怪物のレビュー・感想・評価
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怪物とは?
現在、騒がれているLGBT、それを抱えた幼い子供。
病気だ、治す、という劇中の発言には、非常に心痛を覚えさせられました。
夕闇通り探検隊というゲーム中でも、発達障害の少女に同じ『治す』という表現が使われていて、その点を問題点化されていました。
正にそうした『普通』とは違う、という点がもたらす他人からの評価によって苦しめられる構図は同じものを感じましたね。
普通じゃないことを排他する、一般論という名の感性が産み出す、誰かを何処までも追い詰める善性の形をした型に嵌め込むそれが、本題の『怪物』なのだと、私は思いました。
結局、普通じゃない、とは、一般的ではないというマジョリティへのカテゴライズではないんだなと。
自分とは違う価値観である、という排他の思考なんだと言われたような、そんな映画でした。
だからこそのラストは、そこに至るまでにようやく気付いた先生と母は……誰も報われないなと、思わされました。
いやいやいやいや
子どもの嘘からだいぶ大人が人生台無しですし、保健室の先生、体操服に着替えてる時に虐待に気付いてくださいね?お風呂場で死にそうになってたのにあんな走れますか??え?結局BL?放火の犯人、何故バレない?
テーマは複雑でどこも問題だらけなんでしょうけど、ちょっとネタぶっ込みすぎ違いますのん?
最後収集つかなくなってるやーん!
賞レース的にはお好きそうな作品やね。
心の中の怪物
人は誰でも内面に怪物を宿しているのだと思う。
他人の家の火事を見て興奮したり、他人のゴシップをあれこれ詮索して楽しんでみたり。
自覚はなくてもきっかけ次第で誰しもが相手にとって怪物的な存在になってしまう可能性があるのだ。
まずはシングルマザーで小学生の息子湊を育て上げてきた早織。
彼女は湊の言動に違和感を覚え、学校で苛められているのではないかと彼を問い詰める。
すると湊は担任の保利に暴力を振るわれた、「お前の脳は豚の脳だ」と暴言を吐かれたと衝撃の告白をする。
真相を確かめに学校に乗り込んだ早織だが、校長を初め学校の教師たちはまるで血の通っているとは思えない事務的な態度を取るばかりだ。
やがて現れた保利は誠意の欠片もなく、誤解を与えてしまったことだけをぼそぼそと謝罪をする。
誤解ではない、実際に暴力を振るったのかどうかを厳しく問い詰める早織だが、学校側はまったく真摯な対応を見せない。
その後も保利の湊に対する接し方は変わらず、早織は何度も学校に詰めかける。
そして湊の友達だという依里の証言で、ようやく学校側も保利が生徒に暴力を振るっていた事実を認める。
しかしそれだけで事態が収まるわけではなかった。
夜中に家を抜け出し山の中の廃トンネルに入ったり、自傷行為をしてしまう湊に早織はついつい感情的に接してしまう。
そしてある台風の夜に、湊は姿を消してしまう。
人はどうしても自分や自分の大切な人を傷つけられると、周りが見えなくなってしまいがちだ。
どこか自分を俯瞰する視点を持たないと、焦れば焦るほど事態は悪くなってしまう。
早織にとっては不誠実な教師たちが怪物に見えたかもしれないが、学校側も早織をモンスターペアレントだと認識していただろう。
そして物語は保利の視点へと変わる。
早織の目からは不誠実に見えた保利だが、不器用な彼は彼なりに児童と真摯に向き合おうとしていた。
ある日保利は教室で暴れる湊を抑えようとし、誤って怪我をさせてしまう。
彼の視点では確かに暴力を振るったと湊に誤解をさせてしまったようだ。
彼は早織に弁解しようとするが、学校側は事態がややこしくなるからと黙っているように彼を促す。
かと思えば最終的に学校を守るために彼にすべてを認めて謝罪するように迫る。
