関心領域のレビュー・感想・評価
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『関心領域』は恐ろしいほどに徹底した“想像力”の映画だ
なんという恐ろしい傑作が誕生したのだろうかと唸らずにはいられない。徹底的に計算された「音」が支配するこの映画は、観る者に「想像」することを要求し、観る者の「想像」を拡張させる。完璧なまでに「想像力」の映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
▶︎3つの感想
1.「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
2.徹底された“音”の想像力
3.ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
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①「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
あらすじにあるとおり、この映画の舞台はアウシュビッツ収容所のすぐ隣。1枚の壁に隔てられた場所で幸せに暮らす家族の物語だ。
まずこの設定からして、僕らの想像力は1つ拡張される。おそらく日本人の多くが、アウシュビッツ収容所の名前を教科書で見たことがあり、そこで繰り広げられていたあまりにも残酷なナチスによるユダヤ人虐殺の事実について、少なからず”知識”としては知っている。
ただ誰が想像しただろう。その地獄のすぐ隣に、幸せを享受する家族の日常があったことを。虐殺されていったユダヤ人、凶行にはしったナチス。彼ら彼女たちはあくまでも「歴史」に刻まれた人々であって、「戦争」という光景のなかに閉じ込められたような感覚が、少なからずあるのではないか。
しかしこの映画では、現代を生きる僕らと変わらない「日常」が流れている。水遊びに興じ、家族で食事をとって、二段ベッドでは兄弟の会話を交わし、新しく手に入れた服を試着する。10台の固定カメラで撮影されたという映像は、こうした「日常」を淡々と映し出す。
それはあたかも「何事も起こっていない」かのように見える。水遊びをしている川にユダヤ人を焼いた遺灰が流れてくること以外には。二段ベッドで子供たちがユダヤ人の歯をもて遊ぶ以外には。彼女たちが分け合い試着する服がユダヤ人から剥ぎ取られたものであること以外には。
「普通の日常」に「残虐な非日常」が丁寧に、そして密かに描きこまれる。アウシュビッツの事実を知っている観客は、その1つ1つを見逃してはいけないと強烈に自覚しながら、この映画に対峙する。映像として描かれている「日常」を観客の「想像力」が拡張することで、映画『関心領域』は完成するのではないか。
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②徹底された“音”の想像力
そして、そうした演出の極みとも言えるのが「音」の設計だろう。『関心領域』では、ずっと”なにか”の音が響き続けている。それはときに銃声のように、ときに悲鳴やうめき声のように、ときに人体を焼く炎の音のように聞こえる。こうした音の設計について興味深い記事を見つけたので、ここに引用したい。
【(引用)グレイザー監督は音響デザイナーのジョニー・バーンに「1年かけてアウシュビッツの音の専門家になって欲しい」と依頼。バーンは当時のアウシュビッツの地図や証言を読み込んだ上で、当時どんな音が彼らの耳に響いていたのかを研究。実際にアウシュビッツにまで赴き、庭と収容所の距離を測った上で、家の中からの銃声の聞こえ方までをも正確に再現したり、その季節に飛んでいる虫の羽音が何なのかを調べたりまでしたそう】
「オスカー受賞の話題作『関心領域』をネタバレ解説。悪意と無関心はイコールなのか」(mi-mollet)より
『関心領域』に響く音は、基本的にはその発生源から距離(1枚の壁)があり、具体的になんの音なのかがわかるような映像はなく、絶えず「想像」することを要求し続ける。その想像は、「これはなんの音だろう」というところから始まって、次第には「今ひとが殺されたのか」「何人のユダヤ人が焼かれているのだろうか」という惨劇そのものへの想像へと拡張されていく。
それはつまり、不穏な「音」が恐怖や緊張を必然的に生み、観客の心に暗く悲しい波が押し寄せる。そして実はこの言いようのない暗澹たる心情を劇中でも敏感に感じ取っている登場人物がいる。と、僕は思った。
