依存魔のレビュー・感想・評価
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哀しい愛の逃避行
ファブリス・ドゥ・ベルツ監督による「ベルギーの闇3部作」の最後の賞らしいです。
といっても、『変態村』で初めて監督の名前と存在を知ったばかり!『変態村』では辺鄙な村に迷い込んだ気の毒な歌手の話でしたが、愛と狂気が充満した映画でした。これについては、あまり作品の良さ(意味)がわからなかったのですが、他の作品を見てみようかなと思ったのが、この『依存魔』。
映像がものすごく美しく、少年少女が自然の中を彷徨う姿が絵になってました。こちらも、ある意味、狂気と愛がテーマでした。少女の真っ赤なドレスが「魔」の象徴でもあり、男子を引き寄せる一つのアイテムにも感じました。
少女は心の病であることには間違いありませんが、少年ポールに向かって、
「こんなに優しい人、はじめて見た」といい、
「私は病気じゃない。ただ、人の悪意が見えるだけ」なんてことも少年に訴えます。
また、ある時は無邪気に笑顔で「メルシーメルシーメルシー」と少年の前ではしゃぎ回る。
少女は、ある意味、ポイント押さえてますよね。そんなこと語られたら、少年は少女から離れられないでしょう。少年は何度も戸惑い、少女をこれから先どうしようかと悩むけれど、使命感みたいな責任感もあるのか、少女に「離れない」と言われると、自分も「離れない」と言う。
ポールは自己主張がなかなか出来ないタイプ。でも、これは母親の影響もあるのでしょう。あの母親、少し変でした。「グロリアと私、どっちがきれい?!」なんて、普通、自分の子供ににじり寄って質問しないでしょう。ポールが大事に育てていた小鳥をゴミ箱に捨てちゃうし。そう思うと、薄幸な少年です。たとえ、グロリアから離れて母親の元に戻ってきても、決して幸せではないような。
それにしても、邦題「依存魔」は、ちょっとひど〜い。何これ?!もう少し、まともなタイトルを付けることはできなかったのか。'Adoration' 崇拝、讃美などでもよかったのに。
(変態村にしても邦題がアブノーマルすぎて作品を見る前から敬遠されると思います。実際、私自身、田舎の村で起こったB級ホラーだと思っていました)
なお、『変態村』で主演だった人、出番は少ないけど出演してました。グロリアの叔父で。
不自由な鳥から自由な鳥へ
ファブリス・ドゥ・ヴェルツ監督によるベルギーの闇3部作の一本。観たのは「変態村」に続いて2本目だ。
「変態村」のときにも思ったのだけれど、どのあたりがベルギーの闇なのかよく分らない。もちろん気持ちのいい物語ではないし、「変態村」はもちろんのこと、それなりに不快な作品でもある。
ベルギー人だったら闇を感じるのだろうか。分からない。
それでも、この作品を見て気になるところはある。それはポールとグロリアを助けてくれる大人についてだ。
最初のフランス人と思われる夫婦は、グロリアの話をどこまで信じたのか定かではないが、二人にこれ以上助けはいらないとばかりに自由に行動する。普通、あの状況で子ども二人を残して出かけていくか?
