西部戦線異状なしのレビュー・感想・評価
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かっこいい戦争なんてない
死んだ兵士の首に掛けられている認識票の半分を切り取り袋に回収する。それが兵士の名前と戦死者数記録に使われるんだろう。このシーンが映画の冒頭と最後に置かれている意味はとても重い。
死んだ兵士の軍服は丁寧に脱がされ、血まみれの水を大量に出しながら洗われ、その軍服は大きな裁縫工場で女性達によってミシンで繕われ、新兵に渡される。新兵には主人公のパウルのようにまだギムナジウムの生徒達も居る。徴兵制でないし母親にあなたには合わないと言われていたのに、学校の教師や友達の愛国的言葉につられて志願してしまうパウル。
みんな名前があり個性があり母親が、妻や子どもがいる。飢えに苦しみドロドロになり寒さの中で塹壕戦を戦う若い兵士達、戦争が終わった!とほっとした彼ら。一方、暖炉のある部屋で素晴らしい料理と赤ワインを楽しむフリートリッヒ将軍(年寄り)は、あと15分で休戦、にも関わらずドイツ勝利の為に戦えとドイツ兵達を煽る。批判能力も思考能力もとっくに失った兵士達は従い、まさに犬死に、野垂れ死に、無駄死にへ。
4年間で300万人以上が戦死した西部戦線に「異状なし= 報告すべきこと無し(nichts Neues)」のわけがない!
休戦協定に尽力したエルツベルガー(息子をこの戦争で失っている)の話をサイドストーリーに入れていたのは良かった。敗戦国のことも考えてほしいと述べたエルツベルガーに対し、相手国のことは考える必要なしと答えたフランス側。屈辱的な条件でもそれをのめば勝利国も理不尽さをわかってくれるとエルツベルガーは思っていたに違いない(そのエルツベルガーは暗殺され、ドイツは第二次世界大戦へホロコーストヘ)。
戦争を始めるのは簡単なのかも知れないが、一度始まった戦争を終わらせることは難しい。それをなぜ人間は歴史から学ばず愚行を繰り返すのだろう。
光の使い方が美しく、空、平原、葉の落ちた木々の森など自然の映像が見事だった。それだけに人間を人間でないものにする戦争の冷酷さが突き刺さった。
おまけ
私の好きな本『エウロペアナ』(邦訳)のカバー表紙に使われているのは第一次大戦でガスマスクをつけた二人のドイツ兵とラバの写真。まさにこのガスマスクを映画の最初の方でパウルたちが装着するシーンがあって、どきっとした。
衣装やメイクも見どころ
ハラハラドキドキ映画ではありません
見応えはありました。
扇情的
連合国側の映画をみる機会はありましたが同盟国側の映画を見る機会はなかったように思います。
一青年の視点を通じて1917やThey Shall Not Grow Oldのような戦場がうんざりするリアリティで描かれていました。
原作はドイツの有名な小説で、アメリカで映画化され古典になってもいます。
泥濘で命を散らせる一兵卒と、机上で空論を戦わせている偉いさんが対比的に描かれます。エモーショナルでフラグも立ちまくる扇情的な筋立てでした。残虐や愁嘆もくどい印象を持ちました。
小説を知らないわたしでも題名が司令部報告にゆえんするものだと知っていますが、そのような場面はありませんでした。ただし、本映画化に際して小説は脚色され、和平交渉の場面などは追加されたものだそうです。
『──「西部戦線異状なし」の作者エーリヒ・マリア・レマルクは1916 年に学生として戦争に徴兵されましたが、すぐに負傷し、軍病院に移送されました。そこで彼は、重傷を負った他の兵士の話を聞き、後に世界的に有名な小説で使用されたメモを作成しました。売上を伸ばすために、レマルクはすべてのイベントを自分で目撃したと主張しました。』
(wikipedia、Im Westen nichts Neuesより)
