フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
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ジョン・フォード監督
若かりし頃、スピルバーグが、ジョン・フォード監督と会っていたんだ、
スピルバーグの親の離婚に興味無い、
ジョン・フォードが、ラスト出て来なかったら、真中に地平線のある映画だった。
地平線が意図するもの
スピルバーグの自伝的映画ということに興味をもち観ることにした。
観終わった感想としては、いまいち「映画が意図していること」をちゃんと僕が理解できていないのではないか、という消化不良な感じが拭えなかった。
1人の人間の成長ドラマとしては見ごたえがありそれなりに面白い。大人たちの愛情をうけ無邪気に楽しいだけの幼年期からはじまり、成長するにつれて数々の葛藤や青春を経験し、最後に自分自身の本当に向かうべき道を確信して終わる。
だけど、これはあくまで「のちにこの青年があのスピルバーグになるのである…」ということありきだからそれなりに興味をもって観れるのであって、仮に映画の背景にあるコンテキスト抜きに作品単体で面白いかと言われれば正直微妙。
主人公の家族や友人知人はみんな個性的で面白い。理知的な父親、芸術的な母親、ユーモラスなおじさんなどなど、彼らがスピルバーグの人間性を形作り、作品に反映されているということだろう。
特に母親の存在が大きい。母親の「すべての出来事には意味がある」という考え方は、まさに映画の本質ともいえる。映画の中のできごとはすべて監督が意図したものだからだ。
「すべての出来事には意味がある」という目で世の中をながめてみたり、自分の人生に意味付けすることで、映画監督としての感性がみがかれていったのではないだろうか。
個人的にはキリストを崇拝するガールフレンドがぶっとんでて面白くて大好きになった。彼女だけがステレオタイプな役柄から外れている気がする。
主人公は「後に天才映画監督になる異端児」というよりは、周囲の個性的な人間たちに翻弄される「常識的感性をもつ一般人」として描かれているように思う。
「クラッシュ」に固執したり、映画作りに熱中したりというエピソードはあるけど、常人より特別秀でた感性があるというほどではない。この主人公が後に「ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」などの数々の革新的作品の監督になる、と言われてもちょっとピンと来ない。
たぶん、これがスピルバーグ本人による自伝映画だから主人公は「普通」という設定になるのだろう。本人が監督でなかったら、主人公の異端ぶりをもっと強調するに違いない。
この映画のポイントは、「映画の本質」を
主人公が徐々に理解していく過程なのだと思う。ボリスにつきつけられたのは、「芸術を追及する者は家族と引き裂かれてしまう」ということ。母親とベニーおじさんとの件では、「知りたくもない真実を明かしてしまう」もの。おさぼり日の映画では、逆に「ありもしないものを表現の魔法的な力で捏造してしまう」もの。
最後、映画の巨匠的な人に「地平線は上になっても下になっても面白いが真ん中だとくそつまらん」みたいなアドバイスもらって、上機嫌で終わったけど、この終わり方の意図が僕にはよく理解できなかった。
ストーリー的には、巨匠の言葉によって、それまでの主人公の迷いや悩みが晴れて、映画監督になることへの決意がみなぎった、ということのはずだけど、なぜ単なる映像の構図へのアドバイスにそんな力があったのか、やや腑に落ちない。
単にあこがれてた映画の巨匠にアドバイスもらって嬉しかった、ということかもしれないけど…。
「すべての出来事には意味がある」と結びつけるなら、地平線(目線)は、出来事への意味のとらえ方をいっているのかもしれない。真ん中の地平線は、「出来事には(偶然以上の)意味は無い」ということ。そんな風に人生を送るのはクソつまらん、ということになる。地平線が下がる(目線が上向きになる)のは、「出来事を良い意味に解釈する」こと。だから最後、映画のカメラが地平線が下がるように修正された、ということなんかな?