依里による日常的に保利が湊に暴力を振るっていたという証言は、彼にとってはまるで心当たりのないことだった。
やがて彼は辞職に追い込まれ、誤解を解こうと湊に迫るが、それがまた事態を悪化させてしまう。
保利にとっては学校側も自分に不利な証言をした児童たちも怪物に見えたことだろう。
大切な一人息子を助けたい早織と、誤解を解きたい保利の心情はとても共感出来る。
が、最後に描かれる湊と依里の心情は非常に個人的で共感するのは難しいと思った。
死んだ父親のようにはなれないとコンプレックスを抱く湊と、父親に虐待を受け、「お前の脳は豚の脳だ」と蔑まれ続けてきた依里。
お互いに強く惹かれ合うものがあるのだが、依里はクラスで苛めにあっており、湊は仲良くしているところを人に見られたくない。
だから人前では湊は依里に対して残酷な仕打ちをしてしまう。
他人から見れば湊が依里を苛めていると受け取られても仕方がない。
二人が誰にも気兼ねすることなく心を通わせることが出来るのは、廃トンネルを越えた先にある廃電車の中だけだ。
ここは二人にとって特別な場所となる。
鬱屈したものを抱えた二人は、いつしか保利を悪者に仕立て上げてしまう。
二人にとっては正統的な理由があったのかもしれないが、人生を狂わされてしまった保利があまりにも不憫である。
それでも保利が自分に落ち度があったのだと、湊を救おうと懸命に働きかける姿には心を動かされた。
この作品を見て、例えば残酷な事件を起こした犯人がいたとして、真相を知らない人々はその犯人を怪物のように捉えるだろうが、ひょっとするとその犯人は誰も理解者がいないまま追い詰められるところまで追い詰められてしまった犠牲者である可能性もあるのではないかと思った。
無自覚に、あるいは無神経にその犯人を追い詰めてしまった人々の中にも怪物は存在するのだろう。
「怪物だぁれだ」という呼び掛けが何度も繰り返されるが、真相を知るうちに真の怪物などいないのだとも、どこにでも怪物はいるのだとも感じた。
一番印象的だったのが、事務的で感情のこもらない、孫の事故死に関与しているのではないかと囁かれていた校長の伏見の「誰でも手に入れられるのが本当の幸福」だという言葉だ。
本当は幸福はすぐ近くにあるのに、人は人と比べたり、高望みをすることで幸福を手放してしまう。
そしていつしか心に怪物を宿すようになる。
とてもメッセージ性の強い作品で、是枝監督らしいリアルで自然な演出が今回も際立っていたが、やや脚本が技巧的すぎて、『誰も知らない』のようなストレートにずんと心に響くような感動は薄まってしまったようにも感じた。
あれこれ納得いかない
まず怪物というタイトルがやり過ぎ
相互理解がどうのやら誰もが怪物になり得るやら解説してるが人間なんてエスパーじゃないんだから言われなきゃ分からんのは当然
あんな明確に子供に嘘つかれたらそりゃ大人社会も混乱するわ
だいたい同性愛だのイジメだのより「自分の嘘のせいで何も悪くない教師が自殺未遂まで追い込まれた」方が一生のトラウマだろうがその辺淡白すぎないか
飴もやり過ぎで、あれで保利のキャラがぶれてしまった
いい先生だけどちょっとズレてるかな?程度にすべきなのに完全に非常識なアホだ
子供に嘘つかれて教師に飴食べられたら安藤サクラもモンペになって当然
小学生の同性愛というテーマもピンとこない
体つきも声つきも未分化な小学生同士で本当に自分の性指向をはっきり認識できるのか?
自分が小学生の頃もそんな周囲に性的興味あった記憶もないし単に好きな友達と一緒にいたいってくらいしか無かったしスキンシップしてたらはずみで勃起くらいすることもある
小学生なら男の子っぽい女の子やその逆の男の子もよくいるがそれは性自認というより家庭の環境だろう
自分の性指向を意識して思い悩むのは第二次性徴後なのでは?
