せかいのおきくのレビュー・感想・評価
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声を失ったけど恋をした
江戸時代の末期に生きる若者たちを描いた青春時代劇。モノクロ映像が何とも言えない抜群の雰囲気を醸し出している。生きることの厳しさを通じて心を通わせていく若者の心境を上手く描いている。主演の黒木華はさすがの演技力でおきくの役柄にピッタリの印象。
2023-66
珍しい白黒映画、でも言葉はごく現代調のアンバランス
「ウーン、コの映画をどう評したらいいんだろう?ここ笑うとこだぞっ」ってな感じの映画でした。観ていない方には何が何やら分からないと思いますが、観た私にとっても不思議な感じの映画でした。
最近には珍しい白黒映画(ごく一部のみカラーでしたが)であり、きっと白黒だからこそ表現できることが観られるんだろうという興味から観に行った訳ですが、始まった直後にその理由が分かりました。主人公の中次(寛一郎)と矢亮(池松壮亮)はおわい屋(人家の糞尿をくみ取り、農家まで運ぶ職業)であり、ウンコさんのシーンが多数登場するために白黒にしたんだと、少なくとも一義的理由はそこにあるんだと開始直後に了解させられました。そうじゃないと、90分間のかなりの部分を占めるウンコさんのシーンで、途中退場してしまう観客が続出する可能性がありますからね。
時代設定としては、江戸時代末期の安政年間から文久年間にかけてのお話でした。井伊直弼が反対派を弾圧した安政の大獄、その井伊直弼が暗殺された桜田門外の変、老中安藤信正が襲われた坂下門外の変など、激動の幕末期の真っただ中なのですが、本作にそうした激動の波はあまり押し寄せて来ていません。ただ現代人的には歴史を知っているので、そういう時代背景のフィルターを通して観ており、そうした激動の時代が物語にも影響して来る展開になることを予想しながら観ていた訳ですが、結果そうなっておらず、製作者は敢えて市井の人々を描く映画に拘ったようです。
では何を言いたい映画なんだろうというと、ひとつは今注目の(?)循環型社会ということ。前述の通り主人公はおわい屋であり、江戸の市中、庶民の住む長屋や武家屋敷などから出る糞尿を汲み取り、当時は江戸の府内ではなかった亀有辺りの農家まで運ぶことで生計を立てています。肥料となる糞尿を入手する農家からお金を貰うのは当然としても、糞尿処理をして貰っている江戸の住人が、おわい屋からお金を貰っていたのには驚きました。糞尿処理がなされなければ街中糞尿まみれになるというのに、これをお金を貰って処理してもらうというシステムは、現代感覚からは全く思いも及ばないこと。ただ現代の糞尿は下水道経由で処理されて川や海に流されるだけですが、当時は肥料として使われており、立派な商品だったこともまた事実。こういう構造が結果的に循環型社会を構築していたことを考えると、中々に興味深い話ではありました。循環型社会を是とするなら、それを実現するヒントが歴史に隠されているのではないかと思ったりもしたところです。
肝心のストーリーですが、おきく(黒木華)と中次の恋物語でもありました。おきくは物語中盤で喉を切られて声を失ってしまいますが、それでも懸命に生き、恋をしています。ただそもそもの話、おきくが中次に恋するきっかけの部分がイマイチ明示されておらず、また中次の兄貴分たる矢亮との対比で、おきくが何ゆえに中次を選んだのかなどもはっきりと描かれていませんでした。そのために今ひとつ感情移入が出来ぬまま、物語は終わってしまいました。まあウンコさんの印象が強烈で、そちらに目(鼻?)が行ってしまったこともあるのかも知れませんが、もう少しおきくの心情を掘り下げて貰いたかったと感じました。
また、白黒時代劇の割に、セリフ回しが完全に現代調になっていたのも、大いに疑問でした。冒頭の「ここ笑うとこだぞっ」というセリフも、矢亮の口癖なのですが、完全に現代のお笑い系の口調。別に全てを江戸言葉にする必要はないし、そんなことをすればむしろ理解を妨げることにもなるでしょうが、敢えて現代調のスラングをぶち込まれても、違和感しかないように思われました。勿論時代設定だけ江戸時代の現代劇もたくさんありますけど、折角白黒作品にしたんだから、もう少し言葉遣いも白黒トーンで行って欲しかったところです。
以上、最近には珍しい白黒映画ということで観に行きましたが、ウンコさんが大活躍する映画の割には消化不良の面があったので、評価は★3とします。
クソ映画(貶してません)
ハッとするシーンはいくつかあったけど、ハッとする映画にはなれなかったかな。
江戸末期の若者の青春が描きたかったのか、
汚穢屋の仕事を描きたかったのか。
もっと見せずに見せる方法があったんじゃないかな。
臭いものには蓋をしてほしい。ここ笑うとこ?
