フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
全390件中、301~320件目を表示
ファン以外にはウケない?
スピルバーグが自身のルーツとなる体験を描いた自伝的作品。タイトルは主人公の姓由来である。
ぼくは『ジョーズ』を劇場公開時(10歳?)に鑑賞して以来のファンなので絶対に見逃せない作品だと思ったが、他の人にはそうでもなかったらしく、300人以上入る劇場には1桁の観客しかいなかった。
あくまでも“自伝的作品”なので、描かれていることがすべて真実だとは思わない。それでも彼の映画への熱い思いは伝わってくる。前半と後半で明らかにトーンが変わり、楽しいばかりの内容ではないのだがそれもまたいい。
残念なのは、創作上の秘密のようなものは冒頭の激突以外は感じられなかったこと。あの映画のあのシーンはこんなことが基になっていたんだというのがあればもっとよかった。気付かなかっただけかもしれないけど(^^;)。
映画の夢に与えられ、奪われる
上映時間2時間31分、さしたる事件もアクションもないストーリーなのに、まったく飽きることがない。
本作がスピルバーグの自伝的作品であることは予告編などで語られていたが、そのことを知らなくても十分面白い。
この映画の主人公はサミー・フェイブルマン。タイトルの「フェイブルマンズ」とは、“フェイブルマン家”という意味だ。
つまり、本作はサミーと家族を巡る物語を縦糸にしながら、同時に「映画を創るとはどういうことか」というテーマが縦糸として貫いている。この後者のテーマについて劇中、繰り返し語られていて、それが映画好きにはたまらない面白さ。
観終わって、珍しく脚本を読み返したいと思ったくらい。
映画とは嘘である。
サミーが西部劇を撮るエピソードがある。
フィルムを編集をしているサミーは銃撃戦のシーンが「嘘っぽい」と悩む。
そこで彼は工夫を凝らし、フィルムに穴を開けることで迫力あるシーンを創り出すのだが、これは嘘に嘘を重ねて現実感を創っている、と言える。
家族旅行を撮影したフィルムに写っているものは現実だが、編集することで、それは「現実」から遠ざかる。
サミーは偶然、母の浮気を撮ってしまう。だが、そのシーンは編集でカットして、無難な作品に仕上げた。
出来上がった映像は楽しい家族旅行が表現されているが、それはサミーが編集で創った「嘘」だ。そして彼は偶然フィルムに収めた「現実」に苦しむことになる。
ハイスクールのプロムナイトで、お楽しみ遠足の様子を収めた映像をサミーが上映するシーンも同様。
その直前にサミーは彼女にフラれてしまう。傷心のサミーだが、みんなを楽しませる映像を上映しなければならない。ショウ・マスト・ゴー・オン。
映像を撮った時点では、サミーは彼女とラブラブだった。その映像を撮ったカメラは、彼女の父親から借りたものだったし、カメラを貸すからとサミーは映像制作を彼女から勧められて引き受けたのだった。
つまりサミーにとって、その映像は彼女との思い出に満ちたものだ。同級生たちは映像を観て楽しんでいる。それなのに彼だけが傷ついている。
ここでも、サミーが創った映像の中の「嘘」(彼女とラブラブ)は、「現実」(フラれた)によって打ちのめされるのだ。
こうして、サミーは映画を創りたいという夢に導かれ、家族や周りの友人たちと8ミリカメラで映像を撮るのだが、ときにそれは残酷なまでにサミーを傷つける。
本作は幼いサミーが両親と初めて映画を観るシーンから始まる。
サミーは映画館の暗さやスクリーンの大きさなどに怖がっている。
だが、サミーはたちまち映画の魅力に取り憑かれ、その後、8ミリカメラを手に自分で映画を撮り始める。
この冒頭のシーンが本作のすべてを象徴している。
サミーは映画に夢中になるのだが、初めは怖がっているのだ。
そう、映画は怖い。映画人を苦しめるものだ。
ラストに登場するジョン・フォード監督(なんとデヴィッド・リンチが演じている)は映画の仕事を始めようとするサミーにこう言う。
「心がズタズタになる仕事だぞ」と。
両親が離婚しそうなときも、サミーは離れた高い場所に座り、そのやりとりを撮影することを想像してしまっていた。
