関心領域のレビュー・感想・評価
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『関心領域』は恐ろしいほどに徹底した“想像力”の映画だ
なんという恐ろしい傑作が誕生したのだろうかと唸らずにはいられない。徹底的に計算された「音」が支配するこの映画は、観る者に「想像」することを要求し、観る者の「想像」を拡張させる。完璧なまでに「想像力」の映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
▶︎3つの感想
1.「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
2.徹底された“音”の想像力
3.ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
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①「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
あらすじにあるとおり、この映画の舞台はアウシュビッツ収容所のすぐ隣。1枚の壁に隔てられた場所で幸せに暮らす家族の物語だ。
まずこの設定からして、僕らの想像力は1つ拡張される。おそらく日本人の多くが、アウシュビッツ収容所の名前を教科書で見たことがあり、そこで繰り広げられていたあまりにも残酷なナチスによるユダヤ人虐殺の事実について、少なからず”知識”としては知っている。
ただ誰が想像しただろう。その地獄のすぐ隣に、幸せを享受する家族の日常があったことを。虐殺されていったユダヤ人、凶行にはしったナチス。彼ら彼女たちはあくまでも「歴史」に刻まれた人々であって、「戦争」という光景のなかに閉じ込められたような感覚が、少なからずあるのではないか。
しかしこの映画では、現代を生きる僕らと変わらない「日常」が流れている。水遊びに興じ、家族で食事をとって、二段ベッドでは兄弟の会話を交わし、新しく手に入れた服を試着する。10台の固定カメラで撮影されたという映像は、こうした「日常」を淡々と映し出す。
それはあたかも「何事も起こっていない」かのように見える。水遊びをしている川にユダヤ人を焼いた遺灰が流れてくること以外には。二段ベッドで子供たちがユダヤ人の歯をもて遊ぶ以外には。彼女たちが分け合い試着する服がユダヤ人から剥ぎ取られたものであること以外には。
「普通の日常」に「残虐な非日常」が丁寧に、そして密かに描きこまれる。アウシュビッツの事実を知っている観客は、その1つ1つを見逃してはいけないと強烈に自覚しながら、この映画に対峙する。映像として描かれている「日常」を観客の「想像力」が拡張することで、映画『関心領域』は完成するのではないか。
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②徹底された“音”の想像力
そして、そうした演出の極みとも言えるのが「音」の設計だろう。『関心領域』では、ずっと”なにか”の音が響き続けている。それはときに銃声のように、ときに悲鳴やうめき声のように、ときに人体を焼く炎の音のように聞こえる。こうした音の設計について興味深い記事を見つけたので、ここに引用したい。
【(引用)グレイザー監督は音響デザイナーのジョニー・バーンに「1年かけてアウシュビッツの音の専門家になって欲しい」と依頼。バーンは当時のアウシュビッツの地図や証言を読み込んだ上で、当時どんな音が彼らの耳に響いていたのかを研究。実際にアウシュビッツにまで赴き、庭と収容所の距離を測った上で、家の中からの銃声の聞こえ方までをも正確に再現したり、その季節に飛んでいる虫の羽音が何なのかを調べたりまでしたそう】
「オスカー受賞の話題作『関心領域』をネタバレ解説。悪意と無関心はイコールなのか」(mi-mollet)より
『関心領域』に響く音は、基本的にはその発生源から距離(1枚の壁)があり、具体的になんの音なのかがわかるような映像はなく、絶えず「想像」することを要求し続ける。その想像は、「これはなんの音だろう」というところから始まって、次第には「今ひとが殺されたのか」「何人のユダヤ人が焼かれているのだろうか」という惨劇そのものへの想像へと拡張されていく。