同級生の女の子の猫についての話も分からん
湊が猫の遺体を埋葬のため運んだところを見て「遊んでた」と言ったのかもしれないが、聞いた方は「猫を殺した」と誤解する可能性は十分あり、小学生高学年なら誤解されたことくらい察するだろうに何で説明し直さないのか
大事になって怖くなったから、とかならもっと頭の悪い無責任そうなキャラにすべきだった
中村獅童の「豚の脳」という不自然な表現は理由あるのかと思ったが唐突に出てきただけで意味不明
息子に男らしさを求めるくせに花の名前に詳しいという男らしくない趣味に反発せず庭の花にご丁寧に水やってるのも不可解
全部捨てるくらいせえよ
ラストも「わざとギリギリ不自然な描写入れて生死不明にしたろ!」というのが透けて見えてなんだかな
本当の怪物は?
最初はモンスターペアレントとやる気のない学校組織の話にリードして、気がついたら全く違った方向に引き込まれていました。
見終わってしばらくして、これだけの
大騒動を引き起こした本当の怪物はだれなんだろう?と思うようになりました。
あえて疑問点を残したままで終わったのは、見終わった後も考えさせようという深慮遠謀なのだろうか?
是枝監督の作戦にはまってしまった。
LGBTQ映画とは思わないで見て
カンヌで
LGBTQを扱う作品として
賞をとったので
そういう作品と思って
見てしまうけど、
そう思って見ないで欲しい。
自分は忘れてて
終盤になって、
そういえば、コレのことか
って感じだった。
そんなことよりも
めちゃくちゃ素晴らしい脚本!
視点の変化で
こんなにも変わるのか
という驚き!
はじめの母親目線。
誰もが「ひどい担任教師!」と思う。
ところが
担任教師目線になると
「子どもたちヤバい!」
[怪物]って子どもたちのことか
と思った。
でも、
子ども目線になったら…
まさに
【怪物だ~れだ】
みんな見て下さい!!
懐かしい。日本版スタンドバイミーのような
モンスターペアレント。虐待教師。DV,
LGBT,
色んな問題の要素をふんだんに詰め込んだ作品でした。
3つの視点から物語が描かれていて、どの視点から観てもそれぞれの解釈が生まれて面白かったです。
はじめの視点は、子供の親からの視点
自分の子供が先生からの暴力を受けていると学校に相談に行くが
そこで対応が母親を怪物に変えてしまったと思った。
次に来るのが先生側から見た視点。
そこでの先生は、周りから見られている人柄とは全く違った人物として映っていた。
最後に描かれていたのが子供側から見た視点。
全ての真相があるのだが、それを伝えてしまうと全てが狂ってしまうという恐怖から本当の事を言えないでいた。
それぞれの役者もさることながら、子供達の演技が素晴らしかったです。
誰が怪物なのか?
ではなくて、誰が怪物を作ってしまったのか?
どうして気付けないでいたのか?
