君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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迫力重視にしてしまった点
冒頭で、主人公の眞人がお母さんを亡くし、代わりに妊娠している妹の夏子に引き取られるということから、その生まれた子と眞人が本当の兄弟ではないなかでどうやって生きていくのか、という流れだと予想していました。
例えば生まれた子が眞人の妹で、喧嘩した眞人がケガをしながらも妹のお世話をしていると、母親を亡くしたトラウマから心を開いて学校に行くようになり、本当の家族のようになったとします。
しかし眞人が学校を卒業して東京へ行き、しばらく働いていると高校生になった妹が彼氏と結婚の約束をしてしまいます。眞人は母親を亡くしたというトラウマを強く持っているので、それを認めません。すぐにやめさせようと妹と彼氏の恋愛を邪魔をしてしまいます。そこで喧嘩になり、本当の兄弟じゃないという本音をぶつけ合い、あまりの怒りに二度と帰って来ないと出ていく眞人。そこから本編に登場してきた通りの流れにすると、さらにストーリー的に面白くなったのでは。
夏子さんがそこで眞人を探しに行き、おじいさんの元へたどり着くという流れにすると。帰ったあとには妹と仲直りして、結婚させようと決断。
本編の終盤でも出てきましたが、積み木というキーワードは決断するという意味だと私のなかで感じたので、母親を亡くしたトラウマを克服し、妹の結婚を認めるという決断をする。そうするとより印象深くなっていたと見ていて思いました。
今までのジブリ作品のなかでも特に迫力があり、他の作品には真似できないような作画をされていたのですが、ストーリー性の乏しさにもったいないなと感じてしまいました。主人公の抱えているトラウマをもう少し感じさせてほしかったです。
以上、長くなってしまいました。私の感想です。
解釈に迷う
冒頭の火事のシーンは熱気や舐めるような炎の描写が凄かった。空襲なのかと勘違いした。
ファンタジーの入り口は扉だというイメージがあったが、本作では現実世界へ戻るための扉だった。
ハウルでは1つの扉に複数の世界だったけど、今回は無限回廊だった。そこで様々な時代や場所と繋いでいた。ジブリらしい世界だった。
ワクワクするところも、モヤッとして考えさせられるところもたくさんあった。
これまでのジブリ作品に登場した、様々なものがオマージュされていた。
ただ、一回観ただけではなんともわからない。自分の中で、この映画はこれを伝えたいのだろうという納得感を得るためにはもう1回観ないとダメかもしれない。タイトルの意味もちゃんとあるはずだ。
君たちはどう生きるか
この映画を初見で理解できる人は、ほとんどいないと思います。
全体がどの様になっているのか把握することは、無理です。
ここからは、僕の解釈です。
初見は、わけのわからないファンタジー映画でした。
でも、宮崎監督が何でこれを最後にしたのか?
一体全体何を作りたかったのか?見終わった後しばらく考えました。
何で見覚えのあるシーンが多かったのか?
よくよく考えてみると、この手法は、
一話完結でない一話完結!の作り方を採用しています。
あれ?もしかして、わざとシーンを過去の作品にシンクロさせてた?
って考え、積み木が何で真っ二つになって、混沌の渦に飲まれるの?
真っ二つにする意味あるの?って考えた時、全てが繋がりました。
この映画を公開すると、ジブリの評価が真っ二つに割れるのを見越して
あのシーンを入れたんだ、今起きているこの状況を暗示していたんだ!
って、この映画を理解し、2回目を観に行ったら、
完全なるパロディー映画でした。シンクロシンクロシンクロ!
笑いこらえるのが大変でした。カリオストロの城が一番シンクロ映像が
多かったかな。笑いが止まらない、爆笑映画になっていました。
この映画に意味は、無いと思います。
あるのは、宮崎監督の挑戦を強く感じました。
これから創作活動に関わる若い人達へ向けた宮﨑駿のささやかな、しかし熱烈な思いを感じ、涙涙
宮﨑駿監督(本作より宮崎が宮﨑に変わった様)による2023年製作(124分、G)の日本映画。配給:東宝。
前評判は今ひとつと聞いていたが、大きく感動し、年はとったものの宮﨑駿のイマジネーションって凄いと改めて思った。そして、今までの宮崎アニメにあまりなかった渾身のメッセージに涙が溢れてきた。凄い映画だ。
出だしの母親が火災で亡くなる臨場感は、お見事である。階段を駆け上がる主人公牧眞人のスピード感と走って向かっていった先の燃え盛る炎拡大の凄まじさ、そしてアッサリとすぐ次のエピソードに進むテンポの良さに感心。
そして、眞人疎開先の日本家屋の造形や内装の美しさ、取り囲む自然の緑や光そして水の豊かさに圧倒された。細かい細部まで、今まで以上に美しく描き込まれており、美術監督武重洋ニら宮崎アニメの美を支えて来た方々に大いなる敬意を覚えた。
学校でいじめられ、自分で頭を石で叩き出血する主人公。その理由は自分には良く分からなかったが、悪意の象徴と本人は言っていた。父の行動を予測しいじめた奴らへの復讐を意図したものなのだろうか、母亡き後すぐに結婚し学校に息子をダットサンで送りつける父の行動への怒りが自分に向かったものなのか、それとも、家でも学校でも孤独で楽しくないイライラからの暴発的自虐行為なのか?