映画は光も影も映し出す
スピルバーグ監督の自伝的映画。どこが自伝でどこから自伝的なのかよく分かりませんが、この映画には監督が作り上げてきた名作に影響を与えた出来事がちりばめられているのでしょうね。
自伝的なのだから、事実に着色して壮絶なストーリーに仕上げているのかと思いきや、想像していたよりも平坦なストーリーに感じました。
キャンプで母が踊るシーンやラストの父が写真を見るシーンは、影が強調されていました。
映画も光と影で映されるものなので、ときの感情をまるで映画のように影で表現しているようでした。
青年の映画への目覚め
最後は母のことも父のことも、家族も恋人も友人も、いったんは心の視界から消して、映画の世界に溶け込むシーンで幕。あっ、ここで終幕とは物足りないなと、瞬間的に思った。でも父のバートが好きなことにエンドははないと言い切ったように、ここは開幕のシーンなんだと思い直しました。
この青年の幸運は、一途な母と、更に一途な父のもとに育ったこと。
家族キャンプを撮影したことで、サミーは撮影と映画の魔力に憑かれてしまう。善悪とか倫理とか感情とかも超えた、このシーンのドキドキ感に本当に胸を打たれました。人の目ならば気づかないであろう母と叔父の接近を、カメラは捉えていた。サミーは鼓動を高めながら、カメラ越しでなければ見つからない真実に驚愕する。
そして卒業記念のイベントを撮影すると、映画の中でヒーローに昇格した友人もすっかり戸惑ってしまっていて、それほどにカメラは真実をも呑み込んだ嘘もつけるのだと、サミーは知ることになる。
母ミッツイは少女みたいに可憐で、女神のように神々しく、妖精のように奔放だったりする。シースルーのダンスがまともに見られないぐらい妖しかった。でもサミーは、これはカメラに収めておかずにはいられなかった。
映画は言葉より雄弁だと知った、青年の瑞々しい映画への目覚めが、この作品のメインテーマ。その主題に、監督の自伝と言う特殊性が寄り添う映画だったように感じました。
サミー役のガブリエル・ラベルが、感受性が強くひ弱なのに、強情かつクールな青年を演じていたと思います。映画を観る人たちの想いを想像することが、次の作品への起点になると肌で感じ取っていった、若き日の天才。
日記
監督の撮る映画は好きだけど、監督に興味があるわけでない俺には、さして感動する様な物語ではなかった。
が、
なぜ自らの自伝を撮り商業ベースに乗せようと思ったのかには興味があった。
意図はなんだろう?
興行収入を見込めると算盤を弾いたのだろうか?
見終わって思うのは、えらく客観的な視点だったなぁと。本人が本人を撮ってる訳なのだけど、あまり本人である事への執着を感じさせない。
とある作品の登場人物。
それ以上の感想はなかった。
…それはそれで凄い事なのかもしれない。
こうこうこうで、こんな事があったからスピルバーグが出来上がったんだな。
そんな事を解析するような物語だった。
衝撃的な映画との出会い。
それ以降、彼の隣にはいつもカメラがある。
青年期に至り、カメラから離れるも物理的な接触を持たなかっただけで、常にどこかにはあったのだろう。
映像における表現を模索する少年期などは見応えあった。自分のイメージが具現化された時の充実感は格別であろう。
そして、この映画で語られるスピルバーグは、やっぱり普通ではない。
変人だ。
彼の両親は、よく彼を理解できてたなあと思う。
いや、むしろ、映画制作に傾倒していた事が隠れ蓑にでもなっていたのかもしれない。
自伝なだけに彼を形作った金言がちょいちょい出てくるのは、楽しかったな。
自分で自分の生い立ちを撮るなんて、これ以上に小っ恥ずかしい事はないと思うのだ。とはいえ、第三者にハリウッドの流儀に則って、色々デコレーションされるのも違うのだろう。自伝でありながら、それが自伝ではない事が自分だけが知っているみたいな居心地の悪い環境はゴメンだろう。
やむにやまれすぎ2択を迫られたら、自分で撮る方が、まだ誤解は少なくて済む。そんな事なのかしら?
劇中、イケメンがスピルバーグ少年にブチギレた内容によく似てはいる。
なんかの記念なのかしら?
それとも、不治の病でも宣告させたのだろうか。
…まぁ、俺の思考が及ばないとこに理由はあるのだろう。
「地平線が真ん中にある絵はクソ程面白くないっ!」
この言葉は覚えておきたい。
映画は楽しいものなのか?
大好きなスピルバーグの自伝なので、楽しみに見にいった。
映画作りは楽しい、自分も高校の頃にスプライサーでフィルムを切っていた事を思い出す。
しかし、この映画は「映画って楽しい、皆を幸せにする」というのみではなく、時には人を不幸にしたり、傷つけることもある事を観客に知らしめる、非常に奥の深い映画であった。
スピルバーグの妹さんたちは生きているわけで。 この映画、作っちゃって良いの?
