怪物のレビュー・感想・評価
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真実とは事実の一側面であり、全てではない
人間は複合的な情報分析によって事象を認知する生き物だ。五感をフル稼働させ知覚を得て、神経を通して情報が脳に届き、分析・精査され認識する。
そしてその感覚は「見えないもの・聞こえないもの」「ある筈のないもの」にも適応される。ある事象Aとある事象Bが連続して認知されたとき、AとBの間に連続性や共通性を見出そうとし、Bの原因をAに求めたり、未来に起こる事象Cを予測したりする。
「怪物」の特報は印象的な声から始まる。「怪物だ〜れだ?」と問いかける声。歌うような調子、走る少年の映像に子どもの遊びなのかなと思う。そして映し出されるキャストのアップ、「だ〜れだ?」という言から、この中に怪物がいるのかな?と思う。
両足の間に落ちる赤い液体に血を連想し、白地に赤く浮かび上がる「怪物」の二文字。
特報一つとっても、与えられた知覚と与えられなかったはずの情報と、それらを吟味して導き出される映画への期待という、人間らしい認知の仕組みが発揮されているではないか。
映画「怪物」は、3部構成のストーリー全てでこの「人間の認知」が引き起こす軋みを見せてくれる。
もっと正しく言うなら、「実際に起こった出来事」と誰の視点ではどう見えて、どう感じて、どう考えたのか、を見せてくれるのだ。
例えば安藤サクラ演じる麦田早織は、当初「豚の脳を移植した人間」の話にフラットに対応している。そこには嫌悪も敵意もなく、「最近の学校は妙なことを教えるね」と、至って落ち着いた様子だ。
それが「息子の涙」や「担任の先生から言われた」という息子の言葉によってその話は一気に当事者性を帯び、攻撃的な言葉に変化する。
早織の中で担任の保利先生は「普通の先生」から「危険な先生」に変化し、クリーニングの受付で聞いた噂話も保利先生の教師としての資質を疑問視する行為に変化していく。
当然だが、永山瑛太演じる担任の保利先生自身が変化したわけでは無いし、噂話が事実であるかどうかを早織に確かめる時間はない。
この場合、息子が泣いているという事象の原因を別の事象である保利先生の行動と結びつけ、それを排除することで「息子の幸せ」という結果が期待できる、と判断しているのだ。
映画の中で早織はごくごく普通の母親であるし、色々口やかましいタイプでもなく、何なら物事の決めつけには注意を払っている方だと思う。それでも日常に潜む「認知の仕組み」の中で、無意識のうちに考えや感じ方が変化させられていくのだ。
こう書いていくとまるで人間の認知の仕組みが「悪」であるように感じられるかもしれないが、膨大な情報を処理し、最善手を決断するためには不可欠な機能である。この仕組みがなければ科学の発展は無いし、犯罪の捜査は無理だし、短歌も俳句も成立しない。
アニメーションは誕生せず、広告は直接的な言葉の羅列で、生活のために記憶しておかなければいけないことは膨大な量になる。
この便利な認知機能なしでは人間は生きていけないし、無意識に行われるからこの事を忘れがちなだけだ。ただ、忘れてはいけないのは、私には私の認知があるように、他人には他人の認知があるということだけなのである。
何か一つの事実が、たった一つの認知による真実であるとは限らない。例えば、スーパーで走り回る子どもに、足を引っ掛けて転ばせる行為は普通に考えれば悪意だ。だが、子ども自身が転ぶことで少なくとも巻き込まれて転倒する人はいないし、陳列が崩れたり倒れたりして事故になる可能性はなくなり、親にも「だから走るなって言ったでしょう!」と大義名分が与えられる。
足を引っ掛ける行為は、褒められたものじゃないが論理的に最小限の労力で今起こっている事象を止める効果がある「必要悪」で、それを行う人間の考えがどんな根拠に基づくものなのか、他人には知る由もないことなのだ。
この映画の中に「怪物」はいない。もしいるとしたらそれは特定の個人ではなく、「何かを正さなければ」という意識に駆られた暴走のことだ。
その暴走を引き起こしたのは、誰か一人の他愛ない一言だったのかもしれないし、愛や正義からくる「必要悪」かもしれないし、この世界に受け入れてもらえない孤独さなのかもしれない。
色々小難しい感じの話を書いたけど、とにかく構成も含めて見事なストーリー展開。特に音で各パートがつながる展開図のような仕掛けは、ストーリーという軸にキャラクターという面が突き刺さっているような、そんな感覚。
さらに疾走する自転車の爽やかさ、各シーンの光の美しさ。特に天井窓の泥を拭い続けるシーンは、闇の中に光がいくつも瞬くようで、ドキドキハラハラのシーンでありつつも、その表現に見惚れてしまい「このままエンディングでも良い!」くらいに惹き込まれてしまった。
実際にあそこで映画終わったら「何じゃそりゃ」って絶対に言うと思うけど。
個人的には、是枝監督史上最高に面白かった一本。
良い意味で裏切られた
やだ、私だけっぽい
切ない
整理が必要
なかなか鑑賞後星をつける気分になれなかったが、色々な足跡を頭に残し、疑問と闘っていた当時のメモを一旦整理する。
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小学生のこどもがいる人は平常心ではみられないかも?