謎の怪しい存在である青サギを射ろうと弓矢を作る眞人。最初、全く上手く飛ばなかったが、青サギの羽を付けることによって、目の覚めるような速さと重量感で矢は放たれる。この予想の遥か上を行くスピード感の凄さが、宮崎映画の大きな特長で、それが相変わらず健在と感嘆させられた。
母の手書き文章が書き込まれた「君たちはどう生きるか」を読みながら、涙を流す眞人。その涙の水々しい表現がどのアニメと比べても、宮崎駿アニメは1番上手と思う。そして、少年の成長のための冒険の始まりの導入としても、とても上手い本の利用とも思った。
大叔父の建てた洋館(恐ろしい数の書籍があふれる内部造形も凄い)に入った眞人と青サギ転じたサギ男(声は菅田将暉)は、老婆キリコと共に泥土の中へ沈んで行き、下の世界へ行く。この時、落ちていく真下が波が打ち寄せる海岸であるという映像に、息を呑んだ。何という素晴らしいイマジネーション。何より絵になるじゃないかと。宮﨑駿創作のイメージ凄いと思ったが、構図的にはエヴァンゲリオンの絵に関わってきた作画監督本田雄によるものかもしれない。降りたった場所が浅瀬で、そこでの足もとでの海水の揺らぎが何とも美しかった。
ここで出合う若かれし時代のキリコ(声は柴咲コウ)。その意思の強い頼りになる強い女性像が、宮崎アニメの常連キャラクター(ナウシカのクシャナ、ラピタのドーラ、もののけ姫のエボシ御前、千と千尋のリン、等)を思い出し、何とも懐かしく感じた。そして今回も、大魚解体の鮮やかな包丁捌きなど、とても魅力的であった。
魚解体時に集まった多くのワラワラ。その造形が何ともユニークで可愛いが、お腹が膨れて丸くなり、1匹、2匹と空に飛んでいく。それが数えられない程の数になり大空を覆う様になる。その美しい映像に、そのイマジネーションの見事さに、もの凄く感動してしまった。
しかし、そこにペリカンが現れて、かなり多くが食べられてしまう。ワラワラが空を飛べるのは本当に久しぶりとか言われており、どうしても自分は、多くの若いアニメーターの方々をイメージしてしまった。日頃の収入は乏しく、大きな仕事が入っても今度はハードすぎる仕事で心身を痛めてしまう存在を。ワラワラを食うしかなかったと言って死ぬ老ペリカンは、多くの若いアニメーターをすり潰してしまったという宮﨑監督自身の懺悔の様に聞こえた。
更にこの下世界で新たに出会う火を自在に扱う少女がヒミ(声はあいみょん)で、実は火災により亡くなった母久子の少女時代の姿らしい。この時空を超えた設定がなかなか魅力的で、彼女の力も借りて、母の妹でもある義母夏子と再会する。鬼の様な形相で「あなたなんか、大っ嫌い」とまで言われてしまうが、この世界で揉まれてきたことでか、ずっと懐かず夏子さんと読んでいたのに、ここで夏子母さんと呼べ、夏子の実姉息子の義母としての苦しみを救うことが出来た。
そう、この物語は少年の成長の物語。そして、この少年は多分創作を目指す多くの若者であり、宮﨑駿自身の経験の反映が色濃く出ている。青サギは、その道の先導役であり先輩で弓矢作りの様に創作を刺激する存在。そして、一緒に活動してくれる大切な友でもある。まあ鼻の特徴から宮崎にとっては高畑勲のイメージで(2018年に亡くなった彼への宮崎なりの感謝の表明と感じた)、未来の創作者にとっては互いに刺激し合える大切な仲間なのであろう(高畑葬儀で、宮崎は5年上の彼との出会いは、雨上がりのバス停と言っていた。サツキのトトロとの出会いは実は高畑との出会いだった)。
主人公が下世界で出会うのが大伯父(声は火野正平)。彼は、13個の積み石を積み上げることで、世界のバランスを何とか保っていると言っている(On your mark含め本作で宮崎監督映画は13)ので、勿論宮崎駿の自画像なのだろう。空に浮かぶ巨石(宮崎が愛した多くの欧州の物語達の象徴か?)に導かれ、汚れた上の現実の世界と接点を持たずに創り挙げて来たこの世界(やはりジブリのことを言ってると思える)を、血の繋がった人間に継承したいと言う。新生宮﨑駿によるかつての自分(宮崎駿)の創作姿勢や組織運営に対する痛烈な自己批判と自分は感じ、感動を覚えた。
未来の創作者である主人公牧眞人は、大伯父の継承依頼を断る。汚れて破壊に向かってるかもしれないが上の現実社会で、この世界で得られた青サギやヒミの様な友人と共に、歩んで行きたいと。積み石は、不安定な状況を嫌った権力者インコ大王により破壊され、それにより下世界は大崩壊に至る。インコ大王は創作者の想いや志しを十分に汲み取れないプロデューサーやスポンサーを象徴している様に思える(下世界をジブリと見れば、鈴木敏夫や協賛企業お偉方の姿なのだろうか?)。
自分はこの大崩壊の凄まじい映像表現に、崩れる世界のある種の美しさに圧倒されてしまった。幸いに、眞人・夏子及び青サギ、そして戻る世界は別だがヒミ、そして多勢のインコ達(ジブリで働いていた多くの人間がイメージされる)は、この世界を何とか脱出する。
眞人のポケットの中には、キリコの木製人形と下世界で得た悪意を有する石を携えて。石携帯は大叔父の創造する意思(いし)の継承の表れか。過去の自分のあり方は否定したが、新たな現実社会に立脚した誰かの物真似では無い、人間の善意と悪意の両面を描いた集団創造への宮﨑駿の期待の大きさを感じた。
元の世界で戻った主人公は、新たに生まれた弟も伴い東京に向かう。書籍「君たちはどう生きるか」の携帯は勿論だが、ポケットの中には青サギには忘れてしまうと言われてもいたが、持ち帰った“石”が入っている様に思えた。自分の創作活動のかけらが僅かでもどこかで役立てば嬉しいという、ジブリを飛び出したアニメーター達に、ひいてはこれから創作活動に関わる若い人達への宮﨑駿のささやかなしかし熱烈な思いを、聴き取った気がした。
監督宮﨑駿、原作宮﨑駿、脚本宮﨑駿、プロデューサー鈴木敏夫、作画監督本田雄、美術監督武重洋二、色彩設計沼畑富美子、 高柳加奈子、撮影監督奥井敦、撮影藪田順二、編集瀬山武司 、松原理恵 、白石あかね、音楽久石譲、主題歌米津玄師、音響演出笠松広司、整音笠松広司、アフレコ演出木村絵理子、助監督片山一良、制作スタジオジブリ星野康二 、宮崎吾朗 、中島清文。
出演
山時聡真眞人、菅田将暉青サギ/サギ男、柴咲コウキリコ、あいみょんヒミ、木村佳乃夏子、木村拓哉勝一、竹下景子いずみ、風吹ジュンうたこ、阿川佐和子えりこ、滝沢カレンワラワラ、大竹しのぶあいこ、國村隼インコ大王、小林薫老ペリカン、火野正平大伯父、上原奈美、西村喜代子、綿貫竜之介、柳生拓哉、画大、飯塚三の介、川崎勇人、鈴木一希、土居正明、重田未来人、井下宜久、岡森建太。
陳腐
題名を誤解して見てしまった人、私もそうだが多かったのでは。
まず、父親がひどいね。病気の妻の妹に妊娠させていたなんて。
少年も、悪童と取っ組み合いができるのだから、自傷するのはあまりにも唐突。
異次元の世界で、若いころの親に出会うのは、映画クレしんで使い古されている。
年寄りをやたら中心に置くのも辟易。
男系男子絶対の超保守思想もうかがえる。
いつもの飛翔感もなく、大画面の迫力は冒頭の火事のみ。
しかしジブリは商売がうまいね。
下手に試写会などすると不評にさらされ、こんな大入りにならなかったかも。
割引デーでもない平日昼に、シネコン内最大スクリーンで6割の入りだった。
でも信用を失ったね。
この作品はあまり外(国)に出さないほうがいい。
日本アニメ映画の斜陽と言われることがないよう祈る。
ジブリじゃなければ袋叩き
になっていてもおかしくない。
ジブリだから
ハヤオだから
色々深く考察されて
表現不足なところも視聴者が補完して
もう一回観たら評価が変わるだろうか?