祖母の臨終に際しても、彼はカメラを覗くかのように死にゆく祖母を観察している。
映画を創る者ゆえの習性であり、業(ごう)だ。
サミーは映画監督になるという夢に近付きながら、映画の夢に与えられ、そして奪われていく。
だがラストは、それでも、夢に向かって歩くのを止めないサミーの姿をカメラは捉える。
思いがけず出会ったジョン・フォードとの会話の余韻に高揚しながら、サミーはスタジオが立ち並ぶ撮影所の通路を歩いていくのだ。
本作の冒頭で「地上最大のショウ」に触発されてカメラを手に取り列車の衝突シーンを皮切りに映画を撮り始めた少年はやがて「激突!」を撮り、「未知との遭遇」や「E. T.」などで「破綻した家庭」をたびたび描いてきたことを僕たちは知っている。
スピルバーグが「スピルバーグになる」以前を描きながら、映画とはなにか、映画を創るとはどういうことか、そしてさらに、何かを創作するとはどういう意味を持つかを語った。
傑作である。
これは、150分の尺をもつ“90分映画”であり、スピルバーグが監督した“ゴダール映画”である。
誰もが驚いたであろう、あの嘘のように呆気ない終幕を目にした時の感情は、
「えっ、もう2時間半経ったの⁉」
という幸福を伴った困惑である。
この現象は、語り口の徹底した簡潔さにより時間感覚が失われたことに起因するのだが、
150分スクリーンを見続けた後に、もっと見たかった、という名残惜しさを感じつつ、
劇場を後にすること、これこそ映画における至上の幸福というものである。
スピルバーグの映画には、説話的持続から逸脱した異物的シーンが必ず存在する。
この新作はまさに、そんな突出部のみをくっつけてしまった滅茶苦茶な映画だ。
前後のシーンのつながりは非常に不連続であり、
数多の監督がその不連続をごまかそうと躍起になるのを尻目に、
その出鱈目さをこれっぽっちも隠そうとせずにガシガシとシーンをぶつけてゆく。
その強引さはしかし足枷となることはなく、軽快な簡潔さとして逆説的に語りを豊穣にしている。
語り口の徹底した簡潔さ。
初めから終わりまで、そのあまりの簡潔さに困惑し、ハラハラし、そして興奮したものだ。
思えばそれは1カット目から顕著であった。
夜の劇場の前に立ち並ぶ人々をカメラが下がりつつトラッキングし、会話する家族の前で停止する。
映画館に入るのを躊躇う息子を説得する両親の顔は、息子を俯瞰するカメラに未だ映らない。
息子に目線を合わせようと、父がしゃがみ、母もしゃがみ、
顔見せを終えて、劇場の入り口へと向かう3人をフォローパンしてカメラは、
今から息子を決定的な道へと誘うであろう作品が
セシル・B・デミル「地上最大のショウ」であることを明らかにする。
上質な長回しによって口火を切った映画はしかし、
みるみる過激になってゆく簡潔さによって観る者を困惑させる。
例えば、ようやく完成した新居を8㎜フィルムで撮っていた次の瞬間には、
両親の離婚が決定的なものとなっているし、
プロムでのいざこざから些か強引にサミーと母の和解のシーンが提示されたかと思うと、
画面はふいにホワイトアウトし、1年後の父とサミーが同居するアパルトマンへと飛ぶが、
どうしてサミーが父の元へ居候することになったのか、
サミーが就職活動でどんなに苦労していたのかといったことは一切具体的に提示されない。
滅茶苦茶なのはシーンのつなぎに止まらず、
カットのつなぎまでもあらゆる局面で混乱を来している。
雑なポン寄りが至るところで見られた。
前後のカットで人物の立ち位置が変わるところもあった。
デコボコなつなぎにドキドキして、しかしフォードのシーンでは、
マッチに着火→口元の葉巻に火を持っていく、というアクションつなぎが素晴らしく、
そこからさらに同軸上でカメラを引くつなぎもあったように記憶する。
安定しないカット割りは、次が予想できないために常にハラハラさせてくれる。
その心理状態の中、沢山のカットで心を揺すぶられた。
白い照明が大胆に使われた夜のキャンプ場の森なんて、50年代のニコラス・レイの森のようだし、
そこで自動車のライトを背にして踊る母は、「カビリアの夜」のジュリエッタ・マシーナではないか!
