子どもの瞳をみつめてのレビュー・感想・評価
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平等であることの恍惚と不安
ナレーションはない。登場人物の会話もわずか。黙々と労働する子供の姿が延々と映し出されていくような映画だった。
彼・彼女らは「苛酷な児童労働を強いられた途上国のかわいそうな子供達」であるが、この映画は、そうした括りを壊していく。小さな身体で大きなハンマーを巧みに使い石を砕いていく姿や電気・ガスを一切使わずに籾付の米を脱穀し、鍋で煮ておいしそうなご飯を弟や妹に食べさせるまでを一人で淡々と遂行していく姿、子供達のこうした姿を見ていると自然と尊敬の念が湧いてくる。
その一方で、過酷な労働から背骨が変形するほどの障害を負う少年、劣悪な環境から水頭症を抱えて生まれてくる少年と少女がいる。しかし、彼・彼女らは家族から愛され、家族は障害を抱えた子供を包み込むように生活している。
家族だけを見ていたら、美しく完結した世界と言える。しかし、映画は最後の10分ぐらいのところで、採掘現場からズーム・アウトし、これまで映されてきた〝美しい〟世界を町とゴミ山に並存させる。その時、彼・彼女の世界が私たちの世界と地続きであり、かつ自分は彼・彼女らの世界の外側にいることを思い出す。
子供達について「語る」ことなく、ひたすら「映す」ことに専念してきた本作は、観る者に子供達は自分と同じ人間であることを自然と観取させる。むしろ、彼・彼女らが体現している労働や家族愛の尊さを、人間本来の姿として深く理解させる。その一方で、自分が彼・彼女らを搾取する側に位置することを感じ取らせる。「教える」のではなく「感じ取らせる」のである。
8年もの歳月をかけて撮られた本作は貴重な映画である。千数百円で鑑賞できるのが不自然に感じられるほど。
原題Yield ほぼ完全なるループ
黙々と、子どもたち、家族、学校の先生の会話のみ。会話は日本語字幕がつく。
映画全体の中では、わずかに思える会話、会話がないシーンの多くであらゆる年代の子どもたちが絶え間なくあらゆる労働に従事する様がひたすらうつしだされる。どの子どもも小さな体を駆使して手慣れた作業を淡々としている、その淡々とフラットな様子に胸が痛くなる。
川を移動する筏を操る女の子、茄子を植えるため畑を耕しナスの種を植え,育て苗を植え育てて収穫し舟で出荷する。採石場で年齢や性別により岩山から石を切り出し細かく砕きネコで運び篩にかけ運びトラックに積む。呼吸用のパイプを口に石をポケットに入れ水底にもぐり鉱石を含む砂泥を袋に詰めて陸に上がり鉱石になるまで洗練精製する。重い荷物を与えにベルトをつけて運ぶ。足元はゴム草履か
サンダル。その木に登り果実をとる。その間にも、薪を作り火を起こし煮炊をしごはんを作り妹弟たちちに食べさせ、身なりを整え学校に行き勉強もしているし、子ども同士で泳いだり遊んだりしている。貧しいが家庭も学校も明るく楽しそうにみえる。
唯一労働していないのは病気で母鳥で歩くこともできないアレックス、最後手術や闘病虚しく疲れたと言葉を母に言い痛みの中笑顔が婆っと大きいアレックスだったが苦しみの中亡くなった。彼は家族の中心で、家族は誰も彼を負担に思ったり病気や障害による区別も特別扱いしていない。
荷物運びをしていたジェーソンも労働に起因してか激しい頭痛から背中の瘤ができ寝たきりになってしまった。労働人生のループから離脱し歩行のできない苦しみの生活となったが家族はかつて働いていたときも寝たきりの彼も変わりなく同じように接している。ジェーソンはその後ロープをつたい影を降りて海水浴ができるほどに回復。
最後の方で衝撃の展開となる。採石場で、たくましく青年に成長した少年,子どもたちがやはり石をくだき、チューブを使い海に戻り砂泥を集め同じ仕事をますます優雅な技術を駆使してやっているのだ。そして老爺も老婆もそこにいてやはり慣れた手順で採石し砕き運んでいたのだ。彼らの洗練された労働スキルはもう生まれた時から埋め込まれ待ち合わせいるかのように。そしておそらく,赤ちゃんの時から大きな目をぱちぱちさせて音楽にのって歌っていたがやはりアレックスのような病ですいつまでも歩けない女の子(お名前失念)やアレックスは、この悪夢のようであまりに人生そのものとして日常になりすぎてる世代を跨ぐ運命のループを免れており、この子たちは病気であり働けないからこそ、天使のような存在として家族に愛されているのだ。掛け値無しに愛情を注ぐ。日本なら,コスパと損得に終始する日本なら、この天使たちはこの映画のなかの家族や村人たちのように温かく素晴らしい生を生きる存在としてこのように愛され,天使はこのように明るく微笑むことができるだろうか。
そのことがとても刺さった。
最後は、少年兵。彼はこのループ,生まれてから亡くなるまでほぼ運命となっているループとは違う様相。少年は銃を持ち訓練を受けている。彼は瓜生監督によると近隣にあるムスリムの村で自警団的な兵士として活動しているようだ。ムスリムの自警団、彼は小学生だが銃を持たされている。彼はすでに労働ループから離脱しており、唯一他の人生に希望が持てそうだが,この彼の未来もどうなるのか、必ずしも希望のみではないだろう。
