ジョーカー フォリ・ア・ドゥのレビュー・感想・評価
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ジョーカーはいない・・・感応精神病その物語。
アーサー・フレック / ジョーカー(怪演:ホアキン・フェニックスさん)
ハーレイ・“リー”・クインゼル(歌演:レディー・ガガさん)
とにかくガガ、 ガガですよ。ガガが ガガガガ~と
この作品の持ち味だった狂気・狂宴を丸潰しに。
6割~7割ほど 詰らないテンション。
歌って踊って ありゃりゃミュ-ジカル風に。
出だしのアニメから コケた!
何かが違が---う。
元々 虐げられた育ち異怪の運命、道化として生きてきた男が
狂気のジョ-カーへ変貌していく姿を描いたのが前作。(世界的大ヒット!)
今作はその後の姿を描く。殺人を起訴されて裁判に。拘置所病院を介して近づいて来る女リ-。彼の内に秘めた狂気ジョ-カ-の名声を我が物にしようと。また利用し自分への名声を手に入れようと自分を偽り彼に近づく。
こんな女 観ていて無性に腹が立つ。芝居でもリアルでも。
あの狂気の男を弄んでヘナヘナに。そこがメッチャ気にくわない。
お前らのイチャイチャなんかミタカネ-よ、ってのが本音。
子供が出来た?その時の彼の顔が やっぱり人なんだと思ったわ。
そこは流石のホアキン様。
最終裁判で大事件が・・・・・・・・・・・・・・
おおおおおお・・・・スゲ-ぇ。
中盤過ぎまで カスみたいな展開であったが この大事件以降展開が
慌ただしくて ちょっと面白くなってきたね。
結局、あの長い長い階段で 最後の別れをリーとする。
彼の中に狂気が居なかったからである。
彼はやはり 一人の虐げられた淋しい人であったと描かれている。
またもや警察に捕まって拘置所へ戻される彼。
ここで 全裸にされて暴行受けたと思うのだが、日本版はカットに成っていると思われる。見ていて絵が跳んでいるのが分かる。
彼が夢見た、彼女との仲、子供、幸せの想い全てが
跡形も無く 消え去って行く・・・・
彼の空虚な悲哀だけが 高笑いも無くそこに残されていた。
銀幕にも客席にも。
興味ある方は
是非劇場へ。(星3.5程かな)
アーサー!
評判が悪いとの情報が流れ始めたので、これ以上、リークが目に入らない内に本日朝イチで行って来ました!
タイトルがフォリ•ア•ドゥなのでハーレイと二人の大暴れを期待しちゃいますよね〜
それなのに『ジョーカー!』はいなかったって結末では、見方も厳しくなりますよね?
けど酷評される様な映画では無いと思います。
(ただし、ミュージックが嫌いな人はダメかもしれません。)
ドウモ~~~ッ!!お~o(⌒0⌒)oは~♪ハジメマシテ~~~ッ☆☆(*⌒ヮ⌒*)
私はメンヘラで入院てるのぉ~~~っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ
うーんとー、ジョーカーさんにすっごくすっごく会いたくてー、\(⌒∇⌒)/
探してたら(◎_◎)なんとっ!☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡
潜入したアーカム精神病院でジョーカーさんを発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ
あやしい所とか…{{ (>_<;) }} ブルブルすごい数の独居房がありますけど、
これ全部1人の方が管理しているんですか?(@@;)すごすぎ …
てなわけで、ついついジョーカーさんにお近づきになったのらー(o^v^o) エヘヘφ(`∇´)φカキコカキコ♪
ズッ友になってくれるよねっ。(*^-^*) お・ね・が・い♪(* ̄・ ̄)ちゅ♪ッ
え?くれないのぉ~?(;¬_¬)そんなのいやいや~~、ガ━━━(゚ロ゚)━━━ン
なってくれなかったら、( `_)乂(_´ ) 勝負! \(^o^)/
☆○(゜ο゜)o ぱ~んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ~ン!!( ゚▽゚)=◯)`ν゚)・;'パーンチ
(>_<) いてっ!ダメ!! ゛o(≧◇≦*)oo(*≧◇≦)o″ダメ!!
(☆o☆)きゃ~~(@_@;)やられた~~(o_ _)o ドテッ ガ━━(゚Д゚;)━━ン!
(+_+) 気絶中。。。。・゚゚・o(iДi)o・゚゚・。うぇぇん <(゜ロ゜;)>ノォオオオオオ!! ??゚□゚;ハウッ!
なあんて(#⌒▽⌒#)こんな私っ!σ(^_^)だけど、(///▽///)
ズッ友になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ ドガ━━━Σ(ll◎д◎ll)━━━━━ン
ということで。(^-^)vじゃあね~~~♪(⌒0⌒)/~~ ほんじゃo(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪
それでは、今から他の独居房も色々見てきまーすC= C= C= C=┌(^ .^)┘
(*^-^*)ノ~~マタネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★
字幕版の感想でした!まる!
