フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
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「自分」と「他者」で揺れる物語は見事だが…
◯作品全体
自己完結した感情と他者との関わりに揺れる物語だった。
映画作りに没頭するのは、父・バートからすれば夢を追うのと同義だ。ここでいう「夢」はロマンだとかそういうポジティブなものではなくて、実在しないものを追いかけるというネガティブな使い方で、作品に想いを込めることは自己完結に近い行為として序盤は存在する。主人公・サミーはその自己完結的な趣味と家族との関係性によって揺らぎつづける。
サミーと同じく「芸術家」と家族から言われるサミーの母・ミッツィは、サミーと似たようでいてまったく異なる人物だ。自分自身で向かうべき方向を完全に自己完結させている。アリゾナへの転勤話が出たときのミッツィの行動が顕著だ。親友・ベニーを置いて転職するバートを非難する一方で、タイフーンが出たと聞くと赤ん坊を一方的にバートへ押し付け、自分自身の人生観をも子どもたちに復唱するよう求め、危険なタイフーンへ向かっていく。その行動に自己嫌悪するかのような仕草をするけれど、ベニーとの関係を離さないあたり、ミッツィは終始自己完結している。
サミーに数学を勧めたり母のために記録映像を作るよう指示するバートも、サミーに想いを込めるという自己完結に近い育児をしているわけだが、ミッツィとの関係性に思い悩んだりするシーンも多く、自分の想いと他者の考え、どれを優先すべきかで人生が左右される人物だった。
終盤では、それぞれにある自己完結した感情と家族との関係性の調和に歪みが生じ、それぞれがそれぞれの道を歩みだす。それでも悲壮感がないのはそれぞれの熱意が一番あるところへ向かっていくからだろう。
妥協ではない、自分自身の感情を信じる決断は決して平坦ではない。でも、そういう人生こそ自分らしさに溢れた進路を進むことができる。真ん中に地平線がある画面ではなく、上や下に地平線があるような進路を良しとするラストシーンでは、そのことを強く訴えていた。
自分自身の決断という意味ではミッツィが物語の軸にいたのだけど、包み隠さず言ってしまうと、そのミッツィがすごくノイズだった。
ミッツィの自分勝手な行動もちょっとイラつくし、ベニーの転職とかについてバートを非難しつつ、自分は赤ん坊をほっぽりだしてタイフーンを追うのも最悪だった。しかもそういうベニーへの執着は浮気をしていたからだし、家族とのキャンプでそれを匂わせちゃうし、最終的にそれが原因で家族がバラバラになるし個々の自己実現としては良かった、というラストなんだけど、やってることが最低すぎる。
ミッツィを擁護するシーンもちゃんと挿れているんだけど、サミーの妹が「父は優しく話を聞いているだけで、母と並び立つことはなかった」みたいな、ミッツィのやったことに対してあまりに不釣り合いな擁護をしていてモヤモヤした。バートも確かに悪い。転職ばかりで、収入が良くなることを第一にしてしまっていて、家族の気持ちを配慮してない。それが家族をバラバラにする原因でもあった。でも、個人的にはそれがミッツィの浮気を正当化するものではないと思う。
怒ってすぐ感情的になるところ含めて、ミッツィが嫌なキャラクターだったなあ。それがチャーミングであれば良いんだけど、結構不快だった。
サミー自身の世界が広がったり、揺れたりする物語はすごく繊細に描かれていて、自分自身の経験を重ねられたりもできて面白かったんだけれど、その根幹をなすキャラクターを「天才肌」で終わらせようとしている感じがしてラフな造形に感じたし、あまり楽しいキャラクターでもなかったのは残念だった。
◯カメラワークとか
・題材が題材だからか、構図で見せるカットが結構あった。一番印象的だったのは終盤のシーン、大学生となったサミーがバートのアパートへやってきて、ミッツィから届いた写真を見せるところ。バートが写真を見たとき、画面右下にバートを映し、左側にバートの影が映る壁を見せる。バートの暗い感情、ミッツィが隣りにいないという余白…バートの感情へグッとよる演出だった。