そこに物語が詰まっていると感じました。
誰も悪くない。
ただ、他の人の幸せが正しいと思ってしまったばかりにどんどん違う結末を迎えてしまっただけ。
最後は、とても悲しく、とても懐かしく、
とても切ない終わりでした。
本当の怪物は…
展開が早く、良かった
人の見方で、こんなにも違って見えてしまう
言い方、表情、タイミング、
これを、テンポよくすすめていくので、
え〜、へ〜、そーなんだ…
言い過ぎも、言葉足らずも、伝わらない
見ても聞いても、理解できない
ほんとに、人間は怪物と紙一重ですね
わたし的には、校長先生がやばいかなぁ…
やっぱり最後・・・。
是枝監督の映画は、好きではありません。
映画の終わり方が気に入らない。いつもどっちなんだよ!とツッコミ入れたくなるから。
毎回モヤモヤします。だからもう2度と観ないと観るたびに心に誓ってました。
でも、今回は脚本が違うということなので、それじゃぁということで鑑賞することに。
観た感想は・・・。
私の息子も義務教育課程の教員をしておりまして、思わず先生やめたほうがいいんじゃない?と言ってしまいそうな、どうにもこうにもやりきれない理不尽さに引き込まれてしまいました。映画の終わり方は好きじゃないけど、この人の映画は観ているほうを引き付ける魅力はあるんですよね。
でも、やっぱり最後はモヤモヤでした。
おい、このあとどうなるの????というところでエンドロール。
そしてまたモヤモヤ。
そのモヤモヤがいいと評価されているのは重々承知していますが。
やっぱりこういうのって好きになれない。
いろいろ社会問題をテーマにするところ、そして、我々が目をつぶってしまっている世界を見せてくれるという点では、いい映画なんだろうなと思いますが、私はスッキリ観終われる映画が好きです。
子役が瑞々しい
映画はあまり前情報を入れずに観に行きます。私の語彙力が乏しいのが残念ですが…素晴らしい映画でした。
「桐島部活辞めたってよ」みたいに視点が変わっていきます。ひとつの出来事でも立場によって感じ方、捉え方が全く異なるんだなぁと改めて思いました。安藤サクラの学校側に話が通じない苛立ちに共感し、校長や先生方に憤りを感じ、理不尽な目にあい、薄情な恋人にも去られる瑛太に同情し、子供時代の制御不能な複雑な感情を思い出し、たくさん心を震わせた映画でした。最近めっきり涙もろく、2回くらい涙がほろりとこぼれたのでした。
無いことも描く事の是非
同じ出来事を複数の目線で見て比べると違うものに見える、という描き方は好きな手法ではある。が、この作品はおそらく意図的だろうけど、違う物を見せてる。
例を示すと保利先生は目線によって全く違う描かれ方をしている。謝罪の時に飴を舐め出す異常性。これは母親の疑いというバイアスが見せた幻であり現実なのだろう。
私が好きな目線を変えると見え方が変わるというのは、あくまでも「同じ物」を見せるのだが、本作はある意味見た角度の違いに感情や内面を通した「その人にしか見えない事実」を描いている。
これは描き方として正しいのか?
私には鑑賞者の見方に委ねないやり方のように見えた。
それが悪いとは思わない。作り手の意図がストレートに映る、こう見て欲しいという意図の通り受け取れる。悪いことでは無いと思う一方、じゃあ真実はどうなのか?
全て見れば保利先生は謝罪の途中に飴を舐め出すような人では無いとわかる。じゃあ飴を舐め出す演出は必要だったのか?
この映画の本質はいない怪物を鑑賞者が見つけたくなる事へのアンチテーゼではなかろうか。その作品でこの手法を取ったのはどういう意図からか?
考えさせられる作品だった。
にしても、子供が叫びながら走る演出ってどうなんだろうねw
ここまで【演出・手法に関して】
【映画の中身に関して】
子供って平気でウソをつく、大人は立場で嘘をつく。
子供は残酷で大人もまた残酷だ。
どちらも後戻りは難しい。
子供も親も先生もほとんどの人のほとんどの言動に悪気はない。だからみんな幸せになってほしいな。
【音楽:坂本龍一 に関して】
パンフレットを見て知ったが書き下ろしと演奏は2曲のみだったそうな。難しい作品に向き合われたが「残念ながら」と記されていた。それでも静かに映画を支えるに足る良い音楽だと思いました。
当たり前の幸せって、、?
とてもとても楽しみにしていた怪物観てきました!
