正欲のレビュー・感想・評価
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マイナーな欲をもつ人々と常識人であろうとする父親の葛藤
水が噴き出ていることに喜びを感じるマイナー欲のガッキーが中学で同じ欲で分かり合えるも転校してしまった男性と再び出会い、社会に溶け込んでいこうとする。一方違うところでは、検事で父親であるイナガッキーは堅実な思想をもっており、息子の不登校かつ動画配信者になる学校拒否に断固として反対、奥さんも部屋ごもりにならないならと息子の背中を押しており、理解できず頭を抱えていた。ガッキーは欲が一緒であった男性と同性のため都市部に移動し、男性は同じ欲で苦しんでいる人と繋がりたく動画内のコメント欄にて、似た思想を持っていそうな人と直接会い噴水で遊ぶことに。そんな矢先、会った人の中に幼児趣味の教員がおり、取り調べの中噴水で会った時の子どもとじゃれる写真から共犯と思われガッキーの夫や男子大学が巻き込まれることに。その聴取に検事のイナガッキー担当となる。
そのまで重いテーマとは感じませんでしたが、昔よりも情報発展した現代の日本ならではの問題点であったり、孤独感、非共有感からの脱出など、何事もないように人生を終える葛藤は描かれていた。
ありえないでは済まされない
通常スクリーンで鑑賞。
原作は既読。
多様性とは、マジョリティーが自分たちの想像し得る範囲での「違い」で全てを理解した気になっているだけではないか?
多様性の範疇から弾かれている人たちの生き辛さや苦悩を理解しようなんて、軽々しく思うのは傲慢なのかもしれません。
孤独って誰しも抱えているのではないかなと思いました。私も少なからず周囲に合わせて自分を偽っている部分があるし、誰にも共感して貰えないと感じることもしばしばです。
だからこそ、それを分かり合える存在に出会えた時の喜びは何物にも代え難い。夏月と佳道が共闘によって孤独じゃなくなり、ふたりで生きている姿を愛しく感じました。
ですが実際、こんなにも深く分かり合える存在と出会える確率なんて低いです。しかし、誰かとの繋がりを求めずにはいられない。どんな性的嗜好だろうと、人間である限りは。
私も知らない世界に想像が及ばない人間のひとりなのだとハッとさせられましたし、ありえないで片づけてはいけない価値観があると云う気づきは自分の中で大きいです。
原作を読んだ衝撃を未だに引き摺っていますが、改めて突きつけられた感じ。普通とは。正しさとは。価値観は変わったとしても、繋がりの大切さは揺るがないと信じたい。
※修正(2024/06/28)
まだ認められていない「個性」をどう社会で受け止めるのか?
稲垣吾郎さんが小児性愛の犯罪者を断罪するシーンだけで、本作を見た価値はありますし、もっと話題になっていいのでは?
新垣結衣さんのオーラを殺した演技すごかったですし、磯村勇斗さんの作品選びを信用して、彼が出ていただけで見ようと思って正解でした。
ただし、「正しさ」から外れるものの多様性を扱った作品で、最終的に物語としてフォーカスされるのは、「水フェチ」という部分が少しピンときません。何かを言い換えてることは察しはしますが、劇中の流れですぐに思い浮かべるものとも違いそうです。
作品そのもののメッセージはやや整理し切ってない印象も強く、私自身もキチンもテーマを受け止めているかはやや怪しいです。
とはいえ、いずれにせよ「多様性」という言葉が使われるときの、一見受け入れやすそうなものだけを許容される状況のなか、まだまだ社会では許容されない「個性」があることを照らした作品なのだと思います。
まだまだ理解した気になっているだけだった。
物語が進むにつれて、俺は一体どこの視点からこれを見ているんだよって感情がぐにゃぐにゃになりました。
割と序盤、ダンス部の部長が
女性的なダンスとか男らしい振り付けとか、女性が男性的な激しいダンスをするとか言っていて、
いやいやそれは多様性では無い。
どの性別の人が何をするかは関係なく、その人がしたいことをして、それを理解する(ある意味ではそれに関心を持たない)ことが多様性何じゃないかと私は理解していました。