・個人的に面白かったのはサミーがガールフレンド・モニカにベッドへ押し倒されるシーン。ダッチアングルのあおり気味のカットで、二人の真上にキリスト像を置く。アングル自体もエッジが効いていたし、コメディチックなキリスト像も面白かった。
・「おサボり日」の記録映像を上映するとき、司会の先生(?)がジェスチャーと言葉を間違えて、やり直すみたな芝居があった。これがすごい良かった。みんなを喜ばせようと慣れないことを考えてきたんだろうなっていうのが伝わるし、やり直すのも面白い。司会の先生はここしか出てこないけど、キャラが立ってた。
◯その他
・親友の妻を寝取ったベニーはどういう心情だったんだろう。家族といるミッツィを引き離して二人っきりになったとき、どういう心情だったんだろう。サミーへカメラをプレゼントする気風の良いヤツとして物語から退場するけれど、それじゃあダメだと思うんだけどなあ。
・家族の会話シーンは、なんというか、演劇っぽかった。外国作品ってセリフの演技の良し悪しが分かりづらい気がするんだけど、かなりわかりやすく演技が過剰だったと思う。やってることは突拍子もないことなのに、やけに段取りが良いところとか。ミッツィの爪を切るシーンとかが顕著だった。
・この作品に限らず、「浮気された側」を良き理解者として達観したような存在にさせちゃうのは、なんかもったいない気がするんだよなあ。しっかりと感情を掘り下げている作品だったらなおさら、急にフィクションになってしまうというか。もっといろんな葛藤があったり、達観するに至る経緯があるはずなんだけど、退場したキャラクターみたいな役割になってしまって放置されがち。
・一番グッと来たのは同級生・ローガンとサミーの衝突シーン。サミーはローガンを嫌っているけれど「画になる」ローガンを映すことに抗えない。映画人としてのサミーの矜持を感じるし、それを真っ向からローガンにぶつけるのもカッコいい。対するローガンはローガンなりにカッコよくあろうと努力しているんだけれど、そういう自分も含めて「チープなかっこよさ」を映像で露わにされてしまう。その核心を突かれた映像に打ちのめされてしまう、というのが、すごくローガンの内面に潜り込んでいるようで、素晴らしいアイデアだった。ほんの一瞬だけの邂逅だけれど、そこに日常生活の何千倍ものエネルギーが動いている感じが、とても良かった。
なんとなく『桐島、部活やめるってよ』の菊池と前田の関係性を思い出した。終盤の屋上で前田が映画への気持ちを吐露するんだけど、菊池からはなにも出てこない。カメラに映された菊池はルックスはカッコいいんだけど、中身がない、ということをカメラ越しに露呈されてしまう。「自分の本質を見られる」という意味では同じような使われ方だった。
最後のあのシーンはズルい、面白いけどズルいよ!
列車のクラッシュに夢中になって映画製作を始めてしまう幼児スピルバーグ、芸術を目指す人間に呪いのような言葉を残していなくなる悪魔みたいな大叔父さん、カメラが映す虚像に気づいて自己崩壊するイジメっ子、いやあ、どれも本当に素晴らしいシーンだった! のだけれど、それに匹敵するだけの面白いエピソードが思春期以降の主人公にないのは、おそらくカメラを覗く傍観者としての性質を表しているのだとは思う。その分、両親をはじめ周辺のキャラクターが物語的な面白さを牽引する映画になっている。
それでもなお、従来のスピルバーグならば偏執的なくらいにどのシーンも面白く見せようとした気がしてならず、今回は自伝ということで、照れが出たのか自分をネタに面白くみせるのを怠ってしまったのではないか。もちろん映像の凝りようはいつものスピルバーグで、前述した飛び抜けたシーン以外では、ドラマよりも撮り方が突出してしまっているように思った。伝説の監督2人が二人羽織みたいになるあの最後のシーンは、もはや飲み屋で聞いても絶対に同じくらい盛り上がるであろう鉄板ネタであり、豪華なオマケをもらった感。あの唐突さはズルい。ズルいよ。
私ごとですが 劇中に登場する8ミリ編集機 幼い頃に祖父の家にあった...