と、いうわけで同じ日に吹き替え版を連チャンで鑑賞。
この映画が賛否両論で評価もかなり低いという前情報があったので、聞き捨てならん!と思い初日、字幕版を見た後すぐに吹き替え版を見に行きました。
前作のジョーカーは映画館で3回、当然Blu-rayも買って何回も見直すくらい大好きな作品です。
この映画が評判悪い理由を考えてみたが、映画冒頭のアニメがふざけているところ、
俺は自然だと思ったけどミュージカルが嫌いな人にとっては不自然に思えるかもしれないミュージカルのシーン。
このミュージカルシーンが何故あるのか理解できない人が多いけど、例の長階段でレディ・ガガが歌うのをやめないシーン。
歌を歌う事が大好きなレディ・ガガ。歌を歌う事が大嫌いなジョーカーが、レディ・ガガに合わせて嫌々歌っていた事が分かる。初めて彼女ができて浮かれていたwせいもあるけど。
ディズニー狂いの嫁さんに、嫌々付き合う旦那さんみたいなもんだな?一回、行けば充分だろ?本当、ディズニーランドってしょうもないよな。
前作のジョーカーでは、カウンセリングをする女性が前半と後半で同じだった( ?)ので、あの映画でのジョーカーの殺人行為は全て妄想という説があって、んなワケねーだろ?と思っていたが、本作では殺人は全てあった事で、ジョーカーはアーカム精神病院に収容されている。
そこに、レディ・ガガが、東京ガガガ。ジョーカー目当てにアーカム精神病院に入所してくる。童貞こじらせたジョーカーはレディ・ガガと短い貫通を遂げ、ジョーカーはガガにメロメロになる。
映画の後半は法廷劇になります。ここでは、ジョーカーの殺害理由を追求されて、証言者達がジョーカーについて、証言をします。
ジョーカーがしでかした事は無差別殺人なのだが、それでもジョーカーの信者がいて、屋外でも法廷内でも支持者がジョーカーの発言にいちいち反応する。
隣人のシングルマーザーや、小人の人が証言をします。特にこの小人の人の演技が神演技で吹き替え版でもその演技力が伝わって泣きそうになりました。やっぱ、俳優は演技力があってなんぼだね。
裁判だから、犯行時の心境や、ジョーカーの生い立ちについて、聞かれたくない事まで答えなければならなくて、ジョーカーが記していた日記の内容にまで言及されてジョーカーは追い詰められていく。
唯一、ジョーカーがもうやめてくれと懇願したのが、自分のスタンダップコメディのネタについて聞かれた時でした。
プライドをずたずたに傷つけられても、芸について指摘されるのは嫌だったようで。
幼少期に母親が交際していた男から、暴力を受けて脳に障害を持って理性が壊れていたのが理由とはいえ、殺害方法の残虐さは到底許されるものではなくジョーカーの有罪が確定する。
さぁ、どうするジョーカー?
この後の展開は、見てのお楽しみだが、貴方が想像している以上の鬱展開が待っている。
前作のThat's Life はフランク・シナトラ歌唱だったが、今作はレディ・ガガ歌唱。何故、レディ・ガガ歌唱かは見てのお楽しみ。
前作のジョーカーでは、収録されているボーカル曲のCDはなくSpotifyで聴くしかなかったんだけど、今作ジョーカーのサントラはホアキンとガガの歌唱曲が収録されています。Applemusicでも無料で聞けるけど、サントラは歌詞カードがついているのだよ。
今だったら、劇場限定でクリアファイル付きで、販売しているのでこの機会にぜひご購入をお勧めします。
芸能人の吹き替えはそんなに気にならなかったのし、小人の人の吹き替えが良かったので、吹き替え版をお勧めします。
この映画は満足度が低い事で有名だけど、そんなの気にしないでください。最高の映画です!
俺はあと2回くらい見に行く予定だYO!!
それ・は・どぉ?
予告編で1、2を争う印象的なシーンが本編には出てこない点だけはどーよと思った。そのお陰でストーリーが予想付かなかったけど。逆に予告編を観ていなかったら、さらに言うとDCユニバースの知識がなかったら、予想は裏切らない鉄板な構成だと思った
我々が求めたのはアーサーなのか、ジョーカーなのか。
制作側が誠実さを持って前作とそれが社会に与えた影響に向き合った【正しく存在すべき続編】、そして【前作と対を成すからこそ、“2作で1作”として完成する(した)物語】であったように思う。但し、それが作品としての「面白さ」を担保するものであったとは決して思わないし、「面白さ」という評価軸のみで本作を見るならば、私自身のスコアでお察しといったところ。
2019年に公開され、『バットマン』に登場する世界有数のヴィランである〈ジョーカー〉の生い立ちに大胆なアプローチで挑んだ衝撃作『ジョーカー』。アカデミー賞主要11部門ノミネート2部門受賞(主演男優賞・作曲賞)、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞受賞という快挙を成し遂げ、全世界が「悲痛な生い立ちから犯罪に手を染め、悪のカリスマとして覚醒する哀れな中年男性」に共感し、熱狂した。「これは俺(私)の物語だ」と感じた人も少なくないだろう。私自身、そう感じた一人である。
しかし、それは同時に、現実世界でもこの『ジョーカー』に影響を受けたとされる模倣犯を生み出した。
日本でも「京王線無差別襲撃事件」として、ジョーカーのコスプレをして犯行に及んだ犯人が話題となった。しかし、私自身はこの犯人、そして世界中に存在する『ジョーカー』に影響を受けたと唱える犯罪者は、フィクションに自らの犯行の責任転嫁をして逃げている幼稚で身勝手な存在以外の何者でもないと思っている。京王線のジョーカーも、犯行こそ『ジョーカー』に登場するジョーカー(ホアキンジョーカー)に近いが、出で立ちは『ダークナイト』に登場する故・ヒース・レジャーが演じたジョーカー(ヒースジョーカー)の物であるし、そうしたチグハグさも稚拙さを感じさせる。
本来、映画や小説、漫画やゲームといった全ての表現・芸術作品は、私達の日常を時に豊かに、時に励まし寄り添ってくれるエンターテイメントとして存在しているのであって、決して一線を超えた犯罪行為の免罪符として存在しているのではない。だからこそ、暴力的な作品を模倣して犯罪を犯す事は、それ自体が芸術作品に対する裏切り、冒涜に他ならないと思う。
それに対して、制作側が世間に対して謝罪する必要も、本作のような「誤った熱狂に冷や水を掛けて目を覚まさせる」作品を作る必要もないはずなのだ。