簡潔さとは、単純化では全くない。
説話的な持続が一向に不明瞭なままにも拘わらず、
語りたいテーマのために必要なプロットは強引に展開される。
あのプロムの上映で、イケメンが等身大の自分とスクリーンの美化された姿との乖離に動揺し、
逆に劇中で馬鹿にされたことを怒ったいじめっ子の子分を唐突に殴り飛ばすなんて、
一般の水準でみれば感情の流れとしてあり得ないほど突拍子のない展開である。
必要なシーンを脈絡なくくっつけまくるという戦略。
結果、作品の全貌はゴダール作品のそれと限りなく近似することになった。
実際、本作と「気狂いピエロ」とを比較すれば、
単なる印象に止まらない細部の類似がいくらも見つかるはずだ。
150分の尺をもつ90分映画であり、
スピルバーグが監督したゴダール映画。
そんな新作に出くわして、涙をしないわけがない。
こんなに誰にも向けられていない映画が当たるはずがないのは、スピルバーグも承知している。
その好き放題をみたらばこそ、こんなに心は晴れやかだ。
映画の虜になった主人公がプロになるまでの物語で、話運び自体は主人公...
映画の虜になった主人公がプロになるまでの物語で、話運び自体は主人公の少年期である50〜60年代にかけてをゆったりと沿うような作り
本作の時代考証も面白いところですが、映像は良くも悪くも強い影響を与える諸刃の剣というのが主題だと感じました
序盤ワクワクするも途中から単なる学園ドラマで拍子抜け
金曜レイトショー『フェイブルマンズ』
今週はアカデミー賞ノミネート作品が、2作品公開
スピルバーグ監督がメジャーになって行くと同時に、映画をどんどん観るきっかけになった監督の自伝的作品なら当然コレ優先🎬
最初の1時間くらいは、映画を撮るって事に魅了されて行く少年の描写が面白かったですが・・・
その後、単なるアメリカの学園ドラマが延々と続いて拍子抜け。。。
子供の頃の描写に激突を連想するシーンがあったので、映画監督デビューの激突からブレークしたジョーズを撮るシーンまではやって欲しかった。
監督した歴代の作品の名シーンが、エンドロールで流れると期待するも何も無しで残念-_-b
〝予感〟だけでこれだけ魅せてくれるなんて‼️
6歳の時に初めて連れて行ってくれた映画館。
さあ、どんな映画、どんなシーンと出会うんだ?
6歳のスピルバーグよ!