自分が気づいていないだけで色んな意味があったのでは?
そんな風にして評価されてる気がする。
脈絡のない展開
思いつくままのファンタジー
奇妙な生き物
お金はかかっていた。
手間もかかっていた。
でも、君たちはどう生きるか を問うような作品ではない。
と今のところは思っています。
つまらないのを覚悟して行ったらめっちゃ面白かった
事前に軽く情報を仕入れて行ったから、わけわからんと思う描写は少なかった。
妻が死んでからすぐ妻の妹と結婚!?とも思ったけど、あの時代、家と家との結びつきの方が大切だから、姉が死んだら妹と結婚するのは割とよくあった。でも、あの夫婦はお互い大事にしているっぽいね。
あと、くちばしの栓を作るシーンで、アオサギに騙された直後によくまた助けたなとか、2回目はアオサギは騙さなかったとか、ご都合主義が見えるところもあるけど、あのアオサギのちょっと怖いシーンを描きたかったんだろうな。
生まれる前の魂がいるところは、スピリチュアルでよく聞くやつ。私が聞いたのは、光の粒が食べたり歩いたりして成長したら、虹の滑り台を滑って母の腹に行くっていう話。それを上下逆にして、飛ぶ表現にしたんだね。
あと、隠喩がたくさんある。あの時代は宮崎駿が少年時代に生きていた世界、老人は現代の宮崎駿、墓石ブロックは今までのジブリ作品。崩壊した王国はスタジオジブリ。和風不思議の国のアリス風に説明したジブリの崩壊って感じ。描きたいところを所々描いてから繋げたように見えるから、一貫性やメッセージ性を求めると「❓」ってなるかもだけど、それぞれの素材は一級品。ポニョの大波、もののけ姫の毒、ハウルの火花、ナウシカの虫に、ラピュタ城の崩壊。他にも、「この花、ラピュタに咲いてなかったっけ!?」とか「念入りに階段を壊すインコ大王!?なんか似たシーンあった気がする!」とか気になるシーンはたくさんある。トトロの病院も木造二階建てだったかな。風立ちぬの零戦の屋根部分だろうなとか。
あと、私の祖父母がど田舎で築100年家に住んでいるんだけど、四つ這いで駆け上がる高い階段や古いけど綺麗な色のタイル、着物みたいな掛け布団の模様とか、なんとなくわかる。
何に泣くかって、辞める辞めると言いながらこれら一つ一つを描かずにはいられない、宮崎駿のクリエイター魂に泣ける。
こんな監督はもういない…でもこれで引退しないでほしい
前評判でわけがわからないって聞いてたけど、そこまで支離滅裂とは言えない。
異世界に行って帰ってくる話ですね。
でもその異世界のルールや秩序を千尋みたいにすぐ理解できないのが、生意気ながら酷評の最大の理由かと思います。
序盤は「あぁ生死に関わる島なんだ」と思うのに、魂とも死者と全く関係なさそうなイキイキしたおばけインコの大群に捕食されかける。突然の宮沢賢治感。
観てる人はそこで考えるのをやめてもしょうがない。
全体的に陰鬱で、複雑な立場ながらもお金にも健康や容姿にも恵まれた内向的な主人公、ただストーリーを追っただけでは謎が多すぎるところなどなど村上春樹感がある。
自分は村上春樹を読んでから村上春樹イエローページとか謎解き村上春樹とか色々講評考察買って読むのが好きなのでそういう人にはオススメできる。
一応書いておくと、主人公は終戦間際に疎開先の屋敷のそばで奇妙な鳥に導かれ、現実世界とリンクした異世界に迷い込む。
そこは生死に深く関わる島。自然の力と一体化した魔法を使うこともできる。
魂たちは海から命をいただいて力をつけてからこの世に送り出されるけれど、現実世界が災害や戦乱で荒れてるので、その分帳尻合わせとしてペリカンがやってきて魂を食べてしまい、生まれることを阻む。
現実世界に出てくるとインコの姿が変わるように、
存在や起きてることの見え方が違うと考えていいと思う。
現実世界はひとつで、時間は繋がっている。
どこかで行動を変えたらパラレルワールドが分岐するということはないのだ。これが宮﨑駿監督のメッセージかなと自分は思った。人は誰しも今とは別の道があったと信じて過去を後悔するものだから。
少女は異世界で未来の息子に出会う。自分の人生を生きれば、若くして死に、夫は実の妹と結婚してしまう残酷な運命が待ち受けている。
それでも、平穏でいる以上のかけがえのない幸せを手にする時もある。だから彼女はその残酷な運命を生きることを選択する。
少年は世界の均衡を保つ役割を担わない。世界の大きな渦と運命に翻弄されることしかできない1人の人間としての人生を選ぶ。
未来も過去も変えられない。
君たちならどうするか?
君たちはどう生きるかーー。
良かった点はやっぱり千尋とのリンクがすごかったこと。
千尋がトンネル越えて行った先とか電車乗ってる時に、ちょいちょい草原に家があったり、謎に大理石のがらんとした道があった。
あれをこうやってある程度具体化しても未知なる恐怖とロマンみたいなものをそのままにできる、そんな監督は他にいない。
他のアニメ監督は、視聴者である自分も含めて、世代的に既存の陳腐なイメージで育ってるから…つまり、夏休み!ワンピース!制服!ピンチ!顔のいい高校生が世界を救うため、スカートのまま走りまくるっ!みたいなどこかしょうもない話しか作れないんだよね。若くて楽しくてきれいなとこだけ集めたみたいな。
主役はまだしもどこに行っても何歳でもイケメン、美女しか出てこない。きれいじゃなくても痩せてなくても、あんなふうに温かみや愛嬌があって愛おしく思える人間を描ける技量がないから。ルッキズムを超えた絆もかけない。老いを心の底から受け入れる勇気がないんじゃないかなと思う。
子供主役の話にしても、みんなが共有してるぼくのなつやすみ感を脱することができない。
児童文学やドラえもんやクレヨンしんちゃんもよく異世界に行くけれど、幼少期からそういう異世界エンタメ作品がありすぎるのもあって、それ以外のああいう壮大な原始的風景やオリジナリティのある物語やルールを想像するのが難しい、と言ったほうがいいのかな。
もうすぐ原爆が落とされるというタイミングで、現実とリンクした異世界が一つの終わりを迎える。
確かに、あの戦争が人類の転換期の一つであったことは間違いない。
あの時お母さんがなんか喜びながら火に包まれるのは昔異世界で火の娘だったから…という発想はもう同世代では出てこないと思う…。
千と千尋にも見られる自然との一体感、同一化のような。これって日本(人類)古代の感覚なんですよね。
世界が終わりかけてることを13個の積み木(13作品)の崩壊で表現するのが意味深でたまらないです。
ここから残念だったところ。
どっちも先述したことと重なるけど、わざと未知なる部分を多くしているからこそいいんだけど、いいんだけどね。構造と秩序があいまいすぎてエンタメとしては物足りない。
モブのおばけインコがいっぱい出てくるのは原作の改変でオリジナルなんですけども、どうしても映画を観ただけだとちゃんと説明できません。食物連鎖の頂点だから?←無理やり
生死に関わる島だってこととインコは関係ないからね…。
もっと設定を大切にして死者との出会いとか(影だけでもいいから)オカルト全振りにしてもうもっともっと怖くしたり、もっと大冒険らしくしたり、なんかまとまった方向性がほしかったなぁ。偉そうですけど。
あと、どうしても目ギラギラ自信満々の父親に嫌悪感。姉が死んで、妹て…昔はよくあったんかもしれないし妻の実家が有力なんだろうけど、子供まだ作る必要ある?