まずは子供たち。おそらく弟と思われる少年は、二段ベッドの下で壁の向こうから聞こえてくる「なにかよくわからない音」の旋律を自然と口ずさんでしまう。そして兄と思われる少年は弟をビニールハウスへと閉じ込めるが、それはまるでナチスがユダヤ人をガス室に閉じ込めて殺す所作をも彷彿させる。その背景におそらくあの空間に漂う残虐で暴力的な空気とそこに響く音があるのではと想像してしまう。比べるべくもないが、夫婦喧嘩の絶えない家庭の子供が暴力的になりやすいと言われるように。
そしてもっと直接的に感じ取っているのは、間違いなく赤子と犬だろう。劇中で「うるさい」と感じるほどに、赤子は常に泣き続け(実際に「よく泣くね」といったセリフもあった)、犬は常に吠え続けている。赤子の泣き声は壁の向こうの悲鳴に共鳴しているように感じてしまう。犬が吠え続けている相手は、おそらくはナチスの狂気であり暴力であろうとも。
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③ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
『関心領域』のようなホロコーストをめぐる作品を考えるうえで必ず思い出されるのが、フランスの映像作家クロード・ランズマンの提唱した「表象不可能性」の問題だろう。ランズマンは、とりわけスピルバーグの『シンドラーのリスト』を標的として、ホロコーストをフィクションとして描くことを痛烈に批判し、自身は関係者へのインタビューから構成される9時間のドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』を制作した。
「表象不可能性」の問題を簡潔に咀嚼できるほどに僕の教養は深くはないのだけれど、ざっくり言うと、ランズマンは、どのようなフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提のもとで、最終的には現存する「写真」などの資料すらも全否定してしまう。そしてそのある種の証明として、『SHOAH ショア』では虐殺の描写を映像的には一切排除して、当事者たちの証言そして沈黙のみを淡々と記録している。
そのランズマンに対して、収容所のゾンダーコマンド(特別労務班)が撮影し歯磨き粉のチューブに隠して外へと持ち出された4枚の写真をもって、『イメージ、それでもなお』と反論したのがフランスの哲学家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンだ。
ユベルマンは4枚の写真が決して「ホロコーストのすべて」を表象しているとはせずに、それでもなお、だからこそ、想像することを倫理的な責務として課している。そこで必要とされるのは、写真のイメージを前にした恣意的な連想という意味にとどまらない、写真に刻み込まれた痕跡についての徹底的な観察——ときに文字資料や同時代の証言などと組み合わせて——に基づいた「歴史的想像力」である。
本作の完成までにおよそ10年もの年月をかけたジョナサン・グレイザーや制作チームが、詳細で綿密な取材と調査のもとに築き上げたのはまさにこの「歴史的想像力」ではないだろうか。そして、『関心領域』に刻み込まれたその「歴史的想像力」が、私たち観客の「想像力」を導き、拡張させる。
『関心領域』が生み出す「想像の連鎖」はまさに、ゾンダーコマンドが4枚の写真に添えた「拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」というメモ、そこに込められた祈りにも似た”なにか”に応えようとしているように思えてならない。
精神や体調に支障がでていることを祈る
・新しい効率的な焼却炉の商談 ⇒ それはゴミではなくユダヤ人を焼却する炉
・好きな服を選んでいい ⇒ それはユダヤ人から剝ぎ取った毛皮や服
・歯で遊ぶ子供 ⇒ それは恐らくユダヤ人の歯
ここまで麻痺するのか。いや麻痺しうるな。そういう空気、ご時世、雰囲気になっても人間らしさを見失わず正しいことを全うできるか?恥ずかしいことに100%の自信がない。だからこそ自戒し続けなければ。
最初から最後までずーっと叫び声や怒声や銃声がバックに流れる。
これが音響のいい映画館で観た方がいい「これまでにない理由」だ。
あの音をBGMに暮らすのは、いくら裕福でも精神に支障を来すはず。
そういえば、妻も子供も少しずつそういう兆候(ヒスなど)があったような。
また、裕福とはいえ、幸せそうにも見えなかった。「自分は恵まれている」と無理に思いこもうとしているように見えて仕方がなかった。
いや、きっとそうであって欲しい。
人間として、全く平気であって欲しくない。人間はそうじゃないと思いたい。
