「すべての人が生きづらくない世の中とは?」正欲 prishouさんの映画レビュー(感想・評価)
すべての人が生きづらくない世の中とは?
先に原作を読んでから鑑賞しました。
まずは、わずかな動作や表情の変化で、微妙な心の動きを表現している、夏月役の新垣結衣さんの演技がピカイチでした。これだけでも観る価値があると思います!
また、この作品が映画初出演という、八重子役の東野絢香さんの、いかにもコミュニケーションが苦手な、オドオドとした演技にも惹きつけられました。
一方、朝井リョウさんの作品で感動した分、やはり映像化したことで損なわれた部分もあったのかなと思いました。
大事なエピソードが省略されていたり、やや過剰な表現や余分なフレーズが加わっていたりしていたのは、少し残念でした。限られた時間で、わかりやすく、辻褄を合わせるために必要なことだったのかもしれませんが。
(この点は、原作を読まずに、純粋に映画だけ観て評価する際にはまったく問題ないのかもしれません)
稲垣吾郎さん演じる啓喜は、「観客の大多数が啓喜に感情移入して、最後に価値観を揺り動かされる」(パンフレットp35より)という流れを監督は意図されていたようですが、実際にはあまりにも多様性への理解がなさすぎる(あまりに時代錯誤過ぎ)点が鼻につき、私は啓喜に最初から「感情移入」することができませんでした。
その分、夏月をはじめとする「水フェチ」の登場人物たちには、最初から感情移入することができ、一つひとつのエピソードに胸が苦しくなりました。
(※ここからは、映画評というよりは、この作品が提示している課題に対する感想です)
この作品は、極めて少数派である性的指向を扱っているからこそ、大多数の性的指向(異性愛者)であっても、性的なことは「恥ずかしい」ものであり、「異常ではないか」と不安になるものであるという観点からは、何ら変わりはないということに気付かされます。
「ダイバーシティ」だとか「LGBTQ🏳️🌈」などと声高に叫ばずとも、人として生きている以上、様々な性的指向がある(あるいは「ない」)のはごく自然のことだということを。
そして、異性愛者が自分たちと「同じ」ことを求めることで、性的少数者が息苦しさを感じることと、夏月と啓喜ら同じ性的指向をも持つ者同士が肩を寄せ合うことは、やっぱり単なる一時しのぎであって、根本的な問題解決にはならないのでしょう。だからこそ「いなくならないから」と誓い合う必要がある(相手がいなくなった途端に、元の生きづらさに戻る)という、危うい状況は変わらない。
生きづらい世の中をアップデートするためには、やっぱり「自分と異なる世界があること」を想像し、「決して分かり合えないことを受け入れる」ということなのだろうと思います。
そう考えると、八重子と大也の関係こそに、未来への希望があるような気がします。
(と、思わせる関係性までもしっかり作品に描き込んでいる朝井リョウさんは、つくづく凄い!)
はじめまして。とても丁寧に書かれたレビューで共感しました。自分は、映画のコピー「観る前には戻れない」に違和感があったのですが、このレビューを拝読して、監督がそういう意図だったからか…と納得しました。だとすると、おっしゃるように、不登校への理解やあの妻子への態度では感情移入できないよなぁと思います。自分の小さな違和感の理由がわかりました。ありがとうございました。