私ごとですが
劇中に登場する8ミリ編集機
幼い頃に祖父の家にあったように記憶しています
祖父が撮影した旅行の風景とか
見せてもらいました
そんな祖父に影響されたのか
私の父は映画が好きでよく観に行ってました
(息子を連れて行ってはくれない)
今頃、天国で祖父と父とで8ミリ上映会を楽しんでいるかもです
この映画を観て
映画の素晴らしさを改めて感じました
エンディングが好きです
ですが、母の行動は許せない派です
昔の自分に向き合う時、それは一つの時代の終焉を告げているのだろうと感じた。
春近し、鼻はモゾモゾ 花粉症!
ティッシュは手放せませんねぇ~
と言うわけで?
今日は「フェイブルマンズ」を鑑賞しましたよ!
最近思うのだが、誰かも書いておられたが映画を
映画館(劇場)で鑑賞するのは
やはり既に終わっているのだろうかと感じる。
昨今、誰でも携帯等で動画撮影し編集そして配信も出来る。
そして 上手くやれば収益も上げられるのである。
映画界という物は今まで特別であったけども、
TV業界から個人製作のYouTubeの様な物に
ここ数年でがらりと変化してしまった。
アカデミ-賞などと言う権威も、後数年で100年を迎えるが
コレで一つの節目が来て、映画の役目も終焉なのだと
それを 今作で少し感じたかな。
※映画は永遠なれ~と信じてきたが 儚い夢かも知れぬ。
今作は 見方(感想)は二つに分かれそう。
一つが、映画を主に観るだけの方の感じ方。
内容を重視してしまうと、一人の名映画監督の自伝的展開なので
母の愛、家族の絆や人種的差別などに
心流される事はあったカモだが
さほど共感 感動はその視点では生まれては来ないと思う。
恋愛的な部分も彼の人柄では奥手であって、その事が
恋愛シ-ン演出では冴えなかったことを物語っていると思う。
そういう観点では 評価は★3ぐらいで低めだろう。
もう一つの視点が、映画好きで 製作に憧れた人達である。
勿論、役者志望の者も入るだろう。
彼の過去を知る事で、自分の未来や叶えられなかった夢を
そこに重ねることが出来るからである。
この場合、評価は高く★5に匹敵すると思う。
彼が映画に触れ初めた経緯や、趣味で撮った映画の数々、
そしてアイデア。これ程までに興味を獲た事はないかな。
凄く為に成った~ ってのが本音ですね。
特に演出の妙技、やっぱ観察力が長けてるなと感じる。
フィルムの針の穴開けね。ナルホド~。
卒業メモリアル作品の製作で、人の心(見た目)は
撮りと編集次第で自由に出来るんだよって事を
さらりとやってのけてる。
ここが 凄く彼らしい生き様だなと感じるわ。
夢を映画で描く基本姿勢は、この頃に培われたんだろうね。
なんとか 相容れない級友が友人に成れればと、彼のために
上手く取り計らう思いは、映画製作する人なら
そういた気遣い(思い)は 常に考えている事だと感じる。
昔、大島監督が 挨拶一つまともに出来ないヤツが
映画なんか撮れるかい~ って言ってたの覚えてるわ。
それぐらい 沢山の人達の協力で製作現場が進むんで
気遣いや配慮は常に大事だなと思うね。
生前に深作監督にもお会いしたが、見た目怖そうだったけど
誰に対しても丁寧な方だった事 思い出したわ。
きっとスピルバ-グ監督も同じ目線を持った
方なんだろうと思うね。
会える事が出来るのなら会ってみたい思いです~。
てな事で、映画人生で
久しぶりにパンフレット買ったよ!