次にポールたちを助けてくれる、名前はヒンケルかな?。彼はポールが目覚めるなり、自分語り。互いの自己紹介すらままなっていないというのに。
最初のフランス人夫婦同様、自分中心の自由すぎる振る舞いだ。
これらのことから自己中心的な大人の振る舞いというものがベルギーの闇なのかなと少し考えた。やっぱり分からないのだけれど。
次に面白いと思ったところとして「鳥」がある。
鳥は3度出てくるが、その都度グロリアの状況などを示唆している。ポールが世話していた小鳥、ニワトリ、最後のツル?だ。
鳥について話をするポールとグロリアのシーンは実に興味深い。
あとは、「変態村」との比較になってしまうけれど、非常に映像の美しい作品であったと思う。
描かれている内容とのギャップも相まってより美しく見えた。
内容的に全く癒されないけれど、ヒーリング効果の高そうな自然の風景が連続する。
人にオススメできるような作品ではなかったと思うけれど、そこまで悪いものでもなかった。
無軌道で闇の深い物語
ベルギーの闇三部作最終章。
同二作に続いてベルギーを舞台に狂気の愛を描いた作品。
始まって早々に闇を感じます。
なのですが今作は絵がすごく美しいです、主役の少年少女もそうさせているのでしょうね。
そしてここでも出てくるグロリアの名。今作はその魔女に魅せられた少年ポールとの旅。
勿論ローラン・リュカも出てきます。
グロリアの「愛してる?」って問いただす時の目の動きがかなりで、叫び方も含めかなりきています。
ここら辺は「地獄愛」を思わせ、ファンティーヌ・アルドゥアンのイメージが変わりました。
あと今作は水がテーマの様ですね。
繰り返す「水辺に居続けよう」や、川に湖に雨等とても濡れている場面が多いです。
そうして二人の終わらない愛の旅。
自然や少年少女の美しさはあるものの、やはり無軌道で闇の深い物語でした。
アンファン・テリブルの逃避行を描く現代のノワール・ムービー(ちょっと学生の自主映画風)。
「依存魔」って邦題は、さすがにちょっと可哀想なような(笑)。
いや、キングレコードのこういうゲスで下世話な仕掛け自体は嫌いではないし、それがなかったら僕だってこの映画を観ようとは思っていないわけで、その意味で宣伝戦略としては大成功なんだけど……。
ふつうに、アンファン・テリブルもので、逃避行もののロード・ムービーだけど、邦題が示唆するような異常心理ホラーとはかなりズレる内容だからなあ。もっと女性向けの邦題をつけて、シネマカリテあたりで流してたら、もう少し別のお客さんもついたのでは?
もしかしたら、ジョセフ・H・ルイス監督の『拳銃魔』(49)との類似から連想されたタイトルなのかもしれないけど。
内容としては、ものすごく遅れて来たヌーヴェル・ヴァーグみたいな感じ。
やたらブレる手持ちカメラで、ひたすら顔のアップを追い続ける、なんかひと昔前の学生映画みたいな……若気の至り感っていうの?(笑)
これが60年代の映画だと言われれば、まだ過去のフィルターを通して異化できるのだが、いまだにこんな痛々しい「映画らしい映画」撮りたがる人いるんだなあ、と。
結局、仕事が忙しすぎて『地獄愛』は観られなかったが、少なくともこのあいだ観た同じ監督の『変態村』では、たしかこんな撮り方はしていなかったはずだ。
とすれば、今回の『大人は判ってくれない』みたいな題材に合わせて、あえて「ヌーヴェル・ヴァーグ風」(とくにクロード・ルルーシュとかを彷彿させる撮影法)にアプローチしたってことなんだろうけど……やっぱり個人的には、張り切ってる大学生の自主製作観てるみたいで、かなりケツがこそばゆかったなあ。
お話としては、いわゆる「アンファン・テリブル」(恐るべき子供たち)ネタなのだが、実質、典型的な「ノワール」の文脈で組み立てられているといっていい。
要するに、真っ赤な服を着た「ファム・ファタル(運命の女)」の虜になってしまった男が、ひょんなことから犯罪に巻き込まれ、ふたりで無軌道な逃避行を繰り広げることになる、というノワール・プロットを「子供主人公で」やってみました、といった感じ。
話の大枠は、『キウイ&ビーチ』や『気狂いピエロ』と、そう変わりない。
ノワールにおいては、「ファム・ファタル」の頭がちょっとおかしいのも、むしろ定石である。
『気狂いピエロ』にしても、『拳銃魔』にしても、あるいはウイリアム・アイリッシュの『幻の女』とか、ジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』にしても、主人公を狂わせる「ファム・ファタル」のメンヘラぶりは結構ぶっ飛んでいる。
だから、『依存魔』は、むしろ「王道」のノワール・ムービーのように、僕には思われる。
とくに、先にも挙げた『拳銃魔』は、頭のおかしいトリガー・ハッピーの恋人のせいで、銀行強盗のさなか人を死なせてしまった男が、官憲に追われての逃避行のすえに彼女もろとも自滅していく姿を描いた秀作ノワールで、間違いなくファブリス・ドゥ・ベルツ監督はこの映画を知っていて、かつ意識していると思う。あれも終盤、葦の生えた湿原が舞台の話になるし。
