聞こえる。叫び声か、もがいている音かしっかり聞き取ることはできなかったけれど、間違いなく生き物の音。たぶん、人間。
少しすると、その何かの音が途切れる。また何かの音が少しする。音が、しなくなる。
ああ、命が奪われたんだな、とわかる場面。
冒頭から、かなりきつかった。
・世間話で当然のように話す人権侵害と略奪行為
私は、かなり歴史に疎く、知識がある方ではない。
それでも、ナチスドイツがユダヤ人をアウシュビッツ収容所で大量虐殺をしたことは当然知っていた。映画のテーマも、観る前から知っている。
それでも、ショックだったシーンがある。
所長の妻の母(おばあちゃんと呼ぶ)を家に招いた時、庭を歩きながらしていた世間話。
おばあちゃんは言う。(原文ママではなく、ニュアンス)
「この塀の中に知り合いがいるの。知り合いが塀の中に連れていかれるとき、私はあの人の家のカーテンが欲しかったのに、向かいの家に持っていかれてしまった。あのカーテン、気に入っていたのに。」
明らかにユダヤ人を人間だと思っていない描写だと衝撃的だった。
まず、知り合いが塀の中に行けばどうなるか知っているのにも関わらず、心配するでもない。ユダヤ人だから、収容所に連れていかれるのは当然なのだ。
百歩譲って、心配する言葉は出てこないとして、「この塀の中に知り合いがいるの。」の次に続く言葉が、「カーテンが欲しかったのに。」だ。異常としか言いようがない。
極めつけは、「気に入っていたのに。」
普通、気に入るというのは、自分のモノに対して湧く感情ではないだろうか。他人のモノに対して、気に入っていた、という感情が湧く…人を人だと思っていないから出てくる感情だと思う。
人権侵害と略奪が日常に落とし込まれ、よりリアルに身近に感じられて、ショックを受けた。
このシーンの他にも、衣類や日用品など、ユダヤ人から奪い取ったものを平然と使っている描写、命を奪ったあとの灰を肥料として撒く描写がある。
その他にも、大虐殺をしている施設の所長が子煩悩で動物好きだったり。良心から置かれたりんごの奪い合いでユダヤ人同士でも争いが起き、ナチスに殺されるという限界の状態だったり。
描写に対して感情を何度も書いたり消したりしながら考えたが、どう文字に書き起こせばいいかわからなかった。
話の流れとしては穏やかで、目に見えた大きな展開はない。
穏やかな日常から垣間見える戦争、虐殺、人権侵害に、ずっと胃が重たく、呼吸が浅くなる映画だった。
■関心と無関心
・日常生活への浸食
映画を観終わったあと、気持ちも足取りも重いまま帰ろうとしたところ、アンティークアクセサリーやヴィンテージ小物を売ってるお店があったので、ちょっと気分転換で寄っていこう、と思い眺めていたら、ユダヤ人から奪ったの中にはにこういうアクセサリーとか、綺麗なものたくさんあっただろうなと、全く関連性のない無駄な想像力が働いてしまい、一気に見れなくなってしまって、すぐにその場から離れた。
なんでこんなときだけ想像力が豊かなんだ…!普段浅はかなのに!
離れたあとも、車の音、人の話し声などの環境音に意識がいってしまって、暑い日なのに鳥肌が止まらなくて背筋がぞわぞわした。
ちょっと気持ち的にしんどかったので、音楽を聴きながら帰り、仕事をして意識をできるだけ逸らそうとした。
コロナになっても食欲旺盛でちょっと太ったくらいだが、鑑賞後は食欲が湧かなかった。
・どんな気持ちですか?
これから書き連ねることは、私個人の趣向で、皮肉ではなく単純な疑問で、マナーとか、ルールでもない。気分を害す人がいたらごめんなさい。
この映画を観る前にポップコーンを買って、鑑賞しながら食べていた前の席の人。白ワインを買ってきて、楽しそうに入ってきた男女。
映画中にスマホの通知音らしきバイブ音を何度も鳴らし、エンドロールになったら、即、スマホを開いた子連れの夫婦。(これはやめてほしい)
私としては食や酒が進む内容でも、鑑賞後にスマホが気になる内容でもないので、ちょっと驚きだった。
飲食に関しては映画館側からしたら私より単価が高いわけだから、絶対に彼らは悪くない。もしかしたら、買っちゃって後悔してるパターンだってあるかもしれない。
じゃあ、飲食をしなければ満足か?と言われればそういうわけでもないし、もっと言うならバックボーンにある歴史を前提として知っているべきだし、ちゃんと知識がある人からしたら、お前、この映画観て何理解した気になっちゃってんの?その解像度で食欲ないの?と言われても仕方ない。ど正論だと思う。
ただ、自分はしない思考、行為なので、何を思い、その行動を選んだのか、どんな気持ちなのか、知りたいと思ってしまった。
最後に、関心領域のHPにこんな文言があったので、引用を借りて締めたい。
スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と何かを書き留めておくことはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?
