「普通とはなにか、社会はどのように向き合っているのか」正欲 ブロッコリーさんの映画レビュー(感想・評価)
普通とはなにか、社会はどのように向き合っているのか
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである、という言葉を残したのはアインシュタインである。
この映画において使われるのは常識ではなく、普通という言葉だ。
皆さんは昨今、普通という言葉を使うことに後ろめたさや、ためらいはないだろうか?それは多様性社会において、マイノリティやマジョリティはあっても、何が”普通”かということは定義できないしされるべきでない、という価値観に基づいているからだ。
この映画を陳腐な言葉でまとめるとマイノリティを尊重しましょう、ということになるが、それだけで済まされるわけではない。
水に対して性的に興奮を覚える性癖や男性恐怖症・不登校といった、いわば普通でない人々が、それでもつながりや生きる意味を求めて葛藤しながら生きていく。それと同時に多様性を謳いながら、型にはまった対応しかできない人々との断絶を描く。
ここまではわかるのだが、買春をしたショタコン教師はともかく、他の二人は水着の小学生が映った動画をもらっただけで逮捕されるのだろうか?
児童ポルノに該当するのはざっくりいうと、服全部または一部をつけず性的な部分が強調され性欲を刺激するもの、だそうだ。
法解釈や適用の問題はわからないが、少しご都合主義の気がした。作り手に好意的に解釈するなら、その後の裁判で水フェチが理解されず有罪というオチになるのかもしれない。
誠実に生きても理不尽な罰を受けるというなんの救いもない結末にしたくないために、曖昧なエンディングに逃げたような印象を持ってしまった。
作中で、マイノリティを支援するために自分の興味がないことをするのはむしろ多様性に反するのではないか、と佐藤寛太演じる男子大学生が言っていた。
しかしこの作品自体も、マイノリティや普通とは何か、といったテーマを扱ってはいるものの、そういった社会的関心を商業的に利用しているのではないかと思った。
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スッキリした終わり方ではなかったものの、俳優陣、特に鬱屈したアラサー女役の新垣結衣と、男性恐怖症をもつ大学生役の東野綾香の演技は引き込まれるものがあり、今後も色々な作品で拝見させてもらいたいと感じた。