しかし、それだけでは自分の範疇にのみの理解に収まっているだけだなと思わされました。
途中で、セックスの体位を真似てみるシーンがあるのですが、正直シュールで笑ってしまいました。え?分からないことある?!って
でも、そりゃそうなんですよね。私は中高生の時に異性に興味を持って、調べたりしましたけど、彼らはその時、"水"を調べていた訳ですから。
だから、そんなことある?!って思ってしまった自分に失望しました。、
例えば、ライオンやカエルが何に興奮してどうセックスするのか私は全く知りませんし、調べたこともありません。
彼らを人ではないと言っている訳ではありません。自分と違う感性を持つ生き物たちのことを知らないのは不思議なことでは無いということです。
歓喜でも恐怖でも悲哀でもない感情でぐちゃぐちゃになりました。
小説は読まずに映画から観ました。
思った以上にヘビーだった…
テーマが重かった。
フェチを持った人の生きづらさとか息苦しさが絶妙に表現されていた。
あと、人と分かり合えないことで感じる孤独とか諦めがところどころ伝わってきた。
キャストはこの上なくよかったと思う。
演技下手な人が居ない。
それぞれに見入るポイントがあった。
まず新垣結衣。
いつもみたいな笑顔でキラキラしているガッキーはどこにもおらず、目が死んで、人生に諦めてるガッキーしかいなかった…
こんなの初めて。
言葉は少ないけど、喋り方とか態度に「あぁ、この人世の中生きづらい人だ」感が現れてて、改めて演技上手いんだなぁ…って思った。
そして1番気になってた欲情するシーン。
ガッキーに乱れて欲しくない!って願望もありながら見たけど、絶妙に演出と相まって上手い具合に表現されていた!
開始10分くらいでそのシーンはやってきます
是非見て。
あと、ハマり役はゴロちゃん。
堅物でわからず屋で冷たい印象だけど、決して悪い人じゃない感じがピッタリだった。
これが西島秀俊だったら少し優しすぎる。
いいかんじに冷たい印象を出せるのはゴロちゃんしかいなかったと思う。
そして、奥さん役の俳優さん。
よく見るけど名前わかんないあの人!
あの人、いい味出してるんだよなぁ。
その他磯村勇斗も実力派だし、男性恐怖症のあの子も初めて見る女優さんだけど、すごい迫力ある演技だった。
マッチョ大学生も、目線がまっすぐで多くを語らず…とてもよかった。
ストーリーはというと、最初はそれぞれの人物の日常が代わる代わる描かれていて、正直頭?のままで進む。
そしてある出来事で全員が結びつくんだけど、想像できる最悪のケースで結びついた…。
ほんと考えうる1番最悪なケースで…。
まぁ、ゴロちゃんが検事な時点でお察しなんだけど、フェチを感じることがいけない事ではないのに、性犯罪(窃盗なども犯罪もしかり)と陸続きであることが多い部分も否めず、まずここで葛藤。
磯村勇斗が連れていかれて置いてけぼりのガッキーの演技、すごいよかった。
言葉は何もないけど、胸にくるものがあった。
絶望もあると思うけど、いつか来る未来でもあったような…という風に私は感じた。
物語は最後、ガッキーとイナガッキー(上手いこと言った)のやり取りで終わるが、
ほぼこの2人の会話のみなのに、すごい迫力があった。
そして恐らくこの物語のテーマである"繋がり"を短いやり取りで表現してたと思う。
私が思うに、この映画は「いろんなフェチの人がいます」「フェチを持った人(マイノリティ)はこう感じています」ではなくて、その人たちが感じる寂しさや孤独、生きづらさを経ても繋がり合えるってことじゃないかと思いました。
そして、その事をマイノリティでも繋がりあえる人がいるガッキーと、普通を望み家族と繋がりあえなかったゴロちゃんの対比で表現されていたなぁと思った。
最後のガッキーの発言1つ1つが、ゴロちゃんへのボディブローのよう。
それと同時に、観てる私たちにも普通って?正しいって?と問いかけられているようだった。
正欲は文字通り「正しく(普通で)いたい欲」でもあったのかな…と。
なんかもう最後は何が正しいのか?
