探偵マーロウのレビュー・感想・評価
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アイルランド人の監督&主演コンビが贈る、ウェルメイドだけど捻じれた「偽」ノワール
まずもって、稀代のストーリーテラー、ニール・ジョーダン監督の映画として、ふつうに面白かったし、クオリティも十分高かった。
いわゆる、ウェルメイドで、ノスタルジックなフィルム・ノワールに仕上がっている。
……でも、なんかこれ、えらく奇妙というか、ヘンテコリンな映画だよね??
ちょっと妙な第一印象で恐縮だが、観始めて最初に思ったのは、
「やけに英語の聴き取りやすい映画だな」ということであった。
私立探偵ものなのに、異様にととのった英語をやけにクリアな発音でしゃべってる。
スラングとイデオムと巻き舌で、字幕がないと到底太刀打ちできないのがこの手の映画じゃ普通なのに、結構何を話しているか、音だけでわかるのだ。
なんていうのかな? 「イギリスの映画」の香りがぷんぷんする。
それが、冒頭の偽らざる感想。
で、観終わったあとで配役を確認して、得心がいった。
リーアム・ニーソンはアイルランド人。
ダイアン・クルーガーはドイツ人。
このふたり、ぜんぜんアメリカ西海岸の
「ネイティブ・スピーカー」ではないのだ。
ジェシカ・ラングは生粋のアメリカ人だが、運転手セドリック役のアドウェール・アキノエ=アグバエはイギリス系黒人、ヤクザのボス役のアラン・カミングはスコットランド出身、バーニー・オールズ刑事(原作でもおなじみのレギュラーキャラ)のコルム・ミーニイはアイルランド出身。
ついでに監督のニール・ジョーダンはアイルランド生まれでアイルランド在住の生粋のアイルランド人。さらに驚くべきことに、本作のロケ地はスペインのカタロニアで、あとはアイルランドのダブリンのスタジオで撮っているらしい。
要するに、この映画は「ロサンゼルス」とはほとんど関係のないメンツとキャストと場所で撮られた、ほぼ「フェイク」のようなハードボイルドなのだ。
マカロニ・ウェスタンみたいなもんですね。
ニール・ジョーダン曰く、「作品の舞台はレイモンド・チャンドラーがLA(ロサンゼルス)」から構想を得て想像したベイ・シティーと呼ばれる街。彼は自身の作品のためにフィクションの街を一つ、作り上げたんです。私はこれを好機と考え、実在しない街を作ることにしました」(パンフより)。
たしかにおっしゃる通りなのだが、勘違いしないよう付言しておくと、フィリップ・マーロウはロサンゼルスの私立探偵であり、べつに架空都市で活躍するバットマンのようなキャラクターではない。どの作品にもハリウッド他、実在の地名もちゃんと出てくるのだが、『さらば愛しき女よ』『湖中の女』『かわいい女』などでは「ベイ・シティー」というLAの街がメインで話が回る。この街はLAのサンタモニカがモデルだと言われている。
しかし、ニール・ジョーダンの作り上げた「実在しない街」は、そういうレヴェルのものではない。
40~50年代のノワール/ハードボイルドに登場する「アメリカ」「LA」「ハリウッド」の漠然としたノスタルジックな「イメージ」をもとに、スペインやアイルランドの景観や非アメリカ人のキャストを組み立てて作り上げた完全な「フェイク・タウン」――異邦人(=アイルランド人監督)の目から観た「ノワーリッシュなアメリカ」のパスティーシュとして再構築された街。それが、本作のベイ・シティーなのだ。
そもそも「フィルム・ノワール」というジャンル自体、もとはヨーロッパ(とくにフランス)で「見出された」概念だった。ハリウッドとしてはふつうに「犯罪映画」を撮っていたつもりだったのだが、40~50年代の作品に一貫したテーマ、手法、雰囲気があることに気づいたヨーロッパの映画マニアが、それに「ノワール」という言葉を当てはめたのだ。
この『探偵マーロウ』も、ヨーロッパの人々が海を挟んで「夢想」するハードボイルドを、非アメリカ的なキャスティングと非アメリカ的なセッティングで撮った映画という意味では、むしろ日本でいえば、林海象の『濱マイク』シリーズや、原尞の沢崎シリーズと近い試みと言えるのかもしれない。
要するに『探偵マーロウ』は、ハリウッドが懐古的に作り上げた「懐かし映画」ではない。
アイルランド周辺の映画人が長年憧れてきた「探偵マーロウ」を実作してみせた、「ヨーロッパの愛したノワールの再生産作品」なのだ。キャストにジョン・ヒューストンの息子を起用しているのも、ノワール・オマージュの一環だろう。
ただし、そこには“大いなる”「正統性」もある。