多分見せたかったんだろうけど。
クソにこだわりすぎて、せっかくの美しいシーンがかすんでしまう。
半世紀前まではああやって暮らしてたんだもんなぁ。
肥溜めってそういや、ある時期に一気に見なくなったような気がする。
生まれた時から水洗トイレが当たり前の世代は、自分のうんこしか見ることないんだろうな。
それにしても映画の画面では見たくないや。
寛一郎は佐藤浩一にそっくりだし、佐藤浩一は三国連太郎にそっくりになってきたな。
何故白黒なのかは見てのお楽しみ!!
汚穢屋の仕事シーンがしょっちゅう出てきて、クソまみれになったり、クソをネタにした会話に溢れています。
白黒なので個人的には笑えましたが、生理的に無理な人もいるだろうなと・・・
兄と弟の会話で、口ではデカい事ばかり言って実際には何もせず、世の中の不平不満を言いながら卑しい仕事を続けている兄に対して、弟が「兄貴は気持ちはつええが、心が弱いんだよ!」と言います。
この台詞が私の心に刺さったので4点になりました。
ハッピーエンドではないけど、それ以前よりも希望が見えているラストシーンも好きですね。
“おわい”のおきく…せかいは“あい”ではなく“おわい”で満ちている…
①肥溜めの蓋を開けるところから始まるなんて確かに前代未聞の時代劇。
②「おわい屋」と元武家の娘の恋なんて本当は有り得ない話だけれども、それを不自然に感じさせないのがやはり黒木華の佇まい(特に横顔の額から顎への線が美しい)と演技力。
『ヴィレッジ』などで無駄遣いしてほしくないものだ。
③映画だから臭いはないのの、もし臭いが付いていたら一部分を除いてずっと“おわい(人糞)”の臭いが漂っていただろう。これは、そういう世界で生きていた人達の話。
④私は奈良の農村で育ったから、子供の頃は普通に畑の中に肥溜めがあったし、目の前で落ちた人も見た(あれは悲惨)。
畑も当然肥料として肥を撒いていたし(映画の中とは言え久しぶりに見たわ)、そういう畑で育った野菜を洗って食べていたし。
でも勿論臭いものは臭いので、傍を通るときは鼻をつまんで息を止めていたし、なるべくその光景を見ないようにしていた。
⑥ただ循環型社会を目指して人糞を肥料にしていたのではなく、それが当たり前だったから。だって人糞て畑にとって栄養あるんだもの。
江戸時代は循環型社会でエコ社会だったとよく言われているけど、単に鎖国をしていたから外国から物が入ってこないので物を大事にしないといけないしリサイクルをせずにいられなかっただけ。
“おわい(人糞)”もエコというより先に述べたように畑の肥として有用だったから。
⑦子供の頃、勉強をサボると父親から“そんなことなら将来はバキュームカーの運転手にしかなれないぞ”とよく言われたもの。
今から思うと随分酷い言いようだし、ホント私の父親ってバイアスだらけの田舎の人だったと思うけど、ある意味それを反面教師として今の私があるとも思う。
⑧ただ、それでも子供心に「おわい屋」さんを少し歪んだ目で見ていたことも確か。
人間は物を食べれば100%吸収出来ないから当然排泄物が出る。
それを処理してくれない人がいないと劇中にあったように世界は人糞まみれになる。
「おわい屋」さんに限らないけれども、人が穢いと思う仕事をする人が世の中には必要なのだ、と気付いたのは恥ずかしながら自分も仕事をし出してから。
