「人生はトランプ。誰もがジョーカーを押し付けあう。」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ kさんの映画レビュー(感想・評価)
人生はトランプ。誰もがジョーカーを押し付けあう。
「配られた(トランプ)カードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。」
漫画「スヌーピー」に出てくるセリフだが、確かに言い得て妙だ。
トランプゲームには様々な種類があるが、勝負のカギを握るのはジョーカーが多い。つまりジョーカーというのはその場面場面で絶大な影響を及ぼす反面、ある者にとっては好都合、ある者には不都合な、まったく異質な存在として扱われる。
こちらのセリフをあえて現代風に言ってみよう、「人生はジョーカーの押し付け合いである…それがどういう意味であれ」と。
もしも配られた手札に「ジョーカー」があったなら、あなたはどうするだろうか。
前作の「ジョーカー」では抑圧されてきた(ババを引かれた)弱者が暴力による改革により、社会システム(ゲーム)をひっくり返すためのきっかけが描かれた。
主人公アーサーは革命のシンボルとなり、その姿は原作にも忠実な‘‘アンチヒーロー‘‘として大衆(観客)に支持された。
しかし元より、前作の最初に描かれたのは「弱い個人」であり「孤独な人間」であるアーサーだ。アーサーはなりたくてジョーカーになったのではない。ましてや精神が脆くて繊細な人間が、突然強くなったり痛みに鈍くなるはずがない。
本作がジョーカーを持て余す社会にフォーカスしたのは至極当然な成り行きだろうし、逆にこの展開以外にはありえないように思われる。
前作が「抑圧の解放」をテーマとするならば、本作は「隔絶された社会と個人」だろう。
知略に長け、暴虐を尽くす「ジョーカー」なんてものは実際の現実世界には居ない。マンガやドラマの中でのおとぎ話である。
そしてそのような‘‘幻影‘‘を追い求めているような者たちにこの映画はオススメできない。
暴力や派手な展開を望む者は「スーサイド・スクワット」「キック・アス」のようなアクション娯楽映画でも観てればいいのだ。
少なくとも頭空っぽのまま観ることはできない。
アーサー個人の苦悩や取り巻きを描いたからこそ、この映画は我々が生きるこの世界に生々しい傷跡を残す。
アメリカや日本で賛否両論が噴き出すのは間違いなく制作陣の目論見に違いない。
なにせ、すべてを肯定しても否定しても、この世界は「絶望」に転んでしまうのだ。そうなれば戦争や暴力は当たり前のこととして扱われてしまう。暴力社会へのアンチテーゼがここには詰まっている。
社会は思ったより救いようがあるらしい、というのが本作を取り巻く評価に対する私個人の所感だ。
全体的な感想になってしまったので、ストーリーに対する感想を少し。
まず、レディーガガ。
演技、うまい。
歌、うまい。
日本映画界も見習ってほしい。商業的な理由で主演に抜擢される演技へたくそなアイドルよりアメリカのシンガーははるかに高い次元にいる。
それとこの映画の肝心の「歌」の部分だが、
まず「ミュージカル」がうざいとの声がチラホラ聞こえて驚く。
よく考えいてみてくれ、ミュージカル抜きだとこの映画は死ぬほど陰鬱であるし、もう救いようがない。
例えば「ダンサーインザダーク」から歌をとったら何になる? 恐らく目も当てられないくらい退屈で悲惨なものになる。
ジメジメとして薄暗い刑務所(閉鎖空間)に花を添える意味でもミュージカルを取り入れたのは正解だ。ましてや1シーンごとに短く挿入されるため、繋ぎとしても完璧である。
そしてその歌詞にスポットを当てるならば、ある意味底抜けに絶望な人生へのアーサーのせめてもの反抗だし、捨てきれない愛のための讃美歌だろう。
しかしそれも最後には打ち砕かれてしまった。
「歌」とはその者が生きている「証」だし、生きている限りに続く「音」でもある。
歌うのを拒んだアーサーは最後、たとえ殺されなくても既に死んでいたのである。
いや、先にジョーカーが死に、最後にアーサーとして死んだのは彼にとって救いだったのかもしれない。
しかし彼の中のジョーカーは言う。「息子に跡を継いでほしかった」。
彼は知っていたのだ、たとえ血が繋がってなかろうとジョーカーがこの世から消えることはないということを。