おおっ!あれだったのか❗️(←見たことないくせに、訳知り風)
あれが15歳の時に作った戦争映画だと⁈
凄すぎる❗️(←プライベート・ライアンの素地が既にあったのですね←誰でも分かる)
少年5〜6人による自転車での街中疾走❗️(←ETのあのシーンに繋がるのか!←誰でも分かる)
列車の衝突シーンの再現、眩しいヘッドライトでドレス(ネグリジェ?)が透ける視覚効果、編集力で際立たせるイケメンスポーツマン(←眩し過ぎる自分を見て虚構虚飾で成り立っていることを悟らせる。視覚効果の陰影だけでなく、演出・編集による人の心の陰影
まで映画は表現できるのだということを既に会得していたのか、凄いぞスピルバーグ⁉️)
理系の天才である父は冷静で現実的で理屈っぽいところもあるけれど、人としてはとても寛容。
プロを目指せるほどのピアノ奏者である母は、子どもたちをあるがまま優しく受け入れるけれど、自身の情熱的な感性にもとても素直なだけに精神的には不安定な人でもある。
さまざまなきっかけや家庭環境、人間関係…
そのどれもが、後にジョーズやETやインディ・ジョーンズ、その他数えきれないほどの感動や影響を生み出すスピルバーグを予感させるのです。
この映画、どのエピソードをとっても、後のスピルバーグへの〝予感〟だらけなのです。
2時間半の最初から最後まで、〝予感〟だけで構成されています。
なのに飽きないし、面白い‼️
思い起こせば、未知との遭遇もETも、鑑賞中ずーっと、これから何か驚くべきことやいいことが起きるという予感に包まれて見ていた気がします。
その予感が的中したのか、どうやってそこにもっていくのか。スピルバーグ監督の映画は、そういう自分の予感が映画の中でどうなっていくのかが気になるから、飽きたり見逃してるヒマは無いのです。
いやーな予感〝恐怖編〟の代表が、激突やジョーズだとすれば、ワクワクドキドキの予感〝そういうのが見たかった編〟の代表がETやインディ・ジョーンズ❗️
1970年代から2020年代の今に至るまで、本当に感謝の言葉しかありません。同時代に生まれてくれて、ありがとうございます。
【忘れちゃいけないシーン】2023.3.5 追記
あと3日も経つと忘れてしまうので、記録しておこうっと。
少しのネタバレも許すまじ❗️という方は、以降、ご遠慮いただくほうが無難です。
ジョン・フォード監督が、若きスピルバーグに伝えたこと。
その絵を見て解説してみろ。
えーと、馬が二匹遠くを見ている⁈
人が◯人いて…
違う❗️地平線はどこにある?
地平線は、上にあっても下にあっても面白い絵になるが、ずーっと真ん中にあったら退屈で仕方ない。
さ、とっとと帰ってくれ❗️
ーThank you❗️
ーMy pleasure.
※戸田奈津子さんの字幕+私の拙過ぎる英語力なので、正確性は担保できません(←開き直りという)、悪しからず。
映画作りは、作る側の心をズタズタにする。その対価とは
スピルバーグの映画に対する思いがストレートに伝わってくる。
怖がりのサミー少年が、初めて見る映画は列車強盗があるアクション映画。列車と自動車が激突するシーンにショックを受けるが、そこはスピルバーグ少年、脳裏に焼き付いてしまう。列車の模型を走らせるだけでは飽きたらず、激突シーンを8ミリフィルムで撮ってしまう。
第1幕は、少年時代。第2幕は、父親の仕事の都合で引越したアリゾナ時代。ここでサミー少年は、映画制作の楽しみを存分に味わうことになる。
ところが、またもや父親のキャリアアップのためにカルフォルニアに移り住むことに。色々な事が起こる第3幕へと突入する。
温厚でエンジニアとして成功していく父、ピアニストとしても活動する芸術家肌の母親。その2人に加えて、父親の親友であり助手でもあるベニーが家族のイベントごとには必ず存在する。徐々に、ベニーに対して違和感を感じるようになるが、この辺の演出を映像だけで表現してしまうのが、さすがスピルバーグ。
映画作りは、作る側の心をズタズタにする。作中で何度かセリフとして出てくるが、その対価に何を得られるかは、言葉では語られない。
フェイブルマンが撮った映画を観て、笑いころげる顔、興奮する様子、内面を抉られたように反応する人間。そのリアクション全てが、サミーのさらなる映画への情熱の原動力になり、これが最高の報酬だと思う。
フォード監督が、サミーに与えたアドバイスには、唸ってしまう。たったあれだけのことだが、私には目からウロコでございました。
デミアン・○ゼルに煎じて飲ませたい Part2
2時間半があっという間!自伝映画ということで、宇宙戦争のようなスペクタクルは一切ないのですが、最初から最後まで全く目が離せなく、「もう終わっちゃった!(まだ観たい!!)」というのが映画終演直後の感想。
どこまでが事実でどこからが嘘なのかわからない。映画の嘘と真実がさりげなく語られるが、本作の中で主人公のサミーが母親へ語る終盤のシーンは、これは今のスピルバーグから母親へのメッセージのような気がして泣けた。
スピルバーグは幼少期から家族や友達を撮って映画やホームビデオにしていて、この映画自体も完全にそのスタイルに乗っ取っており、それを今のスピルバーグが映画にするというのがこれまた泣ける。
幼少期から現在のキャリアに至るまで全てやるのかと思ったら、ハリウッドに足を踏み入れるところまでで本当にスピルバーグの人生における序章も序章。そしてスピルバーグのインタビューなどで度々逸話として語られていたある伝説の監督との対面と彼に言われた衝撃的な言葉が満を持して実写化笑 (そしてこの監督を演じたのはあのお方!)