巨匠スタンリー・キューブリック監督も《芸術家は、作品の芸術性にだけ責任を持てばいい》《映画やテレビが無垢な善人を犯罪者に変えかねないなんてのは、あまりにも安楽的な発想である》と残している。
しかし、トッド・フィリップス監督や主演のホアキン・フェニックスは、前作が世間に与えた影響に真摯に向き合い、より分かりやすく、より悲惨な末路をアーサー・フレックというキャラクターに与え、我々観客に「目を覚ませ」と問い掛けるのだ。
だからこそだろう。ロッテントマトでは、批評家支持率33%、観客支持率32%(10月12日現在)という酷評ぶりで、これはアメコミ原作映画の最低記録だという。現地のリポートでは、途中退席する観客も少なくないそう。その光景は、本作の終盤でアーサーが「全てをぶち壊して新しい自分になりたかった。でも、もう無理だ。〈ジョーカー〉はいない。僕だけがいる。」と観念した瞬間に法廷を去って行った、ジョーカーに熱狂した傍聴者と重なる。
批評家も観客も、皆が求めていたのは“悪のカリスマ”である〈ジョーカー〉であって、アーサーという個人ではなかったのだ。前作を鑑賞して「あの悪のカリスマであるジョーカーに、哀れな動機など与えてほしくなかった」と落胆した一部の観客も、求めていたのは高い知能と自らの美学に基づいて犯罪を犯すジョーカーを期待していたのだから。
それは、本作における多くの立場の人物達に共通している。
ようやく作品の内容に触れていくが、カートゥーン調のアニメーションによるアーサーとジョーカーの影がせめぎ合う物語が、本作のテーマを象徴している。
開けて冒頭、前作のラストで高揚感に包まれて大悪を成した姿とは打って変わって、すっかり刑務所での生活に馴染み、無感情に過ごすガリガリに痩せ細ったアーサー。看守達からも揶揄われ、すっかり元の状態に戻っている。
そんな中、弁護士との面談で訪れた軽犯罪者用の病棟で、アーサーは合唱部の練習風景を目の当たりにし、運命の女性リーと出会う。ジョーカーの犯行に心酔し、彼を英雄視するリーは、すぐさま自らも似た境遇の持ち主だとしてアーサーと親しくなる。生まれて初めて他者から必要とされた喜びから、すぐさまアーサーはリーに恋心を抱き、彼女への愛を妄想の中で歌にする。
夜の映画鑑賞回にて再び出会ったアーサーに、リーは「ここを抜け出しましょう」と機転を効かせて火事を起こし、アーサーを連れ出す。「2人なら何処へでも行ける!」と確信したアーサーは、かつてない幸福感で刑務所の柵にしがみ付き、マスコミにアピールする。
やがて、マスコミはアーサーとリーの関係を“世紀のカップル”と囃し立てながら、アーサーの裁判が始まる。前作でアーサーが起こした凄惨な事件について、前代未聞の裁判風景の生中継という処置の下、有罪か無罪かを巡る長い戦いが始まる。
裁判を通じて、アーサーは弁護士を解雇し、自らが弁護をするという暴挙に出る。ジョーカーのメイクを施して裁判に参加するという、これまた前代未聞な出で立ちで、再び無敵の悪のカリスマとしての高揚感・全能感を取り戻してゆく。しかし、自らの過激な発言が引き金となって、ジャッキー達から凄惨な暴行を受け、自らを信仰していた囚人仲間がジャッキーの手で殺害された事、裁判を通じて自らの妄想を綴った日記や証言者らの発言によって、次第に画面が剥がれ落ちてゆく。
遂には、「ここにジョーカーは居ない。」と、自らの責任能力と裁判での敗北を認める発言をし、愛されていたと思っていたリーすらも去ってしまう。
自らの判決を言い渡される直前、過激派による自動車爆弾が裁判所に突っ込んだ事で裁判は中止され、運良く生き残ったアーサーはジョーカーのコスプレをした若者達の手助けによって、リーの待つかつての住居だったアパートを目指す。
かつて高揚感を胸に踊った長い階段の先、失意から長かった髪を切ったリーの姿がそこにはあった。
「これで自由だ。どこへでも行ける。」と語るアーサーに対し、リーは「どこへも行けやしない。全ての夢があったのに、あなたがそれを諦めた。」と言い残し、その場から去って行く。
再び、刑務所に連れ戻され、英雄視されていたここ数日から、元の無感情な日常へと戻っていたアーサー。面会だと言われ案内された彼を囚人仲間が呼び止め、「ジョークを聞いてくれ」と言う。バーで憧れの道化師が飲んでいる姿を目の当たりにし、落ちぶれた彼の姿に失望した男が「報いを受けろクソ野郎!」と放つ話。それと同時に、囚人仲間は隠し持っていたナイフでアーサーの腹部を滅多刺しにした。
高揚感で笑い狂う囚人仲間を背後に、最期にリーとショーをするジョーカーの姿を妄想しながら、アーサーは息を引き取る。
本作でアーサーは愛に触れ、愛を求め、それ故に狂い、やがて全てを失った。愛を知らなかった哀れな男は、愛を知ったが故に破滅したのだ。
ところで、我々はアーサーという人物が自らの内にある〈ジョーカー〉を否定し、破滅した事でこの混沌が終わったかのように感じてしまう。しかし、作中のゴッサム・シティの未来を考えると、アーサーの死は更なる混乱の時代の幕開けのように思えるのだ。裁判の生中継で敗北を認めたとはいえ、その姿を目の当たりにして目が覚めるのは「健全な精神を持ちながら、抑圧された社会に憤りを感じ、信仰する対象を求める人々」に過ぎないのだ。熱狂的なファンは存在し続けている。
何より、アーサーを刺した囚人仲間は、更なる狂気に飲まれていたように思う。実を言うと、私は彼こそが作中世界における後の〈ジョーカー〉なのではないか?と考えている。本作の副題は“フォリ・ア・ドゥ(FOLIE A DEUX)”、妄想の伝播共有を指すこのワードは、アーサーとリーの間柄を示すだけではなく、彼の凶行を目の当たりにして熱狂した多くのゴッサム市民にも通じる事だろう。アーサーの敗北により、そこから目覚める人々も居るだろうが、一度伝播した悪が、自らの中で絶えず増幅し、膨張していく者も少なからずいるはずだ。そして、それこそが、この先我々のよく知る真の〈ジョーカー〉を生み出すかもしれないのだ。
何より、司法による正しい裁きを受けずに息を引き取ってしまった犯罪者は、しばしば伝説になってしまう。映画はアーサーの死によって終わったかのように思えるが、実はこれこそが始まりなのだ。
そう考えると、前作でチラッと登場した幼いブルース・ウェインの未来は前途多難だと思う。頑張れ、バットマン!
