劇場公開日 2023年6月16日

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「アイルランド人の監督&主演コンビが贈る、ウェルメイドだけど捻じれた「偽」ノワール」探偵マーロウ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5アイルランド人の監督&主演コンビが贈る、ウェルメイドだけど捻じれた「偽」ノワール

2023年6月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

まずもって、稀代のストーリーテラー、ニール・ジョーダン監督の映画として、ふつうに面白かったし、クオリティも十分高かった。
いわゆる、ウェルメイドで、ノスタルジックなフィルム・ノワールに仕上がっている。
……でも、なんかこれ、えらく奇妙というか、ヘンテコリンな映画だよね??

ちょっと妙な第一印象で恐縮だが、観始めて最初に思ったのは、
「やけに英語の聴き取りやすい映画だな」ということであった。
私立探偵ものなのに、異様にととのった英語をやけにクリアな発音でしゃべってる。
スラングとイデオムと巻き舌で、字幕がないと到底太刀打ちできないのがこの手の映画じゃ普通なのに、結構何を話しているか、音だけでわかるのだ。
なんていうのかな? 「イギリスの映画」の香りがぷんぷんする。
それが、冒頭の偽らざる感想。
で、観終わったあとで配役を確認して、得心がいった。

リーアム・ニーソンはアイルランド人。
ダイアン・クルーガーはドイツ人。
このふたり、ぜんぜんアメリカ西海岸の
「ネイティブ・スピーカー」ではないのだ。

ジェシカ・ラングは生粋のアメリカ人だが、運転手セドリック役のアドウェール・アキノエ=アグバエはイギリス系黒人、ヤクザのボス役のアラン・カミングはスコットランド出身、バーニー・オールズ刑事(原作でもおなじみのレギュラーキャラ)のコルム・ミーニイはアイルランド出身。
ついでに監督のニール・ジョーダンはアイルランド生まれでアイルランド在住の生粋のアイルランド人。さらに驚くべきことに、本作のロケ地はスペインのカタロニアで、あとはアイルランドのダブリンのスタジオで撮っているらしい。

要するに、この映画は「ロサンゼルス」とはほとんど関係のないメンツとキャストと場所で撮られた、ほぼ「フェイク」のようなハードボイルドなのだ。
マカロニ・ウェスタンみたいなもんですね。

ニール・ジョーダン曰く、「作品の舞台はレイモンド・チャンドラーがLA(ロサンゼルス)」から構想を得て想像したベイ・シティーと呼ばれる街。彼は自身の作品のためにフィクションの街を一つ、作り上げたんです。私はこれを好機と考え、実在しない街を作ることにしました」(パンフより)。
たしかにおっしゃる通りなのだが、勘違いしないよう付言しておくと、フィリップ・マーロウはロサンゼルスの私立探偵であり、べつに架空都市で活躍するバットマンのようなキャラクターではない。どの作品にもハリウッド他、実在の地名もちゃんと出てくるのだが、『さらば愛しき女よ』『湖中の女』『かわいい女』などでは「ベイ・シティー」というLAの街がメインで話が回る。この街はLAのサンタモニカがモデルだと言われている。

しかし、ニール・ジョーダンの作り上げた「実在しない街」は、そういうレヴェルのものではない。
40~50年代のノワール/ハードボイルドに登場する「アメリカ」「LA」「ハリウッド」の漠然としたノスタルジックな「イメージ」をもとに、スペインやアイルランドの景観や非アメリカ人のキャストを組み立てて作り上げた完全な「フェイク・タウン」――異邦人(=アイルランド人監督)の目から観た「ノワーリッシュなアメリカ」のパスティーシュとして再構築された街。それが、本作のベイ・シティーなのだ。

そもそも「フィルム・ノワール」というジャンル自体、もとはヨーロッパ(とくにフランス)で「見出された」概念だった。ハリウッドとしてはふつうに「犯罪映画」を撮っていたつもりだったのだが、40~50年代の作品に一貫したテーマ、手法、雰囲気があることに気づいたヨーロッパの映画マニアが、それに「ノワール」という言葉を当てはめたのだ。