映画創る方に興味などある方は
お薦めな作品かも。
アカデミ-賞とか気にせず
是非劇場へ お越し下さいませ。
監督の生前整理
監督の生前整理
激突に興奮していた少年
大学のイケメン同級生とのエピソードが何とも良い
監督は魂を張り裂かれるだか残酷な仕事だかといった台詞があったと思うが
次世代に向けたメッセージなのだろう
母親役ってマリリンの人だっけか
主人公が映画作りを学ぶ姿から、観客のわれわれはなにを学ぶべきか
スピルバーグの自伝的映画。だから、というわけでもないのだろうが、みんないい人になっている。両親の離婚や自身のいじめなども出てくるのだが、どこか甘いのだ。
ただし、映像表現としてはすごい。斬新な映像ではない。それでも、ひとつひとつのショットが計算しつくされているのがよくわかる。
これはサミー・フェイブルマン少年(スピルバーグの投影)が、はじめて映画を観たときの体験を踏まえると、納得できる。
サミーは両親に連れられて「地上最大のショウ」(1952年)を観にいく。そこで列車が走って、車を吹っ飛ばし、さらにはその先に止まっていた車両を吹っ飛ばすというシーンに衝撃を受け、自宅でおもちゃの列車でそれを再現するのだ。その後も妹や友だちを役者にして映画を撮るのだが、常に映像表現に重点がおかれている。つまり、スピルバーグはすぐれたストーリーテラーではあるのだが、もともとは「迫力の映像」が好きだったのだろう。
ストーリーは、説明するまでもなく、映画に魅せられた少年の成長物語だ。
芸術家肌の母親と天才的な技術者の父親の間に生まれたサミーは、ニュージャージーで生まれ育つ。
映画を撮ることに夢中になっているサミーを両親は暖かく見守る。ただし、母親は息子が将来は映画監督になるのだと信じていたが、父親はあくまでも「趣味」だと考えていた。
父親の転職にともなって、アリゾナ、カリフォルニアへと引っ越す。
カリフォルニアの高校でサミーはユダヤ人であることを理由にいじめにあう。ただ、悪いことばかりではなく、モニカという少女と知り合ったり、学校行事を撮影して高い評価を受けたりもする。
やがて成長したサミーは、映画業界で働くことを志し、就職活動をはじめる。
母親をミシェル・ウィリアムズが演じている。父親はポール・ダノ。
ミシェル・ウィリアムズはいつもの号泣シーンがなくて残念だった。彼女は人並みの幸福を奪われて、耐えに耐えて、最後に号泣する、というのが十八番なのに。
そのかわりといってはなんだが、ポール・ダノがよかった。離婚後に、妻から送られてきた手紙に同封されていた写真を見て、妻とのはじまりから終わりまでを一瞬で追体験するような顔をする。これは、なかなか見ることのない演技だった。
この映画が公開された時期は、本作も含めて「映画についての映画」が公開されていた印象がある。ネットフリックスやアマゾンといったテック企業が映画業界で力を持ちはじめたことや、マーベルのようなスーパーヒーローものが量産されるようになってきたことで、映画を見直そうという流れになってたのかもしれない。
映画館の暗闇の中で人々を魅了し、時には人の人生を変えるような力を持っていた映画が、配信によっていつでもどこでも観られるようになり、わかりやすく、より売れるものが求められるようになってきた。
ビジネスなのだから売れる映画を作るのは当たり前だ。ただ、そのために類似品を作り続けることになってはいけない。アメコミばかりでもいけないし、マルチバースばかりでもだめだ。今までとは違う、売れる映画を作るために頭を使うべきではなかろうか。
古き良き時代の映画製作に触れられている本作を観て、そんなことを思った。
芸術は麻薬だ!俺らはジャンキーなんだ!