主演のホアキン・フェニックスの演技は、本作でも抜群の存在感とエネルギーに満ち溢れていた。本シリーズのジョーカーを、正しくジョーカーと定義すべきかは未だ意見が分かれるだろうが、彼の演じたアーサー・フレックというキャラクターの不遇さ、狂気、何より人間的な脆さによる魅力は疑いようのない事実だろう。
特に本作では、表情による演技に更なる説得力があったように思う。また、度々タバコを吸う仕草と、その吸い方による彼の心の内の表現の違いが見事。
また、前作から更に絞ったガリガリのアーサーを演じる肉体改造ぶりや、妄想シーンで披露されるタップダンスも見事としか言いようがない。監督曰く、「何でも出来る努力家」らしいが、これらの姿はそれを雄弁に物語っている。
本作を語る上で1番の争点になるであろう歌唱パートの多さについて。監督も演者も「ミュージカルではない」と語るように、本作の過剰なまでの歌唱パートは、ミュージカル映画のそれではない。ミュージカル映画は、歌い踊りながら人物の心情や物語が進行していくのに対し、本作の音楽はあくまで「アーサーの妄想世界への逃避行動」として描かれているからだ。
個人的に、この選択は理解出来るし、必要性も感じる。だが、もう少し歌唱パートを抑えても良かったのではないかと感じているのも事実で、物語の流れを止めてしまう歌唱パートの多さは、正しくノイズとなってしまっていたようにも思う。
前作を観て、「これは俺(私)の物語だ」と共感し、だからこそ本作を楽しめなった人々に対して。そう感じた多くの人々にとって、前作はカタルシスとして大きな役割を果たし、フィクションに触れながら現実を生きていくという正しい姿勢を貫いてきた人々にとって、それに冷や水を掛けるかの如き本作は無用の長物に映る事だろう。しかし、本作は前作を誤って認識した人々の目を覚まさせる役割だけではなく、前作をカタルシスとして正しく消費し、受け止めた人々を称賛する作品でもあったように思えるのだ。
私は、「いつでも一線なんて越えてやる!」と思いながらも、その線の内側で今日も拳を握って耐えながら、正しく生きる人々をこそ真に尊く美しいと感じるし、本作はそういった人々に対して「前作を正しく認識してくれてありがとう。そんなあなたが今作を楽しめなかったとして、それは間違いではないし、どうかあなたはそのまま正しく生きて下さい。」と言っているようにすら感じるのだ。
実際、人が犯罪行為に走るには幼少期からの環境的要因や遺伝子による所が大きく、前作を鑑賞して「誰もがジョーカーになりうる!」と盛り上がっていた一部のネット民の認識は間違いではあるのだが。また、本作の作りは映画として決して出来の良い部類でなかった事は冒頭に記した通りなのだが…。
というか、そんな事よりもっと気になる点があるではないか。
「「「 コレノ 何処ニ 2億ドルモ制作費ヲ掛ケル トコロ ガ アッタノ?????」」」
どうやら私には、“このジョークは理解出来そうにない”。
悲しい男の……
確認ですがバットマンのジョーカーではありません。他の世界のジョーカー。
今回のジョーカーは誰も殺しません。
孤独で切れた男も愛する人が出来、希望を持ちますが、結局、理性を取り戻しおかげて全てが手を離れる。唯一彼のファンだった群衆にも彼は心を委ねる事が出来ず………。
悲しい男のミュージカル映画でした。
自分はのりませんでしたが、確かに、のった人は絶賛するのが解る作品でした。
…ですが忘れられない作品にはなると思います。それが名作と言うものなのでしょうか?