それはつまり、不穏な「音」が恐怖や緊張を必然的に生み、観客の心に暗く悲しい波が押し寄せる。そして実はこの言いようのない暗澹たる心情を劇中でも敏感に感じ取っている登場人物がいる。と、僕は思った。
まずは子供たち。おそらく弟と思われる少年は、二段ベッドの下で壁の向こうから聞こえてくる「なにかよくわからない音」の旋律を自然と口ずさんでしまう。そして兄と思われる少年は弟をビニールハウスへと閉じ込めるが、それはまるでナチスがユダヤ人をガス室に閉じ込めて殺す所作をも彷彿させる。その背景におそらくあの空間に漂う残虐で暴力的な空気とそこに響く音があるのではと想像してしまう。比べるべくもないが、夫婦喧嘩の絶えない家庭の子供が暴力的になりやすいと言われるように。
そしてもっと直接的に感じ取っているのは、間違いなく赤子と犬だろう。劇中で「うるさい」と感じるほどに、赤子は常に泣き続け(実際に「よく泣くね」といったセリフもあった)、犬は常に吠え続けている。赤子の泣き声は壁の向こうの悲鳴に共鳴しているように感じてしまう。犬が吠え続けている相手は、おそらくはナチスの狂気であり暴力であろうとも。
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③ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
『関心領域』のようなホロコーストをめぐる作品を考えるうえで必ず思い出されるのが、フランスの映像作家クロード・ランズマンの提唱した「表象不可能性」の問題だろう。ランズマンは、とりわけスピルバーグの『シンドラーのリスト』を標的として、ホロコーストをフィクションとして描くことを痛烈に批判し、自身は関係者へのインタビューから構成される9時間のドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』を制作した。
「表象不可能性」の問題を簡潔に咀嚼できるほどに僕の教養は深くはないのだけれど、ざっくり言うと、ランズマンは、どのようなフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提のもとで、最終的には現存する「写真」などの資料すらも全否定してしまう。そしてそのある種の証明として、『SHOAH ショア』では虐殺の描写を映像的には一切排除して、当事者たちの証言そして沈黙のみを淡々と記録している。
そのランズマンに対して、収容所のゾンダーコマンド(特別労務班)が撮影し歯磨き粉のチューブに隠して外へと持ち出された4枚の写真をもって、『イメージ、それでもなお』と反論したのがフランスの哲学家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンだ。
ユベルマンは4枚の写真が決して「ホロコーストのすべて」を表象しているとはせずに、それでもなお、だからこそ、想像することを倫理的な責務として課している。そこで必要とされるのは、写真のイメージを前にした恣意的な連想という意味にとどまらない、写真に刻み込まれた痕跡についての徹底的な観察——ときに文字資料や同時代の証言などと組み合わせて——に基づいた「歴史的想像力」である。
本作の完成までにおよそ10年もの年月をかけたジョナサン・グレイザーや制作チームが、詳細で綿密な取材と調査のもとに築き上げたのはまさにこの「歴史的想像力」ではないだろうか。そして、『関心領域』に刻み込まれたその「歴史的想像力」が、私たち観客の「想像力」を導き、拡張させる。
『関心領域』が生み出す「想像の連鎖」はまさに、ゾンダーコマンドが4枚の写真に添えた「拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」というメモ、そこに込められた祈りにも似た”なにか”に応えようとしているように思えてならない。
精神や体調に支障がでていることを祈る
・新しい効率的な焼却炉の商談 ⇒ それはゴミではなくユダヤ人を焼却する炉
・好きな服を選んでいい ⇒ それはユダヤ人から剝ぎ取った毛皮や服
・歯で遊ぶ子供 ⇒ それは恐らくユダヤ人の歯
ここまで麻痺するのか。いや麻痺しうるな。そういう空気、ご時世、雰囲気になっても人間らしさを見失わず正しいことを全うできるか?恥ずかしいことに100%の自信がない。だからこそ自戒し続けなければ。
最初から最後までずーっと叫び声や怒声や銃声がバックに流れる。
これが音響のいい映画館で観た方がいい「これまでにない理由」だ。