期待以上でした。
主人公である2人の小学生が持つ特性については、口コミで知った状態で観ました。
そのためか、他の登場人物の何気ない言葉が突き刺さるようでした。
「結婚して、子供が産まれて、そんな普通の幸せでいいのよ」
「男らしくないぞ!」
私自身、子どもを妊娠した時、この子が同性愛者でも、トランスジェンダーだったとしても、
"理解してあげよう"
"できるだけサポートしてあげよう"
と思っていました。
でも、そんなことを思っている時点で、私の中には、抵抗感があったのだと思います。
そんな私のちっぽけな抵抗感を悠々と超えたところに、この映画は私を連れて行ってくれました。
主人公である2人が一緒に笑い合いながら走っているだけで、涙が出てきました。
おそらく今まで経験したことがない種類の涙です。
人が人と心を通わせる、自分が自分でいられる、その瞬間はなんて美しいんだろう、と思いました。
終盤で校長先生が言っていた、
「一部の人にしか手に入らないことを幸せとは言わない。
みんなが手に入れられることを幸せって言うんだ。」
というセリフにもドキっとしました。
私自身、就活、婚活、妊活を経て現在に至りますが、その〇〇活をしてたとき、とても苦しかったのを思い出しました。
みんな当たり前に手に入れているのに、なぜ、私は手にできないの?という焦燥感と劣等感に苛まれていました。
でもその「みんな」って誰なんでしょう。
「普通」ってなんなんでしょう。
「当たり前」ってなんなんだろう。
自分の外側に求め続けて、でもまだ足りなくて。
そうなる前に自分の中に幸せを見出していたら、また違う人生だったかもしれません。
この映画に出会えて、私は幸せです。
登場人物たちの視点、そして鑑賞した私自身の視点から見た「怪物」の正体
本作は3人の登場人物のそれぞれの視点から本作で起こった事象を映し、我々俯瞰する者がひとつの納得する形に創られた作品。
是枝監督らしいしっかりと余白を残し、あれやこれやと想像させる作品となっている。
本作のタイトルとなっている「怪物」とは何かを考えさせられた。
息子の異変から学校や教師を「怪物」とする母親からの視点から始まり、
その息子がいじめの首謀者と疑い、やがて自分の職場や上司、はては世間そのものを「怪物」とする若き教師の視点、
そして思春期の誰もが経験する自分はおかしいのではないかと感じ、ひとり葛藤を抱える少年の視点、の順で物語はすすみ、とある事象をそれぞれの角度から映し出す。
視る人によって解釈は変わり、真実は人の数だけあるとはよく言ったものだ。
結末は映し方こそ清々しいもののハッピーエンドともバッドエンドとも判然しないストーリー。
ただ、私自身鑑賞後しばらくたって「怪物」とは何なのかを考えてみた。
それは紛れもなく映画館に刺激やら感動やらを求め、足を運ぶ自分自身こそ「怪物」なのではないかと。
本作では、3人の視点で紡がれることで、ある事象は実際はこうだったという
形に落ち着く。ただ、それすらも本当にそうだったのかと疑いたくなる。
無論、それがこの作品の良さであり、是枝監督作品の真骨頂なのだが。
予告編をみて、「怪物」というタイトルとコマーシャルのあおりで興味をそそられ、
有名俳優や監督、脚本家、そして作曲家が携わり、
更には映画祭で世界的にも高評価を得た作品だ。
私も例外なくこの作品はきっと自分を満たしてくれるものだと。
ただ、実際はそんな「刺激」あるものではない。
期待値が高かっただけに、拍子抜けした感はある。
それこそが私自身映画などの作品に過度な「刺激」を求める「怪物」に成り下がってしまったことの証左なのだと。
まるで劇中冒頭で起こるビルの火災現場に集まるやじ馬たちのようなものだと。
フリとオチ…
多くの方々書いていらっしゃるように…
●一つの事実だが、見方・立場によって解釈が変わり、事実と異なるような捉え方になりうる という怖さ
●誰しもが〝人間〟と〝怪物〟という二面性を持っている、どちらにもなりうるという考え方
こんなことを描いているように感じました。
内容的にはとても興味深く、「なるほどぉ…」と思うシーンもたくさんあって楽しく拝見しました。
また時系列がストレートではないので、監督としては何回も何回も編集し直したくなったんじゃないかなぁ…などとも感じました😅
個人的には好きなタイプの作品ですが、気になったこともあって……。
あとで事実が明かされる話の作り方に必ずある「伏線」の部分というか、いわゆる〝オチ〟に対する〝フリ〟の部分。
保利先生のセリフや立ち居振る舞いが気になりました。
「これはちょっとフリを効かせすぎちゃったかなぁ…」という印象です。
彼はいい先生に描かれる部分が後から出てくるのですが、最初に早織が学校に乗り込んできたシーンで「母子家庭あるあるというか…」みたいなことを口にするあの態度、またああいった状況で飴を舐めるという態度…
やりすぎじゃない?