もし、一作目も見ていないひとがいたら、今作がレンタルを始めたらぶっとうしで見るのをオススメします。
そうしたら絶対はまります。
That’s life です。
アーサーという男の人生の物語。夢だったコメディアン。人を笑わせて幸せにし、喝采を浴びてごくありきたりな人生を過ごしていたいと思っていたが、抑圧された人生の心の吐け口として生み出されたジョーカーが、自分から離れ独り歩きをし注目されてしまう。過激になればなるほど関心され、盛り上がる大衆が増えていく。真面目で気弱な自分自身とはかけ離れていく。心惹かれたリーに全てをさらけ出し自分自身を認めて欲しく愛情を注いでいくが、リーも大衆と同じで、民意の象徴となったジョーカーに心酔していて、アーサー自身には興味も持っていない。抑圧された人生でずっと孤独と不安に苛まれたアーサーの哀しくも儚い物語。ラストは面会に来てくれた人に会うこともできず最期を迎えてしまう。泣けてくるくらい切ない終わり方でした。また、ここからジョーカーという面を被った沢山の犯罪者が生まれてくる予告になったのかと感慨深いものがありました。
盛者必衰 諸行無常なんて言葉が思い浮かぶ映画でしたね。
フランクシナトラのThat’s life が良かった。何故かDavid Lee Rothが歌っているのが浮かんでしまいました。
前作は善人が狂人へ、本作は狂人が善人に。異なる物語
前作では育った環境や理不尽な扱いにより、心優しきアーサーが狂気と化して怒りと悲しみをジョーカーとなり爆発させます。彼の行為は多くの人から賛同され悪の教祖となりました。本作はその後となります。5人を殺害したアーサーは精神鑑定の為警察病院に収監され、裁判を待つ状態にいます。今のアーサーは狂人の面影はいっさいなく模範的に生活をしています。世間はジョーカーへの熱狂は続いており、病院内で出会う謎の女性リーもその一人です。
本作品は、怒りと悲しみからの行動は突発的なものかなのか、狂気によりジョーカーとなってしまったのかという展開となります。弁護士は二重人格を訴え、リーは狂気のジョーカーへと導いていきます。
前作とは異なる演出としてミュージカル要素を組み込んでいます。謎の女性リーをレディーガガが演じていることもあり抜群の歌唱力ではあります。リーの怪しさを演出するには効果がありますが、歌でアーサーの苦悩を見せてもあまり効果はないと思います。
愛されたいアーサーが突如愛された、その愛に応える為にジョーカーを演じることでより愛された。しかし、愛に目覚めたジョーカーでなくアーサーとして愛されたい。その行動は期待を裏切ることになっていることに彼は気が付かなった。冒頭のアニメ「俺と俺の影」の意味が理解できました。
本作は賛否が分かれています。これも前作に陶酔した鑑賞者としては、更なる狂気の振る舞いを求めていたがまったく異なる展開だったことへの不満にあると思います。
前作の続編ではあるもののまったく異なる切り口となった作品と考えれば、これはこれで評価できる作品と思います。
誰もが信じ崇めてるまさに最強で無敵のジョーカーなんて存在しない
本作で描かれるのはアイドル化したジョーカーの中の人のお話。
人間の皮膚の下には誰も彼も狂気が眠っていて、誰しもがジョーカーになり得る。
一度被ってしまった道化のメイク(ジョーカーの虚像)を落とせば、骨と皮しかない普通の妄想癖の男性が転がっているだけだ。
映画を観に行く観客が観たかったのもジョーカーだった。
アイドル化されたジョーカーの心の闇を自分も感じて悦に浸りたかったのに、「貴方の憧れのアイドルはうんこするよ」と冒頭から見せつけられる。
現実社会でも「ジョーカー」はバッドマン最大の敵役として映画に登場する大人気のヴィランなのはご存じの通りですが、キャラクターの背景は作品によって異なる。
まさに「ジョーカー」とはこんな人物が相応しい。これこそ「ジョーカー」だ!と大衆が思うことで「ジョーカー」は誕生するといった現象が見られる。
本作が本国アメリカで賛否両論巻き起こっているのもそれぞれが思い描く虚像の姿が違うからだと思う。
それは神の姿や声をハッキリとこれがオリジナルだ!と言えないのと同じような物だ。
所詮は人の妄想が生み出したキャラクターに大衆の解釈が乗っかって「神とはこういうものだ」と勝手に定義されていく現象だ。
リーことハーレクインも初めからアーサーではなくジョーカーに恋焦がれていましたね。
SEXを求められた時にメイクをするって描写があって笑ってしまった。私の理想は貴方でなくジョーカー。自分の望む姿になりきれない貴方には魅力を感じないわと突き離される場面は最高に残酷でしたね。
アーサーが感じた幸福感も虚無感も全てジョーカーというキャラクターを介してしか感じることのできない他者との繋がり。
本当の自分は、母親の言うような「馬鹿で笑いも取れないハッピー」だ。
役が一人歩きしてコントロール出来なくなったジョーカーというキャラクターから1人の人間(アーサー)に戻った時、生みの親としての役割は終わる。
ジョーカーを殺した青年は自ら口を裂き、ジョーカーの物語がまた始まる。
誰でも良いんだ。
道化を演じる人が重要なのではない。
ジョーカーと言う概念が引き継がれていくと言う幕切れはアーサー版ジョーカーにとって何というかあっさりし過ぎている。もっと理不尽からの解放と言うカタルシスを浴びたかったと言う思いが正直ある。
看守も裁判官も陪審員も傍聴席も皆殺しにして悪のカリスマとして法廷を出ていくくらいの社会がひっくり返される瞬間を感じたかった。
いや、そんな馬鹿げた妄想は現実社会では起こらない。
奇跡も救いもないよ。神は偶像だからね!ってまざまざと見せつけられる映画だった。
映画の中でくらい神を描ききってよと思う時点で自分も虚像に踊らされる観客の1人にすぎないと思い知らされる。
きっとアメリカで受け入れられないのも宗教的な解釈では神の実態なんてこんな物だよーと言われているような映画だからだと思う。
主演のホアキンの演技あってこその2時間だっと思う。それでなきゃ飽きてしまって、間延びしてしまって眠くなる。
レディガガのハーレクインはミーハー過ぎて好きになれなかった。貴方は私の神様よ!と心酔しているけど、自分が望む奇跡を起こせなかったら離れていくって信仰心が薄いんじゃない?アイドルも神もジョーカーも信者がいてこそ大物になるんでしょうが。
前作のようなカタルシスを感じようとこの映画を観にいくのはお勧めしません。
楽しめる人もいるし、もうやめてあげてよとなる人もいる作品です。
私は楽しめませんでした。
ジョーカーと名乗る作品ならやっぱり観客が観たいのはジョーカーなんだよな。
そうですよね
ダークナイトのカリスマはこの世にはいなかった。
前作で生まれた持たざる者、虐げられる者のヒーローは確かにいたけど、本人の器を超えたカリスマはいなかった。
爆破でワクワクした自分と、そんな上手くいくかいとリアリティの破綻に不安になった自分がいたが、どちらかというと今はワクワクをへし折られた感が強め。
ほとんどの人は何者でもないことをわざわざ言わんでも良いのに言われた感じ。
まあそうですよね、という空気に満たされる深夜の映画館なのでした。
結末は現実のようにつまらない
結局、最初からジョーカーなんていなかった。
前作で思いもよらず悪のカリスマに祭り上げられてしまったアーサー。悪のカリスマと崇められても、なぜ崇められてるのか、アーサー自身が全く理解できてないし、興味すらない。
ただジョーカーに興味を持ってくれた一人の女性に好かれたくて、ジョーカーになろうと演じて、本当のアーサーを必死に隠そうとする。
終始、破滅する未来しか見えないが、人々を惹きつける立ち振る舞いや、ジョーカーの妄想、歌の高揚感で、もしかしたら本当に悪のカリスマ•ジョーカーになれたなら、大どんでん返しもあるかもと期待させつつ、結末は現実のようにつまらないものであった。
結局、カリスマなんて蓋を開けてみれば、ただのつまらない一人の人間。崇める人々も彼らが本当に望んでいるのは破壊の代償によるカリスマの破滅。
製作者の「現実なんて至極真っ当でつまらないもの」という正論が垣間見えて、少しイラっとする。映画としては良い映画。エンタメとしては0点。
そりゃ、コケるわな。デートに使わないでね。(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」かぁ?)