※リンゴを挿していくシーンは何なんだろ?そういえば塀の向こうでリンゴで争いになっている(と思われる)シーンもあったな。このリンゴなんだな。
※よく分からなかったシーンがたくさんあった。川に流れてきたのは何?とか。あらすじを書いたサイトや考察を早く読みたい。
※A24っぽさ全開。しかし、なんかパターン決まってきたな。
人間というグロテスクな生物
タイトルが控えめに添えられ、大胆な黒の余白が何かを暗示するかのようなそのポスターを見た時から、「これは見なくては」と心がザワザワとしていました。そして遅ればせながら観ました。
あらすじで紹介されている通り、アウシュヴィッツ強制収容所の隣地に自宅を構える所長と家族たちの日常が淡々と描かれていきます。
壁一枚隔てた先には地獄以外の何物でもない世界が広がる一方で、所長宅では子供たちが駆け、妻は庭木の手入れに汗を流し、家族の誕生日には笑顔でケーキを囲むのです。(所長は"荷物"の効率的な焼却方法について考えを巡らせる)
作中で、収容所内部や収容者たちの姿が描かれることはありません。たしかに家族の視点では中の様子なんて知る由も無いので、当たり前かもしれません。
ただし家族も当然に共有しているものとして、昼夜問わずに「音」が聞こえてきます。
何かにすがるような泣き声、断末魔のごとき叫び、タララっと乾いた音で響く銃声──。
壁の向こうからあらゆる音が聞こえてくるなかで、家族たちは平然と幸福な日々を重ねていきます。
これを「なんて冷酷な人たち!」とも言い切れません。
私たちの多くも、日々、テレビや新聞で世界中の悲惨な現場を、あるいは日本国内における悲劇的事象を見聞きしながらも安穏と暮らしているのですから。
……と考えれば、作品に登場する家族は、概念としては人間誰しもが入れ替え可能であるもの、とも言えるかもしれません。
視覚的なエグさは0なのに、人間のグロテスクさをこれでもかと炙り出す一作。ゾッとします。人間に。
「関心領域」の外へ出よ
テオ・アンゲロプロス監督の映画で、空襲で映画を観ていた観客が外に逃げ出した後、誰もいない劇場をカメラが写し続けている、というオフスクリーンのシーンがある。爆撃音だけが聞こえる画面。本作は、このオフスクリーンを徹底することで、アウシュヴィッツ強制収容所の戦慄すべき実態を間接的に伝える。いや、間接的と書いたが、むしろその間接性が本作の主題なのだ。
収容所と壁を隔てて、それを管理するルドルフ・ヘス一家の平穏な生活が描かれる。昼夜聞こえる阿鼻叫喚。焼却炉の煙突から立ち昇る煙。庭園に咲く美しい花々は、焼かれた死体の灰混じりの土から養分を得る。収容されたユダヤ人から奪った宝石や服で着飾るヘスの妻や友人たち。ヘスの転属を突然告げられた妻は、「総統が言う『生存圏』は、私たちにとってはこのアウシュヴィッツだ。望んだ理想の生活がここにある」と一緒に行くのを拒否する。強制収容所と隣り合わせの、理想の生活とは何なのか。観客は背筋に悪寒を感じざるを得ない。
壁の向こうで行われているホロコーストに、徹底して無関心。オフスクリーンという技法に、そのままヘス一家の、そして私たち観客の態度が投影されている。ここでは、間接性が罪なのだ。「関心領域」の外に出ないことが、人間性の侵食をもたらし、破壊する。
しかし、ルドルフ・ヘスは人間だ。所長として、淡々と「ユダヤ人絶滅計画」の一端を担って任務を遂行していたが、パーティーで、参加者たちを毒ガスで殺害することを想像して、嘔吐する。自分がしていることが何なのか、生理的反応がそれを教えたのだ。唾棄すべき虐殺行為を、例えばマッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』で明らかにされたように、議題として淡々と話し合って決定できる、その構造とはいかなるものか。「関心領域」に止まっていてはわからない。
耳を凝らし音を見て、人間の冷酷さに震撼する
冒頭、白抜きのタイトルが徐々に闇に沈み、その後スクリーンには何も映らないまま音楽だけが鳴り響く。その音楽もレコードの回転数が落ちてゆくようにテンポが落ち、溶け落ちるように崩れてゆく。思わず聴覚に神経を集中する。音を注意深く聞くようにと前置きするような開幕だ。
ヘス一家に起こる出来事として、アウシュヴィッツ収容所の司令官だった夫のルドルフが転属し、その後戻ってくるという物語が描かれるが、率直に言ってその話はおまけのようなものだ。
彼らの瀟洒な家に、昼夜の別なくかすかに響く地鳴りのような音。あれは焼却炉で死体が燃える音、その熱気が煙突からたちのぼる音なのだろう。時折遠く聞こえる叫び声や銃声。移動する煙だけが壁の上に見える移送列車の走行音。
