怪物のレビュー・感想・評価
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色々と考えさせてくれる映画
わんわん泣かされた。 周囲の無理解と自分は”普通”だと思い込みたい...
わんわん泣かされた。
周囲の無理解と自分は”普通”だと思い込みたい主人公の男の子。
つらい。
そして幼少期に無自覚に人を傷つけてしまっていた自分を恥じた。
物語の構成。
ミステリのような楽しさ。
役者さんたちの鬼気迫る演技。
神経質すぎるcorrector
長野県諏訪市のとある公立小学校で起きたパワハラ事件を巡る三者(母親、教師、生徒)の視点。“クィア”な存在に対する社会の偏見はどのようにして生まれるのか、という問いがそこから浮かび上がってくる、なかなか巧妙なシナリオだ。かつてオーストリアの巨匠ミハエル・ハネケは、ファシズムの精神的起源を宗教的不寛容にあることを『白いリボン』の中で暴露して見せた。是枝裕和と坂元裕二が、さらに遡ってその不寛容の起源について考察してみた映画といえるのだろう。
「人間の脳を移植された豚は人間といえるのか」科学の進歩とともに人間と動物の境界がどんどんあいまいになってくると、逆に倫理規程が取り沙汰されるように、LGBTQに対する差別偏見をなくそうと上から圧力がかかればかかるほど、末端の小学校ではクィアの子供に対するイジメが激化する。私たちが社会のあらゆる境界を無くそうと努力しているのだから、その末端の組織でも差別が少なくなっているはずだ、と良識的な大人たちは思っているのかもしれない。それって逆じゃないすか、と是枝✕坂元コンビは疑問を投げ掛けているのだ。
豚の脳、鏡文字、誤植、転覆病にかかった金魚、お菓子泥棒(万引き癖)、不協和音を奏でる楽器.....それらはクィア=風変わりなもののメタファーであるとともに、登場人物たちの目にはなにかしら別の意味を持った得体のしれないもの=“怪物”として映るために、(『白いリボン』の牧師のように)“矯正しなくてはならないもの”のように思えるだ。(汚れを落とす)クリーニング屋のモンスターマザー、出版物の誤植探しが趣味の教師、消しゴムで何かを必死に消そうとする生徒、床の汚れ落としに一生懸命な校長先生は、神経質すぎるcorrectorとして描かれるのである。
しかし、観客はそれら“風変わりなもの”の中に隠された別の意味があったことを、『羅生門』演出によって知ることになるのである。冒頭の火事が実は放火で、パワハラ教師は実は優しい先生で、死んだ父親は不倫していて、イジメッ子だと思った子供は無二の親友だったのである。依里に対して友達以上の感情を持っていることに気づいた湊は、その感情の正体が自分では理解できずに、“怪物ゲーム”という『禁じられた遊び』によって、相手に教えてもらおうとするのである。
生まれもった人間の瑕疵というのは、瑕疵ではなく個性だと思ってもいない嘘をつくのではなく、ましてや人工的に無くそうとしたり消し去ろうとするべきものではない。ラスト湊と依里が泥だらけの姿のまま、いつのまにかフェンスが消え去っていた鉄橋をわたろうとしたように、(人間の事実認識に限界がある以上)本来的には瑕疵は瑕疵のまま、自然にまかせて放任すべきものではないのだろうか、そんな寓意が伝わってくるのである。ちょっとした歪みをみつけると、すぐに矯正排除しようとするせっかちな現実社会の中で、救われることは決してないのだけれど.....
まったく情報を入れずに見に行きました。是枝作品は合うものと合わない...
主役をあえて子どもにする発想はさすがの一言。
面白かった!
