「要事前学習/「母の死の受容」と誰もが持つ魔界」君たちはどう生きるか grumaruさんの映画レビュー(感想・評価)
要事前学習/「母の死の受容」と誰もが持つ魔界
吉野源三郎の原作は戦前に刊行されましたが、子ども向けの哲学書として読み継がれてきました。17年に刊行されたマンガ版は空前のヒットになるなど、教養の一つとして浸透しています。
宮崎駿が同じタイトルで映画を作るとなれば、原作を踏襲することになり、そこにどんな宮崎流、ジブリ流の創作が加わるのか? それを楽しみにするのは自然だと思います。
本作で、原作が登場する場面が一ヶ所あります。主人公眞人が、母久子が遺した小説「君たちはどう生きるか」を発見し、それを涙して読む場面です。そこからは、原作に対する肯定的な姿勢が読み取れます。
■母の死を受容するというテーマ
小説「君たちはどう生きるか」は亡き母が遺した、という点がポイントになります。
母の死は、本作を貫くテーマです。この場面で不意に、眞人が求めてやまない母からのメッセージが現れます。それは、まさに眞人が今後、世界を生きるための知恵であり、亡き母からの贈り物です。
その後、眞人は母や、義母・夏子を探す旅に出ます。行き先は魔界(下の世界)。
そこで、母と再会し、夏子やキリコを連れ戻すといった冒険を繰り広げます。原作「君たちはどう生きるか」の拡張を期待した私は、その冒険ファンタジーと原作とのギャップが、鑑賞中に処理できなかったというのが正直なところです。
わかりにくい本作がシンプルにみせるのは「死と生」に対する謙虚な姿勢です。
母の死を乗り越えることが、眞人の人格形成には避けて通れないことです。本作ではその過程を、内面心情や、現実世界の体験から直接描くのではなく、冒険ファンタジーとして置き換えて示してくれています。
母の死を受容できず、義母も受け容れられず、そこに弟が誕生してしまう。「下の世界」に旅立つのは、そうした精神的にどん底状態のタイミングです。そして「下の世界」は単に魔界というより、死と再生(誕生)の場であり、そこでもたくさんの生き物?たちが登場し、再生の物語が紡がれています。
そこで眞人が体験したのは、死と再生の現実です。そこは決して楽天地ではなく、均衡をとるのも難しい厳しい世界として描かれています。いずれにせよ眞人は、現実世界を覆うもう一つ大きな世界を体験しました。
■原作との三つの関連性
改めて、原作との関係を考えてみます。また、問いとしての「君たちはどう生きるか」に対する宮崎の答えはあるのでしょうか。
仮説はいくつか立てられます。一つは、原作が説いた人格形成の不足を補完したという点です。
原作が発表されたのは戦前の昭和12年。大衆文化を背景に、原作は自己形成に「個の確立」が重要であることに踏み込みました。原作は当時、旧制中学校・高校のエリート予備群に対してかなり衝撃を与えたかもしれませんが、現代でそれは常識の範疇で、これを唱えても若者には届かない。
そこで、精神的な「親殺し」に触れていく。もちろん「親殺し」とは親を殺めるわけではなく、親と離別し、親という存在を超えていく精神的な自立過程を指しています。本作でいえば、眞人が母の死を受容し、義母や義弟を受け容れるという精神的な葛藤場面です。
原作ではコペル君の父親が亡くなりますが、そこでの「死」は薄い影でしかありませんでした。本作では、父と母の違いがあるものの、母親の死を一貫したテーマとして、それを受容し超えていくことが、人格形成になくてはならないものと捉えています。
そして、本作において親殺しの葛藤は、死や再生という「生き物の宿命」を自覚する契機になります。それが人格形成に不可避なことだとすると、原作には触れられていませんし、そのメッセージは原作が書かれた時代にはなかなか理解されなかったと思います。
若者に限らず今を生きる我々が「生命」の循環を理解し、考える。これが本作のメッセージと考えるのが自然だと思います。これが二つ目の仮説です。
三つ目は、原作の教養主義的な欠点を、補完した点です。
原作は、戦前に書かれたこともあり、かなり教養主義的です。学問、修養、芸術といった教養の習得によって人格陶冶ができるという核心に基づいています。しかしこれは、知識吸収が得意ないわゆるエリート向けに用意された啓蒙ルートということもできます。
本作は、若者に哲学を促すのには、もっと想像的で、直感的なルートがあることを説いたと考えられます。「生き物の宿命」や「生命」の自覚が必要だということを多くの人々に伝える場合、教養主義的に説得するより、文学的に描いた方が伝わりやすいのは事実だと思います。
■なぜ「下の世界」は崩壊したか?
それにしても本作はわかりにくい。
特に、「下の世界」が突然崩壊する場面は問題です。それも、それは主人公の眞人が継承者として指名された直後です。ただ、そのわかりにくい場面が、物語を読みとくヒントになります。
本作は「上の世界(現実世界)」と「下の世界(魔界)」との二層で構成されています。特に「下の世界」は人格形成の葛藤を描くファンタジー世界であり、生命再生の場として描かれています。
そして終盤、大叔父は眞人に「下の世界」を継承するように勧めます。
われわれ観る者は、「上の世界」同様、「下の世界」は継承すべき価値ある世界だと理解する一方、なぜ大叔父が支配者で、眞人が継承者なのか判然としません。
また、継承するのに眞人は生命を投げ出さねばならないのか、疑問も膨らみます。
こうしたなかで「下の世界」は、いとも簡単に崩壊します。
その崩れ方はまさに積木くずし、あるいは夢の終わりのようです。
ようやく、本作を貫くテーマが母の死の受容であることを理解し、二層構造が持つ意味を考えはじめた頃、「下の世界」は崩壊してしまい、われわれは置いていかれます。
本作の一貫したテーマは、母の死の受容でした。
ようやく眞人が「下の世界」のさまざまな経験を経て、母の死を受け容れられたところで、眞人の旅は終わりました。
そして、その時点で「下の世界」が不要になったといえます。
■誰にでもある「下の世界」
作中で、「どの世界にも塔が存在する」(うろ覚えです)と「下の世界」の秘密が披露される場面があります。
塔とは「下の世界」の入口のことですが、これは、世界中の人間誰もが、それぞれ心の内に「下の世界」をもっていると考えるべきでしょう。想像力が発揮されれば、誰もが「下の世界」を召喚できます。
ここまで考えて、ようやく本作は物語になります。
原作を補完するように、親を失う(親殺し)場面が設定され、改めて「君たちはどう生きるか」が問われる。
そこでは、死と再生という大きな世界を、一人ひとりの想像力を駆使し「下の世界」を経験することで、はじめて理解できる。自分が生きていることを日常生活を覆うもう一つ大きな世界から捉えなおす。
このような形で「君たちはどう生きるか」に応えた物語なのでしょう。