肝心のレイモンド・チャンドラーが、母方がアイルランド系移民で、本人もイギリスのパブリックスクール育ちで、アイルランドに住む叔父の支援を受けていた、バリバリに「地縁のある」作家だからだ。
彼は生まれはシカゴだが、父親の出奔後、12歳には母に連れられて渡英して英才教育を受けている。海軍本部で働いたり、記者や書評子をやったりしていたのもイギリスでのことだ。
彼がアメリカに渡ったのは、23歳になってからだが、のちに作家として大成してからも、英国の作家と頻繁に交流し、英国作家に関する書評も精力的に行っている。
チャンドラーには、はっきりとしたアイルランドと英国とのつながりがあり、アイルランド人の監督が彼に私淑し、彼の創造した探偵の映画を撮りたいと考えるのはまったくおかしなことではないのだ。
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この映画の面白さは、ニール・ジョーダンが仕掛けた「いかにも40~50年代ノワール」らしい懐古的でノスタルジックで正統的な「外見」と、非ハリウッド的なプロダクションで作られたフェイク・ノワールとしての「本質」との「ズレ」にこそあると思う。
とにかく、全体のつくりは丁寧で、ノスタルジックだ。
シックな色彩設定と、いかにもノワーリッシュな撮影。
39年の様子を完コピした、ファッションと車と小道具。
洒落のきいた会話が繰り返される、ハードボイルド調。
いかにもチャンドラーが書きそうな設定と事件と展開。
まさにオーセンティック。これぞ王道といっていい。
原作は、ブッカー賞作家ジョン・バンヴィルがベンジャミン・ブラック名義で書いた『黒い瞳のブロンド』という「本家公認」の『長いお別れ』の続編らしい(未読)。
この原作自体が、チャンドラーを愛してやまない作家によってつくられた「パスティーシュ(模倣作)」なわけだが、重要なのは、原作者のジョン・バンヴィルもまた「アイルランド人」だということだ。
要するに、遠くアイルランドの地から、同じアイルランド系のチャンドラーに憧れ、フィリップ・マーロウを偏愛してきた人間が、ニール・ジョーダン以外にもいたというわけだ。
まさに「ご同慶の至り」というやつで、ニール・ジョーダンがジョン・バンヴィルの試みに大いに共感したことは、容易に想像できる。
それに、ニール・ジョーダンとしては自らの「フェイク」をつくるにあたって、パスティーシュ作のほうが敵もつくりづらいし、いじりやすいし、気楽につくれるということで、ちょうどお手頃の原作だったというのもありそうだ。
全体の仕上がりを観れば、非常に神経を使って「40~50年代のフィルム・ノワールとして撮られたフィリップ・マーロウもの」の再現を試みているのが、よく伝わってくる。
なにより、台詞まわしがいかにもチャンドラーの書きそうなまぜっかえしが多くて、どこまでが原作由来でどこからがオリジナルかはわからないまでも、とても雰囲気をつかんでいると思った。
事件の真の首謀者のラストの豹変ぶりなども、ちょっと『大いなる眠り』のあのキャラとあのキャラをまとめて思い出させるところもあり、「フェイク」としては実によく考えられている。
しかもニール・ジョーダンは映画の語り口がうまいから、複雑なプロットをそれなりにきれいにまとめて、きちんと呈示することに成功している。最初にいった「ウェルメイド」というのは、そういうことだ。
ふつうのフィルム・ノワール/ハードボイルド映画として観ても、十分面白いクオリティに達しているというのが、僕の率直な感想だ。
その一方で、先ほどから言っているとおり、ニール・ジョーダンは本作の「フェイク」性を、敢えて隠そうとしない。
あえてアイルランド人の別作家が書いたパスティーシュを原作に据え、あえて非アメリカ系の俳優をキャスティングし、あえてアメリカの外で撮影し、あえてこれが「アイルランド人が憧れを込めてつくった模造品」であることを強調してくる。
とくにそのへんが如実に出ているのが、音楽だ。
なぜジャズを最初から使わないのか。なぜノワールっぽい映画音楽にしないのか。
この映画で冒頭からかかっているのは、なんと「ラテン」なのだ。
パンフの菊池成孔氏によれば、エンド・クレジットでかかる「いかにもジャズのスタンダード」といった感じの曲も、音楽担当のデイヴッド・ホームス周辺でつくられた新曲らしい。
映像はバリバリに復古的なのに、音楽は敢えて「異化効果」のほうを強調している。
さりげに「こいつぁ変化球だぞ」との自己主張がけっこう強い。
そもそもなぜ、マーロウがリーアム・ニーソンなのか??