あの音をBGMに暮らすのは、いくら裕福でも精神に支障を来すはず。
そういえば、妻も子供も少しずつそういう兆候(ヒスなど)があったような。
また、裕福とはいえ、幸せそうにも見えなかった。「自分は恵まれている」と無理に思いこもうとしているように見えて仕方がなかった。
いや、きっとそうであって欲しい。
人間として、全く平気であって欲しくない。人間はそうじゃないと思いたい。
※リンゴを挿していくシーンは何なんだろ?そういえば塀の向こうでリンゴで争いになっている(と思われる)シーンもあったな。このリンゴなんだな。
※よく分からなかったシーンがたくさんあった。川に流れてきたのは何?とか。あらすじを書いたサイトや考察を早く読みたい。
※A24っぽさ全開。しかし、なんかパターン決まってきたな。
人間というグロテスクな生物
タイトルが控えめに添えられ、大胆な黒の余白が何かを暗示するかのようなそのポスターを見た時から、「これは見なくては」と心がザワザワとしていました。そして遅ればせながら観ました。
あらすじで紹介されている通り、アウシュヴィッツ強制収容所の隣地に自宅を構える所長と家族たちの日常が淡々と描かれていきます。
壁一枚隔てた先には地獄以外の何物でもない世界が広がる一方で、所長宅では子供たちが駆け、妻は庭木の手入れに汗を流し、家族の誕生日には笑顔でケーキを囲むのです。(所長は"荷物"の効率的な焼却方法について考えを巡らせる)
作中で、収容所内部や収容者たちの姿が描かれることはありません。たしかに家族の視点では中の様子なんて知る由も無いので、当たり前かもしれません。
ただし家族も当然に共有しているものとして、昼夜問わずに「音」が聞こえてきます。
何かにすがるような泣き声、断末魔のごとき叫び、タララっと乾いた音で響く銃声──。
壁の向こうからあらゆる音が聞こえてくるなかで、家族たちは平然と幸福な日々を重ねていきます。
これを「なんて冷酷な人たち!」とも言い切れません。
私たちの多くも、日々、テレビや新聞で世界中の悲惨な現場を、あるいは日本国内における悲劇的事象を見聞きしながらも安穏と暮らしているのですから。
……と考えれば、作品に登場する家族は、概念としては人間誰しもが入れ替え可能であるもの、とも言えるかもしれません。
視覚的なエグさは0なのに、人間のグロテスクさをこれでもかと炙り出す一作。ゾッとします。人間に。
「関心領域」の外へ出よ
テオ・アンゲロプロス監督の映画で、空襲で映画を観ていた観客が外に逃げ出した後、誰もいない劇場をカメラが写し続けている、というオフスクリーンのシーンがある。爆撃音だけが聞こえる画面。本作は、このオフスクリーンを徹底することで、アウシュヴィッツ強制収容所の戦慄すべき実態を間接的に伝える。いや、間接的と書いたが、むしろその間接性が本作の主題なのだ。
収容所と壁を隔てて、それを管理するルドルフ・ヘス一家の平穏な生活が描かれる。昼夜聞こえる阿鼻叫喚。焼却炉の煙突から立ち昇る煙。庭園に咲く美しい花々は、焼かれた死体の灰混じりの土から養分を得る。収容されたユダヤ人から奪った宝石や服で着飾るヘスの妻や友人たち。ヘスの転属を突然告げられた妻は、「総統が言う『生存圏』は、私たちにとってはこのアウシュヴィッツだ。望んだ理想の生活がここにある」と一緒に行くのを拒否する。強制収容所と隣り合わせの、理想の生活とは何なのか。観客は背筋に悪寒を感じざるを得ない。
壁の向こうで行われているホロコーストに、徹底して無関心。オフスクリーンという技法に、そのままヘス一家の、そして私たち観客の態度が投影されている。ここでは、間接性が罪なのだ。「関心領域」の外に出ないことが、人間性の侵食をもたらし、破壊する。
しかし、ルドルフ・ヘスは人間だ。所長として、淡々と「ユダヤ人絶滅計画」の一端を担って任務を遂行していたが、パーティーで、参加者たちを毒ガスで殺害することを想像して、嘔吐する。自分がしていることが何なのか、生理的反応がそれを教えたのだ。唾棄すべき虐殺行為を、例えばマッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』で明らかにされたように、議題として淡々と話し合って決定できる、その構造とはいかなるものか。「関心領域」に止まっていてはわからない。
耳を凝らし音を見て、人間の冷酷さに震撼する