絶望的な音と隣り合わせの家で、まるでそれらが聞こえていないかのように「平和」な生活を送るヘス家の異様さが、時間の経過とともに浮き彫りになる。家族が庭で過ごす場面を見ていても、塀のすぐ向こうにそびえる収容所の威容に目がいくが、その風景や音を気に留める登場人物はほぼいない(泊まりにきたヘートヴィヒの母が黙って帰ってしまうという描写があるのみ)。
あの環境の中でさえ、人間はここまで身近に起こる出来事に無関心になれる。物語としてのエンタメ性より、己の見たくないもの、聞きたくないものを無自覚にミュートしてしまえる、人間の恐ろしい特性を見せることがこの作品の眼目なのだろう。
子供たちはベッドに誰かの歯を持ち込んで遊ぶ。ヘートヴィヒはナチスがユダヤ人から接収したであろう毛皮のコートを羽織り、ユダヤ人が歯磨き粉の中に隠していたダイヤを奪った話題で談笑する。そして、夫のルドルフの転属には大反対し、結局彼だけを単身赴任させる。あの住環境をよいものだと思っているのだ。収奪行為への罪の自覚も見えない。
私たちは、塀の中のユダヤ人たちが使い捨ての労働力として扱われていること、いかに残虐に殺されているかを知っている。そういった視点から見れば子供の教育に悪そうなロケーションにしか見えない。ヘートヴィヒは、そこでユダヤ人が殺されていることは分かっているようだが、彼らがどのように殺されているか知っているのだろうか。せめて、それを知らないから無頓着になれるのだと思いたくなる。
本作で、彼らの生活は否定的な演出などはされず、常に距離を置いた固定カメラで(無人カメラを設置して遠隔操作したそうだ)淡々と描写される。そのことが、見ているこちらのもやもやとした気持ちや居心地の悪さを増幅させる。悪い行いをする者が物語の中で悪のレッテルを貼られず、報いも受けないからだ。
史実では、ドイツの敗戦後に一家は離散し、ルドルフは名前を偽って逃亡したが、1947年にポーランド政府によってアウシュビッツの地で絞首刑に処されている。
あえてそこまで描かないのは、物語の中でルドルフたちが罰されて観客の溜飲が下がると、この一家の醜悪なふるまいが、昔の特殊な立場の人間がしたこととしてどこか他人事のように捉えられてしまう恐れがあったからではないだろうか。
ポーランド人の少女が、収容された人々が労働中に拾えるよう夜中に林檎を撒く場面だけがエピソードとしては救いだが、その描写も映画的なカタルシスはあえて避けているように見える。まるで、観客に安易な満足感を与えまいとしているかのようだ。
グレイザー監督は、ユダヤ系イギリス人でありながら、アカデミー賞の受賞式でイスラエルによるガザ侵攻を念頭に置いた批判的なスピーチをおこなった。技術の発達により世界中がさまざまな形でつながり、彼の地の情報をリアルタイムで知ることのできる現代において、世界のどこかで起きている侵攻や紛争は、速報性という点では壁のすぐ向こうの出来事と言っても最早さして語弊ではない。
それらは総じて長引けば世論から忘れられがちだ。現代ではむしろ情報の総量が多いが故に、自分が直接被害を受けるようなことでなければ、残虐な出来事にさえ私たちは倦んでゆく。
本作は静かなホロコースト批判映画でありながら、ヘス一家の持つ残酷な鈍感さを、そんな私たち観客にも自分ごととして突きつけてくる。ただし、受け身でいるとおそらくそのメッセージさえ見えない。観客に対してもある意味厳しい作品なのだと思う。
余談
・ヘス邸は実際に収容所に隣接していた。塀の向こうの直近の建物は事務棟だったようだが、ガス室までの距離は歩けば5分とかからない距離。本物の邸宅はユネスコの世界遺産に認定されているため撮影には近隣の廃屋を使用。
・ヘートヴィヒがアウシュヴィッツを離れたがらなかったというエピソードは、監督が当時のヘス邸の庭師から実際に聞いた話。
・夜中に林檎を置く少女にはアレクサンドラという実在のモデルがいて、監督が本作の取材をした時にはまだ存命だった。映画に登場する少女が着ている服はアレクサンドラが実際に着ていたもの。
知識の扉であり、戻って来る度に得るものがある奥行き。
アウシュビッツから恩恵を受けているナチスの家族の生活を、ただただ客観的に観察する。ジョナサン・グレイザーはいつも斬新な視点から挑戦を仕掛けてくる天才だが、今回のストイックなコンセプトを、これだけのレベルで徹底してやりきったことに感嘆する。一方でコンセプト重視であることが足かせになった部分もあったのではないか。しかし、この手法でなければ描けないことがある!と覚悟は決めていたはずで、自分は二度観たのだが、二度目のほうが意図や寓意や裏で進行しているサブプロットなどがよりハッキリと見えて、鑑賞の醍醐味がはるかに増した。正直、リンゴを埋めて回っている少女のパートなんて、知識もなく観た初回は全然理解できていなかった(あれも実話だったとは…)。娯楽目的の商業映画としてはハードルは高いかも知れないが、この映画を入口に知識を拾いにいって、その上でまたこの映画に戻ってくることで味わいと戦慄が増すという、非常に有意義でスリリングな映画になっている。そしておそらく、自分がわかったと思っている部分なんで、まだまだ氷山の一角似すぎないに違いない。