西部戦線異状なしはフィクションですが、大志や理想をいだいて戦争へ参加した青年が恐怖し、悲しみ、恥じ入り、幻滅し、疲弊し、心を閉ざす行程──人間が非人間的になるメカニズムが描かれ──それは東西を問わず遍く普遍性のあるキャラクターとして存在しています。
かれが連合国でも同盟国でも、どちらでも通じる話である──ということです。
Edward Berger監督は、映画化にあたって、英雄的なものを排除したことを強調していました。
『「ドイツでは、おそらく他の国とは異なり、自分たちの歴史をより批判的に扱います。」
「アメリカやイギリスの作品とは異なり、ドイツの戦争映画には美化の感覚はあり得ない。」
「私たちはここで英雄的な物語を語ることは許されていません。それは常に悲しみ、恥、罪悪感、恐怖に関するものです。そしてもちろん、これらの戦争で誇れるものは何もありません。」』
(同wikiより)
Berger監督のヒロイズム排除方針は、おそらくサムメンデス(1917)にたいする対抗心があると思います。1917とまるかぶりの塹壕映画ですから、差別化をしたかったのでしょう。(──と個人的には思いました。)
しかしアメリカやイギリスの作品──とて、かならずしも自軍を美化しているわけではありません。むしろ自省する映画のほうが多いはずです。
とはいえサムメンデスに対する対抗心がこの映画のリアリティをあげていたのはまちがいないと思います。映画には恐ろしい説得力がありました。
『西部戦線は1914年10月の開戦から程なく塹壕で膠着。1918年11月の周旋まで前戦はほぼ動かなかった。わずか数百メートルの陣地を得るため、300万人以上の兵士が死亡。大戦では約1,700万人が命を落とした。』
(お終いのテロップより)
1700万人 / 1 人
オリジナルが名作ならば、今回は傑作
開戦から終戦まで膠着状態だったわずか数百メートルの陣地を得るために命を落とした300万人の1人="一兵卒"として経験する戦場の混沌とした残酷さ、戦争の不毛さ
名著の再映画化は --- その2作の間に一度テレビ映画化されらしいものは未見ながら --- オリジナルと同じように他の兵士のものがいかに別の兵士へと渡るかという流れから始まり、大まかなあらすじを知っていても掴まれて、改めて引き込まれるものがあった。あれだけ親の反対を押し切ってまで普通の学生が兵士となって、戦場を体験する中で見た景色。家に帰れるという夢を見て、いもしない女の幻影を愛した。幻の女を追いかけた。夢も見れないで、若者らしいこともできないで。
戦闘シーンの迫力が増したことで、戦争の凄惨さが際立つ作りが恐ろしかった。"戦場のリアル"などと今を生きる僕たち私たちが易易と言えないが、戦車や火炎放射器、四肢のもげた仲間の死など、例えば『炎628』『プライベート・ライアン』方向の遠慮のない描写。そして、本来なんの恨みもなく、戦時中でなければもしかすると分かり合えて友達になれた可能性すらある --- それぞれに家族もいる --- 敵国の兵士の命を奪う。そうしないと自分が殺されてしまうから。
俺たちは生きてる!これは熱病だ、こんなの誰も望んじゃいない。神は見てるだけ。だけど俺は一兵卒だ、何も分からん。…明日が怖い。手の感覚がなくなるほど冷たいときは下着の中に手を入れろ。今じゃもうズボンが緩くて落ちる。カット!人を殺しただけ、称賛されるようなことじゃない。上層部のエゴ見栄と傲慢で使い捨てられる膨大な命、あまりに大きすぎる犠牲。自身の息子も喪ったことで一刻も早く戦争を終わらせようと動くダニエル・ブリュール。署名。
言わずもがなロシアによるウクライナ侵攻など今日でも通ずる。
勝手に関連作品『彼らは生きていた/ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド』『1917』
11月11日午前11時
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