あのラストカットのチャーミングさったら!
だからスピルバーグが好きだ。
映画愛や映画好きを自称する監督であればあるほど、オレはこんな映画から引用するぜ!という映画偏差値の高さをひけらかすような描写が多く鼻に付くのだか、本作の余裕っぷりときたら!!さすが巨匠の余裕。
インディージョーンズの次回作で引退を仄めかしている91歳のジョン・ウィリアムズとは本作が最後の共演なのかな。
一年一本ペースで大作映画を作れる天才なので、仮に100歳まで生きるとしたらあと26本撮れる!笑
まだまだ終活なんて言わないで欲しい。
次回作はまだ未定とのことですが、楽しみに待ちたいと思っています。
愛おしいスピルバーグ少年
まさかの「あの人」が・・・!
彼にとっての神は映画。
スピルバーグの半生を描いたとされる作品。
どんな衝撃を受け、どんな幼少期、青年期を経て監督になっていったのかが分かる。
偉大な映画監督がどのようにして生まれたのかが分かる。
彼の周りの人びとが、いつでも彼の行動を応援してくれていることが印象的だった。
そして、どんなに辛い状況になっても映画、映像はいつも変わらずにいてくれる。それが救いになっていること。そこに心を打たれた。
作中熱心なキリスト教徒が登場するが、彼にとっての救いの神は映画、映像なんだと感じさせてくれた。
生き方の参考にもなるし、子育ての参考にもなる、そして、人間の美しさを描いてくれた作品だった。
(逆転のトライアングルという人間の醜さを描いた映画を見たばかりだったのでなおさらそう感じさせてくれた。)
ちゃんとした青春映画だった!