母を亡くした傷も癒えてない思春期の少年に対する配慮ゼロの繁殖にドン引き。
下手なレビューになってしまいましたが、考察、オカルト好きは楽しめると思う。
とりあえず、エンタメ性という意味で、これで引退されては困る。
(加筆修正しました。)
ジブリだから耐えられる
内容に関する前情報無し、ただし、よく分からないという感想が多いのは認識しての鑑賞。
最初の火事のシーン、緊迫感や眞人の感情、主観的なイメージ(群衆を駆け抜ける、その群衆の雑感)、火の表現など素晴らしくて母の喪失が悲しくて、いきなり涙が出そうになった。
疎開先での新たな生活が始まり青鷺と出会う、その青鷺がキーキャラクターになりそうだというのがビンビン伝わる。新たな母、夏子やお婆達も何かを知ってそうだ。
ここら辺までは、小説版(というか、題名のネタ元)の雰囲気があり、そういう物語なのかと思っていた。が、全然違っていた。
眞人が同級生と喧嘩して、その後自身でこめかみに石を打って出血するシーンから雲行きが怪しくなってくる。
いきなり喋り出す青鷺、それを狩ろうとする眞人、羽が主である青鷺にに向かって行く理由(結局活かされるわけでもない設定)、夏子が塔の世界に誘われた理由、帰りたがらなかった理由、産屋の存在、ヒミが火を操っている理由、ワラワラもろともペリカンを燃やしていること、帰り道を知っているのに自分の家を持って、大叔父とも仲良くしているまで帰らない理由、キリコが何者なのか(ヒミと一緒に塔へ入った?)、インコが眞人を食おうとしている理由、昔空から降ってきた塔の存在、、
など??な部分がどんどん出てくる。
中々疑問に思っても結局解決されずに崩壊して終わったという印象だった。
しかも現実に戻ってきた人物達も記憶を無くして、眞人もそのうちこの出来事を忘れるので、本当に分からないで終わる。
ただし、これでも観れるのがジブリの力だとも思った。
塔の世界が崩壊するところがクライマックスだろうが特段盛り上がるかといえばそうでも無い。
キャラクターが魅力かといえば、前半部分、後半部分で登場人物が大きく変わる為、そこまでキャラクターを好きになる時間もない。なんなら本人達の存在感が強い木村拓哉や柴咲コウは上手いのだが、声とともに顔が浮かんできて途中ノイズにすらなった。
青鷺のキャラクターも本当によく分からない。自分で誘っておいて、俺たちは友達じゃない勝手に行けと悪態を突いたかと思えば嘴を直してから必死に主人公を守ったりする。大叔父から後継者たる眞人を連れてくる様指令を受けているのかと思ったが、その大叔父との関係性も希薄そうで、終始よく分からなかった。最後青鷺だけ存在が消えたのはなんだったんだろう。
それでも観れる。アニメーションだからこそ耐えうる支離滅裂さとも思えるし、ジブリだからこそ観れたとも感じる。最後も余韻もなく、東京に戻った。で終わり。いや終わりかい!ってなるのだけど、なんかまぁ、良い映画だったな。と思えてしまうのである。
広告宣伝無しというのも宮﨑駿、ジブリという確固たるブランドにより耐えられるもので寧ろ、その力を使った広告宣伝無しという名の広告でもある。キャストが豪華俳優陣、アーティストなのも公開後に明らかに話題になるのを狙った人選だと言える。リスクもあっただろうけどさすがと思う。
各媒体で考察が飛び交い面白いし、成程と勉強になる。宮﨑駿は大叔父なのか、眞人なのか、、個人的には両方説を推したい。13個の石がこれまでの作品数だそうで、それを積み上げてきた大叔父は宮﨑駿に重なるだろう。それを若者に継がせようとするのも頷ける。そして出生やら家族関係からも眞人もまた宮﨑駿に重なる様だ。宮﨑駿から宮﨑駿へのバトンだ。
つまり、大叔父(これまでの宮崎駿)は、積み上げてきた悪意のある石から今度は純粋な悪意のない石(作品)を作っていきなさいと眞人に継がせようとする。眞人はそれを拒否する。今までの世界が崩壊する。インコの王も含めてスタッフや観客をメタファーしたほぼ全ての鳥達が塔の世界から追い出されて現実に戻される。
眞人(これからの宮﨑駿)はどう生きるのか。また映画を作ってくれるのか、どうなのか。とても楽しみである。
確かに考察を読んだり、それを元に自分で考えたりすると作品の深さや広がりを感じるが、純粋な作品の面白さ、満足感で言えば5は難しい。と思った。
宮﨑駿自身も分からないところがあると発言しているから分からないことが悪いことではないはずである。ということにしたい。
ちなみに題名の君達はどう生きるのかのネタ元の本は本当に良い本なのでまだ読んでない方はぜひ読んで頂きたい。
不思議な石の塔での再会と別れ
良かった点は宮崎駿が『君たちはどう生きるか』と題した作品を見ることができた事。悪かった点は統一性・まとまり感(戦争ものか?SFものか?鳥ものか?)の無さ、納得感(なぜ鳥か?なぜヒミは火を使うのか?なぜ青鷺は最後消えなかったか?なぜ主人公は肝が据わっていたのか?)の無さ。画面に登場する構成要素のまとまりがなく、体験としてはまるで構成要素が理屈なく繋がり構成される夢のようであった。石の塔における映像表現は時折現代美術の絵のようだ、と感じたが、それは悪くいえば地続きのストーリーが見えない綺麗な絵を所々続けてみさせられていると言う思いの裏返しでもあった。とか言ったが、今いった批判的な意見は自分の直感的に感じたものであって論理的にその悪い点を自分は説明できるわけではない。