ちょっと「嫌なヤツ」、「今ドキの非常識な若者」という印象付けを必死でやってる感じがしました。
後ろの描き方を見てるとそんなキャラではなくない?と思わずにはいられない。。
こういう構成のものは、私の場合、一つでも違和感を持つと全然受け入れられなくなる。
本のせいなのか、芝居をOKしたせいなのか…
いずれにしてもあれはやりすぎな感じがして。
強いキャラに映るからこそ、慎重に大事に描いて欲しかったなぁ…と。(この場合、役者さんは全く悪くない)
そこだけ、ノドに骨が刺さったような、すっきりしない感じでした。
もちろん全体としては好きです!
なので4.0❗️
終演直後から記憶は曖昧になる
既に2回見ている友人に誘われ映画館へ
同じ出来事を複数視点で、しかし明確に誰の視点かを区別せず、時系列も絶妙に分かりづらくぬるっと描かれていく。
集団心理や思い込みの怖さという実態のないものを「怪物」とし、描かれたものだと解釈
是枝作品の特徴でもあるが、ドラマティックな展開ではなく淡々と話が進んでいく。
登場人物の魅せ方や、セリフの言い回し、場面の切り取り方が秀逸で、見ている側も気付かぬうちに勘違いや思い込みを起こしてしまう。
湊くん(安藤サクラの息子)が危ない思想の子供であるかの判断材料となるセリフだが
「猫と遊んでいた」か、「猫で遊んでいた」か、記憶が曖昧
私の中でその時湊くんは猫を殺めているが、友人の中でそれは勘違いである
私が作中で見て記憶したものと、友人が見て記憶したものでは少しずつニュアンスが異なる
映画なのでもう一度見て確認したいと思うが、現実ならそうはいかない
もう今の状況が作品に投げかけられた問いそのものにも思える
人と話すことで何倍も面白くなる作品
そこまで分かってるなら救ってくれよ!
Twitterをみてると、この映画がLGBTQをオモチャにしてるとか、傷つくから観ない方が良い、みたいな批判がバズってたけど、僕はそんな風には感じなかった。
子供の頃、女子みたいって揶揄われた事とか、親に本当の事を伝えようとしたけどTVに映るゲイタレントを「気持ち悪い」って言ってるのを聞いて伝えられなかった事とか、色々思い出して心がグッてなったけど、「消費されてる」なんて感じなかった。
寧ろ、何が奏や星川くんを追い詰めていったのかが緻密に、的確に描かれてて、こんな風に自分達と同じ目線を描いてくれるんだなって感覚の方が強かった。
でもだからこそ、描いているモノのリアルさに比べて、ラスト(救い)が抽象的すぎないか、という戸惑いもある。
この映画のラストは、湊たちが生きてるのか死んでるのか、どう捉えても正解な作りになってる。だって、他人が思い込みで誰かに、こうなんだよって言えないって事がこの映画のテーマなんだから。
だからもし、今まさに問題に直面してる人がこのラストをネガティブに捉えてしまわないかって考えが頭の片隅にあって、手放しで絶賛できない。
この映画が「答え」じゃなく「問いかけ」に重点を置いてるのも分かるし、多くの人に観てもらうためには効果的なのも分かるけど、ラストだけは大勢の観客の為じゃなく、今泣いてるたった1人の誰かのために作って欲しかった。
少なくとも、現実的な救済(解決策)を1つでも良いから描いて欲しかった。
校舎の屋上から下を眺めてた当時の自分がこのラストをみても、明日を頑張ろうとはならなかったと思う。
今、自分は大人になって少なからず理解してくれる人がいるけど、学生で同じ様な問題に1人で直面している人達にとってはかなりキツいんじゃないだろうか。
