「性欲ではなく正欲」正欲 ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
性欲ではなく正欲
いわゆるフェティシズムをテーマにした物語と捉えたが、拡大解釈すれば多様性についての物語、マイノリティの苦しみ、孤独を描いた物語という風に捉えることも可能だと思う。あるいはサブキャラに着目すればまた違ったテーマも見えてきそうである。本作は色々な切り口で語ることができる作品のように思う。
登場するエピソードは全部で3つあり、一つ目は特異なフェチを自認する男女、佐々木と夏月が運命的な再会を果たすドラマである。二人には過去の思い出がありそれが時を経て蘇るという、ややメロドラマめいたストーリーであるが、実際にはそう楽観的に見れる内容ではない。周囲からの疎外感、孤立感に苦しむ両者に焦点を当てながらシリアスに展開されていく。
二つ目は正義感の強い検事寺井のエピソードである。不登校の小学生の息子、妻との冷え切った関係を描くホームドラマを、インターネットの弊害やそれに伴う犯罪を絡めながらシビアに描かれている。
三つ目は、過去のトラウマから男性恐怖症になった女子大生がイケメンのダンサーに惹かれる恋愛談である。
夫々のエピソードは終盤で数奇な結びつきを見せるが、ここで最も重要となるのはやはり一つ目のエピソードであろう。ここを土台にして他の二つのエピソードが展開されており、終盤で夫々が相関することで社会の価値観、既成概念に対する疑念の目が観客に問題提起という形で示される。
それはつまり、世間一般の物差しでいう所の”普通”とは何なのか?”普通”と”普通でない”ことの差にどれほどの意味があるのか?といった問題提起である。
また、本作を観て橋口亮輔監督が撮ったオムニバスコメディ「ゼンタイ」という作品を連想した。そこには全身タイツフェチの同好会が登場してくるのだが、周囲の奇異の目をよそに彼らは仲間同士で案外楽しくやっていた。
本作の佐々木と夏月も同行の士として関係を深めていく。他人に理解を求めるでもなくひっそりと寄り添って生きていくその姿は実に健気で切なく観れた。
そして、ここが興味深い所なのだが、フェチというとどうしても”性欲”と混同してしまいがちだが、本作の佐々木たちも「ゼンタイ」の人達も性的な欲望を持っているわけではない。彼らは他人とは違う自分の存在意義、アイデンティティを保つために、同じ”癖”を持つ者同士で繋がっているだけなのである。人が生きたいと願う欲望。つまりこれがタイトルにある「正欲」と繋がるのだが、自分はこういう形で嗜好を持つ者もいるのか…と認識を改めさせられた。
岸善幸監督の演出は抑制を利かせたタッチで上手くまとめられていると思った。特に、佐々木、夏月を演じた磯村勇斗と新垣結衣の繊細な演技が素晴らしく、おそらくこのあたりには監督の演出意図も大いに寄与していたのではないかと推察する。
その一方で、ベッドの上の夏月が水に侵食されるシーンなど、陶酔的な映像演出も時折見られ、これも中々面白いと思った。
そして、最も印象に残ったのはラストカットの切れ味の良さである。この突き放すような終わり方は実に潔い。
佐々木と夏月が直に面と向かって再会するドラマチックなシークエンスにも上手さを感じた。その後二人はホテルに入るのだが、この大胆な省略の仕方には唸らされる。
一方、残念だったのは三つ目のエピソードである。他の二つのエピソードに比べると描き方が浅薄という感じがしてしまった。ヒロインがダンサーに惹かれる理由が分からず、その顛末についても今一つスッキリとしなかった。他のエピソードに比べると中途半端な扱いだったのが惜しまれる。