自分の事前情報としては、Xにてスタジオジブリ公式アカウントに謎の鳥頭キャラのアイコンの画像がアップされているのを見ていただけだ。鳥に変装する民族が活躍するファンタジーかな?というイメージで見に行ったのだが、もちろん違った。確かにサギ男は登場したが人間としてではなく人を化かす狐のようなキャラクタとして登場していた。鳥関係のキャラクタで言語を喋り知能も有するものは他にもペリカンやインコがいたが、人面を有し、主人公に幻を見せたり母親の名前をチラつかせ言葉で主人公を翻弄しながら石の塔へ導く様子は、知能を有しつつも石の塔の中の生態系の中で生きるペリカンや、王国を気づくインコの軍勢とは一線を画していた。
そんな、ジブリのXにおける公式アカウントにおいても今作のアイコンとして使われ、千と千尋の神隠しにおけるカオナシのようにも見える青鷺……序盤は悪い奴だがよく付き合えば根は悪い奴ではないような、深みのあるキャラとして重要な役割を示す……であるが、彼のバックグラウンドについては、石塔の主人である大叔父の下僕としての役割が明かされるのみで、それ以上は説明されず、物語最後においては、ペリカンやインコが崩壊する石塔から外に逃げる中でその効果が切れることで普通の鳥に戻って見える中、彼のみはその知能と人外の力を有したままだった。石塔によってその力を得ているかに思えた青鷺が石塔崩落後もその力と知能を持ち続け、現実の戦時中の日本の世界にあばよと言ってどこかに消えていく姿は異常だ。石塔をめぐる冒険の全てが頭を自傷した眞人が亡き母を思い見た夢の中での出来事とするならば、現実における非リアルな枝葉末節の出来事を全て白昼夢的表現であると考えれば辻褄は合わせられるかもしれないが、この題名で夢オチの作品を作るだろうか?『風立ちぬ』では、主人公の夢や白昼夢をリアルでの体験の描写と陸続きにスムースに行き来する表現により、ファンタジー要素のない作品にのびのびとしたファンタジー表現方法を取り込むことに成功していた。それと同じような描写を今作の話の始まりの頃の主人公の夢や白昼夢描写に自分は感じていた為、もしかしたら全ての表現が眞人の夢出会ったのかもしれない。……かもしれないと言っただけでそういう考えを押し付けたいわけではない。思いつきだが別の妄想では、青鷺は大叔父の別の姿だと言う思いもある。もう一つ後から思いついたのは、彼が石の塔とともに生きて地球にやってきた宇宙人であるという説だ(石の塔崩壊後も鳥と人どっちつかずの妖怪じみた姿を崩さなかったのは、不思議な力をもつ石の塔と同様に宇宙人自身も妖怪じみた力を個体として有していたという説)。どこかで宮崎駿が今作のタネを披露してくれたらなと思う。ポッドキャストの『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』を時間がある時に聞いてみよう。
さて、今作の題名は『君たちはどう生きるか?』だった。どこでその問いかけがされているか、その回答がなされているか?それを考えて思い返されるシーンは、宮崎駿自身を表した姿と考えられる白髪白髭の大叔父が、自分の支配していた塔の管理(彼は石の塔の中の世界の事を、現実における醜さのない世界だ的な事を言っていた)を主人公眞人に託そうとし、その選択を委ねるシーンだ。そこで主人公は積み木を積み重ねる(石の塔の管理者の後継者となる)のではなく、現実ではすでに死んでしまっている実母と別れ、自分の第二の母親と共にまだ戦争が続く醜い世界に戻る事を選んだ。このシーンは宮崎駿からの彼自身の息子やオタク文化に沈溺する者へのどう生きるかという問い掛けとその回答例と捉えた。眞人の選んだ選択は現実回帰である。シンエヴァンゲリオンのラストもそういう終わり方だった。他にも『現実に帰れ』的な締めくくりのアニメ映画か何かを最近みた気がするが思い出すことはできない。もしそう言う主張であった場合、自分はその主張に対して特に肯定や否定する言葉は出てこない。確かにな、と思う程度だ。なぜなら、確かにそうだと思える分別はあるが、自分はアニメが好きで結構見てしまうところがあり、現実がおざなりになるのはしょうがないと言う思いもあるからだ。話はそれた。眞人の選択は現実回帰であったが、大叔父が眞人に求めた(少なくとも口上においては)選択は、拒否サレはしたが石の塔という綺麗な世界を存続させるベく今後自分の代わりに石の塔を管理することであったし、インコの王様がやったことは、王様なりに大叔父の代わりに自分が管理者となるべくテキトーに積み上げ、その積み木が倒れそうになるのを見るや激情して刀で一刀両断し、積み木とリンクしているコアと石の塔を崩壊させるという選択だった。それら三つの選択と結果を駿から彼の息子やジブリ内の有力者に対する複雑な思いと激励と考えるならば、それは結構きつい表現な気がするが、宮崎駿の歳(82歳)を考えれば、こういう言葉も出てしまうよなと思った。
今作のテーマについて思ったことを書いた後で、以下は脈絡はないが劇中のエレメントや物語の構成や監督の思いについて思った事を段落に分けて思い思いに書いていく。途中で論理破綻していたりするので申し訳ない。
今作の鳥たちの表現について。鳥、特にインコ、ペリカンの可愛いかったり平和な見た目に対して、ペリカンが群集で主人公の方を見つめる描写やインコが包丁を持ってたり、胸を膨らませながら鼻息を立てる狂気迫る気持ち悪い描写には、カートゥーンにおけるブラックユーモアの効いたキャラクタの描写を思い出した。少しずれるがアニメでいえば空中ブランコ、パプリカ、あと一つ名前が思い出せないアニメ(2000年代で隠れた名作的なもの)と似ていると感じた。