日本古代は水洗だったけど(今の水洗とは違って河に流すだけだった)人口増加に下水設備が追い付かないのが原因で藤原京や平城京からあんなに早く遷都しないといけなかったらしいし。
⑨だから、上で述べたことと矛盾するけれど、今の感覚だからそう思うけれども、江戸時代は社会に必要不可欠なものだったから「おわい屋」も現代で思うほど穢い稼業ども思われなかったのかも。
忠次も他に幾らでも仕事がありそうなのに意外とスッと「おわい屋」になったし。
それでも歴史のリアリティーを重視すると身分差別の厳しい江戸時代で最早武家ではないにしても元武家の娘が「おわい屋」を好きになったりするのは有り得ないと思われずにいられないし(そもそも武家社会には自由恋愛なんて無かったし)、それを言えば矢亮や忠次の話す言葉もほぼ現代語で若い世代に観て貰う為かも知れないがどうしても違和感が残る。
江戸時代の庶民が「青春」という言葉を知っていたか、という疑問も残るし。
⑩それでも、江戸時代という窮屈な社会(現代人が勝手にそう思っているだけで当時の庶民はそれが当たり前だと思っていたでしょうけど)を背景に、「どんな人間・職業にも役割がある」「身分を超えた恋愛があっても良い」「やがて来たる新しい時代(何せ年号は安政・万延ですから)に向かって走っていく若者たち(ラスト、そういうことでしょう?)」という理想を描いているところにこの映画が映画たる所以があるように思う。
⑪ともかく、歩き去っていく忠次の足音を障子越しに聴くおきく(黒木華)の表情が素晴らしい。
この表情を観るだけでもこの映画を観る価値があるというものだ。
うんこ映画!
うんこが好きな人いるのかな?私は途中で気持ち悪くなって退場。黒木華は好きな女優さんだけどうんこまみれの映画はさすがに勘弁かな。気持ち悪くて昼飯食べれませんでした。途中退場者なので評価する権利はないのですが余りのくそ映画なので、、、。
残念ながら心に響かず
江戸時代の身分を超えた恋愛物として期待していたのですが、残念ながらあまり心に響きませんでした。
最後から2番目の章は、なかなか良かったと思います。とても印象に残る章でした。もう少し演出がよければ、心に響いたかもしれません。
追記 余談ですが、6月から大手映画館の料金が2000円になるのは、個人的には反対です。映画マニアではないので、映画館観賞を減らすかもしれません。
青春だなあ?
糞尿がドアップで何度も出てくるのでモノクロ映画で良かった。映画だから臭くないし。子供の頃にはあった野壺も見かけなくなって、今の人には想像もできないでしょうね。汲み取り式の便所なんて。
父親役の佐藤浩市と中次役の寛一郎の親子共演が厠の場面というのも気の毒のような芝居巧者の2人には相応しいというか。
「青春だなあ」がテーマといえばテーマなのだけれど、中国の古典が出典とはいえ幕末の読み書きのできない最下層の若者が口にするかな?「サボる」とも言っていたし。フランス語源のサボタージュを知っているはずもないし。「せかい」は開国派であったらしい佐藤浩市の言葉として伝播していくので素直に受け止めましたけれど。
白黒が功をそうしている。肥料屋(まだながやがある時代の話)
肥料の話ですが、長屋の人情味あふれるところある話もあり、ラブストーリーと脇役の人も豪華です。とくに黒木華さんの演技がはえます。
白黒映画(一部原色あり)ですが、それがまた、この映画にあってます。
是非とも劇場にてご覧ください。
クソ喰らえ!