アメリカでコケたらしいじゃん。そりゃ、そうだ。
全編、妄想の中でのミュージカルで話の盛り上がりの展開無し。
法廷で主人公が(自己肯定の)一隻ぶって場を盛り上げるのかと思いきや不意に主人公が容疑を白状しだして話が尻すぼみ。脱走したと思ったら、女にフラレて刑務所に逆戻り。
最後にゃ、ちょっせー居たのか居なかったのかわかんない奴にブスッとやられて終わり。
結局、主人公の救いのない妄想に観客を付き合わせただけ。また新鮮味の無い話。
これじゃ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じじゃん。他の観客もそう思っていたんじゃないの?
まぁ、制作者も馬鹿じゃないだろうから色々と意図があると思うがこっちはそんなの知ったこっちゃねぇよ。
主人公殺しといてこの先どうすんのよ。3回目作って主人公復活させんの?
復活させないと辻褄合わねぇじゃん。例によって「ホアキン」はギリギリじゃん。さすがに3回目は無ぇぜよ。死んじゃうよ。
「バットマン」は「ワーナー」が社運を掛けるドル箱なんだからコケたら会社潰れるよ。監督はどうオトシマエつけんのよ。知らねぇよ。またデズニーに食われちゃうじゃんよ。
ほんとにどうすんのよ。
「どうでもいいけど。」
That's das◯ku.
前作はジョーカーの復讐劇に勝手に「自分も社会の被害者だ」と思わせ、観客自身に「俺もジョーカーだ」と自己投影させたところが面白かったし、ブラックユーモアも満載にあり、"鬱"娯楽大作として大変良い作品だった。
しかし今作はというと、、、
なぜか急にやりだしたミュージカル。意味わからん。レディー・◯ガの宣伝のために無理くりに捩じ込んだとしか思えない。
なぜならミュージカル描写が、この映画に必然だとする根拠が劇中明示されたようには思えないからだ。
また前作(期待し過ぎた私も悪いが)は哀れな男の鬱憤がたまりに溜まって徐々に徐々に爆発していき、最後の最後で大爆発するというエンターテイメント性があったが、今作では途中「お?とうとう来るか?狂気爆発か?」と思わせる描写はあったものの、最後の最後まで不発に終わり、私と同じように今作を"つまらない"と下した観客のように「報いを受けろ」とアーサーを刺してお終い。
特に裁判は何回も開かれ、ジョーカー爆発のチャンスが幾度となくあったのにもかかわらず、これまたそれほど変化は起こらず。
申し訳ない言い方だが、今作を個人的に一言でまとめると、
「いつ面白くなる(前作のような狂乱爆発)かな?と思って見ていたら、特にこれといって何も起こらず2時間半が過ぎていた。」
という感想になった。
確かに現実(ジョーカーはただの人間であり、それを発言したアーサーに失望した人々=今作を駄作という観客)を見せられた我々もまたジョーカーに踊らされた、あるいはジョーカーの一部なのかもしれないし、制作側もそれが狙いだったのかもしれない。
しかし少なくとも私は、制作側の
「この映画を駄作という者もまたジョーカーに期待し過ぎた劇中に出てきた傍聴人や群衆ジョーカーと同じなんだよ。はは笑。やっぱり僕たちの狙い通り、前作のジョーカーに期待し、落胆してくれたね。読み通りだ。」.....といった彼らの自己満足のためにお金を払ったのではないのだが(それにしてもIMAXで見るとかなり高くつくのは初めて知った。ぶっちゃけそこまで違いが分からなかっただけ尚更金がもったいなかった).....
