「敗戦の落とし前・・・」ゴジラ-1.0 シシースパセックさんの映画レビュー(感想・評価)
敗戦の落とし前・・・
観終わってしばらくして、この映画を振り返った。これは日本の戦後、いや敗戦の清算なのではないか?特攻隊の戦闘機が整備不良でも整備基地にもどってくる。実際、こういうことは多く、特攻をできず、戻ってきたり不時着したりしていたと聞く。特攻で死ねなかった人たちは生き恥として、敗戦後まで隔離されていたようだ。山﨑監督は特攻隊の作品に取組んでいたのでそのあたり、調べていたのだろうと推察する。主人公は機体の整備不良で戻って来るが整備平たちからは嘘であると見抜かれている。しかし、整備兵たちはこんな臆病者を責めたりはしない。この描写はやはり戦争未体験者の表現だ。わたしも山﨑監督と同世代。父からも「天皇陛下万歳!」なんて叫んで死んでいっていない、と聞かされた。
突如、この基地はゴジラが出現し、隊は全滅する。主人公、gあ神木隆之介はここでも怖気づき、ゴジラに整備兵さちが殺されていくのを見ているだけ。
そんな生き恥男が主人公で物語は進んでいく。
ゴジラは戦後復興をとげた東京に現れ壊滅していく。この描写を見て、わたしはこれはアメリカ軍の日本上陸ではないかと思う。このフィクションをまだ戦争は終わっていない、日本はまだ戦っていないかの錯覚をもって見ていた。
ゴジラ出現に、アメリカ軍は一切、手を出さない。日本政府も何もしない。この時代はまだ自衛隊はなかったんだろうか?
ゴジラ退治はなんと民間人が対峙することなる。それも元軍人たち、兵隊に召集された有志たちで。立ち向かう兵器も旧日本軍もの。戦後、日本陸海軍などの兵器、軍艦などはアメリカ軍により没収され、破壊されている。そんな残された兵器を、どうぞご自由に~と渡されそれで戦いに挑む。それは、日本にアメリカ軍が上陸したら、おんなこどもたちは、槍で戦えと言う具合に。丸腰でゴジラに挑む、まさにこれは本土決戦ではないか!と思って見入ってしまった。過去の東宝ゴジラ、シン・ゴジラのように国、政府が立ち上がって化学兵器で立ち向かう路線とは一線を画すものになっている。
映画はそれまで、神木隆之介と浜辺美波の家庭ドラマが展開し、戦後どう生きていくかのストーリーが展開されていく。この有志団結成にあたり、戦闘機乗りであり、機銃も扱える生き残り兵として参加することになる。ここでこの生き恥特攻野郎は自らの敗戦の落とし前をつけにいく。ここを乗り抜けないと、戦争を終わらすことができない、のどにひっかかった棘をとるために。この描写は戦争体験者なら、自分が死ぬまで戦うストーリーになっていく。実際、そんな作品は少なからずある。ここは戦争未体験者ならではの視点である。
山﨑監督の時代、私も同じだが、多くの戦争映画、ドラマがあった。邦画、洋画を問わず、戦争賛美的なもの、娯楽映画ながら戦争への批判を織り込んだもの、反戦映画などさまざまなものがあった。8月15日は戦争をテーマにした特番ドラマが必ずあった。
私の世代は戦争というものがまるでビッグイベントのようなもの、そんなものがあったという認識がどこかにあった。これら公開された戦争映画は中高生の観客がけっこう多かった。角川春樹はこのあたりをついて、「男たちの大和」で、中高生に向けたプロモート活動を行っていた。そんな環境もあってか、監督の視点をなんなく推察してしまう。
映画はクライマックス、震電という戦闘機で立ち向かう。これはご存知の人も多いと思うが、戦争中に日本軍が開発していた秘密兵器。ジェット機のプロトタイプのようなもので、プロペラはおしりについている。この幻の兵器でゴジラとの決戦に挑む。
日本の戦争の落とし前をこんなゴジラで見るとは思わなかった。
世界でこの映画が見られていると聞く。日本映画が海外市場で話題になったのは「新幹線大爆破」以来と思う。(これはわたしだけの思い)海外の観客はこんな視点で見てないと思うが、この作品がここまで受け入れられているのは、ヒットするツボがあったと思う。特にアメリカ人が好むストーリーラインが見られた。黒澤明作品がアメリカで絶賛されたことにもつながる要素がこの作品にもあったと感じた。それは何かと、ここに記載してはおもしろくないので、鑑賞して感じていただけたらと思う。(終)