途中で叔父さんが呪いのように言うセリフ。
同じ場面で、お前は家族と芸術の板挟みになる、孤独に道になる、的なことも言ってた。
終始そういう話。映画製作のいいところと悪いところ。
芸術肌の自由人お母さんの浮気な心も映画なら隠せる。
いじめっ子を神格化させることもできるし、また別のいじめっ子はダサく見せることもできる。
ただどちらかというとそういう強いメッセージがあると言うよりは、1人の少年が大人になるまでの様々な出来事の記録に近い。
大きな山があるというよりは小さな山が複数回ある。
それぞれの出来事に愛が感じられるのがスピルバーグのいいところで、それぞれの出来事が不思議と退屈せずに見れてしまうのがスピルバーグの凄いところ。
印象的なシーンやセリフが多いのもその理由の一つ。
・地上最大のショウのシーンが忘れられなくて再現する少年
・フィルムにピンで穴を開けて銃撃戦を再現。それは楽譜を母が踏んで穴を開けたところで思いつく。
・ピアノ弾きの芸術肌お母さんは洗い物をしないので、使い捨ての食器を食後にテーブルクロスで包んで捨てる
・母は思いつきだけで竜巻に突っ込んでいく。全ての出来事に理由がある、と
・浮気相手のおじさんからのカメラのプレゼントを無視するでもなく壊すでもなく金を払って受け取るのはスピルバーグっぽい。それでいて金をさらりと返される
・母は今度は猿を飼い始める
・交際相手はイエス大好き。
・デビットリンチがジョンフォード役
・地平線は上か下かだ!のあとに真ん中から下へと地平線を動かすカメラワーク
芸術家の自由人母とエンジニアの天才父からスピルバーグが生まれるのはまるで必然かのよう
様々な嫌な人間や出来事が絵が描かれるのに、怒りこそあれどそれがねちっこい憎しみにならずなんだかんだで愛で包まれているのはスピルバーグのさすがの人柄。
スピルバーグ監督の自伝的作品
この両親にしてこの監督ありなんだなぁなんて思いながら見進めていたけど、母親の不倫に気付いたあたりで、なんて母親なんだろうと。母親の堂々とした不倫ぶり!?に唖然となる。おばあさまが亡くなる時のベットでの演技も。母親役の演技がわざとらしくて自分は嫌いだ。
とても深く優しく悲く、でも暗くない映画だった。 正直一度の鑑賞では...
とても深く優しく悲く、でも暗くない映画だった。
正直一度の鑑賞では全てを理解することは難しく、追って再び鑑賞した。
パパ: IBMの天才エンジニア。妻が大好きで優しい合理主義者
ママ: 子供や夫を愛するお母さん。でも自分を自分らしく保つために必要だったのは夫ではなく、夫の友人。家族を犠牲にしてでも自分の在り方を貫いた。
サミー: 映画を諦めきれずに大学を中退しそう。
家族と自分の理想というテーマで鑑賞すると、
家族を犠牲に自分のあるべき姿を追い求めた母。
妻を心から愛していたものの、自分が与えきれていない何かを感じていた父。そして離婚が成立。
母は、父にはこれ以上の幸せがあるはずなのとサミーに話す。
しかし父は離婚によって得るものはなく、IBMでの順調な仕事だけが人生となる。
一方母はアリゾナに戻り好きな男と幸せを送る。
妹のセリフ: 自分が到達できないような人(天才のパパ)に崇められてママは大変よ。ダニーはママを笑わせてた毛けど、天才のパパは静かに話を聞くだけだった。
そんな中サミーはハードな学校生活に耐えかね、映画の仕事は諦めきれないでいた。
父は仕事を諦めない人、母は自分の理想を追い求めて人生を諦めない人。
良い意味でも悪い意味でも、自分の気持ちを最優先した親の子供であるサミーは自分の好きなことを絶対に諦めない人だと、最後、父は悟ったのではないか。
父が私生活共に幸せになるには、他の女性と結婚すべきだった。でも妻を心から愛していたから結婚し、妻の気持ちを優先して離婚した。
一方母は子供や夫を傷つけたという罪悪感はあれど、新たな暮らしを幸せに送っている。