これこそ、「フェイク」としての最大の「異化効果」だろう。
リーアム・ニーソンは御齢70歳。もう、おじいちゃんである。
原作のマーロウは『長いお別れ』の時点で、自称42くらい。
かつてマーロウを演じたとき、ハンフリー・ボガートは40代後半、ロバート・ミッチャムはだいぶ高齢だったが50代後半から60代頭、エリオット・グールドは30代。
それをなぜ、わざわざ70歳のリーアムにオファーするのか。
このへん、リーアム・ニーソンが50を過ぎてから「アクション・スター」として再生したこと自体を「ネタ」にしている部分もあるのだろうと思う。
最近の映画じゃ概ね無双状態だったリーアムが、この映画に限っては何度もノサれてるし(笑)。
クリント・イーストウッドやハリソン・フォードといった、オーバー80のヒーローが活躍し始めた映画界への風刺も若干はこめられているのかもしれない。
ともあれ、「ノワールとしてものすごくまともに作ってある」のに「明らかにフェイクだと誰が見てもわかるように撮る」というニール・ジョーダンの両にらみ作戦の一環として、「老齢のマーロウ」というネタも組み込まれているのは間違いない。
まあ、そのためにブロンドのヒロインを敢えて「枯れ専」設定にするのも、さすがにどうなんだろうかとも思うけど(笑)。
この「一見まっとう、じつはフェイク」という狙い目は、「どうみてもフェイクだが、実はまっとう」というロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』の裏を狙っているともいえる。
アルトマンは、70年代(製作当時の現代)のLAにマーロウを召喚し、原作とはだいぶ様相の異なる、くたびれてファンキーなよくしゃべるマーロウ像を打ち立てたが、チャンドラーの「核」の部分は実に巧く映画に落とし込んでみせている。
ニール・ジョーダンはパンフのインタビューで、チャンドラー関連の映画は全部観たけど、アルトマンの『ロング・グッドバイ』が一番気に入っていると言及している。で、この作品に影響を受けて「私も軸となる素材は大事にしつつも、思い切って好きなように表現しようと思いました」と。
アラン・カミングが演じるヤクザの親玉ルー・ヘンドリックスの奇矯な振る舞いや暴力性は、容易に『ロング・グッドバイ』のマーク・ライデルを想起させるし、しきりにマーロウが喫っている紙巻煙草を路上に捨てる描写が出てくるのも、ちょっとアルトマン版のグールドを意識しているかもしれない。
あと、原作通りなのかもしれないが、概ね落ち着いた空気感のある本作のなかで異彩を放っているのが、黒人の相棒セドリックの存在だろう。
これって、チャンドラーの補作を行ったロバート・B・パーカーつながりで、スペンサーの相棒ホークをちょっとは意識したりしてるのかなあ?
最後に書き忘れてましたが、ジェシカ・ラングの老女優演技はマジで素晴らしかった。
ハコフグみたいな顎のシルエットは健在だけど、ホント齢を寄せていい女優さんになられました。総じて、観て損はない映画かと。
ドップリ1930年代風情マシマシ
派手なアクションシーンは、有りませんの探偵ムービー❗️
謎の追求を、じっくりと楽しめる作品に久々に出会いました。
かつて、イギリスメイドの薫りぷんぷんの作品で楽しませて貰った、あの監督にこんな形で出会うとは・・・
「チャイナタウン」「黄昏のチャイナタウン」等々の1930年代のノスタルジックでまるで暑い夏の午後の様なちょいと茹だる感じがスクリーンからよう漂って来て、この雰囲気たまらん‼️
こんな味を持った作品も、今後創って行くのも、難しい様に思えます。
ステレオタイプに描かれがちな私立探偵、今回のリーアムはきっちり真面目なマーロです・・・が、これが又イイ。
ラスト、キャスティングが母娘が美人で無ければいけない理由と共に、思わずニャリとせずには居られないエピソード有りっと、おまけにエンドロールのフォントまでもノスタルジック❗️
更にバックに流れる曲が、又作品の余韻を引っ張り、込み劇場の扉の向こうに1930年頃のアメリカが広がって・・・
なんて、考えてしまう様な・・・
余韻の引っ張り具合。
これは是非、劇場で堪能して欲しい作品❗️
恐ろしく難易度が高すぎる…。ゾロゾロ脱落されていた方がいたのも納得…。
今年200本目(合計851本目/今月(2023年6月度)25本目)。
※ もともと生まれつきの病気もちでコロナ事情もあり趣味が激減していたところに(コロナ事情の初期に)映画館が活発に動き出し、病気との関係で映画館が一つの趣味になってしまいました。
今年は6月末をまたずに200本の大台に乗りました。つたないレビューですが読んでいただければ幸いです。
さて、前置きはこのくらいにして。
まず結論からいうと、この映画は「見る見ないがきわめてはっきり分かれる、そもそも日本で見ることすら想定されていない」映画のように思えます。