予想した映画と違った。
E.T.を作ってる時の裏話とか
ジュラシックパークのCGテストで興奮してるスピルバーグとか
そういう話とその発想の元になった幼少期の話が中心かと思った。
たしかに、彼のフィルムクリエイターとしての成長も描かれるが
この映画を見終わって最初の印象は、ミッツィ・フェイブルマン。お母さんだった。
お母さんがお父さんの親友と不倫し、離婚する映画だった。
「自分の母親があのように離婚していったら、自分は母を許せるだろうか?」
というのが見終わって最初に思ったことだ。
母であり、ピアニストという芸術家である母の葛藤。
すごくエキセントリックで、情熱的で、
そして子どもたちを愛している。
映画を見ている自分からすると、時に理解不能と思えるような行動ばかりだ。
でも同時にスピルバーグは
「すべての出来事には意味がある」
というメッセージを彼女のセリフを通して繰り返し発してくる。
そう、きっと意味はあるのだ。
でも、今もまだ完全には分かったとは言えない。
スピルバーグの記憶にあるそんなエピソードでこの映画は成り立っているように思える。
「愛のために家族を捨てるなんてそんな身勝手な女じゃない」と言いながら
結局、その身勝手を行使した。
なのに、最後にお母さんと話すシーンはどうだろう?
身勝手を許せと言ってくるお母さんにサミーは即「許します」と言い、
そのあとプロムの話を談笑する母と息子のなんと仲良さそうなこと。
そして、その後の父との暮らしの中で
お父さんに
「The Endはない」
と言わせることで
スピルバーグもまた家族を永遠に愛しているということを演出した。
例え、近くにいようとも、離れていようとも。
そもそも、この映画を私たちが見ることができていることそのものが家族全員がこの試練を乗りこえて、例えば妹から
「記憶がよみがえるから映画にするな」
と言われることなく、公開されたということ。
母は子どもたちみんなに許され、愛されたのだと思う。
(ただ他の、誰にも言わないよ系エピソードは許可を取ったのかな?知らんけど。)
そして、映画の世界に足を踏み入れて
映画の神から極意を伝授され
空に向かって飛び上がったところで映画は終わる。
「あ、ちゃんと極意を守ってるよ。」
って言って、終わる。
ひどく分かりにくいけど、ひどく分かりやすい、愛と芸術についての映画。
フェイブルマンズ。
何度か見たい映画になった。
芸術は痛みを伴う
スピルバーグの自伝映画。
小さい頃から才能があったのは予想通りだった。
母親の才能を受け継いだのか〜。
でも誰もが思い描くような、こんな努力をしてのし上がった〜とか、環境に恵まれてて華々しくて理想的な人生〜とかいう訳ではなかった。
現実は映画通りじゃないと思うけど、なんか上品な作品に感じたからよかった。
ごく普通(ちょっといいとこの子?)の日常で、でも父親からの理解が得られなかったり、母親の裏切りがあったり、ユダヤ人だからと差別を受けてしまったり。
ただ、そんな関わり合う人たち、家族、友人、恋人といった身近な人たちのひとつひとつの言葉や思いが、本人の中で積み重なって、映画に対する抑えられない情熱が膨らんで、夢へ一歩ずつ近づけてくれるのだと思った。
人生の中で何度躓くことがあっても悲観的になることなく、今をひたすら生きているって感じ。
辛いことをされても、すれ違っても、愛する家族だからどうしても憎めない。
そう、全ての出来事には意味がある。
それが映画に活かされていると思うと...深い!
映画は大事なものを壊すし痛みを伴う。
情熱は痛みを吸収しながら大きくなっていくのかな。
派手な自伝映画ではないけど、映画監督になるべくしてなったんだな〜と思った。
最後のシーンで、これから彼の映画人生の始まりを感じてワクワクした!
駆り立てられる
スピルバーグの自伝的作品、という前情報のみで鑑賞。
まぁ、あとはアカデミーノミニー作品だったということくらい。
どこまでが事実を元に構築されているのか分からないが、スピルバーグの初期衝動と逃れられないサガは感じた。
正直な感想としては、もっと両親との関係性を掘り下げても良かったと思う。別にエンタメ性が高い作品でもないのだから。
残念に感じた点が一点。
頑なにカメラを封印していた彼が、再びカメラを取った理由がアリフレックスだったこと。
そんな安易な形で戻らず、駄目押しくらいな形で戻って欲しかった。
欲を言うと、この後商業映画に突入した彼の苦悩も観たかった。それこそ、シンドラーくらいまで描いているもんだと思っていたわ。
トイレットペーパーのミイラに一番ハマった⭐️
初めて観た映画「地上最高のショウ」に心奪われ映画作りに没頭するようになったサミー少年
両親に愛され妹達も兄の映画作りに協力し幸せな家族の姿に前半は観客誰もが白い歯を見せて微笑み、口元も緩み優しい表情でスクリーンに入り込んでいた事だろう…
マスクが緩和されたと言えまだまだ観客が同志になる感を得られるのは先になりそうだな…
そして物語は進み成長したサミー
イジメや淡い恋…彼の思春期の悲しみや喜びなどが描かれ巨匠監督の自伝的物語と言う敷居の高さがなく美化され過ぎていないところに
誰もが共感出来るのかも知れない
後半、イジメの元凶ローガンが自身の外見にそぐわない内面の醜さをサミーが映したフィルムの中で気付き動揺し自己を責める
母の時もそうだったがサミーのフィルムは被写体の内の真実を映し出す
己の本質に気付き変わって行くであろうローガンとサミーのロッカー廊下のシーンには心揺さぶられました
家族愛と映画愛に溢れる上質作品!