音と映像の関係について批評的な作品
予想以上のヒットになっているようだが、これは確かに観ると「何か言いたくなる」タイプの作品だし、鑑賞後に他の人がどう思ったのか気になるタイプの作品だろう。考察要素もかなりあるので、意外と現代の観客の嗜好にあった作品かもしれない。
僕自身は、この作品はカメラのあり方に上手さがあったと思う。定点観測的に据え付けられたカメラで観察する態度を徹底させて、のぞき見の視点を持っている点が多様な解釈を生み出す。そして、家の敷地の向こう側に決してカメラがいかないで、音だけでアウシュビッツの惨状をほのめかすという点が本作の優れたポイントだが、音と映像の関係について考えさせられる。映像はフレームが決まっているが、音の空間的な拡がりは映像よりも広い。映像が洩らした情報を音が拾っているわけだ。音の表現力を突き詰めて考えているからこそ出てくる発想だと思う。音はただ映像を補完する存在ではない。音の空間表現力は映像を凌駕することがある。画面だけ見るとひとつの家の中だけしか情報を提示していないが、音はより広い空間を表現している。音が良い作品は映画館でこそ本当の力を発揮する。その意味で、これが劇場でヒットするのは、必然とも言える。
“関心の壁”を可視化した鋭い眼差しが、時を超え現代人を射抜く
ナチスドイツとホロコーストの歴史に明るい人なら、映画の題名の元になった用語に聞き覚えがあっただろうか。ドイツ語でInteressengebiet、英訳でZone of Interestは、第2次世界大戦中のナチス政権が占領下ポーランドのアウシュビッツに建設した強制収容所群を取り囲む一帯を指した呼称。interesseとinterest(どちらもラテン語から派生)には「関心;利権;重要」などの意味があり、この地域で農地を接収し農作物を販売して利益を得ることや、住民と囚人の接触を減らすことを目指す「重要な地域」というニュアンスがあったようだ。
英作家マーティン・エイミスは2014年に発表した小説「The Zone of Interest」で、登場人物らの関心と無関心を重要な要素として描いており、interestの語義のうち「関心」をより強く題に込めたのは明らか。なおエイミスは、初代所長ルドルフ・ヘスとその妻をモデルにした架空の2人と、妻と親密になる将校、ユダヤ人ゾンダーコマンド(労務を担う囚人)を主要なキャラクターにして物語を構築した。
ジョナサン・グレイザー監督はこの小説の映画化権を獲得し、自らの脚本で所長夫妻を実名に戻したことをはじめ、原作から大幅に改変してより史実に近いドラマとして再構成(原作小説の将校とゾンダーコマンドは映画には登場しない)。ルドルフ(クリスティアン・フリーデル)と妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族が、収容所から壁一枚隔てた敷地に建てた邸宅で過ごす“幸福な日常”を、淡々と観察するかのようなカメラワークで描いていく。
ホロコーストを題材にした映画として画期的なのは、強制収容所内の出来事を一切映像で描写しない点。ただし銃声や叫び声などの音と、高い煙突から上がる煙などの背景映像によって、すぐ隣でユダヤ人収容者の虐殺が延々と続けられていることを示唆する。そして、そんな煙や音を見聞きしながら意に介さず楽しげに暮らすヘス一家と来訪者らの姿が、観客を戦慄させもする。
人間の関心の範囲には限りがあり、その範囲を越えた先のことは、たとえ情報が五感を通じて体に入ってきても意識にほとんどとどまることすらなく通り過ぎてしまう。そんな関心の限界、言い換えるなら“関心の壁”を、グレイザー監督はヘス邸と収容所を隔てる壁で可視化してみせた。
そして、映画の眼差しは、単に80年以上前のドイツ人家族に向けられるだけでなく、ロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・ガザ戦争で大勢の兵士と市民が日々戦死し犠牲になっている世界に生きる現代の私たちをも射抜く。そうした世界の悲惨な状況をニュースやSNSで見聞きしても、すぐに意識が日々の衣食住や身近な人間関係などに移っているのなら、ヘス一家に恐怖したり批判の目を向けたりする資格はないのかも。あなたの関心の領域はどこまでか、関心の壁は今のままでいいのかと、映画が問いかけてくるようだ。