何が普通なのか?わからなくなり、ENDというかんじでした。
ラストのガッキーのセリフもとてもよかった。
映画館で初めて、歓喜でも恐怖でも悲哀でもない感情でぐちゃぐちゃになりました。
この映画で唯一の笑えるポイントは
途中大学の学園祭の踊るシーンくらいでしょうか。
(作った人には申し訳ないけど)マイノリティに向けた歌詞とか曲調がダサくて、わざとかな?と思ってしまいました。
普通の人が普通に楽しい学園祭や結婚式が、ああいう切り取られ方をするととても滑稽に見えました。
それも演出なのかな?と。
原作を読んでいないので、やはり原作とは違う点、違う切り取り方、違う解釈はあるのだと思いましたが、映画としてはすごく見応えがあったので、私の中では★5です。
Beyond The Diversity
群像劇&章立ての構成でストーリーテリングが始まる
原作は未読だが、作者朝井リョウが自身のエポックメイキングと位置づけている物語だそうだ
確かにかなり突飛な設定を配している事は疑いようもない 実際にそういうフェティシズムの同好がいるのかは不明だが、無機物自体に性的好奇心が宿るのかは、自分もその辺りは理解が届かない 比較的周知されている事例とすれば"ブルセラ"、"ブーツ&ハイヒール"、そして今作でも薄くニアミスかもしれない"Wet&Messy"が思い出される wikiから引用すると「行為が社会規範に従わない場合がある。そうする事によって、自由と開放の心地よい感情を表現する。それは、そんな事はすべきでないし、そんな事をするには年を取りすぎていると自分で分かっている事をやって、それを楽しんでいるというポジティブな後退感をもたらす」という理由付けがあるようである
水に濡れている人間に対しての性的興奮ならば心情は分らずとも、異性や同性の艶めかしい肢体がセットとなればその行く末は性技に直結することが想像可能である 但し、今作のように、滝や壊れた水道管、はたまた給水器から溢れる水(今作には無いが、昔のNYの壊れた消火栓等も同類であろう)そのものに性欲が掻立てられ、あまつさえ自慰行為に迄昇華できるその想像力の逞しさなのか、そもそも迂回せずともダイレクトに性的欲求がホルモンであるオキシトシン、テストステロンの分泌を促す特殊な回路が形成されているのか、それは解らない
なので、そこに今作のテーマを沿えてしまうとどうしても賛否の溝がひろがってしまう 単純に今作はそれをメタファーとした『理解不能な人達が現実にこの地球に共存しているという事実』を再確認することがキモなのではないだろうか 例えば宗教観でもよいし、もっと言えば苛める側と苛められる側、性格的に相容れない者同士、相手を理解、もっと突っ込めば"赦す"事が人間は可能なのだろうか?その叡智は将来に人間は獲得できる可能性を秘めているのか、それをヴェールとして描いてみせつつ、しかしあくまでサスペンスドラマとして、敢えて全ての元凶であるペドフィリアを抱く男にまんまと利用されてしまった顛末をバッドエンドで帰結させる不条理劇ということだけなのであると思う
ヴェールを主眼に置いてしまうと今作は見誤る そのミスリードを巧く取り入れた凝った作品であるのは明白だ ガッキーが水に沈もうが、自慰の演技を頑張って演じようが、そこがベストカットなのではなく、ラストのガッキー対決に於ける、決して自分を否定しない人間同士が"矛盾"という沼に嵌る罰ゲームを回避しようと藻掻く面白さを愛でる作品なのだろうと思うのだが・・・
家族が壊れる道がみえている検事と、同じ星から地球に留学に訪れたカップル その繋がりの差がバックボーンとなり、心情の折れ線グラフを絶妙に表現した秀逸な内容なのである
"肉を切らせて骨を断つ" 『正義』など、相対性、立場でのポジション取りなだけであり、優劣など皆無なのだということを突きつけた今作、大変素晴らしい映画であった
マイノリティと薄氷
正欲
youtuberが好きも嫌いも、どちらにしても良くある思想で、マジョリティ同士が愚かだと罵り合っている。