一方でレビューサイトなのにレビューがしにくい映画です。結局マーロウでもポワロシリーズでも何でも、この手の探偵ものは「誰が犯人でしょう?」「どうやって?」というWho/Howの論点が多数を占めるところ、それを語り始めると一発アウトだからです。「ネタバレあり」にしても一クリックで間違ってクリックされる方もいますしね(この点は公式も何かガイドラインが欲しいです)。
多くの方が書かれている通り、「きわめて字幕が読みづらい」です。また、映画の背景は第二次世界大戦突入直前のアメリカで、この部分は史実なので、ドイツのナチスドイツの台頭や、第一次世界大戦がアメリカに及ぼしたこと等は常識扱いされています(高校世界史でかなり補えます)。
問題はここからで、時代をそこにするのは理解できる(そもそも原作小説がそこを舞台にしている)ものの、妙なまでに読みづらい日本語字幕で、正直センター試験の国語(現代文)でもやってるのか??というほどのマニアさです。この映画の趣旨的に小学生の子は来ないと思いますが、中学3年生くらいではちょっと厳しいです(あるいは外国人の方も。日本語検定1級合格とかなら何とかなるか、くらいで、日本語ネイティブでさえもきつい…)。
いわゆる「カタカナワード」もあまり出てこないので、英単語から類推することも許してくれずにひたすら妙なまでの古典的な字幕な上に(まぁ、大正か昭和初期くらいの有名な文豪の小説の字幕がそのまま出ている、くらいに考えるとわかりやすいと思います)、この映画、もともとはアメリカが舞台のため、突如「分詞構文では意味上の主語を明記しなければならない」といった謎の字幕が登場し、大半の方はここ(始まって50%ほど)で力尽きるんじゃないか…と思えます。この「分詞構文~」の話はそのあとタクシー?か何かに入った後延々と続くのもつらいです(ただ、出るだけでストーリーや犯人当て等には関係しないのが唯一の救い。これすら影響していると「採点拒否」レベル)。
個人的には「この時代のアメリカの人・ものの考え方(外国の諸事情)」、あるいは「当時の小説文化の在り方」という観点でみましたが、いきなり「分詞構文では意味上の主語~」という摩訶不思議な字幕が出るなど???がすごく(映画館がバグっているのかとすら思った)、かなり人を選びそうな気がします。
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(減点0.8/明確に日本で見ることが想定されていない(「分詞構文~」などの字幕))
・ 日本では今では小学校でも基礎英語を学習するようですが、それでもメインは中高の6年で、より深く勉強したいなら英文学科等に行かないと無理です。そして就職すると英検よりTOEICよりの学習がメインになるところ、そのメインの学習ではこの「分詞構文~」の意味がまるでわからず???になってしまいます(こういうときに持ってよかった英検準1級…。英検はどちらかというと学術的なアプローチが強いです)。
なお、この字幕が言うのは結局「懸垂分詞」の話です。
この懸垂分詞の話は、2022年にも突如現れて混乱させた「フレンチ・ディスパッチ」以来かな…と思います。
以下、参考までに当時のレビューで参考までにと私が記載したものを一部わかりやすく(こちらの映画の表現にあうように)コピペします。
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● 懸垂分詞
・ 分詞構文で、分詞節の意味上の主語が、主節の文の主語と同一ではないのに省略する書き方を「懸垂分詞」構文といい、アメリカ英語(=アメリカ国内では、「国語」)では非文法的とされます。
>> Looking for a theme, a good idea occurred to me.
(テーマを探しているうちに、よいアイデアが思い浮かんだ)
※ 例文引用:「ロイヤル英文法」
・ Looking for a theme の意味上の主語:「私」か、少なくとも「人」
・ a good idea occurred to me の主語: 当然 a good idea
→ この2つが異なる。このように主語が異なる分詞構文の場合、主語を文中で明示しなければならない。これが映画の字幕の「分詞構文では意味上の主語を明記しなければならない」の話です。
※ ただし、意味内容的に「良いアイデア」が「テーマを探す」ことはありえないため、「好ましくはないが、理解に妨げはなく、誤解を招かない」という扱い。
逆にいえば「テーマを探す」のが、「彼」(He)だったり、リサ(Lisa)だったりするのなら、それは書かないといけないというのは当然のことで、「私」「あなた」のように文脈上一意に決まる場合だけ省略しても構わないということです。
なお、このことが映画内で現れるように、日本語でいえば「ら抜き表現」のようなものであり、「認める立場」と「認めない立場」の争いが激しく、当時のアメリカの一般市民の識字率や文章作成能力には微妙なところがあり、また作家・新聞社でも書き方がバラバラだったので、このように「間違いやすい英語(=要は、国語)」「書き方模範集」というのは一般的に流通していたものです。
これが制作者さんの好みのテイストなのでしょうか?