怒りや衝撃を超えて込み上げてくるもの
数年に一度、こんな類稀なる怪作と出会うたびに私の体は硬直する。アウシュヴィッツ収容所に隣接する邸宅という極めて象徴的な場所を使って、そこで何食わぬ顔で暮らす家族をまるで実験観察のように見つめるこのひととき。すぐ間近で起きているおびただしい人々の地獄のような日常はいっさい映り込まない。だがそこには、けたたましい音、衣服、立ち上る煙、灰塵など、何が起こっているか想像するのに十分な悲鳴や痕跡があふれている。歴史を知る我々はその一つ一つを意識的に受け止めうる。しかし、どうやらあの家族は、耳を塞ぐでもなく、聞こえないふりをするでもなく、そこでの暮らしを「手に入れた幸せ」として受容しているようだ。あたかも別世界の住民のような態度を見ていると、怒りを超えた衝撃と恐怖が込み上げてくる。が、翻って、戦争や災害などの苦しみが世界を覆う現代において、あの家族は他人事と言えるのか。あらゆる意味で、映画は写し鏡だ。
戦争や差別や殺戮を許す無関心の罪
壁を隔てたすぐ隣にある施設からは、強制収容されたユダヤ人たちが何らかの肉体的危害を加えられていると思しき"音"が聞こえる。目には見えない分、"音"が伝える恐怖は計り知れない。それは、観客が想像力のレベルを検査される時間でもある。一方、壁のこちら側では、ナチス将校一家が豪華な邸宅に住み、家庭菜園で土を耕し、子供たちは水泳や釣りに興じている。
ドイツ映画はこれまでも様々な形でホロコーストを描いてきた。しかし、イギリス人監督、ジョナサン・グレイザーはアウシュビッツの司令官、ルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグの生活にスポットを当てた小説を自ら脚色し、近年発表されたほぼ全ての同ジャンルのドイツ映画にも勝る、強烈な反戦映画を外国人の視点で作ってしまった。
本作の怖さは壁を隔てた2つの空間の対比よりも、むしろ、無関心を装うことがいかに戦争を放置することになるかという、現代人への警告だ。ヨーロッパやイスラエル、ガザ近辺だけではない、地球上の全ての場所に住まう人々への。戦火が止まる気配を見せない今、見逃してはいけない1作だ。
Infernal Audio Trip
An eerie pitch black overture unwinds you into a diabolic abyss, tuning your ears for a score to ungodly torment. Nixing a substantial percentage of story from its source, the film sticks to the daily life of a family's dream home perched by Hell, of which the breadwinner is a senior manager. A well-staged historical reenactment with the sounds of machinery and suffering saturating the atmosphere.
見終わった後も、耳の奥で鳴り響く音
身の回りや世界で起きていることに対する自分の「関心領域」について、問いかけられる作品なのだが、衝撃的な映像が日々流れてくる中にあるためか、今作で描かれている映像を観ても、それほどまでには心が動かない自分に、軽くショックを受けた。
Wikipediaをみると、主人公のヘスは以下のようなことを語っているようだ。
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
『アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』179頁
映画は、全くこの通りに、忠実に描かれていたと思う。「悪人ではなかった」かどうかは、見解が分かれるかもしれないが、少なくとも自分の中にも、ヘスと同様のものが存在しているのは間違いない。
見終わった今も、耳の奥で、映画から聴こえてきた様々な音が鳴り続けているような気持ち。
恐怖と隣り合わせの幸せとは。
なぜ、これが高評価?
モノクロの少女が何をしていたかは、見終わった後で監督のコメントを読んだから分かった
それまでは意味不明過ぎて、心温まるどころか逆に怖かった
とにかく無駄だと思えるシーンの連続
STARTが真っ暗なのにとまどい、自宅のTVやコード類が壊れたのかと調べる羽目に
録画に問題があったのでは?と勘ぐるところまで行きついた
途中でもまた真っ暗シーン
そして真っ赤なシーンへの入り方も???