美しく残酷なロマンス
全て持っていて、安全圏から危険を求めていたハーレイ。全て持たずに、ただ自分を見てくれる理解者が欲しかったアーサー。
出会った瞬間から2人は破綻していた。
それでも縋ったアーサーと、気付いても彼をジョーカーに染め上げようとした残酷なハーレイ。対比が美しく儚い。人は何故夢を見るのだろう。ハーレイはジョーカーに夢を見せて欲しかった。アーサーは2人で夢を見たかった。
アーサーにとって本当にハーレイ以外はどうでも良かった。多少嘘でも構わなかった。
でもハーレイにとって、少しでも嘘であればジョーカーではない。全てが無意味と化してしまう。あまりにも非対称なロマンスだ。
演出も素晴らしい。2人がショーをするシーンでアーサーがハーレイに言った「なぜ僕の方を見ないで歌うの?」というシーンから暗雲が立ちこめる。
穴倉のシーンで素のまま愛し合おうとしたアーサーを拒否し、「本当のあなた」を見せてとハーレイ自らアーサーにメイクを施してジョーカーに染め上げる所もゾッとした。面会の口紅にアーサーの笑顔を重ねるのも、やっぱりハーレイの理想とするジョーカーの笑顔を無理矢理作らせているみたいで苦しかった。煙草の煙を口移しするシーンもそう。ハーレイが見ているのはジョーカーだけで、吐き出したアーサーの内面はハーレイが口だけで吸い込んで受け止める。
とても皮肉でロマンチックな魅せ方だと思う。
民衆もそうだった。
爆破から目覚めたアーサーを見つけるなり、本人の意思も聞かずに、自らが祭り上げる「ジョーカー」として車に乗せて走り出した。行き先も考えずに。結局そこで待っていたのは渋滞と、アーサーにとって苦しみの記憶の過去の街。アーサーが景色に気づいてから脇目をふらずに下車して走り出すシーンは見ていて本当に辛かった。あの時、彼にはハーレイという希望しか見えてなかったんだと思う。今まで辛い時、ずっとトボトボと登ってきた階段を、ジョーカーと化して笑顔で駆け降りた階段を、ハーレイに会う為にまたトボトボと登っていく。とても勇気が必要だったと思う。
例え暗い過去だったとしても、アーサーは再び自分の足で歩いて階段を登った。その背中はとても優しく、アーサーとしてハーレイに会いに行ったんだと思う。
でも駄目だった。
「ジョーカーはいない。どこにも行けない」
そう言ってアーサーに背を向けて階段を登って去っていくハーレイを、やっぱりアーサーは追えなかった。その先を登るのがどんなに苦しい事か、知っているから。
結局アーサーは弱かった。でもその弱さを受け入れてくれる場所はどこにもなかった。
その意味で、最後に彼は誰でもない奴の受け皿になった。法で裁かれるよりはよっぽど良かったのかもしれない。切ないけど、ラストシーンはあれで良かったと思う。
そして結局、僕らはジョーカーという狂気を見たくて仕方がないだけの、狂ったあの民衆と同じだ。
それを悟った時、本当に寂しい気持ちになった。とても残酷で美しい、儚い映画だった。
ハーレーと最強コンビでヒャッハー展開全開!!
!!!以下ネタバレ注意!!!
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、、最後まで全然そんな展開にならず、驚いた。
今回の主役はレディガガ演じるリー。
ファムファタルとして最後までアーサーを翻弄する。
リーが離れたときが彼の運の尽き。。
ミュージカルシーンでのパフォーマンスは流石に圧巻(流石にホアキン部が悪い)。
リーに焚き付けられ、意気揚々と裁判に挑むアーサーだったが、次第に自分の惨めな過去を突きつけられる。
弁護士をクビにした後、裁判の巻き返しがあるのかと思いきや、本当に無策で雲行きが怪しくなる。
看守に尻穴を掘られ、友達も殺され夢から覚めてしまう。最後は悪のカリスマではないと否応なく自覚し、”ジョーカーなどいない”と告白。
魔法は解けてしまい、後は最後まで辛い。
(リーだけでなく)鑑賞者の自分が、最後までカタルシスを期待していた。
自分もアーサーの暗い妄想に感染していたと気づき、よけいに辛くなった。
辛いとしか書いていないが、鑑賞後これだけ悶々とする映画もないので、これは観る価値のある映画だと思う。
以下印象に残ったシーンを羅列。
- WBのOPロゴとバックスバニー風?アニメで驚き。デニーロの絵よ。
- 序盤アーサーの口端の血が、口角の上げ下げ(気分)を表現していて、上手いなーと思った。
- やたらタバコ咥えるシーンが多い。タバコ吸ってるときだけアーサーがかっこよく見える(ジョーカー気分)。リーに煙あげるシーンも良かった。
- 終盤のピアノとタップダンスはかっこいい。IMAXで観たので音が良かった。
そうきたか、という感じ
自分はバットマンの知識がゲームのアーカム・ナイトシリーズと映画も一部しか見てないけど
バットマンがいない世界でジョーカーがどうなるのか?
というのを徹底的に描いたものだったように感じた。
ハーレクインだけではジョーカーをジョーカーたらしめることはできず、結果、彼は一時的にジョーカーのようになるもののアーサー・フレックに戻り、死ぬ。
バットマンがいないことで逆にバットマンとジョーカーを相互依存性が浮かび上がる、ジョーカー2:ジョーカー&ハーレクインを期待して見に行ったら、ジョーカー:マイナス・バットマンをお出しされるのだ。
基本私は見たい映画は一切情報入れずに映画を見るけど結構不評らしいがそりゃ不評も買うよなぁ!?って感じの作りではある、だって前作ジョーカーからこう幕を閉じるとは思わないし自分も見終わった直後はすごい梯子外されたという感じしかなかったもの。
でも見たあとの帰り道で咀嚼してると、エンタメ的にはふざけんなという気持ちもあるけど納得感がひしひしと湧いてくる。
最初のアニメのジョーカーとジョーカーの影のパートもアーサーとジョーカーと見せかけて実はジョーカーとバットマンではなかろうか。
前作と合わせて複数回見たい作品ではないけども、ジョーカーとバットマンを描かないことでこれ以上なくジョーカーとバットマンを描いていた。それこそ光と影のように。
わかる、わかるけどさあ、、、
ジョーカーは道化であって、歌って踊ってっていうのはわかる!わかるけどさ、その、ミュージカル仕立ては、悪手だよぉ!