どうすればよかったのかとかいう問題ではなく、これが運命というものなのかな。
No. 1319
納得の少年時代
兎にも角にも巨匠スピルバーグの幼少期から青春時代を描いた自伝的映画、クレジットで両親に捧ぐと出ていました。コンピューター技師の父、ピアニストの母、天才的知性と芸術性の遺伝子を受けていたから大成したことへの感謝もあるのでしょうが、そんな私的な感情で映画を撮る人ではないと思います、おそらく自身を継ぐかもしれない映画を志す若き才能への励ましが込められていると感じました。
巨匠ジョン・フォードが若きスピルバーグにカメラアングルの秘密を語る絵画のシーンは印象に残りました。
仲良し一家が離婚の悲劇、技術屋と芸術家では相性が悪いように言っていましたが、夫は妻の最大の理解者だし優しさ、感性においても非はありませんね、ただ、妻は完璧主義者の夫に気後れし疲れたようにも思えます。
率直に言えば家族のホームビデオ、これがスピルバーグさんの物語でなければ2時間半を超える長尺には耐えられなかったでしょう。両親の離婚で傷ついたにもかかわらず、ご自身も離婚歴がありますから、両親の気持ちが分かる年になったということでしょう・・。
面白かった。
・母親がピアニスト?で食器やテーブルクロスが使い捨てっていう生活が目新しかった。
・父親の親友?と母親とが付き合う事になって、二人は別れて、ラストに親友とのツーショットを見て、深く落ち込んだ父親の姿を見て、好きだったりするとやっぱり完全に感情を切り離した他人という風にはなれないんだなぁとしみじみと思った。
・ラストに出てきたのがデヴィッドリンチとはわからず、後から知って驚いた。
・母親がキャンプ中に親友と浮気?している映像を家族の中では編集して流さず、一人ひっそりとまとめていて言いたいけど言えないという苦しみの感じが辛そうだった。それを後から見せる形になったけど、幼少期に見せたおもちゃのSLの映像を楽しそうに見せたシーンとを重ねる映像的な面白さもあって悲しいなぁーと思った。
・ユダヤ人ってだけでいじめてきた背の高い男が好きな女子と仲良くなるのかと思ったら、その友達と仲良くなって驚いた。その子が確かキリストの見た目が大好きっていうのも何だか新鮮だった。その後、付き合って両親が離婚するからって一緒に来てくれっていってそれとどう関係あるのと別れるというのが切なかった。
・また、いじめてきた男を英雄のように編集した余暇の映像を流していた。5分間だけ仲良くなりたかったという理由でそういった編集をしていたのが、なんとも言えなかった。それが結果、当人はあんな立派な人間じゃないのに何であんな事をしたんだと傷つけるというのも皮肉だった。
・母方の祖母の兄?が突然家にやってきて、映画関係?の仕事をしていたもあり、映画の仕事は身を削るだけで不幸だというようなことを言っていた。創作は楽しいだけじゃないという以上の重たい感じだった。何か、頭に残った。
・カメラで撮影していたり、編集機で作業しているシーンが楽しそうで面白かった。
人生ままならぬけれど
Amazon Prime Videoで鑑賞(字幕,レンタル)
スティーブン・スピルバーグ監督の自伝的作品と云うだけでとても興味を掻き立てられましたが、いじめっ子との和解エピソードは良かったものの、親子関係のストーリーなど、「だからなんなの?」と云う感じであまり刺さりませんでした。
私の人生経験が足りないせいかもしれませんが…
人生ままならぬこともあるけれど、それら全てをひとつの経験として映画に反映させ、素晴らしい作品に昇華して来たスピルバーグ監督の原点を知れただけで良しとしたい。ジョン・フォード監督に言葉を掛けてもらっていたなんてすご過ぎる。
•••納得
フェイブルマン家、
天才的なお父さん、
お母さんとベニーとの事、
サムのスカウトや学校仲間ガールフレンド、
サムの映画作りの才能、
スティーブン•スピルバーグの自伝的作品
でなかったら、
モヤモヤ〜〜〜。