何の変哲もないいくつもの場面をダラダラと流されて、見ているこちらもイライラする程、時間の無駄だった
再生スピードを1.5倍にして見たのに、それでも長く感じた
フィルムだって勿体ないけど、アカデミー賞をGETしたから元は取れたのかな
実話を元にしたという驚きは凄かったが、それは原作者によるところ大
音や撮影場所等、忠実に再現したこだわりは評価するが……
狂ってたのはヒトラーだけではないということが改めて分かったので1ポイント足した
いかに大量の人間を焼き尽くすかを考える人
自分の理想の住まいや環境を夫さえ犠牲にして守る妻
己の地位や名誉にしがみつき、嘔吐さえするルドルフ
相手のこと等考えない人事を強行する上司
そして、山積みされた夥しい数のユダヤ人達の靴等を見ながら、当たり前のように掃除を淡々とこなす人達
今の日本でも無関心は蔓延ってる
平和ボケしたせいかな?
「今だけ金だけ自分だけ」
農家が悲惨な目にあってても、教員や研究者が雑務に追われて疲弊していても、看護■達が同調圧力で✕✕を打たざるをえなくても、国土や水道や電気等が外国に買われようが、コ●ナ枠で人が沢山▲▲になろうが、『そんなの関係ねぇ』?
自分がよければそれで良しとする風潮は残念ながら今後も続くだろう
気がついた時には完全に手遅れなのに、急な坂道を日本全体が勢いよく転げ落ちてるのに、無関心
そんな人達はこの映画を見ても、自分のことを振り返りもしないだろう
怖すぎるだろ
さすがに昨年の話題作だったし、予告編からどういう設定かはわかってはいたが、いやー、それでも最後は驚かされた。
どういうエンディングにするのかと、見ている最中は考えていた。例えば住んでる家族がソ連軍の侵攻で因果応報な目に合うのかとでも思っていた。イングロリアスバスターズじゃないけどさ。もちろんタランティーノみたいに笑えるトーンにはしないと思っていたが、ミヒャエルハネケのような抑制の効いた、乾いた見せ方で家族が殺されるとか。
ただ、そのような因果応報のオチにすれば、本当の意味でのこの「関心領域」というタイトルの意義が無くなってしまうわけだ。観客にカタルシスを与え、遠くで起こっている悲劇をドラマとして消費すること。復讐は果たされたと溜飲を下げ、消費した後、我々は日常に戻り結局その悲劇について考えることもないと。
で、この映画はそれをどのように避けたのか。それがラスト間際、いよいよ最終的なユダヤ人を地上から抹殺する計画が決まり、主人公が暗闇を見つめてのあのまさかのアウシュビッツの内部へのジャンプである。
しかもポイントは現代だということ。我々は先ほどまでここで何が行われたかを見ていた。その後に見せられるこの圧倒されるような物量の被害者たちの遺品。そして実際に何万という人々が焼かれていった焼却炉。映画を観ていた我々はそこに目がいってしまう。
ところが、それらには目もくれず、普通の美術館のオープン前のようにその前でただ清掃する人々が映し出される。毎日接してる彼らにとって、そこは職場であり、悲劇の場所ではない。同じ場所なのに文脈がちがうのだ。ここで我々は気付く。人間てひょっとして、本質的にこういう生き物なんでは、という恐ろしい事実に。ここがこの作品の二重構造であり、肝になっているゾクッとさせられるパートだと思う。(ここでそんな意図はあるはずはないと思われた方がいたら、ではその反論として言うが、なぜわざわざ清掃されている人がいる時間を最初から最後まで撮っているのかを考えてみてほしい。普通であれば、誰もいない時間に撮影するはずである。そこに意図が無いと考える方が不自然だ。)
戦争という非常時でなくとも、我々はもともと「意味の無化(Decontextualization)」の能力を持っているのだ。つまり、意識しなければ、抗わなければ、人間は普通にこれが出来てしまうんだと。そこがこの映画の批評性だなと思った。
ハラリのサピエンス史で述べられていたように、人間は何事にも意味や背景、物語、文脈を見出すことのできる生き物である。が同時にそれを無化する事も出来る生き物なのだ。
実はこの映画の前に、ウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督のアウステルリッツ という作品が既に存在している。その映画はかつての強制収容所をダークツーリズムで訪れる観光客たちをただ淡々と映すという批評性のあるドキュメンタリーだった。ただ、関心領域ではドキュメンタリーのシーンを劇映画からの突然のジャンプでエンディングに持ってくることで、観客たちにより違和感とショックを与えることに成功している。もっと自分事として突きつけられるしかけになっているわけである。