キャストの皆さんの素晴らしき演技を拝めた事
この作品の観客になれた事に
スピルバーグ監督!感謝します!
未来に向かって走り出したサミーのその後も
見届けたい私です
あえての酷評
映画鑑賞にハマったきっかけは小学生の頃に観た「E.T.」でした。
「ジュラシックパーク」と「シンドラーのリスト」を同年に観せられたときには、本当のエンターテナーとはこういう人のことを言うのかと衝撃を受けました。
「バビロン」「エンパイアオブライト」と映画愛3作品と勝手にグルーピングして、締めくくりに期待を寄せていました。
それだけに、スピルバーグの生い立ちを観られたこと以外は、全体の流れが単調で、少し残念でした。
「これをつくっておかないと」と予告で発言されていたのに対し、家族のあれこれ、映画製作への歩み、ユダヤ人への偏見と、焦点がどこにあったのか不明確な感じだったせいでしょうか。
どんなに優れた才能をもってしても、自分語りは難しいということでしょうか。
「衝突」の原点、「E.T.」を思い出させるクローゼット内の景色等を楽しみながら、どんな「THE END」になるのかと思いながら観るなかで、最後にジョン•フォードを登場させたことで、爽やかな気持で劇場を出ることができました。
この先も楽しませてくれると信じています。
すごかった
想定を上回る表現や展開が連発し、感動しながら圧倒される。
お母さんの浮気動画を作ったら、みんなの前で上映してしまうのではないかと思ったら、そんな安い表現はしない。お母さんだけに見せる。お母さんはお父さんや家族を愛していながらも、浮気相手にひかれる。人間である以上どうしようもないことだ。お父さんの立場もつらい。
ビーチでの撮影で、いじめっ子に恥をかかせる動画を作るのかと思ったら、輝かしくかっこよく表現して、それで相手の心を傷つける。理由が「5分だけでも友達になれると思った」なんて切なさだ。傷つく相手も繊細だ。
8ミリが上手すぎる。すでにプロ級だ。
人生の春を描いた物語で、これから先夏が来て秋と冬も来る。想像しただけで涙が出る。
両親への深い想いに溢れた作品
両親に連れられ、初めて映画館で観た映像に目を丸くした少年サミー・フェイブルマン。後々巨匠となる彼が、葛藤し歩んだ自らの青年期を描いた作品。
多くの俳優が演じたかったであろうサミー・フェイブルマンを、ガブリエル・ラベルが見事に演じる。
悩みながらも母として家族を支えるピアニストミッツィをミシェル・ウィリアムズが、家族を大きな愛で包むコンピューターエンジニアの父バートをボール・ダノが演じる。
母親を…そして父親を見つめるサミーの眼差しが痛い程切ない。
エンドロールで流れるピアノの音色が美しく、巨匠スピルバーグ監督の両親への溢れる思いに一層心が揺さぶられた。
ーリアに捧ぐ
ーアーノルドに捧ぐ
映画館での鑑賞
もう少し先まで描いて欲しかった
スピルバーグが、監督になるまで描いて欲しかったです。
これからって思ったら、終わってしまいました。
(ラストシーンは面白かったですが…)
とある家族の物語って感じかな~?