対比して本当のマイノリティは、違う次元で生きていて、必ずしも正しさを求めず、一度運命と再開したならば、繋がりが絶たれることは二度と無い。
結婚式のビデオレター、同じ言語を用い、同じ料理を食べていても、また運転の仕方も同様だが、どこかぎこちなく見える。
人に愛情を抱けない中で、人間同士の繋がりを何故求めているのか。
これまでの経験から他者との共感は期待できない。だから住んでいた町、昔唯一分かり合えた人のことを、ただ思い出しては眺めている。
インターネット画面を無為に見て、家に帰れば家族が存在する。辛うじて世間一般からは外れない(ように見える)が、変化はいつまでもやってこない
運命の日の後、飛び出した世界で善良に生きようと、悪いコミュニティに繋がり、同罪にされる。
世間と迎合する代わりに、二人で力を合わせようとするのは、それでも不自然な感覚だろう。
地球に留学
他者の誰とも分かち合えない、自分だけ持つ本能を持ちつつ社会で生活する。
佳道の『どうせ死ぬだけの命をなぜ、わざわざ生きるのか』『誰にもばれずに死ぬ為に生きてる』
夏月の『地球に留学しに来ている』のセリフが
インパクトあったなぁ。
水が涌き出て四方八方に飛び散る。
服が濡れて滴り落ち、無邪気に喜ぶ姿は子供の用に正。そこに欲は感じられない。
ただ、そこには違う思考の人もいるとは。
普通の楽しさに不思議な欲が入り雑じると
空中分解して普通じゃ無くなるよね。
でも同じ世界の人と繋がりたい孤独感の
欲求も人間の本質かもしれない。
逆からみると寺井啓喜が理解出来ない孤立の立場になってた気がする。世の中には余多に存在するのでは。
新垣結衣さんの桐生夏月役の死んだ目は良かった。『うるさい』って放つ姿は人間らしい。
磯村勇斗さんの佐々木佳道役の同じ感覚の人とのやり取り、嬉しそうだった。ただ植木鉢投げられてガラスが割れて怒らないのは不思議。
この二人のやりとりが、今までチラ見して素通りしていた穴を覗き込んだ気分に陥った。
最後の夏月が寺井に対して緊迫感もありながら、凛として立ち向かう表情は見応えあり。
気持ちが揺らぐ寺井のニュアンスも感じた。
越川さんは多様性を理解してたね。
この二人は知り合いかよっていう顔付きも絶妙でした。
普通の装って生きる。しんどいかもしれないけど、少しでも気が合う人と出会えて良かったね。
キャッチコピーを見た後に思い出した
約2時間半ある長い映画だった。
冒頭は共感できるセリフから始まり
結構面白そうだなと思ったが、
そろそろ終わりそうなところで
新しい人間が出てきたり
正直少し飽きた。
でも終わる直前のガッキーの言葉を受けた後の
稲垣吾郎の表情が忘れられない。
ずっと自分のことを
「普通」と思ってたけど
彼女が言う「普通」に
自分は満たしていない。
それに気づいた表情であった。
見た後に、キャッチコピー?が
「観る前の自分には戻れない」だったのを思い出した。
でもこれが響くの
自分のこと「普通」だと
思ってたり
結婚出産を当たり前にしてる人たちが
「30代で産んだらきついよ?早く産みなよ!」
「彼氏いないの?欲しいでしょ?」って
自分の普通を人に押し付けたり
人に変わってるねって言えちゃう人だけ。
都会で生まれ育った為、
映画でしかその感覚が味わえないが
地方の結婚や出産に対するプレッシャーが
すごいんだなと見るたびに感じる。
私は自分のこと普通だと思わないし
人間の数だけ人生があり(この映画的に言うと人間の数だけ興奮するポイントがあるよね)
誰1人普通なんてないと思ってるから
人に「変わってるね」なんて絶対に言えないけど
結構「変わってるね」って言われるからその人達が見てほしーなって思いました。
見てる時はね、モジモジと行動しない登場人物、だから何?という展開にイライラして早くおわんないかなと思ったりしたけど終わった後の余韻がすごい。
自分が今まで押し付けられてきた「普通」のハラスメントを「そろそろわかった頃かな?」と受け止める事ができるそんな映画。
欲望との向き合い方
通底する雰囲気と、それを崩さない範囲でのギャップ出しが非常に巧みな作品だった。