続いて今作の物語の構成について思ったこと。不思議の国のアリスと千と千尋の神隠しを男女逆にして鳥仕立てにしてブレンドしたような印象(石塔の中での母やキリコおばさんの主人公眞人に対する言動にはハクを感じた)。それにつけて思うのは、冒頭で今作の悪かった点として軽く書いたが、今作は現実の日本を舞台にして、宇宙から来た石から作られた謎の塔の中に展開された異界に主人公が入ってしまって冒険をすると言う話であったが、千と千尋の世界観では旅館に八百万の神が来ているという現実において非科学的な分野で信じられている世界観がそのまま表現されている(それらのデフォルメされた神々の容姿は個人趣向による傾向を受けて見えることはなく、貧乏神やカオナシという特殊な存在についても違和感を感じることがなかった)のに対し、今作では鳥(青鷺とインコとペリカン)が取り立ててとり立てられている理由がわからず(大叔父が鳥が好きだった、鳥類の研究者だった等、一言でも説明していればよかったのでは?)、塔の中で海があったり森があったりする様が塔のいまの位置とリンクして今どこ的な実感を伴った描写ができておらず場当たり的で、連続性が掠れた描写は夢想的であり、そこに火の力を使う母親ヒミと来たものだから、なぜ火なのか?と疑問に思った(母の死因は火であるが因果は逆転している。眞人にも石の塔に入った後に何かの能力を目覚めさせるべきだったのでは?)。
今作で自分が理解不足で理解できなかった点を一つ。石の祠に妊婦である夏子(第二の母)が入った理由だ。彼女がそこに隠れた理由については想像できる。素戔嗚の狼藉に恐れをなして天の岩戸に隠れた天照のように、理由は変わるが自分になつかない息子に絶望して石の塔の中の石の祠の中に隠れたのだ。しかし、石の祠を神聖なものとして周りのインコやキリコに説明させながらも、そんな場所に血を連想させる妊婦である夏子を入れた意味がわからないのだ。夏子本人が石の祠の主人だったとして、彼女が自分が隠れる場所として石の祠を選んだ説明がされていないため、彼女と石の祠の関係性が読めなかった。石の塔の中で眞人が冒険している最中に、石は人を嫌うという描写もあり、彼女が石でできた祠の中で横たわっていられる理由が分からなかった。もしかしたら大叔父が眞人を管理者に迎える前に夏子の適正を調べていたのかもしれないが、それは説明されていない。
作品を通じて駿が子供達にリアリティを感じさせようとしているのが伝わってきた。主人公が弓矢を竹で作ったり、青鷺の嘴の穴を塞ぐために木を削ったり、大きな魚を内臓をぶちまけながら捌いたり等の描写をみて、これはこうした体験が希薄な子供達を思って描いているのだろうなと過去の彼の言動を思い出しながら思った。主人公が自分の頭を打ちつけて血を出したのも、今の無菌室で育つ子どもへの傷という感覚のプレゼントと感じた(眞人はそれを悪意だと言ってた気がするがその悪意については分からなかった)。他の子供に対するエレメントとしては、トトロのまっくろくろすけや、もののけ姫のこだまを連想させる白い奴ら、ワラワラだ(話はそれる。彼らは人の魂が生まれる前の段階を表現しているらしく、DNAを思い起こさせる二重螺旋、三重螺旋の弧を空に描きながら空を昇っていた。駿の死生観に通じるのだろうと思った)……少し脱線するが、リアリティといえば、作品全体を通して、いろんな場面でその描写の音を表現している効果音がとてもリアルだと感じたのは自分だけだろうか?
主人公眞人の肝の据わった性格について。年齢の割には大人びていて寡黙でありながら激情的に敵を敵と断定すればすぐ行動し果敢に突き進む様を見せつけられる。年齢設定を青年にしても良いくらいの様が物語中見せつけられ、彼はへこたれず、弱音をはかず、最後、東京に帰ることになった時の姿も凛々しい。彼くらいの年頃の子供が普通は起こすであろうワイワイ、ゲラゲラ、うわーん、ぎゃーと言ったひよわで朗らかな表情がまるでない。それが何を示しているのか?火の巫女に撃ち落とされたペリカンと対峙する様も、子供の弱さは全く感じられない。……と書いている最中、千と千尋のハクも、ポニョのソウタも、もののけ姫のアシタカも程度の差はあれど似たようなものだったか。駿は強い男を描いてそれを見る子供を感化させたいと思っているのかもしれない。
最後に枝葉末節的でテーマには関係ないにしろ見ていて気になったのは、召使のおばあちゃんたちの映像表現が、例えていうなら妖怪じみた非リアルな表現で描写されていて、周りの戦時の描写に対して浮いて見えたことだ。駿の趣味と、今作で所々取り入れられているCG技術、もしかしたらばあさん達にはモーションキャプチャーが使われていたのかもしれないと思うほど彼女らは周りに対してグリグリ動いていた。彼女達の頭の形も通常のアニメデフォルメ表現を超えて個性豊かに誇張とデフォルメがありながらもリアルに描写されているのもあって彼女達は特別な何か、人外の妖怪なのでは?と最初に彼女達が現れたシーンで思ったのだが、キリコさんが活躍するだけで(守護霊的なちょっとした活躍はあるのだが)彼らは普通の人間だったのだと思う。結局おそらくはこれまで手書きで描いてきた所にそれなりにこなれていないCG技術を駿の趣味の人たちに導入して起きた過多な存在感の表出であり、そこに深い意味はないのだろうと思う。しかしみていて気になった。
「ジブリ」を久しぶりに観た
鑑賞後の気持ち
難しい。この一言に尽きる。
一緒に観た彼女も言っていたが、ジブリ映画だからこれだけ難しくても許される。
戦争のシーンから始まったこともあり、風立ちぬのようなストーリーでいくのかと思いきや、がっつりファンタジー。
考察としては、主人公が自身の頭を石で殴ったところから物語が分岐するのではないかと思った。あの一撃によって少し頭がおかしくなってしまい、幻覚やおかしな夢を見るようになったのではないかと。しかし、物語が進むにつれ、主人公の周りの人物にまでファンタジーな世界が移っていったのでこの考察は外れた?