これは、スピルバーグご自身の大ファンって方には、お勧めしますが、
作品のファンって方には、もしかしたら物足りない感が残るかもしれません。
でも、やっぱり凄い人なのは確かです。
スピルバーグ監督の見事な手さばきの映画、心地良い面白さ
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
この映画はスティーブン・スピルバーグ監督の自伝的なストーリーだということのようですが、スピルバーグ監督の見事な手さばきの映画だと思われました。
個人的には以下3点にその見事さがあるように思われました。
1点目は、それぞれのシーンでの生き生きとした登場人物たちの演技だったと思われます。
監督の演出は、主人公のサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベルさん)による、劇中のナチスとの戦いの戦争映画の撮影現場で、味方が全滅した後の上官の感情を演出する場面でも表現されていたと思われましたが、とにかくどの登場人物も魅力的に映画の中で存在していたと思われます。
それは主人公のサミー・フェイブルマン(幼少時代含む)だけでなく、特に母のミッツィ(ミシェル・ウィリアムズさん)や、妹たちのレジー(ジュリア・バターズさん)・ナタリー(キーリー・カルステンさん)・リサ(ソフィア・コペラさん)(幼少時代含めて)、祖母のハダサー(ジーニー・バーリンさん)、ボリス伯父さん(ジャド・ハーシュさん)など、登場人物の魅力的な演技が輝いていたと思われます。
(父のバート(ポール・ダノさん)は控えめな人物で、また違った魅力がありましたが)
2点目は、人間の矛盾を深く理解して描いていたところだと思われました。
この映画『フェイブルマンズ』は、幼少時の主人公のサミーに母のミッツィと父のバートが映画がいかに美しく素晴らしいか暗闇が怖くないと説かれている場面から始まります。
しかしこの時に幼少時の主人公のサミーが見た映画の『地上最大のショウ』は、特に子供にとっては美しさや怖くないとは真逆の、列車が車と衝突して大脱線事故が繰り広げられる悲惨でショッキングな内容でした。
しかしサミー少年は逆にこの列車事故の映像に魅了され、映画作りのきっかけになって行きます。
ここにも人間の矛盾が描かれていたと思われます。
この人間の矛盾を描いている場面は、ベニー・ローウィ(セス・ローゲンさん)と主人公のサミーとのエピソードでも描かれていたと思われました。
後に、父バートと母ミッツィとの親友であるベニーが、母ミッツィと父を裏切る行為をしていたと、サミーがキャンプのフィルムを編集している時に気がつきます。
サミーの家族がベニーと別れてカリフォルニアに行く直前に、ベニーはサミーに高価なフィルムカメラを餞別にプレゼントします。
しかしベニーが母ミッツィと、父バートや家族への裏切りをしたと思っているサミーは、ベニーからのカメラのプレゼントの受け取りを拒否します。
ベニーは何度もカメラを持って行くようにとサミーに伝え、根負けしたサミーはその時自分のそれまで持っていたカメラを売って得たお金の全てを渡してベニーが渡して来たカメラと交換します。
しかしベニーはマジックのごとく別れ際にサミーの上着のポケットにお金を返して、サミーに映画を撮ることを辞めるなと言って立ち去って行きます。
このベニーが餞別にサミーにカメラを渡す場面は、彼の親友であるサミーの父やサミーの家族を裏切った人物を、サミーにとっての全面的な悪として描かず、矛盾ある魅力的な人物としてベニーを表現していたと思われます。
サミーはカリフォルニアに行った後で、反ユダヤのローガン(サム・レヒナーさん)などから高校でいじめに遭います。
しかし後にサミーが撮影した高校卒業間近のビーチパーティーの記録映画の中で、反ユダヤのローガンは輝いて映画の中に映っていました。
サミーは反ユダヤのクソであっても、映画はその人物の魅力を映してしまうことをローガンに伝えます。
ただローガンは、映画に映っていたのはステレオタイプの理想のそして自分にとっては軽薄な人物で、自分はあんな人間ではないと涙します。
ここでも、サミーにとって反ユダヤの憎むべき人物であっても、人間の矛盾を深く理解した上での人物描写がされていたと思われました。
最後に3点目は、スピルバーグ監督による並行したエピソードの巧みな構築にあったと思われます。
この映画は例えば映画制作の素晴らしさを描いただけの作品ではないと思われます。
この映画は、家族の物語であり、映画制作の話であり、反ユダヤをめぐる話などであったと言えます。
それぞれの細かいエピソードも含めて、頭から最後まで1つのテーマで描かれた作品では実はなかったと思われました。
ただそれぞれのエピソードが並行して描かれ、それぞれがダブって描かれているので、エピソードは様々であるのに断片的やぶつ切りに思われず、151分の長い作品でありながらまだまだ続きを見ていたい面白い映画になっていたと思われました。
また、よく考えれば私達の人生も、それぞれの問題が解決されないまま並行して進んでいるのだと改めて思わされる映画になっていたと思われます。
この並行したエピソードをダブらせて巧みに描く構築は、スピルバーグ監督の見事な手さばきだからこそ可能になっていると思われました。
以上の、
1.登場人物のそれぞれ輝く魅力
2.人間の矛盾に対する深い洞察と理解による描写
3.並行したエピソードを巧みにダブらせて配置する構成
によって、この映画『フェイブルマンズ』は見事な作品に仕上がっていると、僭越ながら思われました。
もちろんこの映画は大きな1つのテーマで描かれている作品ではないとは思われます。
なので大傑作大感動の映画とはまた違った作品だとは一方では思われました。
ただ万人に向けてお勧め出来る、素敵で素晴らしい作品であったこともまた事実だと思われました。
良かった! 特にラスト5分の名シーンは鳥肌もの!!