意外にドラマ性のある、現在に反転して反復する、無関心領域の重要映画
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
映画を観始めた時は、アウシュビッツ強制収容所のルドルフ・ヘス所長(ルクリスティアン・フリーデルさん)家族の物語であり、題材的にこの家族に感情移入させない演出をしているように感じられ、ドラマ性を極端に省いた映画に最後までなるのではと思われました。
しかし意外にも、(背景に流れる収容所の銃声などの音以外に)所長とその子供が川遊びしている時に収容所で虐殺されたユダヤ人々の遺骨が流れて来たり、白黒の夜の場面でポーランド人の少女が夜の間にユダヤ人たちの昼間の労働場所にリンゴを配って歩いたり、所長家族の母親が収容所で何が行われているか察して屋敷を知らない間に離れたり、所長の妻ヘートヴィヒ・ヘス(サンドラ・ヒュラーさん)が収容所での虐殺を無視し続け田舎暮らしを必要以上に肯定したりなど、ギョッとする描写含めて、単調にならないドラマ性の描写が少なくない映画になっていると思われました。
またこの映画は、実際のアウシュビッツ強制収容所に隣接する家で撮影がされていて、その画面に迫る空気感もこの映画を決定的に恐ろしい映画にしていると思われました。
映画の題材自体は、余りに酷いナチス・ヒトラーによるユダヤ人虐殺であり、誰もが知るアウシュビッツ強制収容所に関する話ですが、虐殺の場面を直接は一切見せず、逆に淡々とした基調でその悲惨さを表現し切っている重要な作品だと思われました。
ただこの表現方法は正解でこの表現方法では最高点をたたき出していると思われながら、一方で映画としての傑作になるにはかなり難しい表現方法だとも思われ、今回の点数となりました。
ナチス・ヒトラーによってなされたユダヤ人の虐殺は、映画で描かれたとおりに当時の一般の多くの人々には無関心の領域だったと思われます。
そして、今作のユダヤ系のイギリス人であるジョナサン・グレイザー監督は、アメリカ・アカデミー賞の国際長編映画賞の受賞スピーチで、現在のイスラエルのガザの攻撃によるパレスチナ人々の犠牲を、ハマスによるテロの犠牲と共に触れています。
この映画『関心領域』は、当時のユダヤ人々の立場とは現在に反転する形で、ガザ地区やヨルダン川西岸地区にイスラエルのユダヤ人々に押し込められたパレスチナ人々への世界の「無関心領域」として、反復して照射されています。
この映画は、当時と現在の悲劇を、ねじれながら私達に見つめさせる、現在にとって重要な重い作品であるのは間違いないと思われています。
見やすくていいと思う
戦争や虐殺のひどさについては色々なところで語られるけど、この映画はビジュアルとしてはとても見やすくて、なおその内容を効果的に伝えててすごいと思う。内容と言うか、もちろん史実を伝えるものではあるけど、未来に同じことを繰り返さないためにはどうしたらよいのか考えさせる力を持っているように思う。見始めてすぐに感じるのは、収容所の隣に住む家族の異常性だけど、悲惨な状況下にある人達を無視して自分たちだけ平穏に暮らし続けようとするのは、ヘス一家だけではないと見ていて気付かされる。ホロコーストも恐ろしいけど、今起きていることや自分の関与もすごく恐ろしく感じられてくるし、素晴らしい恐怖映画だと思う。
あと「関心領域を見て今、起きてる虐殺に関心を持とう」的な表現をSNSで散見したけど、関心領域の「関心」は他者に対する思いやりとか気遣うような関心(が無いということ)だけじゃなくて、ナチスが支配権を拡大しようとした土地に対する関心であったり、ユダヤ人を積極的に殲滅しようと関心を持って取り組んでいたりだとか、そういう悪意や恐怖も示唆していると思う。だから関心領域の「関心」を、本当に世界中の関心を必要としている人達について使うのはちょっと印象悪いと感じる。
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