花腐しのレビュー・感想・評価
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牛肉弁当食べながら見る作品ではなかった
綾野剛見たさにネトフリ鑑賞。
モノクロとカラーで過去と現在を切り分ける演出、馬の背(雨と晴れの境目)、万葉集等文学的なモチーフも散りばめられており、ところどころキラッと光るセリフもありましたが、全体を通して何が言いたかったのかが曖昧で、さらに過剰な性描写に辟易しました。
祥子と伊関や栩谷との性愛描写は、それぞれの関係性を説明するのに必要だったかもしれませんが、キノコ部屋の外国人女性2人は何の必然性があったのか理解に苦しみます。伊関に刺さった団子はなんかのギャグですか?
また作品の時代背景とはいえ、祥子と言うキャラを通して作品全体から滲み出る、女性に対する古臭い考え、雑な扱い、自分勝手な男性視点の語り口が終始不快でした。
ラスト、白いドレスを着た祥子が入った部屋で栩谷は何を見たのか?それまでの伏線が雑過ぎたため、栩谷が見たのがキノコが見せた幻だったのか、はたまた腐乱死体だったのかさっぱりわかりませんでした。
昨今「あとは視聴者の想像にお任せします」的な思わせぶりなエンディングをよく見ますが、いやちゃんと広げた風呂敷たためよ、あけたドアはきちんと閉めろよ・・・
エンディングのカラオケも、正直上手いとは言い難い「さよならの向こう側」に、やおら栩谷がマイクを握りしめて参戦し終幕???
もういっそ「紅だああああ」と絶叫してほしかった。
それにしても、この作品に限らず映画製作者、俳優、小説家、漫画家、各種アーティストと呼ばれるクリエイティブなお仕事をしている方々は、どうしてこうも左向き志向なんでしょう?
何かを創作するのに、反骨精神とか体制に阿らない個性の主張は必要不可欠なのかもしれませんが、作品にあまりにあからさまな政治的主張を練り込まれると正直ウンザリします。
綾野剛の肉体美を堪能できたところだけ星ひとつ。
好みじゃなかった
映画と心中した女
『やわらかい生活』で原作作家との間に裁判沙汰を起こした荒井晴彦監督であるが、監督4作目となる本作は、芥川賞受賞原作小説をかなり脚色した作品になっている。「シナリオはシナリオ作家の著作物である」と公言して憚らない強気の姿勢は本作においても健在で、今年喜寿を迎えた昭和のシナリオライターだけに肝の座り方がちょっと違うのである。
さて、その荒井監督が本作でやりたかったこと。それは“ピンク映画へのレクイエム”と“(溝口健二の)雨月物語”だそうなのである。同じ女を好きになった2人の男栩谷(綾野剛)と伊関(柄本佑)をピンク映画関係者に設定を変更。その2人の恋人であった祥子(さとうほなみ)は、売れない劇団員からピンク映画女優へ、女優になる夢を諦めきれない女として登場する。
アパート立ち退きを金貸しから頼まれた栩谷は、そこでマジックマッシュルームを栽培し、中国人女をかこっている伊関という怪しげな男と出会う。その場で意気投合した2人は、酒をくみ交わしどちらともなく、初恋の女=祥子との同棲生活を話題にし始める。ある性癖と中絶経験者という共通項から同じ女の話で盛り上がっていたことに気がつく栩谷。あーなる?ほどねっと合点がいく感じなのだ。
しかし、伊関と祥子が出会った居酒屋で、祥子は飲めない酒を飲まされてトイレでゲーゲー吐いていたはずであり、栩谷が知っているめっちゃ酒の強い祥子とはちょっと食い違っているのである。作為的にそうしているのか、はたまた荒井監督の単なるミステイクなのか、そこんとこハッキリとお聞きしたいものである。
東京オリンピック開催に伴う再開発や、原発再稼働問題を通奏低音にして、東京に流れていた川がことごとく埋め立てられ高速道路と化していくことにより、東京人がいな日本人が腐ってしまったことを嘆く伊関。そんな腐った東京なんて天災にでもあってぶっ壊れてしまえばいい、と酒がまわった栩谷は『火口のふたり』の柄本佑と同様に、現代日本に向ける眼差しは実に冷ややかなのである。
ピンク映画の衰退とともに映画にただすがって生きていた栩谷は、祥子がどうして自分を捨て他の男との心中に走ったのか、どうしてもその理由がわからなかったのである。家庭人としておさまりたがった伊関の子供をおろした祥子だが、栩谷との間にできた子供を流産したことでショックを受けふさぎこむ。「愛があると正常位しかできなくなる」と愛とSEXを区別していた栩谷に祥子は、借金までして映画を撮ろうとした男=映画と心中することにより、もう一度“(映画)愛”を思い出させようとしたのではないだろうか。
伊関が書いたと思われる“花腐し”の原稿の一説を書き直す栩谷。『雨月物語』の陶芸士(森雅之)は田中絹代演じる女房の幽霊に、(夢幻に過ぎない)立身出世よりも家庭の大切さを思い知らされるのだが、幽霊と化した祥子は腐りかけていた栩谷にこう気付かせるのである。愛なきSEXが“死”ならば、そこに愛がある限りピンクであろうとなかろうと映画は死なないのだ(『さよならの向こう側』のあなた→映画に置き換えると分かりやすいです)、と。たとえ現在(いま)は卯の花を腐らせるほどの長雨が続く“雨月”だったとしても。
花腐し、、、
話は古臭い
幸せを感じる内容だと良かった!!