そして村のそばにはスモーキーマウンテン。ゴミゴミゴミの山。眼下には美しく整備された中流以上の綺麗な住宅地。
この映画で見たものを忘れたくないのでたくさん書いておく。
このカメラが静かに冷静にじっくりと8年もかけて、近いところで収めた映像,子どもたちの,家族の自然な存在を忘れたくない。美しい海、川、緑の山。
監督の瓜生氏は成田の出身で三里塚のら少年行動隊をされいた,その頃小川紳助監督の撮影する姿を間近に見て育ち小川プロに入られたという履歴の持ち主、黒沢清映画の撮影をたくさんしていたようだ。アテネフランセで瓜生さん特集があり上映後フィリピンからオンラインの対談を聞いた。その筋金入りの子どもの時から理不尽な世の中を見てきた監督ならではの,人間性に強く依拠するぶれない,強い、静かに押してくる本作品の所以がよくわかった。人が食べる肉,そのための家畜に餌をやるために毎2秒で人がなくなっていることに心を痛めフィリピンで長く撮影のみならず学校を建てて活動しておられるそうだ。監督ならではの、子どもたちの表情、存在感,写り方と納得するしレスペクトしかない。
運動の円環
背格好に比して不気味なくらい筋骨隆々とした少年がハンマーで岩を打擲する。カン、カン、という規則的な音だけが空虚に響き続ける。あるいは海底の鉱物をかき集める少年。おそらく頭部に取り付けられているカメラは少年の手慣れた掘削作業と息継ぎの音を延々と拾い続ける。あるいは畑仕事に精を出す少女。魚を釣ったりナスを刈り取ったりする彼女の動作はシステマチックに洗練されている。あるいはわあわあと苦しげに泣き続ける水頭症の赤子。
継起する単調な運動。円環構造。その変化のなさ、あるいは絶え間のなさがむしろ雄弁にフィリピンの苦しい現況を語る。言葉では決してリーチし得ないフィジカルな痛みがスクリーン上に顕現する。
一方、水頭症の少年は上述の子どもたちに比べれば恵まれた生活を送っているようにみえる。車椅子を与えられ、十分な教育と適切な医療を受けている。誕生日には豪勢なケーキまで出てくる。確かに、貧富というレイヤーにおいては、彼は上述の子どもたちのような苦境には陥っていない。とはいえそれは安寧を意味しない。病気によって心身共に自由を奪われ、テレビの中の御伽噺に心酔する彼が我々にもたらすのはまったき停滞の印象だ。水頭症の病苦は日増しに強くなり、遂には「もう疲れたよ」と言い残して彼はこの世を去る。
堂々巡りの運動も、身動きの取れない停滞も、どこへも辿り着けないという点において本質はさして変わらない。しかし堂々巡りではあれ運動そのものが許容されているという点において、貧しさゆえに円環的運動を強いられている子どもたちにはまだ幾分か救いがある。
麻袋運びの少年は、自分の身長ほどもある巨大な麻袋を背負って毎日山道を往復する。しかし無理が祟って下半身付随になってしまう。大きく肥大化した背中の瘤とも相俟って、木の床に寝転がる彼の姿は実に痛々しい。彼の父親は彼を背負って麓の救急車まで搬送する。数年後、彼は脚力を取り戻し、近所の山をひょいひょいと歩いてみせる。そこには明らかに停滞から運動への変転に対するポジティブなニュアンスが込められている。
水頭症の少年の死と麻袋運びの少年の回復を通じて、我々は子どもたちの円環的運動が、実のところ微細だが重大な機微を有していることを発見する。畑仕事の少女は小学校を卒業し、卒業記念に都会の遊園地で巨大ブランコやジェットコースターを楽しむ。水頭症の赤子はいつの間にか言葉を話すようになっている。石切場の少年は今や筋力に見合うだけの背格好に達しつつある。貧しさと生活の単調さは等価である、という先進国的なクリシェを突き抜ける生の躍動というか運動の根本的な享楽性みたいなものが、8年という途方もない歳月の蓄積から自ずと滲み出ている。
終盤では、少年が働く石切場の隣が実は巨大なゴミ山だったことが望遠ショットを通じて示される。これにより、それまで独立していた個々人の物語の系列は互いに強く結びつく。ゴミ山は経済的未発達、ひいては貧困の象徴だ。そして同時に病気の温床でもある。ゴミ山の不衛生な環境は無数の細菌を活性化させ、重篤な疾病をもたらす。水頭症もその一例だ。すべての問題はこのゴミ山へと収斂する。
カメラは最後にある可能性を提示する。映し出されるのは一人の少年だ。彼は小学生ほどの年齢であるにもかかわらず、自分の背丈の半分以上もある銃を携帯している。また彼の表情はモザイク処理によって秘匿されている。あまりに唐突で暴力的なショットだ。
子どもたちはやがて間もなく身体の黄金期を迎える。しかし巨大なゴミ山が街を睥睨するような劣悪な環境にあっては、子どもたちの有り余る活力が、日々の単純作業の円環を外れて良からぬ方向に発露しても(させられても)不思議ではない。たとえばこの銃を持った少年のように。
個人的にはゴミ山を映し出すところで終幕してしまっても十分意図は通じたんじゃないかとは思うが、その点を差し引いても大傑作だった。これを観られただけでもわざわざ東京から大阪まで出向いた甲斐があった。
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