スティーブン・スピルバーグ監督の幼少期から映画監督を目指すまでを描いた味わい深いドラマ
昔から映画雑誌などで語られてきた、スピルバーグ監督の辛かった家庭事情とピーターパン症候群、ユダヤ系として経験してきたいじめの実態を背景にしていながらも作品自体は暗くならず、爽やかでエネルギッシュ、最後はとても前向きな気分になれる後味がいい作品、"このストーリーを語らずにキャリアを終えることはできない"として撮った監督の想いがひしひしと伝わってくる味わい深い名作として完成されています
映画に詳しくなくても多くの人がスピルバーグ監督の代表作 「ジョーズ」「未知との遭遇」「インディ・ジョーンズ シリーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク シリーズ」といった映画史上に燦然と輝く名だたる作品群を知っていて、SFファンタジー/アドベンチャー色が強いため、そっち方面の監督と思われているかもしれませんが、本人としては人間ドラマで大成したいと思ってきた人、
本作はその原点に迫ると共に人を描きたかった監督の愛情あふれる演出に感嘆します
監督を投影したサムを力強く演じたガブリエル・ラベルさん、苦悩する母親を演じたミシェル・ウィリアムズさん、二人の熱演が印象的
特にサムが8㎜カメラのファインダーを覗きこむ姿にワクワクしました
そして個人的に一番好きなシーン
スピルバーグ監督が本格的に映画監督を目指すきっかけとなったエピソードが描かれるラスト、サムが出会うのは当時既に大巨匠だった「駅馬車」「リバティ・バランスを射った男」「捜索者」などで有名なジョン・フォード監督、アイパッチに葉巻を燻らしものすごい剣幕でまくし立て、構図について二言三言、助言する僅か数分のシーンですが、その熱量の凄いこと・・・
全身鳥肌ものだったのと、身体中に力が入り、まさに"息をのむ"とはこのことだなと実感しました
そのフォード監督を演じたのは「ブルー・ベルベット」「デューン/砂の惑星(1984年)」のデヴィッド・リンチ監督、本編中は誰か分かりませんでしたがエンドクレジットで判りました
今は亡き超大物監督を現代の超大物が圧巻の演技で魅せる最高に粋な演出、間違いなくスピルバーグ監督の新たなる代表作として語り継がれることでしょう
個人的には本作の後、TVドラマ映画「激突!」で注目され「続・激突! カージャック」で劇場用長編映画監督デビューし続けて「ジョーズ」「未知との遭遇」・・・とヒット作を次々と世に送り出していく続編をいつか撮ってほしいとも思いました
監督の家族の物語
スピルバーグ監督の幼少期から青年期を土台に作った物語だけど、期待したものと違ってた。
映画の魅力に取り憑かれた青年の物語かと期待したんだけど、
制作場面はところどころに出てくるんだけど、映画制作そのものより主人公とその家族がどう過ごしたかといったものになっててなんとなく掴みどころのない物語の様に感じた。
ところどころに監督の作品にインスパイアされる場面が出て来るところは映画好きには心をくすぐられる。
イン・マイ・メモリー
映画監督の自伝的作品が続いているが、遂にこの監督が!
スティーヴン・スピルバーグ。
関心の程は『ROMA/ローマ』『ベルファスト』の比ではないだろう。
如何にして“映画監督スピルバーグ”は誕生したのか。どうやったら“映画監督スピルバーグ”になれるのか。
映画監督を目指す若者たちはこれを見れば、君も未来のスピルバーグ!
…に容易くなれる訳ない。
映画監督として成功出来るのは星の数の中からほんの一握り…なんて現実的な話ではなく、
本作は確かにスピルバーグが自身の少年時代をモデルにしているが、あくまでモデルであって、何もかもそのままという訳ではない。主人公の少年の名は“スティーヴン”ではなく“サミー”。性も“スピルバーグ”ではなく“フェイブルマン”。
大部分は生い立ちに沿っているようだが、これはスピルバーグの“記憶”の物語。
誰だって自分の幼少時の頃をはっきりとは覚えていまい。忘れていたり、朧気に覚えていたり…。
でも、何かしらに影響受けたり、いつぞやのあの時とか、人生を長いフィルムに例えるなら全てでなくともあるワンシーンワンシーンを鮮明に覚えていたり、記憶に残っている事がある。
それを反映させ、スピルバーグは自身の記憶の中に、我々を誘ってくれる。
また本作は、“映画監督スピルバーグ”が誕生する前の話。
映画ファンなら一度は耳にした事ある筈。ユニバーサル・スタジオに勝手に自分のオフィスを作って忍び込んでいたとか、『刑事コロンボ』などのTVドラマの演出をしていたとか。そしてあの“サメ映画”で時代の寵児に…など、それらのエピソードは描かれない。ここを見たかった人には期待外れで、『フェイブルマンズ2』を作って欲しいくらいだろう。
でも私は、本作の話にこそ興味惹かれた。すなわち、
映画に虜になった瞬間。
影響計り知れない家族との記憶。
スピルバーグの本当の原点の原点。
冒頭シーンが秀逸。ばっちり心掴まれる。
両親に連れられ、初めて映画を観る。
まだ6歳。ちょっとおっかながっている。
でも、いざ観たら…。初めて観た映画は、『地上最大のショウ』。
サミー(スピルバーグ)少年にとっては、映画。あなたが人生で好きになったものは何ですか…?