冒頭、白抜きのタイトルが徐々に闇に沈み、その後スクリーンには何も映らないまま音楽だけが鳴り響く。その音楽もレコードの回転数が落ちてゆくようにテンポが落ち、溶け落ちるように崩れてゆく。思わず聴覚に神経を集中する。音を注意深く聞くようにと前置きするような開幕だ。
ヘス一家に起こる出来事として、アウシュヴィッツ収容所の司令官だった夫のルドルフが転属し、その後戻ってくるという物語が描かれるが、率直に言ってその話はおまけのようなものだ。
彼らの瀟洒な家に、昼夜の別なくかすかに響く地鳴りのような音。あれは焼却炉で死体が燃える音、その熱気が煙突からたちのぼる音なのだろう。時折遠く聞こえる叫び声や銃声。移動する煙だけが壁の上に見える移送列車の走行音。
絶望的な音と隣り合わせの家で、まるでそれらが聞こえていないかのように「平和」な生活を送るヘス家の異様さが、時間の経過とともに浮き彫りになる。家族が庭で過ごす場面を見ていても、塀のすぐ向こうにそびえる収容所の威容に目がいくが、その風景や音を気に留める登場人物はほぼいない(泊まりにきたヘートヴィヒの母が黙って帰ってしまうという描写があるのみ)。
あの環境の中でさえ、人間はここまで身近に起こる出来事に無関心になれる。物語としてのエンタメ性より、己の見たくないもの、聞きたくないものを無自覚にミュートしてしまえる、人間の恐ろしい特性を見せることがこの作品の眼目なのだろう。
子供たちはベッドに誰かの歯を持ち込んで遊ぶ。ヘートヴィヒはナチスがユダヤ人から接収したであろう毛皮のコートを羽織り、ユダヤ人が歯磨き粉の中に隠していたダイヤを奪った話題で談笑する。そして、夫のルドルフの転属には大反対し、結局彼だけを単身赴任させる。あの住環境をよいものだと思っているのだ。収奪行為への罪の自覚も見えない。
私たちは、塀の中のユダヤ人たちが使い捨ての労働力として扱われていること、いかに残虐に殺されているかを知っている。そういった視点から見れば子供の教育に悪そうなロケーションにしか見えない。ヘートヴィヒは、そこでユダヤ人が殺されていることは分かっているようだが、彼らがどのように殺されているか知っているのだろうか。せめて、それを知らないから無頓着になれるのだと思いたくなる。
本作で、彼らの生活は否定的な演出などはされず、常に距離を置いた固定カメラで(無人カメラを設置して遠隔操作したそうだ)淡々と描写される。そのことが、見ているこちらのもやもやとした気持ちや居心地の悪さを増幅させる。悪い行いをする者が物語の中で悪のレッテルを貼られず、報いも受けないからだ。
史実では、ドイツの敗戦後に一家は離散し、ルドルフは名前を偽って逃亡したが、1947年にポーランド政府によってアウシュビッツの地で絞首刑に処されている。
あえてそこまで描かないのは、物語の中でルドルフたちが罰されて観客の溜飲が下がると、この一家の醜悪なふるまいが、昔の特殊な立場の人間がしたこととしてどこか他人事のように捉えられてしまう恐れがあったからではないだろうか。
ポーランド人の少女が、収容された人々が労働中に拾えるよう夜中に林檎を撒く場面だけがエピソードとしては救いだが、その描写も映画的なカタルシスはあえて避けているように見える。まるで、観客に安易な満足感を与えまいとしているかのようだ。
グレイザー監督は、ユダヤ系イギリス人でありながら、アカデミー賞の受賞式でイスラエルによるガザ侵攻を念頭に置いた批判的なスピーチをおこなった。技術の発達により世界中がさまざまな形でつながり、彼の地の情報をリアルタイムで知ることのできる現代において、世界のどこかで起きている侵攻や紛争は、速報性という点では壁のすぐ向こうの出来事と言っても最早さして語弊ではない。
それらは総じて長引けば世論から忘れられがちだ。現代ではむしろ情報の総量が多いが故に、自分が直接被害を受けるようなことでなければ、残虐な出来事にさえ私たちは倦んでゆく。
本作は静かなホロコースト批判映画でありながら、ヘス一家の持つ残酷な鈍感さを、そんな私たち観客にも自分ごととして突きつけてくる。ただし、受け身でいるとおそらくそのメッセージさえ見えない。観客に対してもある意味厳しい作品なのだと思う。
余談
・ヘス邸は実際に収容所に隣接していた。塀の向こうの直近の建物は事務棟だったようだが、ガス室までの距離は歩けば5分とかからない距離。本物の邸宅はユネスコの世界遺産に認定されているため撮影には近隣の廃屋を使用。
・ヘートヴィヒがアウシュヴィッツを離れたがらなかったというエピソードは、監督が当時のヘス邸の庭師から実際に聞いた話。