特に、表情も言葉も頑なに硬かった夏月が、佳道の部屋で見せた幼さは印象的。
自分の中で役者としてのガッキーの評価は高くなかったのですが、今回とてもよかった。
また、高校時代の夏月を演じた滝口芽里衣の、目の死なせ方や揺らし方がガッキーに瓜二つで素晴らしい。
個人的には、八重子役の方の大袈裟でない怯えの表現が、地味ながら今作一でした。
寺井一家をはじめとして、ほとんどの登場人物が自己の正当性を押し付けてくる。
そんな中で、ひっそりと生き延び死のうとする佳道の生き方が際立つし、最も共感できた。
ただ、ガッキーの“あの”シーンで、スカートの中に手を入れるどころか腿すら晒さないのは表現として半端。
脱げという意味ではなく、吐息や表情がよかっただけに勿体ない。
佐藤寛太との落差も強いし、もし“ガッキーだから”なのであれば、彼女じゃない方がよかった。
締め方があまりに尻切れトンボなのも残念。
矢田部は別として、ただ一緒に水遊びして撮影しただけの他ふたりまで逮捕されたのも理解不能…
以前、小児性愛の教師が出てくる小説を読んだ。
彼は自己の欲求に悩み、表向きは平凡を装いながら、“そういった”漫画を描くことなどで欲求と向き合っていた。
あってはいけない感情などなくても、誰もが欲求の赴くままに生きていたら社会など成り立たない。
自宅の水道を出しっ放しにするのは構わないが、他所様の蛇口を壊すのは言語道断。
性的なものに限らず、自己の欲求と他者の迷惑、そして社会とのバランスを保つのが大人ではなかろうか。
欲
なんだろう
映画、長く感じたなぁ
秘密の共有が性的嗜好が水というのが
しっくりこないからなのか
そうゆう方もいるのかと思ったくらい
性的嗜好が水だと
あんなに死にたくなるかな
そんな気持ちで観てしまったからか
新垣結衣と磯村勇斗メインじゃなく
あの大学生2人メインが良かったんじゃないか
とか考えてしまう
でもこれは
稲垣吾郎と新垣結衣がW主演なんだよな
エンドロールみて
気付く笑
死んだように生きている新垣結衣は、こんな表情も出来るんだと知る
吾郎ちゃん今回もあまり良い人役じゃない笑
最後の新垣結衣とのシーン、
いらくならないからって良いですね
また2人で暮らしていく事を想像します☺️
もし受け入れ難いものだったら
追記しました。
気がつくと考えたりして再追記。
普通になりたい一人一人とその周りの普通であろう人たちと。自分は普通だと信じて疑いのない人の世界の話のよう。
水音の表現や水が迫ってくる描写があって、はじめは感覚過敏に翻弄されて知らない内に圧倒されている人の比喩なのかと思いながら見ていた。
もしそれが個人の嗜好の自由だとしても自分にとって受け入れ難いものだったら え、別にいいじゃん とは、すんなりならないから社会的にも倫理的にも受け入れたらならないものの対比に水を使ったのかなあと思った。 「そんなわけない」って台詞にまあそういう人もいそうだよねって見る側が思えるように。
パッと受け取った情報で誤解したりされたり、自分でもよくわからなかったりで世界に対して疎外感を感じる感じが映像になるとこういう表現になるのか…と思った。
宇宙人みたいだと疎外感を感じていた人同士が出会えて障害なく話ができて、自分の世界が安定してから他者を理解して受け入れようっていう興味に繋がるんだなあと2人でベッドに重なるシーンで思ったりした。身体の感覚で暖かさや重みで別の星の生き物みたいに感じていた周りの人の言っていたことが実感できて過去のその人に同意できる思いが湧いたり、安心感を知れてよかったなあと思った。
わからないこと理解できないことに戸惑ったり不安になったり強がる感じもなくて稲垣吾郎の役は過度な一般化の記号みたい。
明日生きていたくない人と生きていたい人と、明日も生きていて当然な人みたいな。。
グラデーションありながら3パターンいたのかな。。
ひとつの家庭、母として自分で言いなさいと子どもに促す、こういう子がいるから自分の思いも正しいはずだと話す子ども、父としての?意見。なんだか違和感…?