黒木華が主演というよりも、池松壮亮が主演でした。圧倒的出演シーンの差。物語もおきくさんの話っていうか、糞の話ですし。にしても、「シン・仮面ライダー」からのギャップが凄い。いやぁ、俳優ってすごいな〜。これだから映画ってもんは面白い。同じ映画というジャンルでも、まるで違うんだもん。
しかし、黒木華の演技は絶大。
「イチケイのカラス」やら「ヴィレッジ」やら、出演作が後を絶たない、今の邦画界で最も売れっ子といってもいい黒木華。その理由は明らか。表現の豊かさだ。主人公・おきくはとある出来事により、声を失ってしまうのだが、彼女が声を失ってからの表情や身振り素振りがまぁ素晴らしいこと。苦しい境遇に立たされているのに、人生を全力で楽しもうとするおきくさんの強さに胸をうたれる。優れた演出も相まって、そんな彼女の姿を見ているとなぜだかクスッと笑える。無邪気で、人間らしくて、ドジでバカだけど最高にカッコイイ。驚くほど引かれる表現力でした。
糞を買い取り、糞を売る仕事をするふたりの男。
便所から糞を取り除くことでお金を貰っていると思いきや、売ることでお金を貰っていたんだね。最初、訳が分からなかった笑 この仕事を通して、〈偏見〉という虐めの醜さを描いており、おきくさんの恋愛模様よりも、強く伝えたかった気がした。池松壮亮のキャラがすごく立っているし、すっげぇ人間臭くて好き。寛一郎もなかなか良くなってきました。
印象深いシーンはあるものの、物足りない。尺が短いってのもあるし、展開が薄い。もっと面白くできただろうけど、糞の仕事というインパクトと役者の魅力を引き出すのでいっぱいいっぱいって感じがした。時代劇としての面白味はあまり無いかな。石橋蓮司や佐藤浩市、加えて2人の恋愛模様の描きが雑だしね。同じシーンを何回も見せられている気もしちゃった。
心温まる作品ではあるけど、もうちょい上手くできたかな。今後の邦画界を牽引していくであろう、黒木華と池松壮亮の魅力が詰まった映画であるため、価値はある。2人のファンはぜひ。
シンプルなタイトルが、終盤に向かって柔らかく深く胸に響いた
本作は、幕府が外国から開国を迫られていた激動の江戸末期を舞台に、つらい現実を懸命に生きながら、ふん尿は肥料として農村に売り、循環型社会を支えた下肥買いの若者らの青春を描いた物語です。
阪本順治監督にとって本作は30作目にして初めてのオリジナル脚本による時代劇作品となりました。3年前に坂本組の美術監督から、地球の環境保護をメッセージにした映画作りの提案を受けたことから。自分のガラには合わないと最初は思ったものの、企画書にあった「食と糞尿に関わる循環型社会が、西洋に先駆けて成立した』という文言に興味を持ったところから、本作の企画が立ちあがったそうです。最初のタイトル案は「江戸のうんこ」(^^ゞ。でも次第に脚本を書き進めるなかで、下肥買いの若者二人に加えて、没落した武家の娘を絡ませることで、阪本監督は、今まで撮ったことのない、ほのかな恋心にも挑戦してみようと思ったのです。(そっちの方がガラにもなくだけど)こうして、「江戸のうんこ」は「せかいのおきく」に変わっていったのでした。
但し本来のテーマは「江戸の循環型社会を描くこと」であるだけに、本作では「3R(リデュース・リユース・リサイクル)」映画として、新しいものは一切使用せずに古材を使用し、衣装も仕立て直したものが使用され、撮影終了後も次の作品で使えるよう保管されているそうです。
そしておきくという名前の由来にも、阪本監督ならではの愉快なエピソードが隠されていました。
阪本監督はおきくのことを「おきやん」と表現していたそうです。その由来は、おてんば娘を指す「おきゃん」。ひょっとしたら今の時代では、死語になっているかもしれません。
