「【”人生は、全てショーの中で展開される。”優しきコメディアン志望の男が極悪になった後、刑務所に収監され裁判を受ける様を描いた作品。そして、今作がミュージカル風に描かれるシーンが多い意味を考えてみた。】」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ NOBUさんの映画レビュー(感想・評価)
【”人生は、全てショーの中で展開される。”優しきコメディアン志望の男が極悪になった後、刑務所に収監され裁判を受ける様を描いた作品。そして、今作がミュージカル風に描かれるシーンが多い意味を考えてみた。】
ー 前作では、優しき心を持っていたコメディアン志望のアーサー(ホアキン・フェニックス)が、不寛容で狂った世の中で悪になって行く様を描いていた。
だが、今作の序盤での刑務所に収監されたアーサーはガリガリに痩せ、ジョークも言わないし、笑顔も浮かべない、一人の哀れな男として描かれている。
だが、そこに収監されていた謎の女リー(レディー・ガガ)が現れ、二人は惹かれ合って行く。ー
◆感想
・故、ヒース・レジャーが演じたジョーカーは極悪そのものだった。物凄かった。善の欠片も無かった。それ故に、ヒース・レジャーに悲劇が訪れてしまった。
・ホアキン・フェニックスが演じたジョーカーは、前作では心優しき男として描かれていた。そこから悪に染まっていく様を、名優ホアキン・フェニックスが見事に演じたからこそ、心に残る新しいジョーカー像が生まれたと、私は思っている。
■今作では、序盤はアーサーは優しき心を取り戻しているのではないか、と思いながら見ていた。刑務所内でも模範囚として暮らしている。
だが、そこに現れたリーが、アーサーの眠っていた悪の部分を揺すり始める。リーはアーサーを誘い、自らもジョーカーの彼女としてメイクをする。
しかし、劇中でも語られている通り、リーは父親は医者で裕福な家庭で育ち、自ら志願して精神科病院へ入っている。
リーは、アーサーを利用し、アーサーを崇めるゴッサムシティの心を病んだ人々の注目を”二人狂い“(フォリア・ドゥ)として、見せたかったのではないかと私は思ったのである。
アーサーは、自らの裁判で、脳内で裁判長を殴り殺すシーンを考えつつも、実際の裁判では、彼を熱心に弁護する女弁護士メリーアン(キャサリン・キーナー)を解雇し、自らが弁護人となる。アーサーはこの時点で、リーを愛しつつ優しき心を持った善性の男の心を完全に取り戻していたのだと思う。
・検事は、あの”ツー・フェイス”ハービー・デントが務めているが、彼に焦点が当たる事は無い。
そんな判事の前で、アーサーは母殺しも含めて6人の殺人を全て認めるのである。動揺する法廷。アーサーに見切りを付けたように、裁判所を後にするリーの姿が印象的だ。
・だが、その直後、裁判所の直ぐ傍で車に仕掛けた爆弾が炸裂する。アーサーは、彼を助けようとする若者達の車に載せられるが、このシーンで車内で流れる音楽が、”ビリー・ジョエル”の名曲”My Life”である。
”もう、君に何を言われてもいい。これが私の人生さ。自分の人生をどうか、ほおって置いてくれ。”
アーサーの気持ちを代弁するように、私には聞こえたよ。
・そして、アーサーは逃げる中、あの急な石段でリーと会うが、彼女は冷たくアーサーを見捨てて何処かに去っていくのである。
彼女にとっては、”善”なるアーサーは何の魅力もないからである。
<再び刑務所に戻ったアーサーは、若き囚人から”ジョークを聞かせてくれよ。”と言われながら、彼に何度も腹部をナイフで刺されて、息絶えるのである。
元々は心優しき男の哀しきショーは観衆が誰も居ない中、刑務所でひっそりと終わるのである。
今作がミュージカル風に描かれているシーンが多い意味を、私は”人生は、全てショーの中で展開される。”という意味で受け止めた。
今作は、優しい心を持っていたアーサーが、一度は極悪になるもリーと出会い、心の平安を得る中、ありのままの自分と他者が求める”自分”との間で揺れ動く彼の心を描いた作品ではないか、と私は思ったのである。>
ビリージョエルベストを若い時にヘビロテしてたので、あの瞬間は泣けました(笑)
アーサーの揺れ動く心の映画だったんですね!そこに奴が加わり殺す的な。
事前にNOBUさんの解説を読んでいたら、見方が変わったかも。評価も。。。