この『探偵マーロウ』も、ヨーロッパの人々が海を挟んで「夢想」するハードボイルドを、非アメリカ的なキャスティングと非アメリカ的なセッティングで撮った映画という意味では、むしろ日本でいえば、林海象の『濱マイク』シリーズや、原尞の沢崎シリーズと近い試みと言えるのかもしれない。
要するに『探偵マーロウ』は、ハリウッドが懐古的に作り上げた「懐かし映画」ではない。
アイルランド周辺の映画人が長年憧れてきた「探偵マーロウ」を実作してみせた、「ヨーロッパの愛したノワールの再生産作品」なのだ。キャストにジョン・ヒューストンの息子を起用しているのも、ノワール・オマージュの一環だろう。

ただし、そこには“大いなる”「正統性」もある。
肝心のレイモンド・チャンドラーが、母方がアイルランド系移民で、本人もイギリスのパブリックスクール育ちで、アイルランドに住む叔父の支援を受けていた、バリバリに「地縁のある」作家だからだ。
彼は生まれはシカゴだが、父親の出奔後、12歳には母に連れられて渡英して英才教育を受けている。海軍本部で働いたり、記者や書評子をやったりしていたのもイギリスでのことだ。
彼がアメリカに渡ったのは、23歳になってからだが、のちに作家として大成してからも、英国の作家と頻繁に交流し、英国作家に関する書評も精力的に行っている。
チャンドラーには、はっきりとしたアイルランドと英国とのつながりがあり、アイルランド人の監督が彼に私淑し、彼の創造した探偵の映画を撮りたいと考えるのはまったくおかしなことではないのだ。

― ― ― ―

この映画の面白さは、ニール・ジョーダンが仕掛けた「いかにも40~50年代ノワール」らしい懐古的でノスタルジックで正統的な「外見」と、非ハリウッド的なプロダクションで作られたフェイク・ノワールとしての「本質」との「ズレ」にこそあると思う。

とにかく、全体のつくりは丁寧で、ノスタルジックだ。
シックな色彩設定と、いかにもノワーリッシュな撮影。
39年の様子を完コピした、ファッションと車と小道具。
洒落のきいた会話が繰り返される、ハードボイルド調。
いかにもチャンドラーが書きそうな設定と事件と展開。
まさにオーセンティック。これぞ王道といっていい。

原作は、ブッカー賞作家ジョン・バンヴィルがベンジャミン・ブラック名義で書いた『黒い瞳のブロンド』という「本家公認」の『長いお別れ』の続編らしい(未読)。
この原作自体が、チャンドラーを愛してやまない作家によってつくられた「パスティーシュ(模倣作)」なわけだが、重要なのは、原作者のジョン・バンヴィルもまた「アイルランド人」だということだ。
要するに、遠くアイルランドの地から、同じアイルランド系のチャンドラーに憧れ、フィリップ・マーロウを偏愛してきた人間が、ニール・ジョーダン以外にもいたというわけだ。
まさに「ご同慶の至り」というやつで、ニール・ジョーダンがジョン・バンヴィルの試みに大いに共感したことは、容易に想像できる。
それに、ニール・ジョーダンとしては自らの「フェイク」をつくるにあたって、パスティーシュ作のほうが敵もつくりづらいし、いじりやすいし、気楽につくれるということで、ちょうどお手頃の原作だったというのもありそうだ。

全体の仕上がりを観れば、非常に神経を使って「40~50年代のフィルム・ノワールとして撮られたフィリップ・マーロウもの」の再現を試みているのが、よく伝わってくる。
なにより、台詞まわしがいかにもチャンドラーの書きそうなまぜっかえしが多くて、どこまでが原作由来でどこからがオリジナルかはわからないまでも、とても雰囲気をつかんでいると思った。
事件の真の首謀者のラストの豹変ぶりなども、ちょっと『大いなる眠り』のあのキャラとあのキャラをまとめて思い出させるところもあり、「フェイク」としては実によく考えられている。
しかもニール・ジョーダンは映画の語り口がうまいから、複雑なプロットをそれなりにきれいにまとめて、きちんと呈示することに成功している。最初にいった「ウェルメイド」というのは、そういうことだ。
ふつうのフィルム・ノワール/ハードボイルド映画として観ても、十分面白いクオリティに達しているというのが、僕の率直な感想だ。