歌が効果的だったのは、生放送のインタビューの時に歌って、それをテレビ越しにハーレイが見てるシーンと、ラストらへんでアーサーが電話して、留守電に歌を吹き込むところくらい。逆に歌パート激選しとけば、効果的な演出になったかも。ハーレイが面会に来てる時に歌った歌、カーペンターズだっけ?いい曲だよなあ。
現実と妄想の狭間で揺れるジョーカー、を描きたかったのかもだけど、凶暴さを出してるのは妄想の中だけ。今回誰も殺めてはいないよね。
リアルパートの方が断然面白い。ジョーカーのカッコしての裁判のシーンとかね、すごく良かった!
結局、ジョーカーという、アーサーという、存在をどう描きたかったのがね、ブレちゃったかも。カリスマ性が消えかけてたよ。
決定的なのは、ジョーカー否定発言。なんで?なんでもうムリなの?ここが分からない。さらに、ハーレイの心変わり。心酔してたんじゃないの?あそこで引くの?確かにハーレイが離れることで、とんでもない悲しみに包まれるけどさ。あれで結局ハーレイの立ち位置が見えなくなった。そもそも、出会えるか分からないのに入院してきたりと、整合性が取れてないとこもあったよね。爆発から逃げる時、車から降りて逃げるのは何で?ここもよく分からない。前作は確かにあの走るシーンが印象的だったけど、今回はただ走らせたかっただけのような、、、
ラストは、まあ、予想外。3作目に繋がらないラストは肯定します。
リアルパートが良かっただけに妄想パートと歌パートはいらなかったかも。あっても「少々」だと思うけどなあ。レディガガが出るからってあんなに歌わせなくていいと思いました、、、
観客の反応までが映画の内容かも?
作中で人々やハーレイはジョーカー対しては熱狂し応援する反応、そしてジョーカーではないアーサーに対しては興味のない反応を見せている。
最後ジョーカーではなくなりアーサーとなった彼に対してハーレイは見向きもせずそのまま終わってしまうが、これはまさに観客がジョーカー1作目と2作目で抱いた感情と似ているのではないだろうか。
1作目で観客はジョーカーの雰囲気や性格の狂気ぶりに見惚れ、熱狂し、高く評価していた。2作目で観客がつまらなく感じたのはジョーカーではなくアーサーになってしまう彼に興味を示さなくなったからだ。
映画の中の人々の反応と映画を見た観客の反応、そこまでがセットで考えられていたら監督の思い通りなのかなーとも
だとしてもつまらないものはつまらないので1作目で終わってよかったのではと思う。
作品への評価が結末と結びついている皮肉
世界での評価でも賛か否かに分かれている。
大衆の期待を裏切ったアーサーを助ける者もいれば死の報いを与える者もいるとでもいった感じで、
前作の期待を裏切った評価はまさにこの映画の風刺の様である。
個人的な評価はどちらかというと否に入るだろう。
結末がどうこうでは無く、ミュージカルに振り切るというのも脚本制作時から監督が言っていた事なので問題はない。
役者の演技も素晴らしい。
ただ、全てが単調でどちらに振り切る事もなく二人の山を創りたいと言っていたリーのセリフかの様に山が無い。
ガガというプロフェッショナルを起用していながらミュージカルシーンはとても退屈でオリジナルソングは印象に残らない。エンディングソングは素晴らしいのでそれくらいの力量で全てに取り組んで欲しかった。これはガガの問題では無く、ミュージカルの演出が出来ていないのだろう。
また、リーのシーンばかりである。リーがジョーカーに惹かれた理由もふわっとしており、一方的に求愛をして捨てていくという事でもあるのだろうか。
一方的で対話の無いミュージカルはMVの様であり、掛け合いのあるミュージカルをもっと導入して欲しかったと思う。
アーサーの妄想としてのミュージカルはもっとぶっ飛んだ内容でも良かったのでは無いだろうか。ただそれも前作で生放送に一度しか出ていないアーサーの想像の乏しさなのかもしれない。
結末についてはリーがジョーカーを愛してアーサーを愛さなかった。大衆もジョーカーを愛し、アーサーだけが受け入れる事ができなかったのならば、結果的にこの結末なのだろう。
メタな事を言ってしまうとザ・バットマンでのバリー・コーガンのジョーカーも控えているのであの結末にするしかなかったのかもしれない。
相変わらずの観客を巻き込む映画
たぶんこれは、「こんなのジョーカーじゃない!クソつまんない!」って言うのが正解の感想な気がする。
映画の中でも皆が求めていたジョーカーが、最後の法廷でアーサーに戻り、ジョーカーになったことを後悔し、罪を認めるシーンでブーイングが起こっていたように、ハーレイが愛していたのはアーサーではなくジョーカーだったように、我々観客のほとんども前作の様な"ジョーカー"を期待して今作を見に行ったのだと思う。
前作もラストの群衆の視点が我々観客の視点と重なったように、今作もそこが上手く劇中の群衆の心情と重なるように作られていて、確かに見た感想としては、なんだこれ、ジョーカーじゃないじゃんとしか思わなかった。
正直クソつまんなかったし、曲多すぎて最後はもう歌うなとか思ってた。
でもこれもジョーカーを求める劇中のジョーカー信者達にリンクするように作られているとなったらまた見方は変わってくる。前作同様、作品に踊らされてた感が強い。してやられた。
アーサーはアーサーでしかなく、悪のカリスマ=ジョーカーでなはいし、アーサーもそんなことは望んでいなかったのに皆(我々観客含め)が求めるのはジョーカーというジレンマ。非常に評価が難しい作品だと思った。
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