でも、そういう人は必ずいる。ってか居ないはずがない。湊みたいに、なんで自分は生まれてきたのって、人が望む幸せは絶対に手に入らないのにって苦しんでる人が。
だから、そういう人に伝えたい。
そんな事はないよって。
止まない雨なんて絶対ないって。
嘘だって思うかもしれないけど、今抱えてる苦しみは必ず和らぐ時が来る。
誰にも言えなくて、苦しくて、もしかしてずっと自分は1人ぼっちかもしれないって不安に押しつぶされそうになってる人がいたら伝えたい。
諦めないでって。
大人になって世界が広がれば、貴方を理解してくれる人が必ずいる。あなたの味方になってくれる人が、あなたのことを信じてくれる人が。
だから、あなたのままでいて欲しい。
願わくば子供が、なんで自分は生まれてきたの、なんて悲しい事を言わなくてすむ世界が、2人が駆け抜けた、晴れ渡った柵のない世界が、少しでも現実に近づきますように。
怪物だーれだ。
怪物です。是枝裕和監督×坂元裕二脚本とくれば、見ないと!という作品ですが、
カンヌの受賞で普段映画を見ない層にも訴求したらしく、映画館は盛況でした。
小学生の兄妹を連れたお母さんとか、後期高齢者と思しき女性の二人組とか、珍しい観客がいました。
受賞については、クィア・パルムを受賞したということが、若干ネタバレやんとは思いつつ(もともとのあらすじではその要素は出てなかったから)、性的多様性においては、遅れている日本の作品が、クィア・パルムを受賞したというのは、寿ぎたいでき事でもあります。
また、数々のドラマでその脚本に慰められてきた坂元裕二の脚本賞受賞は、非常にうれしく思いました。
さて、作品自体については、以下のようなことを思いました。
坂本さん、また主要人物をクリーニング屋勤務にしてはるwww(woman、最高の離婚)
出演者が是枝映画の常連というよりは、坂元ドラマの常連が多い
形式が、「藪の中」である
※芥川龍之介の小説「藪の中」をふまえて、関係者のいうことが食い違って、真相がわからないことのたとえ。by故事俗信ことわざ大辞典
湊の母目線、保利先生目線、誰の目線かわからない3つ目の目線とを総合して、以下のように自分の解釈を記しておきます。
湊と依里は、性的に惹かれあった。
依里は父親に虐待されており、父親の言う病気とは、はじめは鏡文字を書くことから学習障害?発達障害?と思っていたが、恐らく同性愛傾向、男らしくないこと、を指していたのでは。
父親の暴力から、依里はだいぶ傷ついており、父を殺すため多分ガールズバーを放火した。
湊は、自分の同性愛傾向に戸惑っている(依里はそこまで戸惑っていない感じがした)。
母親は、シスジェンダー・ヘテロ的『普通』以外が思いつかないので、湊が結婚して子供ができるまで、などという明るい将来の定義にて、湊を苦しめている。
湊の父の死因は、どうやら不倫旅行中の事故らしく、そのことをないことにして(湊に知られていることを母が知ってるか不明)父を慕うよう促す母への同情というか、愛情もみられる。
依里と仲良くすることで、いじめを避けたい、でも依里へのいじめへ加担することへの罪悪感も強い、またテレビや親・大人の言動から、同性愛者の幸せが見えなくて、それを選べない。混乱の極みによって、走行中の自動車より落ちることになる。
多分、同級生の漫画を読んでいた女の子は、湊と依里にいじめっ子といじめられっ子という見せかけ以外のことを感じている(から、猫のことを保利に伝えた?)。
依里はわざと鏡文字を湊の母の前で書いて、作文に混ぜた暗号のようにして、目の前の大人を試した。
秘密基地の電車の中での結末は?