誰かの意見ではなくてどう感じるから学校に行けないのかを聴くのは難しいんだなとか、お母さんは聞いてあげたのかなとか、正しい夫婦になりたかった奥さん役なのかなあとか。居場所が欲しかったのはお母さんなのかなとか。
子ども自身も自分の感じ方をみんなしているのだと思っていて、みんな我慢強いと思っているかもしれないんだなとか。もしくはお母さんが実はそういう感覚の窮屈さの中にいたのかも知れない。
責めるためでなく「どうして」や「どう思う」、「感じる」を聴くのは練習がいるのかもしれない。自分の感じ方が人とは違っていると知り、わかるまでは時間がかかるし、わかるまでは割合怖い。
違いを面白がりあえる人と出会えたらバリアを張り巡らさずに息ができるような気がする。
動画の内容はよくわからないけどコメント欄に応えるとか遊んで楽しいだけじゃなくて、子ども同士の出会いや大人同士もそういう出会いならいいなと願う。
わからない世界があるって受け入れないと橋が渡らない。決めつけて切り捨てた側の世界はどっしりと揺らがない。
……はずだったんだけど稲垣吾郎の役も家庭がほつれて離れることと外にいる人からのノックで、信じようが信じまいが存在するということばで透明な殻の向こうにそれぞれ別の感じ方のある世界があったりするかもと気づくみたいな感じだったのかなぁ。。
まさかあそこでいきなり終わるとは思わなかった。
いきなり始まり、探り探りそれぞれの世界の日常の流れが合流するのかな、したのかな…でぶちっと終わった印象でした。
もうちょい続きを見たかったので星4つ。
分かったつもり
二人が性交渉を擬似的に行うシーン。筆者自身、心の底のどこかに「二人には恋愛感情があって二人で暮らしている」という誤った認識が僅かながら存在することに、あのシーンで気付かされた。そこまでは、異なった性思考の人間を理解した"つもり"で観ていた。
普通とは?
すでに普通が多様化しているとみんな思ってはいるが、それでも”普通”の範囲は人によって違うし、経験や状況によっても変わる。
“普通”の反対は”異常”とか”変態” になるのだろうが、想像を超え過ぎると、良くも悪くも”よくわからない”になる。そんな普通の人の普通とよくわからない感、よくわからない人の普通とよくわからない感、それが入れ替わるみたいな話なのかな。
そういえば、知人に電柱に性的興奮を覚える人とか、クルマとセックスする人の記事を読んだこともあったな。
作劇は「怪物」に及ばない
自分は水フェチでもないし、毎日死にたくもないが、学校には馴染なかったし、そこそこ生きづらい学生時代だったので、共感できる事は多い。ただ、夏月(新垣結衣)と佐々木(磯村勇斗)が、唯一無二の相手と「結ばれた」以降はまさに『惚気』。小児性愛と勘違いされる件は蛇足にも思えたが、「いなくならないよ」という言葉で締めるには必要な展開には感じた
人間が社会を作る以上、生きづらい少数者が生じるのは必然。無論、ひとりも取り零さない社会が理想だけど、最大公約数をとる上で取り零しは生じてしまうもの。自分は非喫煙者なので、快適な社会になりつつあるが、同僚の喫煙者に不満は絶えない。一見踏iみ込んだテーマにもみえるが、人種・宗教・同性愛・オタクなど、マイノリティの苦悩は擦り倒されている。個人的には「怪物」の方が、全体的な作劇も生きづらさの表現も、数段上な気がする。
特に気になった2点を別記する。特に気になった2点を別記する。
🚰
①水フェチへのネガキャン映画?