表題通りです。自分のテイストにはちょっとあいませんでした。
物語は淡々と進みます。自分的には起伏は少ないと思いました。
物語冒頭から、話がよく見えません。「ニコ・ピーターソン」という人間を探すことが依頼内容なのですが、理由も目的も???です。そして、既に死んでいると報告したら、それは偽物だと依頼者が言う(だったら、はじめからそう説明しろよ!? てな気がしました)。
あと、たまに、ウィットに富んだ会話や 否定しているのに肯定しているような よくわからない文脈の会話(付加疑問文の翻訳誤りなのかな??)が多数あるのですが自分的にはちょいと難しかったです。英語をそのまま理解できる人ならわかるのかもしれませんが、自分は翻訳文で判断していたので、今ひとつでした。
そして、最後になって依頼主の求めた「ニコ・ピーターソン」が登場しますが、そもそも彼が身を隠した理由が不明確です。なんか身を隠す必要は無いような気がしました。ストーリー展開がちょいと わかりにくい映画でした。
自分の感想としては、エンターテインメントには なっていませんでした。
追伸
自分的にはすごい感動したことがあります。「1939年のロサンゼルス」を映像として出していたことです。このぐらいの時代間隔だと、実物を見た人も生き残っているでしょうし、映像ででてくるのは、CGなのか、現物を用意したのか すごい気になりました。当然、車は旧車ですし、建物・時代背景を考えるとレプリカを作成するにしても大変な手間暇コストでしょう。このあたりの映像を撮るのは すごい大変だったと思いました。
<主な基準(今後のためのメモ)>
4.5 観て良かったと感じた映画
4.0 おすすめできる映画、何かしら感慨を感じる映画
3.5 映画好きなら旬なうちに見てほしい映画
3.0 おすすめはできるが、人により好みが分かれると思われる映画
ハリウッドの古典芸能のような良作。あと矛盾を推理した。
ハヤカワ・ポケット・ミステリのイメージが強いチャンドラーのハードボイルド探偵小説が、フィリップ・マーロウ主人公の一連の作品だ。舞台は1939年のハリウッド。そそるね。
『大いなる眠り』が1939年の作品。この時マーロウは33歳という設定。ということは、本作のマーロウも33歳かというと、かなり老けている。その秘密は、原作のジョン・バンビル著『黒い瞳のブロンド』が、公式の『ロング・グッドバイ』の続編として書かれたものだからだ。そして『ロング・グッドバイ』の舞台は1949年の秋。マーロウは43歳、そして続編ともなるとさらに年齢を重ねているはず。
1939年が舞台なのにオッサンになってるマーロウのワケはここにあるのだろう。
作品はセピアの色調で、俳優陣も50年代のハリウッド映画のおとなしさ、というか役柄に対しての「しつけの良さ」が心地よい。共感しづらいストーリーだが、雰囲気に酔える。
キャッチコピーが「リーアム・ニーソン出演100本」というのが配給の弱腰に見える。映画の良さでPRしきれば良いのに、リーアムの名前に頼る。古くはアラン・ドロンからある悪習だが、昨今はニコラス・ケイジやブルース・ウィリスが鼻についていた。どうでもいいけど。
キャベンディッシュ・キャベンディッシュ
1939年LAで、行方不明になった愛人を捜して欲しいという女性からの依頼を受けた探偵マーロウのお話。
調査を始めたらあっという間に死んでいたことが発覚?と言いつつもお顔が潰れていたってことで、まあそうでしょうねな流れになっていく。
コルバタ・クラブなる会員制のクラブに集う私欲にまみれた人達のちょっかいを受けつつハードボイルドに調査を進め富裕層の闇に迫っていくストーリーで、これと言った見どころみたいなものはないし、ちょっとゴチャついてはいたけれど、まずまずのサスペンスだったかな。
喪いたくない「男の美学」
※今回、思いっきりネタバレしますのでチャンドラーファン、マーロウファン、「長いお別れ」「黒い瞳のブロンド」読了済みの方は映画鑑賞後にお読み下さい。
上記2作未読の方は鑑賞前でも気にせず読んで頂いて大丈夫です。
また、星4.5は「ハードボイルドファン向け」の評価です。贔屓入ってます(笑)
チャンドラー作品がお好きでなければ無理にご覧になる必要はないかもしれません。見る人を選ぶ映画かも。
さて、JCのみぎりよりレイモンド・チャンドラーと大藪春彦にめちゃくちゃ傾倒していたワタクシとしては本作ばかりは初日に行きたい!と、終わらぬ仕事は夜中に泣きながら片付ける事に決めてレイトショーに向かいました。
結果として最終的な感想としては
「うん、良かったんじゃない!」と思うに至りました。
やっぱり最初は
「いくらなんでも今のリーアム・ニーソンじゃ老けすぎじゃない?一体何歳って設定なの?長いお別れの続編なら40代半ばでしょう?」
と違和感が付き纏ったのですが、考えてみれば1939年という設定自体がおかしい。
それを思えば、ロバート・アルトマン&エリオット・グールドの「ロンググッドバイ」は1970年代設定という大幅改変だし、アルトマンが20年後ろ倒したから今度は20年前倒した?