私の場合はやはり映画。初めて観た映画は確か、ゴジラ(『vsビオランテ』)かドラえもん(『アニマル惑星』)。映画好きのきっかけになったのは、ゴジラ。観ながらそんな事を思い出した。
サミーは父に買って貰った模型の列車で劇中の事故シーンを再現。母に買って貰った8㎜カメラでそのシーンを映し出す。
私はカメラを回したりはしなかったが、(またまた怪獣で申し訳ないが)怪獣のソフビ人形で対決シーンなんかを再現したもんだ。
それだけに留まらず、妹たちを出演させてカメラを回し続ける。
旅行や家族の転機時(引っ越しなど)もカメラを手離さず、ティーンになってからは友達らと映画撮影。
私はそこまでには至らなかったが、さすがは未来のスーパー監督。この行動力、実践力。
きっかけと目覚め、再現、自分もやり始める…。
誰しもそんな思い出はきっとある筈。サミーの姿に自分を重ね合わせられる。
それだけ聞くとノスタルジックでハートフルな作品と思う。
勿論そうでありつつ、ほろ苦さも。
本作は家族のドラマと言っていい。
フェイブルマン一家。サミー、母ミッツィ、父バート、3人の妹。
仲良しで幸せな家族である。個性も強い。特に母。
ピアニストで芸術家肌。自由奔放おおらかな性格で、感情表現も豊か。
一方の父は電気技師で技術者。真面目な性格。
息子の映画への目覚めに対し、反応は別。母は尊重するが、父はあくまで道楽としか思っていない。
仕事人間の父の転職で引っ越しを繰り返す。
好きだった地もあれば、嫌いな地も。カリフォルニアの高校ではユダヤ人であるが故にいじめに…。
差別や自身のルーツ、思春期のモヤモヤもさることながら、特に悩ましたのは家族の関係。
家族と父の同僚で親友ベニーとキャンプ旅行へ。ベニーとはほぼ家族のような付き合いで“おじさん”も同然。
楽しいバケーションを過ごし、サミーはカメラにその模様を収める。家に帰り編集している時…、ある事に気付く。
それは見たくなかった。信じたくなかった。でも…。
カメラは時としてショッキングな瞬間をも映し出してしまう。
サミーが見てしまったのは…、母とベニーの親密な関係。
母はベニーを愛しているのか…? 父と母は愛し合っていないのか…?
サミーの心に家族へ対しての疑念や凝り、わだかまりが燻り続ける。家族を愛しているからこそ、それは尚更。
やがて恐れていた事態。両親の離婚。
スピルバーグの両親の離婚は知ってる人は知っているだろう。母に育てられ、母子家庭の影響はスピルバーグの初期作品でよく見掛けられる。
と同時に、“父の不在”もスピルバーグの初期作品でよく見掛けられた。
スピルバーグの実父は家族を捨てて家を出たとされていたが、後年誤解であった事が分かり、和解。いつの頃からかスピルバーグの作品で父親の存在が大きくなった印象を受けた事があった。
スピルバーグの両親はすでに他界。居なくなって初めて気付き、知る事だってある。だから、今こそ描ける。
過去と両親への向き合い。
スピルバーグのプライベートとパーソナルな部分をまじまじと。
いつしか、これはスピルバーグの記憶だけではない。私たち自身を見ているとさえ感じ始めた。
2時間半超えのヒューマンドラマ。
それでも飽きさせない作りは、さすがはスピルバーグ。
8㎜カメラで撮影した映画。スピルバーグが少年時代から映画を撮影していたのは有名で、劇中の作品はそれらの“セルフリメイク”。
あの戦争映画(『地獄への脱出』)なんかは後々の『プライベート・ライアン』の片鱗も。
他にも後の作品を彷彿させる箇所や要素も所々に。
スピルバーグの分身とでも言うべきサミーを演じたガブリエル・ラベル。
自分の好きなものへ一心不乱に夢中になる姿、ティーン故の葛藤、複雑な心の機微…それらを見事に体現。
母ミシェル・ウィリアムズの存在感。スピルバーグ自身や作品に於いて如何に母親の存在が大きかったか充分納得させるほど。だから、悔やまれる。オスカーで主演女優ではなく助演女優でノミネートされていたら…。この実力派女優が遂にオスカーに王手を掛けていたかもしれない。(主演で推した配給会社のバカバカバカ!)