その一方で、先ほどから言っているとおり、ニール・ジョーダンは本作の「フェイク」性を、敢えて隠そうとしない。
あえてアイルランド人の別作家が書いたパスティーシュを原作に据え、あえて非アメリカ系の俳優をキャスティングし、あえてアメリカの外で撮影し、あえてこれが「アイルランド人が憧れを込めてつくった模造品」であることを強調してくる。
とくにそのへんが如実に出ているのが、音楽だ。
なぜジャズを最初から使わないのか。なぜノワールっぽい映画音楽にしないのか。
この映画で冒頭からかかっているのは、なんと「ラテン」なのだ。
パンフの菊池成孔氏によれば、エンド・クレジットでかかる「いかにもジャズのスタンダード」といった感じの曲も、音楽担当のデイヴッド・ホームス周辺でつくられた新曲らしい。
映像はバリバリに復古的なのに、音楽は敢えて「異化効果」のほうを強調している。
さりげに「こいつぁ変化球だぞ」との自己主張がけっこう強い。

そもそもなぜ、マーロウがリーアム・ニーソンなのか??
これこそ、「フェイク」としての最大の「異化効果」だろう。
リーアム・ニーソンは御齢70歳。もう、おじいちゃんである。
原作のマーロウは『長いお別れ』の時点で、自称42くらい。
かつてマーロウを演じたとき、ハンフリー・ボガートは40代後半、ロバート・ミッチャムはだいぶ高齢だったが50代後半から60代頭、エリオット・グールドは30代。
それをなぜ、わざわざ70歳のリーアムにオファーするのか。

このへん、リーアム・ニーソンが50を過ぎてから「アクション・スター」として再生したこと自体を「ネタ」にしている部分もあるのだろうと思う。
最近の映画じゃ概ね無双状態だったリーアムが、この映画に限っては何度もノサれてるし(笑)。
クリント・イーストウッドやハリソン・フォードといった、オーバー80のヒーローが活躍し始めた映画界への風刺も若干はこめられているのかもしれない。
ともあれ、「ノワールとしてものすごくまともに作ってある」のに「明らかにフェイクだと誰が見てもわかるように撮る」というニール・ジョーダンの両にらみ作戦の一環として、「老齢のマーロウ」というネタも組み込まれているのは間違いない。
まあ、そのためにブロンドのヒロインを敢えて「枯れ専」設定にするのも、さすがにどうなんだろうかとも思うけど(笑)。

この「一見まっとう、じつはフェイク」という狙い目は、「どうみてもフェイクだが、実はまっとう」というロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』の裏を狙っているともいえる。
アルトマンは、70年代(製作当時の現代)のLAにマーロウを召喚し、原作とはだいぶ様相の異なる、くたびれてファンキーなよくしゃべるマーロウ像を打ち立てたが、チャンドラーの「核」の部分は実に巧く映画に落とし込んでみせている。
ニール・ジョーダンはパンフのインタビューで、チャンドラー関連の映画は全部観たけど、アルトマンの『ロング・グッドバイ』が一番気に入っていると言及している。で、この作品に影響を受けて「私も軸となる素材は大事にしつつも、思い切って好きなように表現しようと思いました」と。
アラン・カミングが演じるヤクザの親玉ルー・ヘンドリックスの奇矯な振る舞いや暴力性は、容易に『ロング・グッドバイ』のマーク・ライデルを想起させるし、しきりにマーロウが喫っている紙巻煙草を路上に捨てる描写が出てくるのも、ちょっとアルトマン版のグールドを意識しているかもしれない。

あと、原作通りなのかもしれないが、概ね落ち着いた空気感のある本作のなかで異彩を放っているのが、黒人の相棒セドリックの存在だろう。
これって、チャンドラーの補作を行ったロバート・B・パーカーつながりで、スペンサーの相棒ホークをちょっとは意識したりしてるのかなあ?

最後に書き忘れてましたが、ジェシカ・ラングの老女優演技はマジで素晴らしかった。
ハコフグみたいな顎のシルエットは健在だけど、ホント齢を寄せていい女優さんになられました。総じて、観て損はない映画かと。

じゃい
pipiさんのコメント
2023年6月18日

はい!先生

ついでに言うと「ジョン・バンヴィルはLAに行った事がない」のだそうです。

だから現地のナマの空気感はわからなくて、自分のよく知る英国テイストやアイリッシュテイストに仕立ててきた印象です。

台詞等は前半はかなり原作通り。
でも「解明されるべき謎」が大幅に改変されている為、登場しない重要人物も多く、ニコやリサの出生の秘密なども無視。
ジェシカ・ラングの役所はまるで別人。セドリックは原作には存在しない。
と、相成っておりまするー。

pipi