そう言えば1939年って「フィリップ・マーロウ初登場!(つまり「大いなる眠り」リリース)」の年よね。と思い至る。
それにローレンス・オズボーン著作の「ただの眠りを」ではフィリップ・マーロウ72歳の活躍が描かれています。
「そうだよね、すでに72歳のマーロウが世に出ているし。大体、ボギーだって身長の低さを逆手に取ったくらいだし。」と少しずつ自分を納得させていきました。
そして、何より本作に好感度を抱いた決定的要因は!
ベンジャミン・ブラック(=ジョン・バンヴィル)の原作「黒い瞳のブロンド」に対して「えー!これってマーロウとしてはどうよ?」と違和感というか唖然というか憤りにも近い思いを抱いた部分が「すべて解消」されているんです!
原作ではクレアと割と序盤によろしくやっちゃってるんですが、そんなの「長いお別れ」のあとのマーロウとしてはあり得ない!と感じるわけですよ!
しかして、本作ではファム・ファタールに対してすらクールでストイックな、しかしほのかな苦味を噛み締めるようなせつなさも見事に醸し出してくれていました。(この時に年の差設定はかなり邪魔なんですがw)
また「この場所でレノックス以外とギムレット飲むわけないだろー!」と突っ込んだシーンでもリーアム・マーロウはギムレットは飲まないし、アイリッシュビールも飲まない。
(原作は「これって舞台はLAじゃなくて英国?」って気がするほど、なんか不思議と英国小説テイストです)
原作のブラックマーロウはスノビズムというかペダンチックが過ぎる印象を受けましたが原典はもっと行動派。
本作にて第一次大戦従軍という過去設定を付け加えて腕っぷしの強さを魅せたのはアクション俳優としてのリーアムと原典マーロウを共に上手く活かしたと感じました。
あとね!「飲むふり」をしたシーン!
原作は「ふり」じゃなくて、思いっきり飲んじゃって捕まって拷問(水責め)受けるんですよー!
いくら、叩かれてからの復活がマーロウパターンとは言え、
おいおい?ここは飲むわけないだろー!飲んだらただの阿呆や!
という残念な箇所なので本作の改変に大賛成(笑)
あ!あとね、あとね!
割と気に入った配役がアラン・カミング。
だってね、原作の「あの役」のイメージって私個人的にはスターウォーズのジャバ・ザ・ハットなんですけどー???(大笑い)
アラン・カミングじゃカッコ良すぎますw
いやー、いいわ、これ(笑いが止まりませんwでも原作での彼は事件にここまで絡まず、問題なく生きてます)
その他にもあれやこれやございまして
「これ、これ!これでこそ我らがフィリップ・マーロウですよ!」と大満足なのでした。
加えて言えば、本作はクレアに兄弟も存在しないし、何より「テリー・レノックスも出て来ない!」
そして、ハタ!と気付く。
「これって、全然、『長いお別れ』の『続編』なんかじゃないんだ!」と!
(前半がかなり詳細に原作の情景描写に忠実だからすっかり気付くの遅れたわw)
そう!本作はレイモンド・チャンドラーに最大限の敬意を払い、「長年フィリップ・マーロウ大好き」な「現在のリーアム・ニーソンの為にカスタマイズした」マーロウだったんだ!