私は前から思っていたのだが、ジョナサン・クレイザーにはスタンリーキューブリック的な遠くから出来事を客観視して見ているような視点があると思う。(映画のテーマによって映画のフォーム自体を変えてくるところも似ている。)そして、キューブリックが得意としていたのが、音楽やカメラの演出によって、前からそこにある物が全く違う意味を持つものに見えてきてしまう、あるいは人がただの物でしかないように見えてしまうという、まさにこの「意味の無化」作用や異化効果を狙った演出方法だった。それをある意味受け継いでいるジョナサンクレイザーの持つ作家性が生かされた作品だったと思う。
ジョナサン・グレイザーの決断
ジョナサン・グレイザー監督は「関心領域」の準備から
完成までに10年間以上をかけたといいます。
マーティン・エイミスの原作は第三者を主役とした小説でした。
もちろんグレイザー監督は多くのインスピレーションを原作から受けて
土台になっているのでしょうが、具体的な人名・アウシュビッツ収容所の
所長のルドルフ・ヘスの名前と妻のヘートヴィヒの実名を使用したのは
グレイザー監督の英断でした。
これは大成功だったと思います。
特に妻の役を演じたサンドラ・ヒュラーのヘートーヴィヒは
何者にも変え難いリアルな人物像でした。
豚鼻声のシーン・・・普通の女優には出来ない描写です。
粗末な塀一つで隔てられたアウシュビッツのガス室や焼却装置のすぐ隣。
そこにヘートヴィヒの理想の家・・・ユートピアがあった。
バラやタリアなどの花を咲かせ、温室で野菜やハーブを育て、
プールではしゃぐ。
轟轟とした機械音に人体が焼かれる煙の匂い、そして時折聞こえる
銃声とユダヤ人の叫び声。
ヘートヴィヒは音にも匂いにも不感症だったのでしょうか?
遊びに来た実母は夜中に燃え盛る焼却炉の音や匂いに耐えきれず
ほうほうの体で逃げ出します。
朝食の皿を用意したメイドに、
「わざと当てつけで皿を並べたの?夫に言って灰にして撒いてしまうから、」
と、なんとも恐ろしい事をポロッと言うヘートヴィヒ。
夫のルドルフも妻のヘートヴイヒも子供も、みんながユダヤ人が毎日何千人も
殺されている事に、集団ヒステリー状態に侵された異常な精神状態
だったのでしょう。
★★★もう一つの印象的な場面。
画面が白黒になるシーンです。
ルドルフが子供に「ベルゼルとグレーテル」の童話を読み聞かせてると、
夜中に若い女の子が自転車を押して、アウシュビッツの敷地内に入り、
目立たぬようにりんごやジャガイモを隠していたのです。
その少女はルドルフ邸に住み込みで働くポーランド人のメイドのマルタ。
グレイザー監督は生前の90歳のマルタに面談して、マルタが実際にその時に
着ていた洋服を役者に着せたし、使った自転車もマルタの物・・・
という凝りようでした。
(正直な所、ユダヤ人の土木作業所だったのは言われてみれば分かるけど、
(土が掘られてデコボコぬかるんでいましたね、)
またマルタは缶の中に入っていたユダヤ人の詩や作曲した歌も
持ち帰っていました。
映画で読まれる詩・・・それがその時のものです。
2025年の現在。
イスラエルは大きな戦争をしていて、どうしても加害者側に見えてしまって
戸惑うのですが、
ヨーロッパ諸国では、ユダヤ人のホロコーストを防ぐのにもっと
本気で食い止めなかった・・・そう言う負い目がある、だから
イスラエルに強い事が言えない・・・
またイスラエルにすれば、今、芽を摘み取っておかなければ・
またしても被害者になってしまうのでは?
そういう恐怖もあり、ハマスに強硬姿勢を貫いているとの記事を
読みました。
この映画のテーマは、突き詰めれば、
2度と【ホロコースト】を起こしてはならない、
2度と【ジェノサイド】を起こしてはならない、
だと思います。
そして一番度肝を抜かれたのは最初の3~4分間、
そしてエンドクレジットに流される7分以上の不協和音。
阿鼻叫喚のようなうめき声、呪い声、悲鳴・・・
なんとも言いようの無い恐ろしい音。
この映画は観るものの覚悟を推し量る物差しでした。
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