いくらセックスシーンがあっても、エロく感じるかは彼女と過ごした楽しく幸せな時間があってこそだと思うので、ただヤッているだけの印象です。彼女さんの事、もっと大事にできたら良かったですね。また声がいっぱい出ていますが、これもエロく感じないのは、やはり疑似だからでしょうか。主人公の男性2人も何かつまらないです。と映画の中で映画論をやられると鼻に付きますが、2024年の藤井道人監督「パレード」より良かったと思います。
薬師丸、世良、三田村で見たい。
「カラオケ行こ!」の前哨戦?
さよならの向う側
モノクロに褪せるほど祥子がいない今
2024年5月4日(土)初鑑賞
U-NEXTで鑑賞
監督と脚本は『この国の空』『火口のふたり』の荒井晴彦
脚本は他に『さよなら歌舞伎町』『なん・なんだ』『レッドブリッジ ビギニング』『甲州街道から愛を込めて』『週末の探偵』の中野太
ポルノ映画
粗筋
浜辺で女優の桐岡祥子とピンク映画監督の桑山篤の水死体が発見された
ピンク映画監督の栩谷修一にとって祥子は同棲相手で桑山は仕事仲間であり友人だった
栩谷は滞納している家賃をちゃらにしてもらう代わりに取り壊し予定のアパートにたった1人住みついている男に立ち退かせようと伊関貴久に会いに行った
伊関にとって祥子は初めての女で祥子にとって伊関は初めての女だった
フォーラム系の映画館でポスターを見た時に綾野と柄本と背後の女の三角関係なんだろうな
さとうほなみという女性俳優がバンバン裸になるんだろうな
なんか見透かしてしまった感じで映画館では鑑賞しなかった
137分も気になった
90分前後の内容だろうと
冒頭からしばらくモノクロが続く
モノクロ映画かなと思ったら20分くらい経つとやっとカラーになるがそれも一瞬だけでまたモノクロになる
その後たびたびカラーになる
後半はカラーの方がが多い印象
現在がモノクロで過去がカラー
モノクロで再登場は蛇足かな
なぜか吉岡睦雄演じる桑山の遺影を見たら吹き出してしまった
特におかしい写真ではないのに不謹慎だね
日本の平凡な男性に朗報
さとうほなみが惜しみなく裸になる
一方でMINAMOとNiaは現代だからモノクロ
なぜヌードはモノクロになるとアートに昇華するのか
わからない
この作品でふと疑問に思ったことがある
ピンク映画とポルノ映画に違いがあるのか
なぜポルノ映画じゃなくてこの作品ではピンク映画なのか
日本映画ではポルノ映画とピンク映画に明確な違いがある
ポルノ映画は日活のような大手制作会社が制作した成人映画でありピンク映画はそれ以外の制作会社が制作した成人映画らしい
後者には新東宝も属するようだ
それにしても日本ではなぜピンクといえば卑猥なイメージが植え付けられているのだろうか
シャア専用ザクからエッチだなあと感じることはないけど
わからない
こういう内容では映画館で鑑賞するのはしんどい
たった1人で鑑賞するのならまだいいがなかなかそうはいかない
近くに野郎が座っているのも嫌だし女なら尚更嫌だ
そういうこともあってストリップ劇場にも行ったことがない
配役
ピンク映画の監督に栩谷修一に綾野剛
売れない脚本家の伊関貴久に柄本佑
女優の桐岡祥子にさとうほなみ
ピンク映画の監督の桑山篤に吉岡睦雄
ピンク映画の寺本龍彦に川瀬陽太
祥子の父に下元史朗
祥子の母に阿部朋子
中国人留学生のリンリンにMINAMO
韓国人留学生のハン・ユジョンにNia
ビルのオーナーの金昌勇にマキタスポーツ
大久保にある韓国スナックのママに山崎ハコ
ピンク映画制作会社社長の小倉多喜子に赤座美代子
ピンク映画のベテラン脚本家の沢井誠二に奥田瑛二