おきくがまだ声を失う前、余計なことをする矢亮を、おきくがピシャツとたたくのですが、「ピシャッー」と声に出してたたくのです。これが監督のいうおきゃんなんだそうです。また、声を失ったおきくは独りで墨をすり、「忠義」と書写するところを、思わず「ちゅうじ」と恋する人の名前を書いてしまうのです。恥ずかしくなったおきくは、寝転かってバタバタバタと暴れるのでした。ただそれだけのシーンが何ともいとおしいと思いました。おきくの感情がワツと動いてしまうシーンを監督は大事にされていましたそうなのです。 阪本監督の魅力は、この何とも言えない独特のユーモアにあると思います。
そしてコミカルなおきくからシリアスなおきくまで、阪本流のこの微妙な出し入れを、カメレオン女優とよばれる黒木華が体現していたのです。
物語は江戸末期。下肥買いの矢亮(池松壮亮)は江戸で便所の汲み取りをし、肥料として農家に売る下肥買いで生計を立てていました。武家育ちのおきく(黒木華)は勘定方だった父の源兵衛(佐藤浩市)が上役の不正を訴えてお役御免になったあと、裏長屋に住み、寺子屋で子供に読み書きを教えていたのです。そして紙屑拾いの中次(寛一郎)を加えた三人が寺の厠の軒下で雨宿りしたことで出会い、中次が、矢亮の相方になるのでした。
ある日、源兵衛を憎む上役の関係者から決闘を迫られた父は死に、おきくも喉を斬られて声を失うのです。回復後も引きこもったおきくを、寺子屋に復帰させるのは、僧侶や子どもたちでした。声を失ったおきくは、それでも子供に文字を教える決意をします。
そして毎朝、便所の肥やしを汲んで狭い路地を駆ける中次のことがずっと気になっていたおきくは、ある日決意して、雪の降りそうな寒い朝も必死の思いで中次の家を目指します。そしておきくは、身振り手振りで、精一杯に気持ちを伝えるのでした。
この時代、おきくや長屋の住人たちは、貧しいながらも生き生きと日々の暮らしを営んでいます。そんな彼らの糞尿を売り買いする中次と矢亮もまた、くさい汚いと罵られながら、いつか読み書きを覚えて世の中を変えてみたいと、希望を捨ていなかったのです。お金もモノもないけれど、人と繋がることをおそれずに、前を向いて生きていく。その気持を、おきくが寺子屋で描く「せかい」という習字の文字に託したのだろうと思います。たとえこの時代の人たちが「せかい」という言葉の意味を知らなくても、人を恋する熱い気持ちには、声にならないほどの大きくて、果てがない「せかい」を中次もおきくも感じていたはずです。
これぞ、時代劇でなければ出来ないと思わせるのは、夜に訪れた中次が、前の仕事の縁で手に入れた和紙を、おきくに届けた時です。おきくは、中次が去ったあと、戸口に耳をつけて、男の足音に耳をそばだてるのです。こんな繊細な恋の表現は、現代劇では無理でしょうね。
おきくと中次が、互いの思いを伝えあうシーンがすがすがしく、終盤の雪の中の2人はただただ美しかったです。そのひたむきさに心を揺さぶられました。
ところで、モノクロ映像とはいえ糞尿が何度も登場します。でも物語はいたって心地よく誠意と情感にあふれていました。人間の営みを食から描いた映画は数あれど、排せつ物からとは前代未聞です。一番低いところから見れば、しょせん人間は1本の管、生まれも育ちも性別も、ささいな違いにすぎぬとよく分かります。そんな矢亮の開き直りが潔いと思いました。それにしても、映画に匂いがなくて良かったです。特に大雨で長屋の厠から糞尿があふれ出して、長屋を覆い尽くすシーンは、グロテスクそのものです。
また作品の目線が一貫して低いのも好ましいです。さげすまれがちな仕事の2人の会話がコミカルで、時に世の中の本質をつくです。長屋の会話も含め庶民のエネルギー、生きる力が画面から湧き上がります。
おきくの心情に応じて時にカラーを加えた遊び心に頬が緩みました。源兵衛や矢亮、長屋の住人の発する言葉にうなずきながら、言葉を大切にする映画はいいものだと改めて実感しました。シンプルなタイトルが、終盤に向かって柔らかく深く胸に響いたのです。
【作品に関連したうん・ちく】
江戸時代はよく出来たリサイクル社会でした。