・夜中に林檎を置く少女にはアレクサンドラという実在のモデルがいて、監督が本作の取材をした時にはまだ存命だった。映画に登場する少女が着ている服はアレクサンドラが実際に着ていたもの。
知識の扉であり、戻って来る度に得るものがある奥行き。
アウシュビッツから恩恵を受けているナチスの家族の生活を、ただただ客観的に観察する。ジョナサン・グレイザーはいつも斬新な視点から挑戦を仕掛けてくる天才だが、今回のストイックなコンセプトを、これだけのレベルで徹底してやりきったことに感嘆する。一方でコンセプト重視であることが足かせになった部分もあったのではないか。しかし、この手法でなければ描けないことがある!と覚悟は決めていたはずで、自分は二度観たのだが、二度目のほうが意図や寓意や裏で進行しているサブプロットなどがよりハッキリと見えて、鑑賞の醍醐味がはるかに増した。正直、リンゴを埋めて回っている少女のパートなんて、知識もなく観た初回は全然理解できていなかった(あれも実話だったとは…)。娯楽目的の商業映画としてはハードルは高いかも知れないが、この映画を入口に知識を拾いにいって、その上でまたこの映画に戻ってくることで味わいと戦慄が増すという、非常に有意義でスリリングな映画になっている。そしておそらく、自分がわかったと思っている部分なんで、まだまだ氷山の一角似すぎないに違いない。
音と映像の関係について批評的な作品
予想以上のヒットになっているようだが、これは確かに観ると「何か言いたくなる」タイプの作品だし、鑑賞後に他の人がどう思ったのか気になるタイプの作品だろう。考察要素もかなりあるので、意外と現代の観客の嗜好にあった作品かもしれない。
僕自身は、この作品はカメラのあり方に上手さがあったと思う。定点観測的に据え付けられたカメラで観察する態度を徹底させて、のぞき見の視点を持っている点が多様な解釈を生み出す。そして、家の敷地の向こう側に決してカメラがいかないで、音だけでアウシュビッツの惨状をほのめかすという点が本作の優れたポイントだが、音と映像の関係について考えさせられる。映像はフレームが決まっているが、音の空間的な拡がりは映像よりも広い。映像が洩らした情報を音が拾っているわけだ。音の表現力を突き詰めて考えているからこそ出てくる発想だと思う。音はただ映像を補完する存在ではない。音の空間表現力は映像を凌駕することがある。画面だけ見るとひとつの家の中だけしか情報を提示していないが、音はより広い空間を表現している。音が良い作品は映画館でこそ本当の力を発揮する。その意味で、これが劇場でヒットするのは、必然とも言える。
“関心の壁”を可視化した鋭い眼差しが、時を超え現代人を射抜く
ナチスドイツとホロコーストの歴史に明るい人なら、映画の題名の元になった用語に聞き覚えがあっただろうか。ドイツ語でInteressengebiet、英訳でZone of Interestは、第2次世界大戦中のナチス政権が占領下ポーランドのアウシュビッツに建設した強制収容所群を取り囲む一帯を指した呼称。interesseとinterest(どちらもラテン語から派生)には「関心;利権;重要」などの意味があり、この地域で農地を接収し農作物を販売して利益を得ることや、住民と囚人の接触を減らすことを目指す「重要な地域」というニュアンスがあったようだ。
英作家マーティン・エイミスは2014年に発表した小説「The Zone of Interest」で、登場人物らの関心と無関心を重要な要素として描いており、interestの語義のうち「関心」をより強く題に込めたのは明らか。なおエイミスは、初代所長ルドルフ・ヘスとその妻をモデルにした架空の2人と、妻と親密になる将校、ユダヤ人ゾンダーコマンド(労務を担う囚人)を主要なキャラクターにして物語を構築した。
ジョナサン・グレイザー監督はこの小説の映画化権を獲得し、自らの脚本で所長夫妻を実名に戻したことをはじめ、原作から大幅に改変してより史実に近いドラマとして再構成(原作小説の将校とゾンダーコマンドは映画には登場しない)。ルドルフ(クリスティアン・フリーデル)と妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族が、収容所から壁一枚隔てた敷地に建てた邸宅で過ごす“幸福な日常”を、淡々と観察するかのようなカメラワークで描いていく。
