「どこでもアデルらしい」ファイブ・デビルズ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
どこでもアデルらしい
アデルがでてたので見た。
母親の遍歴をユニークな方法で可視化する娘視点の奇譚。SFにはモノにさわると来歴が見えるサイコメトラーという能力があるが、ヴィッキーは対象の人物に関連した匂いをかぐと過去へリープする。無類の独創性だった。
主人公ジョアンヌ(アデル)は結婚してヴィッキーを生んでいるが旦那の妹ジュリアと同性愛関係にあった。ジュリアは幻視に悩まされていて、周囲からは(頭が)おかしいと思われている。幻視対象はヴィッキーであり、構造はよく解らないが合意しうる説得力があった。分類としてはファンタジーだが肌感はリアルな愛憎劇になっている。
核となる事件のあとの平穏な時勢から話がはじまり、ヴィッキーが匂いをかぐたびに、顛末が見えてくることで倒叙していく。
Léa Mysiusという女性監督で語り口も色使いも音使いもばつぐんにセンスがよかった。
ウィキペディアに『2022年に開催された第75回カンヌ国際映画祭の監督週間部門で上映され、クィア・パルムに選出された。』とあった。
クィア・パルムとはLGBTやクィア(性的アウトサイダー全般)をテーマにした映画に与えられる賞だそうだ。
個人的に映画に使われるクィア値には懐疑心をもっている。クィア値に加点するとなれば、男女の物語では0だったものが男男(あるいは女女)の物語ではプラス勘定になってしまう。欺瞞ではなかろうか。クィア・パルムなんて賞設定自体が欺瞞だと思う。
そういう付加価値判断があるから、彼らが本気で編むときは、みたいなエセLGBT映画がつくられちまうんだ。LGBTがなんだってんだ、あんたが女をすきだろうと男をすきだろうと、じぶんのことを女だと思っていようが男だと思っていようが、知るもんか。──って思いませんか。
ちなみにこの映画には釣りのクィア値はない。それはアデルが演じているからだし、自身がそうだったりクィアが日常に遍在している人たちがつくっているからだと思う。
アデルは演技の気配がなかった。ケシシュの映画でなくてもそうなんだと思う。少しぼーっとしているときの半開きの口から齧歯類のように前歯がちょっとだけのぞいている自然で動物っぽい表情!
なおタイトルの意味はわからなかったw。