最初から生まれ変わりの話が出てきたから都度ブラッシュアップライフがよぎって邪魔だった
クィアパルム賞は忘れてたけど、それが主題なのか?やや疑問。そんな賞があること自体がまだ多様性を阻んでる気もするし、それが主テーマだと思われるのは違う気もする。
◆怪物誰だ?
- 隠蔽体質の校長と教師陣
- 伝聞と噂を真実と決めつけ子どもに結婚の圧をかける母親
- 男らしさを強要し、真実を見極められない先生
- イジメをする子どもたち
- イジメを傍観し、嘘をつき、なぜかホリ先生になすりつけることにしたクラスメート
- 子どもを豚の脳と呼び虐待する父親
- 自分は病気だと思い火をつけた?星川くん
- イジメを止められず自分の想いも認められない湊
◆謎
星川くんは本当に火をつけたのか
校長は本当に孫をひいたのか
湊の父は本当に不倫してたのか(ホリ先生のガールズバー通いが嘘だったことを考えるとまだ分からない?)
湊が猫を殺したと伝えた女子生徒の意図 (ただの勘違い?)
アンケートで皆ホリ先生暴力を振るったって答えることにしたのはなぜ。それとも書いてないのか
校長は一体何を考えているのか
◆無理を感じたところ
教育委員会に言うとなぜ言わないんだろう?
ホリ先生もさすがにあそこまでは不自然?
(途中までは言わされ感と納得したが、飴のくだりとか、片親批判とか(自分もなのに)、もっとしっかりしてそうだったのに)
母親も最初は決めつけて作文で名前の隠し文字を見ただけで優しい子だったんですまで分かるのか?
◆気づけなかったこと
湊の身体が反応してしまったこと
校長が走り回る子どもに足をかけたこと
結構重要なポイントだけど人のレビューを見るまで気づいてなかった。
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こうして色々考えるに至るのが是枝作品の好きなところ。最後の笑顔が切ない。
或る怪物
色々と考えさせてくれる映画
わんわん泣かされた。 周囲の無理解と自分は”普通”だと思い込みたい...
わんわん泣かされた。
周囲の無理解と自分は”普通”だと思い込みたい主人公の男の子。
つらい。
そして幼少期に無自覚に人を傷つけてしまっていた自分を恥じた。
物語の構成。
ミステリのような楽しさ。
役者さんたちの鬼気迫る演技。
神経質すぎるcorrector
長野県諏訪市のとある公立小学校で起きたパワハラ事件を巡る三者(母親、教師、生徒)の視点。“クィア”な存在に対する社会の偏見はどのようにして生まれるのか、という問いがそこから浮かび上がってくる、なかなか巧妙なシナリオだ。かつてオーストリアの巨匠ミハエル・ハネケは、ファシズムの精神的起源を宗教的不寛容にあることを『白いリボン』の中で暴露して見せた。是枝裕和と坂元裕二が、さらに遡ってその不寛容の起源について考察してみた映画といえるのだろう。
「人間の脳を移植された豚は人間といえるのか」科学の進歩とともに人間と動物の境界がどんどんあいまいになってくると、逆に倫理規程が取り沙汰されるように、LGBTQに対する差別偏見をなくそうと上から圧力がかかればかかるほど、末端の小学校ではクィアの子供に対するイジメが激化する。私たちが社会のあらゆる境界を無くそうと努力しているのだから、その末端の組織でも差別が少なくなっているはずだ、と良識的な大人たちは思っているのかもしれない。それって逆じゃないすか、と是枝✕坂元コンビは疑問を投げ掛けているのだ。
豚の脳、鏡文字、誤植、転覆病にかかった金魚、お菓子泥棒(万引き癖)、不協和音を奏でる楽器.....それらはクィア=風変わりなもののメタファーであるとともに、登場人物たちの目にはなにかしら別の意味を持った得体のしれないもの=“怪物”として映るために、(『白いリボン』の牧師のように)“矯正しなくてはならないもの”のように思えるだ。(汚れを落とす)クリーニング屋のモンスターマザー、出版物の誤植探しが趣味の教師、消しゴムで何かを必死に消そうとする生徒、床の汚れ落としに一生懸命な校長先生は、神経質すぎるcorrectorとして描かれるのである。
しかし、観客はそれら“風変わりなもの”の中に隠された別の意味があったことを、『羅生門』演出によって知ることになるのである。冒頭の火事が実は放火で、パワハラ教師は実は優しい先生で、死んだ父親は不倫していて、イジメッ子だと思った子供は無二の親友だったのである。依里に対して友達以上の感情を持っていることに気づいた湊は、その感情の正体が自分では理解できずに、“怪物ゲーム”という『禁じられた遊び』によって、相手に教えてもらおうとするのである。
生まれもった人間の瑕疵というのは、瑕疵ではなく個性だと思ってもいない嘘をつくのではなく、ましてや人工的に無くそうとしたり消し去ろうとするべきものではない。ラスト湊と依里が泥だらけの姿のまま、いつのまにかフェンスが消え去っていた鉄橋をわたろうとしたように、(人間の事実認識に限界がある以上)本来的には瑕疵は瑕疵のまま、自然にまかせて放任すべきものではないのだろうか、そんな寓意が伝わってくるのである。ちょっとした歪みをみつけると、すぐに矯正排除しようとするせっかちな現実社会の中で、救われることは決してないのだけれど.....
まったく情報を入れずに見に行きました。是枝作品は合うものと合わない...
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