「「関心領域」の外へ出よ」関心領域 マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
「関心領域」の外へ出よ
テオ・アンゲロプロス監督の映画で、空襲で映画を観ていた観客が外に逃げ出した後、誰もいない劇場をカメラが写し続けている、というオフスクリーンのシーンがある。爆撃音だけが聞こえる画面。本作は、このオフスクリーンを徹底することで、アウシュヴィッツ強制収容所の戦慄すべき実態を間接的に伝える。いや、間接的と書いたが、むしろその間接性が本作の主題なのだ。
収容所と壁を隔てて、それを管理するルドルフ・ヘス一家の平穏な生活が描かれる。昼夜聞こえる阿鼻叫喚。焼却炉の煙突から立ち昇る煙。庭園に咲く美しい花々は、焼かれた死体の灰混じりの土から養分を得る。収容されたユダヤ人から奪った宝石や服で着飾るヘスの妻や友人たち。ヘスの転属を突然告げられた妻は、「総統が言う『生存圏』は、私たちにとってはこのアウシュヴィッツだ。望んだ理想の生活がここにある」と一緒に行くのを拒否する。強制収容所と隣り合わせの、理想の生活とは何なのか。観客は背筋に悪寒を感じざるを得ない。
壁の向こうで行われているホロコーストに、徹底して無関心。オフスクリーンという技法に、そのままヘス一家の、そして私たち観客の態度が投影されている。ここでは、間接性が罪なのだ。「関心領域」の外に出ないことが、人間性の侵食をもたらし、破壊する。
しかし、ルドルフ・ヘスは人間だ。所長として、淡々と「ユダヤ人絶滅計画」の一端を担って任務を遂行していたが、パーティーで、参加者たちを毒ガスで殺害することを想像して、嘔吐する。自分がしていることが何なのか、生理的反応がそれを教えたのだ。唾棄すべき虐殺行為を、例えばマッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』で明らかにされたように、議題として淡々と話し合って決定できる、その構造とはいかなるものか。「関心領域」に止まっていてはわからない。