ここ数年、映画絡みの映画が増えている気がする。「キネマの神様」「映画大好きポンポさん」「浜の朝日と嘘つきどもと」「サマーフィルムにのって」「エンドロールのつづき」「バビロン」「銀平町シネマブルース」等々。ほとんどが素晴らしい映画だ。そして満を持して登場したのがスピルバーグ大先生の自伝的映画の本作。正直あまり期待はしていなかった。自慢か説教か強い主張が入ってる気がして。
でも、そんな心配は無用だった。そんな先入観を持っていた自分を叱りたい。面白いじゃないか。昔ながらのフィルム撮影でどんな工夫をしたのかも面白かったけど、それよりも少年サムが家族や同級生との関係性の中でどんなことを感じ、どんな成長をしていくのかが面白かった。ちゃんとした青春映画なんだよな。
スピルバーグ先生は自分のことを自慢するわけでなく、ちゃんとイタかった自分をさらけ出している。女の子に舞い上がったり、同級生にいじめられたりするシーンもニヤニヤしながら楽しませてもらった。
そして最後。実はこれがこの映画に一番込めたかったことなのかも。あんなに短いシーンなのにとてつもなく印象に残ってしまった。あの後のサムのようになんか希望が湧いてくるんだから不思議。結構長い映画だったのに全く飽きることがなかった。スピルバーグ大先生健在だな。
やっぱりスピルバーグは上手い。でも、この映画を観た人にはスピルバーグの他の映画の前にジョン・フォードの映画を観て欲しいな、映画好きなら。
①基本的には映画への愛が根底にあるのだが、カメラ(映画)の怖さもさりげなく描いているのが、この映画を重層的なものにしている。
②カメラがそのまま映し出す残酷な現実、その現実を隠せる編集、フォーカスしたりスローモーションにしたり等の技術で作り出せる偶像等、映画の陰の面もありのまま描くところに数十年間映画を撮り続けてきたスピルバーグの監督としての歴史と矜持とを見る思いがする。
③ホンの1分ほどでサムの父親の口を借りて映画とは技術的にどういうものか(連続撮影されたフィルムをスクリーンに投影したもの)を簡略に説明する冒頭から巧い。その後も随所で映画に関する技術的な説明がされるが、一方、「芸術(映画)と家族(私生活)」に引き裂かれる芸術家(映画監督)としての苦悩・葛藤・覚悟も、ジャド・ハーシュの叔父さんの台詞やピアニストになる夢を諦めて主婦になった母親の姿等を通して描かれる。
この映画は自分の人生に実際にあった出来事を描いたのではなく「記憶」を描いたとスピルバーグは言っているが、スピルバーグ自身が監督人生を送る中で味わった様々な心情を反映させていることは間違いないだろう。
④母親役のミッシェル・ウィリアムズは相変わらず巧い。というか、サムの肩を押すのはいつも彼女であり、大人の世界の複雑さを彼に教えることになったのも彼女である。
そして、家族の中でサムが母親に一番似ていると真実をついたのはすぐ下の妹。家族ってお互いをよく見ているし、遠慮なく言えるのも家族ならでは。
そう、これは映画の話でありサムの映画監督への道のりの物語であると共に家族の物語でもあるのだ(『The Fablemans(フェイブルマン家)』という題名がそれを語っている)。
⑤サムとその姉妹たち、サムの青春時代と子供たちに日々を描くと共に、大人たち(父親と母親とベニー)のあわいな三角関係の有り様を描くところにもスピルバーグの巧さが現れている。
⑥ポール・ダノも、いつものややエキセントリックな役ではなく、アメリカの中流階級の知的で勤勉で家族思いの普通のお父さんを実に自然に演じている。
終盤、サムに届いた母親からの写真を見た(サムは気付かなかったので見せてしまったが、妊娠していることが見てとれる)時の、様々な感情が浮かぶ何とも云えぬ表情(顔面演技)が素晴らしい。
⑦映画のラスト、撮影所を訪れたサムが思わぬ巡り合わせでジョン・フォードのオフィスに通されるシーン。
見回す壁には『駅馬車』『わが谷は緑なりき』(大好きな映画!)『男の敵』『捜索者』『三人の名付け親』『静かなる男』『リバティ・バランスを射った男』(ここでも登場)のポスターがズラッと並んでいるオールド映画ファンには夢の一時(ひととき)。
ジョン・フォードを誰が演じているのかと思えば、デビット・リンチだったんですね。映画史上の名監督であり大先輩を嬉々として献じているのが見ていて楽しい。
⑧最後、撮影所の中を未来に向かって歩いていくサムの後ろ姿が爽やかな余韻を残す。
終わり方がズルすぎる
無邪気な映画愛だけでなく、芸術の「呪い」も感じることができる
劇中、最も印象に残るのは、祖母が死んだ後に突然やって来たその弟が、主人公の少年に語って聞かせる言葉だ。
曰く「芸術という麻薬の中毒となった者は、孤独という代償を払わなくてはならない」というもので、まるで、魔法使いが、少年に呪いをかけているかのように描かれている。
おそらく、これは、長年、映画という芸術に携わってきたスピルバーグの実感、あるいは本音なのだろう。
確かに、主人公の少年は、映画作りにのめり込みながらも、その一方で、両親が離婚したり、人種差別でいじめられたり、プロム会場で彼女にふられたりと、必ずしも幸せ一杯な生活を送っている訳ではない。
特に、主人公が作った映画を楽しんでいる人々と、それを映写している主人公の冴えない顔の対比は面白い。
ただ、どうせなら、芸術を選んだがゆえに味わう孤独のようなものが、もう少し明確に描かれても良かったのではないかと思われる。
芸術家の母親はもちろん、技術者の父親にしても、主人公に対する理解があり過ぎて、映画の道に進むに当たっての葛藤のようなものがまったく描かれないのは、どうしても物足りなく感じてしまう。
ところで、ジョン・フォードのエピソードは、スピルバーグが経験した事実なのだろうか?