とても悲しかった
主人公たち、特にさとうほなみさん、何かとっても悲しかった。カラーの最初の頃が楽しそうで生き生きしている分、はっきりと理由は明示されないカラーの後半部分、切ない。
エンドロールの「さよならの向こう側」泣けてきました。
荒井監督は、やはり脚本作品が印象的です。古くは「遠雷」とか、「ヴァイブレータ」「共喰い」とか、阪本監督作品とか。正直、監督作品は全部見てると思いますが、どれも印象なかったんですが、「花腐し」は良かったです。何か、演出してるなと言うか。最後の、原稿の大写しから、ほなみさんの幽霊(?)、そしてデュエット。とても映画的でした。
ピンクについての思い入れですが、あれは映画館に問題ありです。見てみたいなと思っても、Gさんたちの巣食う場所になってると聞かされると近寄れません。
タイトルなし(ネタバレ)
東日本大震災から半年余りの冬。
都内では多くのピンク映画専門館が閉館し、業界は斜陽の一途。
監督の栩谷(くたに。綾野剛扮演)は、もう5年も映画を撮っていない。
そんな中、同棲相手の祥子(さとうほなみ)が、同業監督と心中した。
故郷での葬儀に赴くも、野良犬のごとく追い返される。
祥子が借りていたアパートは出ていかざるを得なくなった栩谷。
それから半年。
ときは梅雨。
仕事のない栩谷は、いま住んでいるところの大家から仕事の依頼をうける。
大家が所有する古いアパートに、ひとりだけ居座り続けている男がいる、追い出してほしい、と。
件の男の部屋に向かうと、愛想はいいが胡散臭そうな男(柄本佑)が出てくる。
男は伊関と名乗り、かつて脚本家志望でシナリオを書いていたという。
そして、かつて一緒に暮らしていた女の話をし始める・・・
といったところからはじまる物語で、伊関が語る女性が祥子で、ふたりして語り合う女性が同一人物。
観客は知っているが、栩谷と伊関はそれを知らない、というのが面白い趣向なんだが・・・
回想シーンはカラー、現在はモノクロとわかりやすい撮り方をしているので、観ていて混乱することはない。
が、どうも、こういう作品を観たかったんじゃあないんだよなぁ。
2時間20分近いピンク映画のようで、その手のシーンがくどい。
途中から嫌気がさしてくる。
さらに悪いことに、栩谷と伊関を通して、祥子がみえてこない。
ダメンズに引っ掛かっちゃうダメ女にしかみえない。
それは、ダメンズからみたら「都合のいい」女でしかない。
いわゆる「ファンタジー」、妄想みたいなもの。
(劇中でも、伊関が「AVのソレは童貞男のファンタジー」と言っている、それそのもの)
それはそれでいいのかもしれないが、劇中のベテラン脚本家が伊関たち脚本家志望の生徒たちに「きみたちにしか、いまの人間は描けないんだ」と言うが、この映画に出てくるひとたちが「いまの人間なのかなぁ」なんて思ってしまう。
80年代のモラトリアムにしか見えない。
最終的に、栩谷・伊関・祥子の話は『花腐し』という栩谷の脚本として結実するが(そこにひとつ謎解き的要素があるのだが)、祥子という女性が脚本に昇華されたと見るか、(都合のいい女として)消費されたと見るか。
個人的には、後者だなぁ。
このあたりが、とてつもなく不愉快。
80年代的要素は、『ラブホテル』へのオマージュのような山口百恵のラスト曲の使用や、『Wの悲劇』の名セリフの引用(荒井本人の筆によるが)にもみられ、そこいらあたりも非常に据わりが悪かったです。
過去がカラー映像で、現在がモノクロ映像
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