水流や水しぶきに性的興奮を覚える者の生きづらさが主題となるが、その感覚は分かるようで分からない。佐々木佳道に至っては生きる望みすらない。ただ、水流で逝けるならそんなお手軽な事ないじゃん。小児性愛者のように被害者を生まない性癖なので、何を隠すことがある? 性癖を共有出来ない事が生きづらいのは、水猥談がしたいから? SNSで繋がり易い時代。ネット上で猥談なんてし放題な気もする。
本作ではSNS友達を作った結果、小児性愛者に疑われてしまうが、そんな事本当に起きる?下着フェチとか制服フェチが犯罪に手を染めやすいイメージはあるが、水フェチは小児性愛と親和性があるのだろうか? あるいは、何かにフェティシズムを示すものは、同時に犯罪性があるフェティシズムも保有しやすいのだろうか? もしそうでないなら、本作は水フェチに対する、かなりなネガティブキャンペーンにみえる。
🚰
②対比する検事が正しくも幸せにも見えない
ストーリーの構図として、寺井検事(稲垣吾郎)は典型的な社会人であるべきに思える。少なくとも序盤くらいは、彼が一般的な幸せを謳歌する描写が欲しかった。無論、子育てで問題を抱える実情や、不登校の息子への不寛容さが徐々に明かされてもいい。ただ、本作では、朝食を一人で食べていたり、木で鼻を括った出来損ないの正論しか言わない登場の時点で変わり者にみえた。その後も、一瞬たりとも彼が正しくも幸せにも見えなかった。なので、夏月や佐々木との対立構図が成立しえなかった。町山智浩さんが強調していたラストの対決も、全く成立していない、監督も同じ演出意図なら、失敗作にしか感じない。
なかなか辛かったですね。 癖ってどうにもならないことなんどけど そ...
なかなか辛かったですね。
癖ってどうにもならないことなんどけど
それが犯罪に繋がるものはダメだし。
ダメだけど生きてる以上どこかでその欲を満たさないと
どうにも生きていけないわけだし。
悪いことする人は利己的に快楽を求めることに
走ってしまうけど、主人公達は
自分の癖はどこかおかしくこの世の中の普通とは
違うことをしっかり自覚してて。
自覚した上で装ったり我慢したりひっそりと
死ぬために生きてるような感じで。
救われたと、誰にも迷惑もかけずに
自分達を否定せずに生活する生き方を見つけたと
思ったのに、やり切れないです。
それと自分が普段何気なく目にしてるもの
日常にあるものが実はそういう意味を持ってる、というか
一部の人たちにそういう場にされてる現実に驚愕しました。
実際あるのでしょうか。純粋な子供達や人たちに
自分らの私利私欲を乗っけてくる場合があるんですね。
怖いな、と感じました。
月並みな感想ですが、役者の皆さん
どなたもすごく良かったです。浮いてる人無し。
もっと尖ってても
かなり期待していましたが、踏み込めていない印象。
でも東野絢香さんの演技は抜群によかったし、楽しめました。
フェチなのですが、趣味嗜好を理解できるできないは少なくとも誰しもがあるはずです。水で性的興奮をすることがどのように孤立を生むのか、全くわかりませんでした。また夏月(新垣結衣)と佐々木(磯村勇斗)の中で性的接触は重要だと私は認識していました。特に夏月は、オープニングの自慰行為や佐々木宅の電気が消えた瞬間に鉢植えを窓に投げるほどの嫉妬と喪失感だったのですから。
これが疑似家族になって、初めて受け入れるシーンはかなり重要な転換点と期待していましたが、ぼやかされたようなほのぼのシーンで残念でした。間口を広くするために、あんな感じになったのでしょうか。
一方、東野絢香演じる神戸八重子の男性恐怖症の葛藤は理解できましたし、男性に対しての身の乗り出し方はこっちも手に力が入るぐらい見事でした。
また上記2組のテーマは似ているんですが、稲垣吾郎演じる寺井啓喜の家族がそこまでの話かと疑問でした。水と同様、子供がなぜ孤立しているかが抜け落ちているので、寺井だけではなく奥さんにも要因(片付けするよりパックしながらレトルト、若い男性を昼間に入れる、明らかに父親に畏怖しているのに無理やり言わせる等、結構無責任な酷い描き方)がありそうで、オチが少し空振った印象に。
原作小説で補完しないとダメなのかな。
濡れたガッキー
前半がちょっとくどくて退屈しましたが、物語が動き出す中盤以降からはどんどん面白くなりました。孤独だった夏月が、理解しあえる人に出会えて良かったです。
やはり人って誰もが心の繋がりを求めているものなんですよね。
水の映像には何も感じませんが、水に濡れたガッキーには心奪われました。
子供に睨まれるよ
この映画を理解できない
普通の性欲しか持ち合わせていない
あなたもわたしも
子供に殺意のある目で睨まれます
ガッキーはやはり華のある役を演じて欲しい
でないと星野源との結婚生活が
つまらなそうに見えてしまうもの
そんな断片的な感想しか出てこないのです
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