そう思ったら、この映画が好きになりました。だから贔屓も含めてサービス加点w
ちなみに原作小説の2/3辺りで話をぶっちぎって改変して終わらせてます。
だから原作の仰天ラストは登場しません。個人的にはその方がありがたいと思う。原作は「長いお別れ」を台無しにしちゃってると思うから。
ただしその分、ストーリーは単純というか陳腐になり、ラストのマーロウの二重の痛み(情を交わした女の裏切り。親友の裏切り)すら消失してしまっているのは大きな減点対象ですけれども。
それって(痛み)ハードボイルドの醍醐味には不可欠な要素だと思うので、最初に付けた4.5点から0.5下方修正しました。
(う〜。そう考えると原作も「上手いっちゃあ上手い」わけか。原作vs映画(本作)は1勝1敗の引き分けってところですかね。早い話がどちらも標準以上の面白い仕上がりだと思います。
結局、原作者も監督も主演もみ〜んな「チャンドラー大好き!マーロウ大好き!」って原典愛に満ち溢れてるのよね。
あー、やっぱりその点加味して4.5に戻すわー。何やってんだ、私www)
決して権力に諂わず、クールな背中に優しさと痩せ我慢を隠して・・・。
もし、本作だけでは「固茹で卵の魅力」が乏しいと感じたとしても、チャンドラーやハメット、ロス・マクドナルドやギャビン・ライアルに想いを馳せれば、本作からもそれらに通ずる断片を見出し、胸に去来する寂寥感に身を任せる事が出来るだろうと思うのです。
(脳内補完してね、って書いてしまう時点で本作に「大切な何か」が足りないって事でもあるんですが。マーロウはつい擁護したくなる。)
嗚呼!内藤陳御大がこの映画を見ることが出来たら一体どんな評をするのかなぁ?新宿ゴールデン街の「深プラ」では一家言あるお歴々が感想を交わし合っているのかなぁ。
マルガリータかギムレットでも飲みたいと思っていたら、高2の娘が一言
「ハードボイルドってなぁに?」
と質問してきましたー。
ガーン!(大ショック)
令和の若人にはすでに馴染みのない言葉になるほど、ハードボイルドは痩せ細っているのですね。
確かにリーアム・マーロウくらい歳降りた姿で適正なのかもしれません・・・。
ボギー、あんたの時代は良かった・・・
今宵はハードボイルドの黄昏を肴に、
「黒い瞳に乾杯!」なぞとカッコつけてみようか・・・
古き良きアメリカ
有名な小説が原作らしいけど、原作は知りません。
30年代のアメリカLAが舞台で、ウッドベースで渋く始まります。
当時の古き良きアメリカが全開で、ファッションや髪型、車や街並み、など、とにかくオシャレでカッコイイです。
暗すぎず明るすぎず、そんなにハードボイルドじゃないです。
推理モノとしては、まあまあ…
ありがち?な結末かな…
あまり観る人を選ばない映画かと。
檄シブ、ハードボイルドだど!
本作は私立探偵フィリップ・マーロウシリーズ「長いお別れ」の公認続編という位置付けにあたるジョン・バンヴィル作『黒い瞳のブロンド』の映画化。(なのでレイモン・ドチャンドラー作ではない)
フィリップ・マーロウは長身の中年という設定なのだが、リーアム・ニーソンはやはり少し歳をとり過ぎた感はあり、一方設定以上の長身ゆえに当時のスーツやハットが似合い、渋さは半端ない。
聞き込み先ごとにイベントがあり、情報を少しずつ集めながら徐々に核心に迫っていく探偵小説の王道設定だが、謎の美女?ダイアン・クルーガーの妖艶さとお久しぶりのジェシカ・ラングの大物感が事件解決まで道のりを遠回りさせ、ミステリーとしても見応えが十分な作品だったと思う。
観たい度○鑑賞後の満足度△ 現代ではどうしても流血とアクションが必要らしい。だが其よりも残念なのは、マーロウものを読んだ後に去来する寂寥感と何よりもマーロウの孤高さが決定的に欠けていること。
①私の愛するアガサ・クリスティの作品(『オリエント急行の殺人』)を”実に馬鹿馬鹿しい“と思いっきりぶったぎってくれたレイモンド・チャンドラー。
でも私、そんなレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウものも大好きです。少し前に『プレイバック』を読み終わって、これで短編集以外は全長編を読了。
②で、そのチャンドラー原作ではないマーロウもの。別の作家が書いたものが原作らしいけど、その原作は『長いお別れ』の続編らしいから1950年代が背景の筈だが、映画化に際しては時代背景を『チャイナタウン』と同じ1930年代にしている。
はてさて如何なるフィリップ・マーロウ像、如何なるハードボイルドミステリー映画になるかと、興味半分、心配半分にて鑑賞。
②リーアム・ニーソンは柄としてはマーロウに相応しくないこともない。原作にマーロウは「背が高い」と書いてあるから。
ただ、30年代のマーロウにしては年取りすぎ。