いずれにしても、ラストショットのカメラアングルのズレには、ニヤリとさせられた。
自伝的作品もエンターテイメント作品に。
光と影
わかる!全員の胸が張り裂けそうな気持ちは、わかりすぎるくらいわかる!ただ、それでも、敢えて言おう身勝手であると。
どーせ苦しい人生なら、強く生きるしかない。そして、胸が躍る生き方を選ぼう。
こういうのが、行間という物だと思う。なんでもあけすけにすればいいという物ではない。グレーでいいのだ。解釈の余地を残して、真を伝える。私の好きな感じだった。
しかし、あのキリスト教徒の描き方ww
お母さんを愛し家族を愛し自分も含めて赦せたのかな。あの小躍りのシーンは素敵で、明日に続く希望のある良い終わり方でした。
タイトルなし(ネタバレ)
小さい頃から才能あったんだなとか家族みんな愛らしくて可愛らしいなとかブルーが象徴的に出てくるなとか云々置いといて。
ETやキャッチミーイフユーキャン等等でも出てきた両親の不倫・離婚について、じっとりねっとり描かれる。両親死ぬの待ってから作っただの、実名でやりたくなかっただの散々言われているが、驚くほどガッツリやっている(だからそう言われるのもわかる)。“あの2人“の目線の交差を過剰に何度も繰り返すので、ビックリするぐらい説明的(に感じる)
それで言うと、キャンプ場でドレス姿で踊るシーン、性的に見つめるアイツの眼差しでのちに訪れる不穏を予感させるの上手い。(いちお、妹に抵抗させるのは時代的な配慮か??)
ミシェル・ウィリアムズはブルーバレンタインに出ていたので、余計に「the・夫婦倦怠モノ」の色で見ちゃう。ので、自伝的映画と言いながら半分は夫婦倦怠モノ。とは言え、キャラクターの愛らしさもあって、ジメッとし過ぎない。
人種差別やいじめについても描かれるが、本人のあのハンデについてはさほど描かれていない。
スピルバーグの過去作は見といた方がいいに越したことはない。いろんな場面で、プライベートライアンとか「これはあの映画のことか」と言わんばかりのシーンが出てくる。
あと、「地上最大のショウ」と「リバティ・バランスを射った男」は見といた方がいいんだろな。。。
同級生らが、サミーが撮った映画を見て感情剥き出しにするシーン、一瞬??とはなるものの
サミーが自分の才能に畏怖を抱く瞬間でもあって、こんな形で自己言及しちゃうんだという変な驚き。「自分すげぇ」までの威圧感とかは感じないけど、すごく変なことをナチュラルにやってる。あの本人だからそんな表現してもこちらも平伏すしかないんだけど。
ラストのあの人、半年前にカメオ出演についての記事見たような気がするけど、それでもここでこんな形で!?という驚きはあった。
映画愛についての映画は最近散々見たが、仕上がりとしてはこれが1番上品に感じた。
全390件中、301~320件目を表示