お母さん、自分の心のままに、って息子に言うけれど、いろんな場面に当てはめると、
評価もそれぞれになるかと。
お父さんに落ち度なんて無いし‥‥、
サムが転校してイジメにあい
お父さんの事責めてたけど、
悪いのはイジメているヤツらということ
間違わないで欲しい。
色々とお父さんが可哀想に思えて来る。
しかし、このお父さんの
広い広い神のような愛と
一つに秀でた才能とその探究心を
受け継ぎ、
天真爛漫で自由な温かい心模様を
お母さんから受け継いで、
さらに楽しい家族にも囲まれて、
芸術作品とも言える
数々の作品を
生み出せたのなら、
納得❗️
余談、
子供だからいいのかしれないけれど、
宗教の事気楽だったな、と感じた。
イスラム教ではないのかな。
スピルバーグが人生を振り返るとき
スピルバーグも、自らの人生を振り返る歳になったんだな。『フェイブルマンズ』それでも映画人の悲しさ、自らの素材さえドラマにしてしまう。事実はどうあれ、一人の大監督の自伝捉え、鑑賞するのも一考。映画の輝いていた時代を生きた最後の監督とともに。
前半は、つまらないドラマ、後半で帳尻を合わす。
スピルバーグの自伝的作品。
アリゾナでの幼少期から、ロスに移る青年期と映画界を目指すまでを描いています。
前半、アリゾナのお話は退屈で、安っぽいメロドラマ風。
スピルバーグも鈍ったな、なんて思ってしまうのですが。
後半で、帳尻を合わしてくるあたり流石。
映画作りでいうと、オーソドックスなタイプになるのかな。
ドラマを作り込むタイプ。
その分現実感がなく、作り物感が漂う画面。
あまりにも、メークのきっちりした母親に、生活感がでてこない。
出来すぎた家庭も父親像も、不自然だ。
それでいて、後半で一気にドラマを仕上げてくるのは、流石職人技と唸らせる。
ユダヤ系という複雑さ
スピルバーグの家庭である。
日本にいると、よくわからない概念だけど、欧米ではそうではないことを、改めて感じさせる。
アリゾナでの生活では、ユダヤ系ということで差別は受けない。
ロスに移り住んで、ハイスクールでの差別は、強烈だ。
同じアメリカかと思ってしまう。
ロスでは、アリゾナほどユダヤ系が多くないのだろう。
同級生の言葉が、きつい。
「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だろう」
確かにそうなんだけど、イエスがユダヤ人のマリアから生まれ、ユダヤの系図であることも事実。
ここは、反ユダヤ主義の影響と見るべきだろうか。
おそらく、ロスでは、ユダヤ人は少数派なんだろうな。
知的レベルと高学歴、財政的にも恵まれた家庭の多い、ユダヤ系。
やっかみや、嫉妬を受ける要素は、多分にある。
スピルバーグが、人生を振り返るとき
もうそんな歳に、なったのですね。
映画界に入る辺りで、物語は終わっている。
この後の続編は、できるのだろうか。
今までの、スピルバーグ作品を見てきて、この作品も、その制作方法に変わりがない。
いかにもオーソドックスな、ドラマの展開だ。
あれだけの大作、ヒット作を生み出した人に、これ以上新しいものを求めるのは、酷だろう。
その作品も、メソッドも古典の範疇に入ってきているとも感じてしまう。
時は流れる、時代は、変化するとしみじみ感じてしまう。
フェイブルマン家の人々
映画ファンの誰もが知っていて、その作品の多くが
を愛されている
世界で一番有名な監督・スティーヴン・スピルバーグの自伝映画。
始めて映画観た映画に取り憑かれて、8ミリフィルム撮影に熱中した
子供時代。
芸術家のお母さん(ミシェル・ウィリアムズ)
科学者のお父さん(ポール・ダノ)の風変わりだけど、
素敵な家族の長男に生まれたのサム。
お母さんはちょっと風変わりだけど、楽しい仲良し家族の中で、
最初の映画を観た日から、映画作りに熱中して70年。
今日に至るのです。
スピルバーグが78歳だったなんて!!