ホロコーストを題材にした映画として画期的なのは、強制収容所内の出来事を一切映像で描写しない点。ただし銃声や叫び声などの音と、高い煙突から上がる煙などの背景映像によって、すぐ隣でユダヤ人収容者の虐殺が延々と続けられていることを示唆する。そして、そんな煙や音を見聞きしながら意に介さず楽しげに暮らすヘス一家と来訪者らの姿が、観客を戦慄させもする。
人間の関心の範囲には限りがあり、その範囲を越えた先のことは、たとえ情報が五感を通じて体に入ってきても意識にほとんどとどまることすらなく通り過ぎてしまう。そんな関心の限界、言い換えるなら“関心の壁”を、グレイザー監督はヘス邸と収容所を隔てる壁で可視化してみせた。
そして、映画の眼差しは、単に80年以上前のドイツ人家族に向けられるだけでなく、ロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・ガザ戦争で大勢の兵士と市民が日々戦死し犠牲になっている世界に生きる現代の私たちをも射抜く。そうした世界の悲惨な状況をニュースやSNSで見聞きしても、すぐに意識が日々の衣食住や身近な人間関係などに移っているのなら、ヘス一家に恐怖したり批判の目を向けたりする資格はないのかも。あなたの関心の領域はどこまでか、関心の壁は今のままでいいのかと、映画が問いかけてくるようだ。
怒りや衝撃を超えて込み上げてくるもの
数年に一度、こんな類稀なる怪作と出会うたびに私の体は硬直する。アウシュヴィッツ収容所に隣接する邸宅という極めて象徴的な場所を使って、そこで何食わぬ顔で暮らす家族をまるで実験観察のように見つめるこのひととき。すぐ間近で起きているおびただしい人々の地獄のような日常はいっさい映り込まない。だがそこには、けたたましい音、衣服、立ち上る煙、灰塵など、何が起こっているか想像するのに十分な悲鳴や痕跡があふれている。歴史を知る我々はその一つ一つを意識的に受け止めうる。しかし、どうやらあの家族は、耳を塞ぐでもなく、聞こえないふりをするでもなく、そこでの暮らしを「手に入れた幸せ」として受容しているようだ。あたかも別世界の住民のような態度を見ていると、怒りを超えた衝撃と恐怖が込み上げてくる。が、翻って、戦争や災害などの苦しみが世界を覆う現代において、あの家族は他人事と言えるのか。あらゆる意味で、映画は写し鏡だ。
戦争や差別や殺戮を許す無関心の罪
壁を隔てたすぐ隣にある施設からは、強制収容されたユダヤ人たちが何らかの肉体的危害を加えられていると思しき"音"が聞こえる。目には見えない分、"音"が伝える恐怖は計り知れない。それは、観客が想像力のレベルを検査される時間でもある。一方、壁のこちら側では、ナチス将校一家が豪華な邸宅に住み、家庭菜園で土を耕し、子供たちは水泳や釣りに興じている。
ドイツ映画はこれまでも様々な形でホロコーストを描いてきた。しかし、イギリス人監督、ジョナサン・グレイザーはアウシュビッツの司令官、ルドルフ・ヘスとその妻、ヘドウィグの生活にスポットを当てた小説を自ら脚色し、近年発表されたほぼ全ての同ジャンルのドイツ映画にも勝る、強烈な反戦映画を外国人の視点で作ってしまった。
本作の怖さは壁を隔てた2つの空間の対比よりも、むしろ、無関心を装うことがいかに戦争を放置することになるかという、現代人への警告だ。ヨーロッパやイスラエル、ガザ近辺だけではない、地球上の全ての場所に住まう人々への。戦火が止まる気配を見せない今、見逃してはいけない1作だ。
Infernal Audio Trip
An eerie pitch black overture unwinds you into a diabolic abyss, tuning your ears for a score to ungodly torment. Nixing a substantial percentage of story from its source, the film sticks to the daily life of a family's dream home perched by Hell, of which the breadwinner is a senior manager. A well-staged historical reenactment with the sounds of machinery and suffering saturating the atmosphere.
