「平安を得るために自分を否定するという矛盾」波紋 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
平安を得るために自分を否定するという矛盾
記憶が正しければ、ですが
修(光石研)が「癌なんだ」と言うと、依子(筒井真理子)が「ごはんたべてく?」と返したような。チグハグにも思える返球に、修はちょっと戸惑いながらも、「うん」と答えたような。
つまり、父に線香を上げに、と帰ってきただけの修を、留めたのは依子だったのでは?違っていたら、すみません。
でも、もしそうなら、荻上直子監督の意図的な、そして本質を突く描写が、そこにあったように思います。
あれほど嫌悪し、あれほど憎み、あれほど拒絶しているはずの修に、いてほしかった、という矛盾。
いてほしかったからこそ、夫の失踪の喪失感を埋めるために、緑命会に入信せざるを得なかった。そして緑命会では、ひたすらに自分の心を抑圧することで、かりそめの平安を求めた。夫が帰ってきてからもそれは続き、しかし、同時に水木(木野花)の共感に支えられて、恨みを解放していく矛盾。
その矛盾の中で、依子を本当に救ったのは、宗教ではなく、水木の共感。水木もまた、誰も踏み込ませなかった自分の部屋を依子に解放することで、心を解き放った。
自分を救ってくれるのは、宗教ではなく水木の共感、それはある意味の赦しなのだ、と徐々に依子は気付き、だから、依子は特別な緑命水を買わない選択ができたのでしょう。
しかし、息子も自分の意にそぐわない女に盗られ、夫も亡くなり、家庭という彼女のこだわり、すなわち業が消えた。だから、出棺のその時、枯山水に夫のなきがらが転げ、その両方が本来の在り方から逸脱した姿を見せた瞬間、笑わずにはいられなかったのでしょう。かけがえのないものだ、と思い込んでいた自分のおろかさに気付き、込み上げるばかばかしさが爆発したのでしょう。
そして、フラメンコは命の肯定。
一人の平安に閉じこもることなく、互いの心に波を立て合う他者が、私たちには不可欠な存在。その他者がいてこそ、自分を確認でき、自分を肯定できる。波紋は自分の存在証明です。
こんな映画に出会えることを、本当に幸せを感じます。この映画づくりに関わったスタッフのみなさんに感謝です。