絵はめちゃくちゃジブリだった。世界観、キャラクターはまさにジブリで、久しぶりにジブリ映画を観れた。好きだった。
鑑賞後の心の変化
なし
鑑賞後の行動の変化
なし
好きなシーン
思い出したら書く
嫌いなシーン
なし
しっかりタイトル回収されてますね
前評判で、意味不明と言われてたり、
神話にリンクしたり哲学的な小難しい考察をする方々がいたので身構えて鑑賞。
戦争、母親の非業な死、父の再婚相手、学校でのいじめ…
主人公の少年は自身を取り巻く息苦しい世界を自分で変えるには幼い年齢で心を押し殺しながら淡々と生きてます。見ているこっちも息苦しくなります。
このリアルな現実から、アオサギという非現実な鳥にストーキングされ、
得体の知れない塔に入り込み、そこからはファンタジーの世界。
塔に入った場面からは「あー、駄作かも。早く終わらないかな」と途中で眠気も襲いました。見慣れた「ザ・ジブリ作品」で目新しさがなかったからです。
アオサギの恩を仇でかえす気分が悪くなるほどの卑怯ぷり。
しかしアオサギは形勢が悪くなると泣きつき、少年は淡々とアオサギに尽くします。
この主人公の器の大きさに感情移入できると、少しは作品に入り込めてきました。
それでも次から次へと切り貼りされたような場面が出てきて
「きっとこの場面は、このキャラクターは何か意味があるんだろうな」と思いながらも、別に深読みしたいとは思えませんでした。監督自身も大した意味はないで作ったかも知れませんし。
世襲を拒絶し、元の世界へ戻る主人公。
「あ、タイトル回収したー。すごくわかりやすい作品だなー」と拍子抜けしました。
鑑賞前の身構えはなんだったんだろう。
どんな理不尽で世知辛い世の中でも受け入れて生きる。
その中で、自分が元々持っている人間性で自分を取り巻く世界を変え行く。
敵だったアオサギを友達に変えた。これだけでガラリと運命が変わった。
特別な能力も、なんの努力をしなくても世界を変える事ができる。
「あなたのままでいいんだよ」出来損ないの自分だと思っている人たちへのメッセージ。
シンプルで普遍的なテーマだけれど、淡々としている少年だから響きましたね。
正直、とても面白い、とは言えない。人に自信を持って薦められないかも。
でも自分は観て良かったです。
地球の自然を守るとか、異世界で奮闘して成長していくとか、特殊な能力を使うとか、勇気を出して敵に挑むとか、秀でた才能があるとか…そういうジブリ作品ではない。
だから今までのジブリ作品の中で一番良かったから星5。
はや、、はやおーーー!!!
ネタバレあり
完全にジブリだった。最高だった。
序盤から蛍の墓が始まるのかと心の中で駿、また鬱展開なのか!?ハヤオー!と叫び、しかしながらも怪しくもチラチラ出てくるアオサギに期待しつつ早くファンタジーにイケ!と願ってトトロのような
道やモルタル製か!?と思わせる建物に入りハウルの王女の城か湯婆婆の部屋みたいな場所からのファンタジーインコな千と千尋な世界にワックワックしてポニョみたいな魚や顔ナシみたいな死人やぷにぷにしたコダマみたいな可愛さやラピュタみたいな城に現れたナウシカの衣装着たじじぃは多分宮崎駿本人な気がして、俺の世界はこうだ!しかし後はおまいら頑張って生きろって言われてる気がして遺作にするつもりか駿!!ハヤオー!と置いてかれて最後米津玄師の歌詞に涙腺崩壊したのでDVD早く出してくれー!
君は面白いと思えるか?
内容は真人が拐われた継母の夏子を助け出すとシンプルで分かりやすいけど若キリコとヒミのシーンは長い上に完全な寄り道で助けに行くと意気込んだ割にそんな悠長なことしてる場合じゃないだろと思った。
キャラ描写は叔母が継母になって腹違いの弟ができてると知ればあの年齢なら真人がグレた態度を取るのも分かるし、息子を助け出す為にがむしゃらに屋敷に向かう父親、優しくも厳しいキリコと明るく食事を振る舞うヒミなど良く描けてて、特に見た目(?)に反して義理堅く真人達を助けて最後に友達と言って去るアオサギは最高に良いキャラだったね。
お約束のジブリ飯は序盤のお婆ちゃん達が食べるまずそうな物からバターたっぷりでカロリーが気になるけどすっごく食べたくなるパンなどレパートリーが凄かったな。
声優は全員プロじゃないけど演技も合ってて良かった。
絵は綺麗でアクションはどのシーンも凄くて良くてこれぞジブリ作画!といった仕上がりで凄く満足したな。
内容的にかなり不可解な点があるからその辺りをどう受け入れるかで評価がガラリと変わる映画だけどジブリファンは一度は見て欲しい。
君たちに理解できるか
皆さんと同じく後半何やってんのか理解できませんでした。細かい点も含めて疑問(不満)を挙げてみますが…
父親の再婚相手が母親の妹であることを明言しない。
(ちょっとしたセリフとかで推察はできるが、確信できるのはだいぶあと)
母親の名前が「ヒサコ」と1回だけ呼ばれたと思うが、異世界でなぜ「ヒミ」なのか説明なし。
そもそもあの異世界はなに?現実世界の元を作ってる世界?でいいのかな。
で、なんでそこで若い頃のキリコばーさんや母親が活躍してるか謎。
主人公がいきなりキリコさんですね?と呼んで観客置いてけぼり。(ばーさんの名前がキリコだとそこで初めてわかる。服が同じだったから何とかわかった)
再会したナツコが主人公にキレる謎。
ペリカンやインコの立ち位置が不明。
冷静に考えると青サギが主人公を誘った理由もよくわかんなくなってくる。(ヒミに会わせたかった?)