いつも若いとばかり思っていた。
この映画を観て実は2つの点に注目しました。
1つ、
カメラには思いがけない光景が写ってしまうことがある。
2つ、
映像作家は対象が個人的に好きか嫌いかは、関係なく、
光輝いてる対象や美しい人物、面白い映像を写してしまう。
1つ目の例は、
サムはホームビデオの編集をしていて、あることに気づく。
父親の助手で親友でほとんど同居人の
ペニー(セス・ローゲン)と母親のラブシーンが映り込んでいたのだ。
この事件にショックを受けたサム(ガブリエル・ラベル)は、
大好きだった映画作りから離れる事になる。
2の目の例は、
落ち込んでいるサムにガールフレンドのクローディアは
ハイスクールの「おサボり日」の記録映画を撮ることを提案する。
「おサボり日」とは卒業学年が授業をサボってビーチで遊ぶ日のこと。
仕方なく撮影するサムだったが・・・
サムがユダヤ人で小柄で非力な所を見て、酷いイジメ行為をするローガン。
高校一のモテ男でバスケットボールのスターのローガン(サム・レヒナー)
ローガンを疎ましく思いながらもサムの記録映画は、
ローガンの動きばかりを追い、
まるでローガンのプロモーション・ビデオのようになってしまう。
美しさをレンズはとらえずにはいられない。
スターの眩しさを映像で表現せずにはいられないのが映像作家の宿命なのか?
しかし脚光を浴びた形のローガンは、喜びより苦悩の表情を
覗かせて悔しがる。
スター性を持つものには持つもので、神に選ばれ者の苦悩や重荷がある事を
サムは知るのだった。
それとともにサムにはクラスメートや教師(みんな)を喜ばせるのが好き!!
昔から人の喜ぶ顔が好きだったのだろう!
この2つから、映像のマジックと、対象への抗い難い愛(欲望)
相反する魅力に畏れとともにサムは映画に魅せられていく。
そして天才の夫を持つ妻の苦悩・・・両親の離婚。
そしてユダヤ人と虐められた辛い過去。
も、同時に描かれる。
プロの監督になったスピルバーグが、
過去にはこんなトラウマ的な経験をしていた。
大学に馴染めない彼は映画スタジオに手紙を書きまくる。
その一つがプロデューサーの目に留まる。
そしてスタジオを訪れた彼はなんと心から尊敬する「ある人」に
合わせてもらうのだ。
そして貴重な貴重なアドバイスを貰う。
「ある人」を演じたのが、デヴィッド・リンチ監督とは?
すっかり縮んで小さくなってて皺くちゃで、とてもショックでした。
でも「ある人」の晩年の写真を見たらそっくり。
(似せていたんですね!)
(ラストですから是非ご自分の眼でアドバイスを確かめてね)
地平線が話題になったことの真意
サミー少年に会う前に、ジョン・フォード監督が、彼について、どの程度の紹介を受けていたのかは、本作には描かれていないので未知数なのですが…。
評論子には、初対面で同監督が地平線の話をしたのは、サミー少年が起伏のある家庭環境で育ってきたことを知った上で、平坦な人生を歩んできた者よりも、(父親の家族への無関心・母親の(父親の親友との)不倫、学校でのいじめや理不尽な人種差別など)起伏に富んだ人生を経験してきた者にこそ、観客の心を打つ映画が作れることを示唆したものと思えて、ならないのです。
一家の団欒を切り取ったはずの映像が、実は意外な真実を切り取ってしまっていた。
被写体を喜ばせようとして撮った映像がら逆に勘気を起こさせてしまった。
楽しさ・素晴らしさだけでなく、そういう映像の負の部分も知っているからこそ、誰もを楽しませることのてきる作品を、しかも次々と生み出すことができたのでしょう。
スティーブン・スピルバーグ監督という人物の一端を知ることのできる、素晴らしい一本であったと思います。評論子は。
スピルバーグ監督が誕生するまでの物語
サミーフェイブルマン(モデル スピルバーグ監督)が、子供の時に見た映画をきっかけにいつか自分もこのような映画を撮る監督になりたいと思った少年が、自主制作映画を撮り好評を受けました。
特に印象に与えたのは高卒後映画の撮影所でのスタート=これがスピルバーグ監督のキャリアとしての始まりに繋がったんだなと思いました。
もし彼がいなかったらジョーズもジュラシックパークの歴史もなかったと思われます。
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