「濡れる=水浸しなのかと思いきや」正欲 ジョンスペさんの映画レビュー(感想・評価)
濡れる=水浸しなのかと思いきや
水フェチという(100%ないとは言い切れないけど)架空のフェティシズムを性的マイノリティの比喩として提示しながらダイバーシティをモチーフに描いた話で、見応えがあっただけでなく、鑑賞後もいろいろ考えをめぐらせたくなる作品だった。
「普通」というぼんやりした枠の外側にある多様性を想像しつつも「多様性」という枠組みを作った時点で、そこからもはみ出す外側があるわけで、そこにいる夏月や佳道や諸橋らの孤独感は想像するだにしんどいし、だからこそ同じフェチを有する人間を見つけたとき心の高揚は計り知れないのだろうと思った。終盤の展開は、怪物だーれだのマイノリティの悲劇的ファンタジーな結末とそれへの批判を想起させるが、今作では「普通」を強調する寺井検事の家庭状況と対比させながら、夏月の「いなくならない」というラストの一言が救いをもたせていた。
…と、しかし。そもそもこれはマイノリティとマジョリティ、多様性と画一性、アブノーマルとノーマルとかの話なのだろうか。たとえ相互の理解は望めなくとも、大切なのは相手の気持ちに向き合うという、実は人と人とのコミュニケーションの話なのではないだろうか。
寺井が家庭不和に陥ったのは、妻や息子に普通を押し付けたからではなく、不登校の息子やそれを案ずる妻の話に耳を傾けなかったからなのであり、その意味でラストの、質問はするけど夏月の問いには答えないという一方通行の質疑応答は象徴的だ。また、夏月や佳道は特殊な性的嗜好もあって人との交わりを忌避していて、それゆえさらに自らの孤独感を増幅させていた。他方、取り付く島がなく拒絶を続ける諸橋へ、男性不信の八重子がそれでも素直に思いを伝えることで、孤独に閉ざしていた諸橋の心はわずかに開き、ありがとうという言葉が引き出される…。そのように見ていくと、他人との濃厚なコミュニケーションであるセックスを起動する性欲を話の中心に据えているのはなるほどと思えた。
映画としても、ベッドルームが水で満たされていくシーンなど邦画にはないレベルの演出はよかったし、いずれの俳優も役にぴったりとハマっていたと思う。元J案件の吾郎ちゃんが児童買春事件を担当するのはたまたまだろうけど、東野絢香のおどおどキョドった演技は特に見事だった。人々を結びつけるのがYouTubeというのも今時だし、中学生のガッキー役(つーより小松菜奈風味)の滝口芽里衣も目をひいた。
そんなわけでオレもガッキーと模擬性交をして一緒に回転寿司が食いたいと思える(そこか?)見どころの多い作品だった。