現代では何の価値もないどころか、処分のために大きなコストをかけている糞尿でさえも、有効に再利用されていたのです。
江戸で排泄された大量の糞尿は、汚穢屋(おわいや)によって買い取られ、汚穢舟に積まれて近郊の農村まで運ばれました。そしてたっぷりの栄養で育てられた野菜は、逆コースをたどって江戸へ行き、その野菜と交換で排泄物を回収し、また肥料にする。こうした無限リサイクル・ループのおかげで、人口100万人の江戸の町並みは清潔に保たれ、大都会には珍しく、江戸では新鮮な野菜を食べることができたといいます。
それにしても、糞尿にもさまざまな条件によってランク分けがあり、仕入先によってブランド物の糞尿まであったというのですから驚きです。
奥が深いような、浅いような
食って出しての循環のように、禍福も「せかい」を循環していると。
奥が深いような、浅いような。
半分くらいの時間に大便がリアルに写り、登場人物が糞という言葉を投げかけるために、モノクロ描写でよかったとしみじみ。
前後に食事の予定を入れるのは薦めません。
『音』の世界が臨場感を作り上げていた。
『音』の世界を満喫したのが印象的、目から入る情報よりも耳から入る音に酔いしれました。
又…物の売り買えが現代社会と正反対なのにも驚き‼️
現代社会では汚物扱いされる人糞が肥料となり重宝されたんだとあらためて感じさせられる。
物語の中の『世界』の器ってどう測ったら良いのかその価値観が問われるし演技する役者たちの力量が凄いと思えた。
ほぼ全編がモノクロで映しだされるがその一つ、黒木華ちゃんの着物姿だけは色が付いていて共感でました。
特別R指定にランクするかもね(笑)
これはモノクロ映画にして正解です。
なるほど、これはモノクロ映画にして正解です笑。
そこはかとなく切なくて、そこはかとなく可笑しくて、なんとも味わい深い映画でした。
恋する女性を演じた黒木華さん、可愛かったなぁ。
社会生活を支える仕事
なぜ、白黒なのかな?と思っていましたが、白黒でないと観られなかったと思いました。
何がテーマなのかな?と思いながら観ましたが、そうか、庶民の暮らしなのだと思いました。
取り上げられることの少ない、でも、社会生活に必要不可欠な仕事をする若者。不当な扱いを受けてもへこたれず、自分を卑下せずかっこつけもせず取り組む姿勢がよかったです。
黒木華さんの着物姿や所作が愛らしく、彼女がいないと成り立たない作品だと思いました。
佐藤浩市さん、寛一郎さん親子の共演、池松壮亮さん、石橋蓮司さんの演技もよい佳作💕
せかいで一番のおきく
想定と外れたストーリーだったり、見慣れない視点で観せてくれる作品が好きです。
この作品は、江戸時代にたしかに存在しただろうせかいを観せてくれたように思います。
せかいを知らない三人には、よりたしかな三人のせかいが存在していたし、ことばを知らない二人はより深くコミュニケーションとれていたし、「せかいで一番」のフレーズを思い出せなかった(?)中次はより響く愛情表現をみせていました。
時々カラーになる場面にどんなメッセージがあったのかは読み取れず…。
「鎌倉殿の13人」で雪の中での暗殺を演じた寛さん(中次)の「雪になるのが好きだ」に反応してしまいました笑。
悪くはないが、面白くはなかった?
全編モノクロと思いきや、一瞬だけカラーになるシーンが2回ある。これは、どういう意図だったのだろうか?
最初のシーンは、おきくさんだけだったので、「おぉ、まさにおにくの世界だけカラーになるのね!」って、思ったのだが…。
江戸時代は循環型社会っていうコメントを多々見ますが、そこが論点の映画ではないよね…。
江戸時代の青春?
そもそも、青春って言葉(劇中にも出ていたけど)って江戸時代にあったのだろうか?
いずれにしても、世界のおきくより、おきくの世界の方が良かったのでは?と思うわなくもなかった…。
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