二人が死んだとの解釈もできるが、車体から出てどこかで夜を明かし、雨が止んだあとの森で、二人が楽しく走り回っていたと解釈したい。
自由に思うままに生きることができると思いたいから。
大人については、湊母、保利、校長以外の教員、依里父は特筆すべきところはない。
私が湊母で、保利で、教頭や2年生時の担任だったとして、彼らとは違うもっと“よい”、“適切な”言動ができたかわからない。違うことができたとして、それが誰かを傷つけないともいえない。わたしも生きた分、偏見を積み重ねて暮らしてるから。
謎が残ったのは、校長。
孫の死因はじつは校長自身が起こしたという噂について。
湊母がみた、スーパーで走る他人の子どもへの足ひっかけ。
湊母の申し出に対する対応の不味さ、考え方(ほんとのことなんてどうでもいいんだよ、と言っていたと思う)。
恐らく逮捕された夫とのやり取りと折り紙。
湊にトロンボーンを渡したやり取り、一部の人にしか手に入れられないものなんて幸せじゃない、的な発言。
結局分からなかったし、解釈することもできなかった。
田中裕子を配したのだから、初対面の観客が簡単に解釈できるような人物にはしないよね…というね。
人のことをまるっと理解できるというのは、有り得ないから、これでいいのかも。
でも、なんらかの解釈しないと先に進めないから、偏見を積み重ねるしかない。
ので、怪物だーれだ、の答えはわたし、であり、あなた。
映画の終わりの先がどうであれ
2人が仲直りしてまた会えたことがよかった。
大人の目線で見ると2人がどうなったかとか、生きてても亡くなっていてもと、考えてしまうことはたくさんあるが2人にとってはあの瞬間がハッピーエンドだと思う。エンディングで流れる坂本龍一さんのaquaからもそう感じた。
線が繋がらない
伏線を多く張り巡らされており、後半で回収されるという展開だったと思いますが、やはり湊が、保利がいじめをしているという嘘をついた理由と、途中湊が車から飛び降りた理由が自分の中ではピンとこない。
あとは、映画の予告で怪物は誰だ?という形でされてましたが実際は明確に誰が怪物ということはなく、みんなに怪物要素があるということだった。これは予告のミスリード。わざとミスリードにして、思い込ませるということだったのかもしれないけど少し拍子抜けだった。
怪物だーれだ、の意味を知った時怖気がたった
怪物。そのタイトルが、この作品をむずかしくしている。
怪物だーれだ、それはこの物語の中にいる怪物を探す言葉じゃない。
それに気づくまでに時間がかかった。
だれが悪なのか、親なのか先生なのか学校という組織なのか、子供なのか。
見ていくうち、ずっと違和感があった。
ミッドサマーを見ていたときに感じたものと同じようなもの。
何かがおかしい。どこがおかしいのかわからない。こわい。
常識のない行動をする人、組織と闘うこと、チャッカマン、泥水の入った水筒、不可解な行動。
一方向から見ていると真実が見えない。
二方向目、三方向目。
誰かの正義、自分の見たいもの。
全てのことに意味があるのに、ここまでしないと見えない。
自分の見えている情報で相手にヒントを出し、"怪物"を当てさせるのはむずかしい。
同じ価値観でないと。
同じ人間ではある、でも、それぞれの立場が違うとこんなにも見えにくくなるのか。
わたしの信じている普通って、なんだろう。
静かにエンドロールが終わった時、真っ先に感じたのは自分に対する怒りだった。
理解があるほうだと思っていた。
"普通じゃない"、ことに。
だけど、今はっきりと深層心理で何も理解していない自分が分かった。
逆転現象が起こっても、状況は何も変わらないことを子どもたちは知っている。
ただ、
おもしろくない、意味がわからない作品と片付けないでほしいと思う。
問題を出されて、考えるのはわたしたち。
答えを出すのは、わたしたち人間。
怪物だーれだ。
あなたから見える怪物はどんな形をしている?
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