「昭和の国民的ベストセラーのアニメ化作品」映画 窓ぎわのトットちゃん クロイワツクツクさんの映画レビュー(感想・評価)
昭和の国民的ベストセラーのアニメ化作品
原作を読んだのは、出版された当時だから、もう40年以上前か。買ってきたのは姉だったと思う。黒柳徹子と言えば、『ザ・ベストテン』という歌番組の司会の、早口でお喋りな、玉ねぎ頭のおばさん、というイメージ。その人の幼少期の、少々現実離れした学園生活が、本人のキャラクターも相まって、非常に印象に残った。
アニメでは、当時としては、大分モダンでブルジョワなトットちゃん一家の生活が、きれいで滑らかなアニメーションで表現される。そこだけ、『奥様は魔女』とかのアメリカのテレビドラマで見ているような気分にさせられた。両親にトモエ学園の校長先生に、学友たち。トットちゃんは、大分恵まれて育ったんだな、という印象を持つ。ただ、そこに羨望ほとんど感じない。黒柳徹子という、フィクションの主役のような強烈なキャラクターの背景としては、とても相応しい。
トットちゃんの普段の生活、電車の車両の教室、その中で学ぶ生徒たち、水彩画のような背景と、落ち着きのない子供らしい動きで動きまくる子供たちの動画は素晴らしい。
キャラクターデザインは、特に私の好みということもないが、映画の世界に馴染んでいて、違和感を感じない。いわさきちひろの絵柄でキャラクターデザインされていれば、という人もいるようだが、原作の表紙や挿絵に使われていたからと言って、トットちゃんには、いわさきちひろの絵のイメージは無い。いわさきちひろの描く子供たちは、どこか儚げで、妖精のような印象だが、トットちゃんは小鬼のごとくエネルギッシュで、文章のイメージと合わないな、と原作を読んだ当時から思っていた。
アニメは、小児麻痺の少年、泰明ちゃんとの交流に多く割かれているが、原作だと一エピソードだったので、あまり印象には残っていなかった。アニメ化にあたってのドラマ演出として、感動を与えているのは確か。私はわかっていても涙が出てしまった。
この泰明ちゃんのエピソードと、戦争の最中、世間からはみ出した子供のアジールといっていい場所、トモエ学園が灰塵に帰してしまうのは悲しい。
トモエ学園が燃えてしまった後も、校長先生は再起を誓うのだが、戦後の教育の現場でも、トモエ学園のような学校は特殊な存在のままだ。
トモエ学園はあまりにも理想過ぎて、フィクションだと言われても出来すぎなくらいに思えた。そんな学園が戦前に存在したというのに、戦後数十年経っても学校教育がSMLの3サイズくらいの服を適当にお仕着せるような型にはまった教育しかしないのは何故なのか? なんて、原作を読んだ当時の子供の私は変に憤ったりもしたものだが、子供一人ひとりを丁寧に採寸して、その子供にあった服を仕立てる、なんて面倒なことをする熱意のある人物が、全ての子供に対応できるほど国は用意できないし、そもそも存在していなことは今では分かっている。それが可能なのは、一部の限られた人たち向けだけなのだろう。
トモエ学園のことを馬鹿にするほかの学校の少年たちと言い合いになるシーンが、ブルジョワとプロレタリアートのプチ闘争のように見えるというのは、言い過ぎか。
監督は八鍬新之介、制作が『クレヨンしんちゃん』のシンエイ動画。ちょっと癖のあるキャラクターデザインを金子志津枝。トットちゃん役の子(大野りりあな)の演技も良いし、脇もベテランの俳優が固めていて、声優が主要なキャラクターを演じてはいないが、特に不満に思うこともない。
アニメ好きなら、このアニメーションのすばらしさを劇場で味わっておきべきだと思うが、Youtubeのアニメ評論をするようなユーチューバーには、名作劇場的な子供向けととらえられているから受けが悪いのか、ほとんど話題にすらなっていない。
一般の人にも、『窓ぎわのトットちゃん』がベストセラーとなったのは、40年以上も前の話で、なぜ今更アニメ映画化されるのか?といった感じなのかもしれない。私がそうだったように。
黒柳徹子も最近よくテレビで過去のテレビ黎明期のテレビ番組などによく出演している。トットちゃんのアニメ化も、黒柳徹子という人の、一種の終活の一環なのかもしれない。