あとは、気になったことをつらつらと箇条書きで。
●映画の終わらせ方がやけに適当な感じがするのって、『変態村』でもそうだったな。今回は、ほぼ「ふたりをパンしながら、上空のクロヅルの群れを同時に捉えるカメラワーク」だけで「終わらせた」感がある。ちなみに、なんかワンカットだったけど、アレ一発撮りだったんだろうか? アレをCGでやる予算なんか、この人たち絶対ないよね?(笑)
●クロヅルで思い出したが、この監督は「鳥」好きなんだね。
本作を観る前に観た『FALLフォール』では、「鳥」は明らかな「敵」「凶兆」として扱われていたが、本作では、優しくも孤独な少年(および老人)を癒し、慰撫する「愛の化身」として描かれていた。
冒頭のアトリっぽいヒワ(図鑑が出てたけど忘れた)とか、メンフクロウとか。そういや、ニワトリは少年にとっては「餌」だったか。グロリアにとっては「スパイ」だったけど。
逆に言うと、ちょっと目を放したら「飛んで行って」しまいかねないグロリアこそが、本作の一番の「鳥」キャラなんだろうが。
●クロヅルといえば、日本最大のツル飛来地である出水にも、クロヅルは毎年一定数飛来する。あそこのメイン鳥種はダントツでナベヅルとマナヅルだが、ベルギーのアルデンヌ地方にはこうやってクロヅルの繁殖地があるんだな、ベルギーから日本にはさすがに来ないだろうけど、空はつながってるんだな、とか思うと感慨もひとしおである。ちなみに、出水のツル飛来地は本当に壮観なので、一度観に行かれることをお薦めします。
●グロリアの虚言は、おそらく本人は虚言だと認識していないきらいがあるので、統合失調症の症状なのかな? 「私には人の悪意が読める」とか「あの夫婦は豚だ」とか「あのニワトリはスパイだ」とか、ああいう人たちがいかにも言ってそうなこと口走ってたけど。
●終盤の、少年がグロリアの幻影を観るシーンは、アンリ・ルソーの『夢』とか『蛇使いの女』あたりを意識しているのか、あるいはラファエル前派(ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ)あたりがイメージ源なのか。この映画のなかでは、ここだけがアーティスティックで作り込んだ照明が用いられていて印象に残った。
●しきりに、少年が「水辺にいさえすれば大丈夫」みたいなことを言うのだが、なんだろう、あれ? 単に遭難しても水があれば平気とか、辿って行けば海に出れるとか、そういう実利的は話ではなさそうな感じがしたのだが。なにか典拠がある?
●『地獄愛』は観ていないけど、けっきょく『変態村』『地獄愛』『依存魔』の三部作というのは、「野に解き放たれる狂気」と、「その底層にある宗教的な要素」が重要なファクターなんだろうね。今回の話にでてくる少年のグロリアに抱いている感情なんかも、一種の「信仰」に近いものがあるわけで。
●予告編などを観て、ベルギー映画だし、ひと昔前のフランス映画みたいに美少女のお宝映像など用意されているのかと期待された皆さん、……うーん残念!! 結構鉄壁のガードで守られていて、濡れても透けないし、透けてそうなカットになるとヒキになります。ああ健全!
ただし!! 少年の濡れブリーフ姿なら拝めます。あと、いちおう熟女専の方もぜひ(笑)
思ったのと違った
汚れちまった悲しみに…
素晴らしい作品だ。性に芽生え、肉欲を知る前の少年と少女の純粋無垢な愛の物語。男女の性愛を未だ知らず、純然たる愛に満たされた二人。見事に浄化された愛の形である。少女は精神を病み、パニックに見舞われると凶暴になり、見境なく周りの者を傷付ける。少年は母子家庭であり、鳥だけが友達の孤独の世界に閉じ込められいる。互いの不安定な精神状態が二人を惹きつけ、究極に至る純愛を知ることになる。この監督特有の一筋縄ではいかない美しいストーリーに、映像の美しさが相俟って、自分の中で埋もれてしまった無垢なる精神を思い出させてくれた。少年少女期の夏の日々は意味を必要としない無意識の勝利による喜びに溢れ返っていたのだ。その時を切り取った稀有な映像に誰もが感動を覚えるだろう。エンディングのクロヅルの群れが大空を横切る様は、この時が永遠に続くような予感を与える。実際は一瞬であっても、その一瞬に永遠なる連続性が投影されている。これほど美しく混じり気の無い愛の作品を見せつけられると、馬齢を重ねた今となっては、表題に引用した中原中也の詩が眩しく思える。
余談だが、この邦題は何とかならないものだろうか?内容を低俗に落とし込めるのが楽しいのだろうか?オリジナルの題名(監督が意図したタイトルの翻訳は「崇拝」)からかけ離れ過ぎているばかりか、いささか悪意があるようにも思える。
初めての実体験
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