本当の怪物は誰なのか
話題作なので観てきました。
坂元裕二さんの脚本も好きなので楽しみでした。
それぞれ違う目線でストーリーが進む「羅生門」「最後の決闘裁判」(←最後の決闘裁判は胸糞映画)スタイルの映画でした。
基本が「ビルの火事」ここから話が始まります。
違った目線で観ることでこんなに印象が変わるなんてー。
坂元裕二さんぽいな、と思ったところが安藤サクラさん演じる母親が校長に言い寄るシーンで
校長「‥はい。」母親「はい、じゃなくて!」校長「えぇ。」母親「はいをええに変えたらいいんじゃないんですよ。」っていうところ。こういう言い回しが面白い。
校長が怪物だなーと思ったけど、
ラスト付近の楽器を吹きながらの一筋の涙。田中裕子さんの演技も素晴らしい。
結構なチョイ役だった高畑充希さん、中村獅童さんもなかなかの怪物でしたよ。
子役の二人はほんとに凄くて。
ラストシーンは泣きそうになりましたよ。。
安藤サクラさんの演技もさすがやなぁ。
是枝裕和監督作品嫌いじゃないわ(なぜか上から目線w)
坂本龍一さんの音楽もとても良かったです。
鑑賞動機:坂元裕二4割、カンヌ3割、是枝裕和3割
なるほど、そういう作りにしてあるのか。構成自体はそれほど複雑ではないけれど、いつ誰の視点で何をどんな風に見せるか、そして何を見せないか、を考えて考えて考え抜いてつくられたのだろうか。
無責任な立場で後出しでならいくらでも好きなこと言える。
『悪人』(原作)を連想する。「悪人は誰?」ってね。何気ない「怪物だーれだ」というセリフがどんどん大きくなってこちらに重くのしかかってくる。
誰が彼らを批判しているのか、我々は怪物か
怪物とモンスター
暗からはじまり明へ。徐々に明るい兆しが見えてくるようだ。
出だしから中盤辺りまでミステリー的な要素があり、一体なにか起きたのか、起こっているのかという謎に引き込まれた。
その後、陰湿な人間の性を見せつけられるようなシーンに心が沈むが、中盤辺りから、それら人間の陰湿さが誤解であったことが次第に分かってくる。
『怪物』という題名だけに、登場人物にただならぬ悪人が出でくるような予感がしたが、そうではなかった。
ストーリーは、多角的視点で進行するが、それらが進行するに連れて、不安な心の緊張がときほぐされて、終盤にあっては、この少年二人に、希望のようなものを感じる爽快な気持ちとなった。
また、それと同時に人間社会の複雑さ、辛辣さを感じさせた。
言わば、こうもうまくいかない社会の辛辣さのなかで、少年二人の同性愛的な友情が際だって綺麗に見えた。
鑑賞し終えたところ、実はみんなよい人であったことが分かる。
では、題名にある怪物とはなんだったのか、疑問が残っている。
子供には子供だけの世界がある
大きな湖があるとある街(劇中で諏訪とは特定されない)で雑居ビルで火事が起こる。
その火事を家のベランダから眺めるシングルマザーの早織(安藤サクラ)と小学生の息子の湊(黒川想矢)のシーンから物語が始まる。
映画はこの火事のシーンを起点に1つの出来事、時間軸を3者の視点で描く。
黒澤明監督が「羅生門」で用いたことが有名で、映画や小説でもよく用いられる手法だ。
今作品は是枝裕和監督では珍しく、自身の脚本ではなく、今作品でカンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いた坂元裕二氏の脚本による。
第一幕は冒頭のシングルマザー、早織の視点で描かれる。
息子の不可解な行動から学校でのいじめを疑い、学校に乗り込んでいく。
そこでの校長の伏見(田中裕子)や担任の保利(永山瑛太)、教務主任の対応は誠意が感じられず、早織は不満を募らせていく。
ところが保利に息子がいじめの加害者だと言われるあたりから潮目が変わる。
第二幕で担任の保利の視点に変わると事は単純ではなく問題は多層的であることがわかってくる。
第三幕は当事者の子どもたちの視点に移る。
湊といじめの相手とされている依里(柊木陽太)の関係性が描かれるが、思春期の少年の危うさ、儚さ、瑞々しさが丁寧に描かれ、出色の出来。
特に依里役の柊木陽太の繊細な感情の表現には驚いた。
終盤は宮沢賢治の幻想的かつ謎めいた童話を想起されるような子供達の世界が描かれる。
1点気になったのは、視点の違いを分かりやすくするためか、第一幕でかなりのミスリードがあること。この映画ではその描き方はしなくていい。
音楽は坂本龍一が手がけ、1998年に発表されたピアノ曲「Aqua」が流れるエンディングの光景の美しさが脳裏に焼きつき余韻に浸った。
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