平和に生きていると
…と言う感じがしました
壁を隔てて地獄と天国のような
天国に住んでいる人たちには
地獄が見えない
隣から銃声の音やわめき声などは
時おりというか毎日聞こえてくるのに
まったく関心を示さない
特に妻のヘスは
夫よりもいまの暮らしが
大切であの家からはどんな事が
あっても離れないだろうなと思った
ほぼこちら側の日常を描いて
あちら側のアウシュビッツ
は銃声の音や人の叫び声
で煙突から白い煙が立ち上がる
以外は収容所中の映像はない
はたして
その映像を見ている私たちは…
ロシア、ウクライナの戦争にしても
戦争が始まった三年前といまの状況は
戦争が続いているにも関わらず
メディアが取り扱われなくなって
"関心"が薄れてしまう
現状を知らない見ない事もあり
いつしか"対岸の火事"しつつある
関心から抜け落ちていく
映画としてはどうなのか
無関心…
家の隣はアウシュビッツ収容所。収容所の中のシーンは一切ないが、銃声や叫び声、泣き声、不穏な音が鳴り響き、死体を焼いたであろう煙が煙突から出ている。柵を隔てたこちら側はプール付き庭の大豪邸。庭には花が咲き誇り、誰もが憧れる幸せがそこにある。まるで天国と地獄。地獄の近くで平然と暮らせるのが恐ろしい。しかし、これは現代のウクライナやパレスチナの惨状をメディアで知りつつも、遠い国の話と無関心な我々に批判することはできないだろうと思える作品だった。
無関心なのは一家だけなのか
アマプラ配信始まったので早速視聴。淡々と過ぎていくので注意を払って観ないと何にも気付かず終わる。音響の良い状態で観ないとこの映画の意義は半減しちゃう。ちゃんと映画館で集中して観るべきだったな。
何気ない日常にチラ見えする狂気に胸糞悪くなる。そういえば劇中にちらっと出てきたアイヒマンも至って普通の官僚的な人間だったような。嬉々として荷物扱いして焼却炉の性能の良さを語ってたけど実際の収容所の焼却炉を作ったのはパン窯を作るメーカーだったっけ。会話に出てきたシーメンスやほかの企業が収容所近くにできたのも労働力目あてだからか。人間とは抗えない強大な力と大義名分があれば非人道的なこともできてしまう生き物なのだろうか。吐き気がするけどこの一家だけが特別に醜悪なわけじゃないように思う。
最後に挟み込まれた現代パートが衝撃だった。今は博物館になっている収容所を淡々と清掃する職員。さらにその博物館を物珍しさで"観光"する私たちは正しい人間なのか。ウクライナやガザ、ミャンマー、その他紛争地域のことをテレビやネットを通して知っているのに無関心でいるなら、壁一枚向こうのことを知ってて無関心だったこの一家と何も変わらないよと言われた気がする。
構図の清潔さ。ごくありふれた日常生活。
全編とても落ち着いた色調で整然と進んでいく。緑と白。描かれているのはある家庭の話。真面目で家族を愛する優しい父親、家庭のことにしか頭がいかない母親。お手伝いさんがいる裕福で円満な生活が淡々と1ショット1ショット調和が取れた規則正しい構図で紡がれていく。ここはアウシュビッツの隣で、父親は収監所の将校。隣と建物で何十人ものユダヤ人が日々殺されていく。どういう気持ちで観ればいいかとても悩ましいが、言えることは映画の登場人物たちは異常ではなく、私たちた地続きのごく普通の価値観を持つ真っ当な人間だということ。みんな真面目に「ユダヤ人は人間じゃない」と思って真面目な仕事として人を殺してるのだ。
私たちは目撃した
集中力が必要
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