とか色々あって、今目の前で起きていることが誰が何の目的で何をやってんのか分かんない。
一番感じたのは、そもそも制作側に理解してもらおうという考えすらないのでは?という疑問。
てことで映画タイトルをこのレビューのタイトルにして欲しいと感じました。
随所にジブリらしさは楽しめるが、それだけでは満足できない。やっぱり意味分かんないとね。
メッセージ性のある作品
宮崎駿監督が引退を撤回して作ったと聞いて、本当に驚き、直ぐに観に行きました。今までの作品と違い、メッセージ性のある作品でした。吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」の本も読み始めました。
私たちはどう生きていけばいいのか
わたくし、34歳主婦。
初めてひとりで映画館を訪れ「もののけ姫」のかっこよさに痺れて2回足を運んだのは小学校2年生。
アシタカの生きる美学に惚れ、アシタカのように生きたいと願い、早26年が経った。
30も半ばに差し掛かると、アシタカや他のジブリの主人公のように真っ直ぐに生きることがいかに難しいことかを痛感。
人を傷つけ、自分を傷つけ、長いものに巻かれて、先を読めてもいないのに読んだ気になり、自分を納得させて埃まみれになって生きてきた34年。
ジブリ作品を観るたびに「あぁ、人はこう生きるとかっこいいのか」と人生の美学を突きつけられ、自分の中の軸を再確認した気持ちになり、清々しい気持ちになる。
そんな数々の名作を生み出した宮崎駿監督も御年82歳。
引退の文字をチラつかせつつもここまできてくれた。
しかし、監督の年齢を考えると、これが本当に最期の作品になってもおかしくない。
ファンも監督本人もその事を重々承知の上、監督はこの作品を世に送り出してくれた。
作品を通じて宮崎駿監督とどんな対話ができるのか。
何の前情報もない作品という新鮮さもあり、上映前には期待と不安が膨らむ。
「私たちは一体どう生きていけばいいのか」
これから新しいジブリ作品が生み出されない世界が来るとしたら、私達は何を美学に、哲学にして生きていけばいいのだろう。
不安に満ちた世界で、生きていくことができるのだろうか。
34歳になり、母になった私は、この可愛い2人の子供を、この過酷な世界の中で育てていくことができるのだろうか。
そんな漠然とした不安に監督は答えを導き出してくれるのだろうか。
「穢れのない心で美しい世界を創りなさい」
まるで、イエス・キリストが迷える民衆に説いたような、真っ直ぐなメッセージ。
でも、どうしてだろう、とても身体に染み渡る。
世の中は「墓石でバランスを取っている」かのように、沢山の犠牲の上に成り立ち、とてもシンプルで脆くて壊れやすい。
それでも次の世代を生きる私たちに、より良い世界を築くように努力してほしいという、
とても普遍的で単純なようで、とてつもなく重いメッセージ。
眞人のように石で自分の頭を殴り、人を欺き、穢れてしまったと感じる大人も沢山いるのだろう。
それでもいい。そんな自分を認めつつも、また良い世界を創る歩みを辞めないで欲しい。
ジブリの人生哲学に背き、酸いも甘いも嚙み分けながらここまで来てしまった自分を恥じている私は、
宮崎駿監督の優しさで包み込まれ、背中を押された気持ちになった。
きっとこれから生きていく中でも、
日々の生活や邪心、欲で前が見えなくなって、
目の前のことで精一杯な私たちは、
自分の命が生かされている存在であるという事を忘れてしまう。
愛が欲しい、モノが欲しい、お金が欲しい。
欲しいものばかりで、世の中を、目の前の人を、よりよくすることよりも、「自分の欲」を優先させることしか見えなくなってしまう。
何事も便利になり、自分の手を汚して食べ物を手に入れる事はしなくなり、人が手に入れたものに群がりおこぼれを貰う。
自分の足で生きている実感が持ちづらく、まるで生きているのか死んでいるのかも分からなくなるよう。
それは現代の人々の抱える病でもあり、
それをアオサギが案内した世界では、
「この世界のものは幻ばかりで、ほとんどの人が死んでいる」と。
あれは今の社会を反映しているのかもしれない。
昔は目の保養であった動物たちも、時代や場所が変われば人間を襲うようになり、外来種扱いされ、忌み嫌われる。
でも、その世界を創り出したのもまた人間の業である…
「それでも元の世界に戻るのか、じきに世界は炎に包まれるぞ」
「それでもいい。友達を作る。アオサギのような。」
この地球が、世界が、どんな方向に行くかは分からない。
それでも、強く、逞しく、前向きに進んで生きていくしかない。
そうすれば、きっとこの世の終わりだって清々しく迎えられるのではないかとすら思えてくるような、
宮崎駿監督の、温かい愛に包まれたメッセージだった。
宮崎駿監督の感性が織り成すアート作品
賛否の分かれる作品ということで、ある程度ネタバレも含めて事前に情報を収集した上で鑑賞しました。
感想としては、ストーリーの設定や脈絡の思考を放棄して、宮崎駿監督のとりとめのない表現物としてありのままに鑑賞できれば、個人的には悪くない作品に感じられました。むしろ2時間、退屈せずに楽しめたのには自分でも驚きました。
「本作はアート作品」とおっしゃる方もいますが、例えばピカソが愛人を花瓶に差した一輪の花として描いた抽象画を見た時や、ハーモニーやリズムが崩壊した中に色んなモチーフの断片を散りばめた現代音楽を聴いた時の感覚に近い印象を受けましたので、そういう意味では確かにアート的だと思われました。
過去作の色んなオマージュ、母性への渇望、現世への遺言。まあ子供を連れて見に行く映画ではないですね。
頭を空っぽにして宮崎駿監督のイマジネーションの世界に浸りましょう。人物の動きや、石や木が壊れるときの物理現象の描写は相変わらず見事ですし、描きたい断片を紡ぎ合わせたような・・・理屈じゃなくて感性だ、みたいな。
一方、ストーリーの緻密さや場面ごとの整合性を求める方には不向きです。
ピカソの絵の喩えで言えば、「なぜ、人の顔をした花が生けられているの?」と説明を求められても、「そういうアートだから」「ピカソにそういうイメージが湧いて、キャンバスに描いたから」としか言えないのと同じことです。
宮崎駿監督自身、訳が分からない。でも浮かんだイメージのままに、筆の進むままに描かされてしまった作品ではないのでしょうか。
「この登場人物は手塚治虫だ」とか「宮崎吾朗だ」とか、確かにそう読み取れる場面もありますけど、そういうメタ的な事に過度に引きずられすぎるのも野暮です。
またアートとして見ても・・・むしろアートであるがゆえに、見る人によって感性が合わなければ見るのが苦痛なのも否めないことです。
訳が分からないという方に
この映画のモチーフの大部分は、単純に、宮崎監督の幼少期から来ています。宮崎さんのお父さんは、飛行機の製造会社の重役でした。彼は、戦火を避け、東京から宇都宮に工場を移した。座敷に戦闘機のキャノピーを並べるシーンがありますが、大きい舞台設定としては、そういう実体験から来ています。お母さんは、宮崎さんが幼い頃から、おんぶをせがむ駿少年の願いも叶えられないほど重い結核で、入院で、家も空けがちでした。ちなみに、お母さんの写真をテレビで見たことがありますが、宮崎さんの描く美少女にそっくりでした。つまり、宮崎さんの紡ぐ物語の中の特に女性キャラは、仮にそれが少女であっても、基本的にお母さんなのです。少年が少女と抱き合い、ジブリ的な大団円を迎える時も、少なくとも、宮崎さんの頭の中では、お母さんと抱き合っています。ということで、色んな人が、神格化して、難しく考え過ぎていますが、基本的に、宮崎さんの物語は、最初に母性との分離があり、最後に母性への合一に向かう。その間、ごちゃごちゃ繋ぎの物語が入りますが、時間稼ぎであり、最後にお母さんと抱き合いたいーーそれだけなのです。今回の物語は、むしろ、時空が入り組んだ設定を作り、アニメーション技術で無理やり、その設定を納得させて、死んでしまったお母さんを、若い状態で蘇らせて、それと合一したいという宮崎さんの欲望が、かなり率直に噴き出していたと思いました。最後に、若いお母さんである少女キャラと主人公が抱き合う場面は、そういう意味で、何か気持ち悪かったです。もう最後だというので、欲望のままに走り、そういう結果に至ったんだというのが、偽らざる感想です。
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