それに所々マーロウらしさがみられるシーンもあるが全体的に見てやはり似て非なるもの。
走ったりするシーンも年齢が出てちょっと痛々しい。
③ダイアン・クルーガーはキレイだが30年代ハードボイルドミステリーのファム・ファタール役には不似合いであった。角度によってはちょっとキャロル・ロンバートに似てるところもあったが。
④そういう意味では母親役のジェシカ・ラングが若ければピッタリだったかも知れない。
まあ、彼女のキャスティング自体がある種のオマージュではあるのだが。
⑤ハリウッド製ハードボイルド映画へのオマージュがあちこちに散りばめられているのを見るのは楽しい。
それが本作の魅力とまで成っていないのが残念。
特に『チャイナタウン』へのオマージュはあまりに露骨過ぎて笑っちゃうくらい。
ハンソン役にジョン・ヒューストンの息子のダニー・ヒューストンをキャスティングしているところとか。
ニコの収集品の中に“マルタの鷹”があったりとか、その他諸々。
⑥監督はニール・ジョーダンなので演出には安定感があるし、前半の緩やかに事件の核心に迫ってゆくところはハードボイルド映画として悪くないけれども、後半はマーロウものファンとしてはちょっとビックリの展開(原作もそうらしいけど)。
事件の真相も暴いてみると、結局金と権力と野心絡みの事件で、それへの社会批判的な視点と、事件に巻き込まれた人間達への冷徹だけれども寄り添うようなマーロウの視線が欠けているのも物足りない。
⑦ミステリーファン、オールド・ハリウッド映画ファンとしては、もっと酔わせて欲しかった。
追記:アラン・カミングはつまらない役。こんな役引き受けなきゃ良いのに。
【”ロング・グッバイ、黒い瞳のブロンド。”1930年代後半の衣装、意匠を含め作品の雰囲気、風合佳き作品。リーアム・ニーソンとダイアン・クルーガーとジェシカ・ラング共演作だったら、そりゃ観るよね!】
ー ご存じの方も多いと思うが、リーアム・ニーソンとダイアン・クルーガーはジャウム・コレット=セラ監督の「アンノウン」(個人的に好き。)で共演している。
そして、今作では舞台を1939年のLAに舞台を移し、今では稀少な第二次世界大戦前のどこか浮かれた世界観に魅入られる作品である。-
◆感想
・ご存じの通り今作は、R・チャンドラーの”私立探偵フィリップ・マーロウ”シリーズの続編として他作家により書かれた”黒い瞳のブロンド”を底本にしている。
故に、リーアム・ニーソンのいつもの派手な立ち回りは少ない。
それを期待していくと、肩透かしを食らうのである。
■私立探偵マーロウ(リーアム・ニーソン)のオフィスに妙齢の美女クレア(ダイアン・クルーガー)が元愛人のニコ・ピーターソンの捜索を依頼しに来る。
ー もう、このシーンのダイアン・クルーガーの美しさにヤラレル。派手さは全くないが、ヤラレル。リーアム・ニーソンの劇渋にヤラレル。-
・クレアと映画俳優の母ドロシー(ジェシカ・ラング)との微妙な関係性や、ハリウッドの富裕層が集う怪しげなクラブも、魅力的である。
ー クレアとドロシーとマーロウが、お互いの腹の中を探る様に高級喫茶店で会話するシーンにも、ヤラレル。-
■怪しげなクラブで行われていた事。そして、それにニコ・ピーターソンが関わっていた事。ダイアン・クルーガーのファム・ファタールなる姿が堪りません・・。
<今作は、現代の映画では普通になっている派手なアクションは余りなく、マーロウも探偵なのに見事な推理を披露するシーンもない。
故に、今作を退屈と思う方もいるかもしれないが、私は今作が醸し出す今や希少な、作品の風合が好きなのである。>
う~ん。なんか違うなと思ってしまった。
怪我をして、映画館で映画鑑賞するのは1ヶ月ぶり。60余年生きてきたが、精神の柱が折れてしまったようで、何もする気が起きなかった。
私の好きなアート系やシリアスな映画は、ちょっと辛くて鑑賞したくなかった。楽しめれる娯楽作品ならと考え直して観てみた。
フィリブ・マーロウが主人公の映画には、決定打がない。ハンフリー・ボガードやロバート・ミッミャムも健闘はしているが、ちょっと違うと思う。リーアム・ニーソンも雰囲気は良いが、歳を取りすぎている。もっと若い頃に撮ってほしかった。
マーロウとマーロイ
推理物にありがちなんだけど、登場人物が多く名前を覚えるのがちょっと大変。セリフの言い回しも文学的というか直接的でないというか、ストーリーのスピードや相関関係に取り残されまいと集中していなければならなかった。なので、これくらいの時代が舞台のアメリカ映画は好きなんだけど、その雰囲気を堪能しきれなかった。
でも、リーアム・ニーソンは好きなので是非シリーズ化してほしい、劇場作品として。
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