殺人美容師頭の皮を剥ぎ取りますなんてタイトルされてしまっているがつくった人の真摯な気持ちがつたわってくる映画だった。
原題はThe Stylistで同名のショートフィルムを長編化している。
監督Jill Gevargizianのバイオにはこう書いてあった。
『Jill “Sixx” Gevargizianは、ミズーリ州カンザスシティ出身の監督兼プロデューサーです。新作『The Stylist』(2016年)の主人公と同じく、彼女は10年以上ヘアスタイリストとして活躍しています。子供の頃、Gevargizianは父親のビデオカメラを手に取りました。2012年、彼女は地元にインディペンデント・ホラー映画を持ち込もうと、「スローター・ムービーハウス」という月例ショーケースを立ち上げ、現在も運営を続けています。(後略)』(imdbより)
ヘアスタイリストとしてやってきた経験というか溜息が、この映画にはあった。おそらく、数知れない人々の後頭部を見ながら、本作の主人公のようにじぶんが部外者であるという疎外感を味わってきたに違いない。画にその年期と吐息があらわれいた。
これが順当なクリエイティブスタンスだと思った。
小さい頃カメラであそんで将来映画をつくりたいと思う。→スタイリストとして映画業界にたずさわる。→スタイリストをしながら業界を観察する。→やがて仲間が出来てショートフィルムをつくる。→注目され長編化される。
この至極真っ当な映画監督の羽化経路に対し、日本の映画監督への経路は、日芸を卒業→天才or鬼才ともちあげられ拙い若書きでデビュー→数年後跡形もなく消える。・・・。
職歴すらないやつが題材に人間の機微をあつかったドラマをもってきたりする。
映画は芸術じゃない。芸術じゃないから現場で学ぶ。そのために業界の周辺から入って経験と知識、勘や溜息を積んでいく。やがて人脈ができて短篇がつくれるようになる。で、ショートホラーをつくる。
あちらの監督がおしなべてホラースタートするのは映画が作り手の思いを吐露する手段ではなく観衆を楽しませるエンタメだからだ。
日本映画界はその経路が無法地帯化している。たとえば商業作品としても作り手のスタンスとしてもぜんぜん立脚しないプロダクトとして21世紀の女の子ほど明解なエビデンスがあるだろうか。
日本映画業界になにが必要かってきみはそんな玉じゃないとか監督するまえにどこかで働いてこいよとか言ってあげられるEBPMのボットがいちばん必要だろう。
まえに見たSaint Maud(2019)のレビューでもおなじようなことを書いている。
監督のRose GlassはNFTS(イギリスの映画/テレビ製作者養成学校)を出てウェイトレスや映画館の案内係として働きながらSaint Maudの構想に取り組んだ。
Saint Maudはホラーだが、やはり作り手の吐息(人生に対する溜息)があらわれていた──のだった。
現場の技術もさることながら、人間や人生を知らないひとはドラマを描くことができない。が、日本映画界はそれを知らない。(ということが言いたかった。)
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主演のNajarra TownsendをContracted(2013)でよく覚えていた。邦題スリーデイズ・ボディ彼女がゾンビになるまでの3日間。
彫りの深いモデル顔が朽ち果てていく様子がけっこう衝撃的だった。あちらではスマッシュヒットし続編もつくれられた。
彼女が情緒不安定なヘアスタイリストを演じていた。頭皮を剥ぎたいという欲求がヘアスタイリストとしての現実的な孤独感と重なり微妙な風合いを醸すホラーだった。
RottenTomatoesが90%と40%。
批評家が上げて、一般が下げるこの特徴的なスコアは映画がリテラシーを要するときに顕われる。
優秀なスラッシャーとはTerrifier2のようなのを言う。The Stylistをスラッシャーとして見るならなんだこれってことになる。だけどThe Stylistには職人の吐息がある。やるせない孤独感を内包している。
いみじくもRotten Tomatoesのレビュアーのひとりがこう書いていた。
『この映画は、大人になってから新しい友人を見つけることは、連続殺人犯から逃れるのと同じくらい難しく、感情を揺さぶられるものだということを示唆しています。』
あっちの人ってうまいこと言うよな。
ただ個人的にTomatoesの批評家90%は上げ過ぎ。リテラシーを要するにしても小品だと思った。