ポール・ダノも絶品の名演。好調続くこの演技派に、また一つ代表作が。オスカーノミネート落選は残念。と言うか、嘘でしょ??
代わりにノミネートされたのは、伯父役のジャド・ハーシュ。42年ぶりのノミネートは天晴れだが、噂に聞いた通り出番は少なく、勿論インパクト残すが、正直ダノがノミネートされて欲しかったかな…。
本作の演技賞ノミネートに関してはちと納得いかない点もあるが、名アンサンブルなのは紛れもない。
常連スタッフもスピルバーグの物語を強力フォロー。
音楽のジョン・ウィリアムズは今夏の『インディ・ジョーンズ』最新作で映画音楽からの引退を表明。(その後撤回したとも言われているが…)
もしそうなら、スピルバーグとのタッグは本作がラスト。長年のタッグで数々の名作と名曲を生んできた二人のフィナーレが、盟友の自伝的作品というのが感慨深い。
美しい音楽で彩る。
好きなものが自分を悩ます事もある。
サミーもそう。家族の秘密を目撃してしまい、少しの間カメラを回さなくなったのもそれが原因だろう。
でも、自分は何が好きか。何が取り柄か。何を手にしていたか。
やはり、映画だ。
またカメラを手に取る。回し始める。
映画の持つ力は本当に魔法だ。
サミーは好奇心は旺盛だが、何処にでもいる普通の少年。
そんな彼がカメラを手にした事により、家族や周囲の輪の中へ。
高校生活でもそう。いじめられていたが、あるイベントでカメラを回し、その上映会で皆を沸かせる。
いじめっことの関係に変化も。
映画は人々に影響を与え、世界を変える。
それは何も理想事ではなかった。自身の実体験からの現実事。
映画は夢であり、リアル。
だからこそ我々は映画に魅せられる。映画が好きで好きで堪らない。
母親のモットーとでも言うべき言葉。
“全ての出来事には意味がある”
ラストに登場するあの映画監督(演デヴィッド・リンチ!)。彼から掛けられた格言。
“地平線は真ん中にあるとつまらない”
スピルバーグが歩んできた光と陰はこうして集約した。
格言は人それぞれ解釈出来るだろう。構図や人生哲学にも通じる。
真ん中は平坦で退屈。上や下は山あり谷あり。酸いも甘いもあって映画=人生は面白い画になる。
史上最高の映画監督から頂いた言葉に、少年は思わず「ヒャッホー!」。
地平線を“上”に、新たな史上最高の映画監督の歩みはここに始まったのだ。
そして今へ続く。
カメラはありのままを写すが、映画は嘘をつく。
巨匠スピルバーグの自伝的映画と聞いて、結構身構えて観た訳だが、家族のドラマをメインに、同時に「映画」というものの本質をサラリと示して来る辺り、自伝映画にありがちな自己満足に陥る事なく、スピルバーグの映画への偏愛をしかと作品に投影させた秀作に仕上がっている。
カメラはそこにあるものをありのままを写してしまう。それを都合の良いものに変えてしまうことが出来るのが映画という芸術形態であり、それを母親の浮気で思い知る事になるその残酷さ。映画とは究極の印象操作であり、夢や素晴らしい可能性を見せる事も出来るし、不都合な事実を隠して嘘をつくことも出来る。その恐さを知ってもなお映画を作る決心をするラストが晴々としているのは、この青年が後に映画史に残る映像の魔術師となって、我々にたくさんの夢を届けてくれるのを知っているからだ。ジョン・フォードとの邂逅を経てのラストカットはニヤリとさせられる。
奔放に生きる母親をキュートで魅力的に演じたミシェル・ウィリアムズがなんとも素敵だし、優しい父親役を寂寥感を滲ませて演じるポール・ダノも印象的。若きスピルバーグを彷彿とさせるガブリエル・ラベルが思春期の心の揺れを巧みに表現し、この作品に説得力を持たせた演技も忘れがたい。
映画という光と影の魔力に取り憑かれた男の、今回もまた木目の細かい仕事ぶりが発揮された見事な作品。
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