「少しも笑うことができなかった」波紋 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
少しも笑うことができなかった
「原発事故の放射能が怖くて家族を捨てた」と依子は修を責めるのですけれども。
しかし、拓哉のセリフにもあったとおり、修は依子の「不安定さ」から逃げたというのが、おそらくは正解なのでしょう。
本作の題名にもなっている「波紋」は、依子の心情そのものだったと思います。評論子は。
以前の依子はフラメンコに打ち込むことで、その「不安定さ」を糊塗(こと)してきていたというのか、ある意味ては「中和」してきたのでしょうけれども。
しかし、修の失踪を契機として、フラメンコ(程度のこと)では、その不安定を糊塗しきれなくなり、より働きかけの強いもの=新興宗教にその拠(よ)り所を求めてしまったー。
新興宗教での教えの影響も受けてはいるのでしょうけれども。
しかし、いつも須藤家の庭に描かれていた「波紋」は、絶えず周期的な動き、それだけで、依子の心情の不安定さそのものだったと受け止めました。評論子は。
多くのレビュアー諸氏が指摘するとおり本作は(荻上直子監督はこれまでは描いて来なかった)ブラックユーモアの一本であって、その意味で「この絶望を笑え」というのが本作のキャッチフレーズになっているのでしょうし、実際、本作の舞台挨拶でも主演の筒井真理子から「依子の、この絶望を笑ってやってほしい。そういうつもりで、一生懸命に演技した」みたいな発言も、その線の、いわば延長線上にあるとだとは思いますけれど。
しかし、少しも笑えませんでしたねぇ、評論子には。
そもそも「絶望している人の様(さま)を笑う」ということが、どうしても、評論子には理解ができません。
(その一方で、同じく筒井真理子の舞台挨拶の発言に「誰も褒めてくれなくても、それで全然OKだよという気持ちで演じていた。」という趣旨の発言もあったと思いますが、むしろ、発想としては、そっちの方でなければならないのではないか、という疑問が、その後スクリーンを観続けても、少しも拭えません。)
評価子が生真面目に過ぎるのであり、そこまで四角四面に捉えなくてもいいのかも知れませんけれども。いずれにしても、本作の製作意図みたいなものは、少なくとも評論子には理解が及ばず、つまり本作は評論子にはちっとも刺さらず、それ故、良作としての評価も躊躇(ためら)われる一本になってしまいましたことを、残念に思います。
(追記)
本作で依子がハマった新興宗教は、「水」をモチーフとして、それだけに、水滴の音と、水滴が広げる波紋がキーになっていたと思いますけれども(当然、本作の題名も、そこからでしょう。)
本作では、至るところで、その「水」がモチーフとして、効果的に使われていたのが印象的でした。評論子には。
およそ一万年前に独自の文化(縄文文化)を開花させた縄文人たちは、水辺に定住したとのことですし、衛生的な水道水が、この国の平均寿命を延ばしてきたことも、否定はできないだろうと思います。
本作でも、原発事故による水(水道水)の汚染の心配から、話が始まっています。
大きく言えば、地球上で最初の生き物は、水(海)から生まれたことだけで、人間と「水」との関わりは、切っても切れない縁があるというべきでしょう。
本作の製作意図がどこにあるにせよ、むしろそちらの方に思いが至りました。評価子には。
たとえば『そして僕は途方に暮れる』の裕一の父親・浩二(豊川悦治)の台詞ではありませんが、絶望に陥った当の本人の側から「面白くなってきやがったぜ」と笑うのはいいと思うのですけれど、同じ「笑う」でも、周囲の方から絶望に陥っている者を笑うという、その行為が、私には、どうしても受け付けませんでした。 レビュアーの皆さんが楽しんでいる中で無粋な評で申し訳もないのですけれども、「映画の評は自由」ということに免じて、「こういう受け止めもある」とご海容いただけると幸いです。
共感ありがとうございます。
絶望してる人を笑えない、仰る通りだと思います。絶望し過ぎて本人が笑うしかない・・という感情は尊い気がします。ネズミはヘビに呑まれる寸前、そういう気持ちになるんでしょうかね。