「会議の行い方の見本のような映画。 ただ一つの強烈な違和感を除いて。」ヒトラーのための虐殺会議 asukari-yさんの映画レビュー(感想・評価)
会議の行い方の見本のような映画。 ただ一つの強烈な違和感を除いて。
第二次世界大戦時にナチスドイツが行ったユダヤ人大量虐殺(以下:ホロコースト)を扱った作品は数多く存在する。しかし、ホロコーストを“スムーズに履行するための会議”は今まで聞いたことがなかった。本作はその会議「ヴァンセー会議」の内容を、残された議事録を基に描いているという。ちなみに、
会議に要した時間は90分という。
なんやと?90分で決めたやと?ホロコーストをスムーズに完遂するために政府高官および各省庁の重役、計15名で会議を開き、1,100万ともいわれるユダヤ人の運命を一刻に満たない時間で決したのか。衝撃である。いったいどんな雰囲気で会議が進んだのか?それを観るために劇場へ脚を運んだ。
映画開始冒頭から会議が始まるのかと思うてたが、そうではない。席の割り振りから始まり、参加者の簡単な説明があり、そして議長:ハインリヒが政策の味方に対し最終確認をする。具体的な数字を出しているとこをみると用意周到さが窺える。90分で決めたとはいえ、入念な準備を行って万全を期して会議を開いたのだろう。また会議始まって冒頭から「ヒムラー(=ヒトラーの側近)よりユダヤ人問題の最終的解決をすみやかに実行すること」というお達しを皆に伝えることで会議の目的を明確にしたことも、皆の意識を一つに向ける効果がありそう。かくして、会議はユダヤ人の数と、それに伴う移送問題と収容所問題に分けられた。
しかし意見は存在する。収容所を持つ管轄の負担はどうか?移送にかかる鉄道の輸送力は?欧州全体に散らばるユダヤ人を集める方法は?これらに関しては議長のハインリヒが書記のアイヒマンらと予め策を講じていたのだろう、軽快に計画を説明していく。これに関しては誰もが納得した。すると今度は役所の人間:シュトゥッカートが意見する。混血の方はどうする?1/2は条件付きでドイツ人として認める。1/4ならドイツ人だ。法律も示している。それをいまさらユダヤ人とするのか?他のドイツ人が混乱し、場合によっては家族を失うドイツ人が出ることに懸念を示す。他方、第一次世界大戦を経験したクリツィンガーは言う。計画的にユダヤ人を“処理”するのは若いドイツ兵だ。それも欧州全体に及ぶと処理の期間は長くなる。成熟していない若者が長期間処理を続けるにあたり精神的な障害を追わないか心配だ、と。ここはハインリヒも用意していた策が通じなかったか、上手く丸め込めなかった。そこで彼は、シュトゥッカートに対しては1対1の話し合いと言う手を使い、相手に配慮しつつ腹の内を吐き出しながら説得した。相手はなんとか納得した。クリツィンガーには、処理はユダヤ人が行い、ドイツ人は精神的に参らないように配慮する案を出した。クリツィンガーは納得する。「これなら人道的です」と。こうして会議は終結する。
ここまで観て、私は会議や議論に関しては素人ではあるも、だからこそ「会議はこうやって進めていくんだな」と思った。味方の確保と根回し、事前の入念な下調べ、具体的な数字把握、周りが納得できるような案の準備。周りに対する配慮。会議の目的の明確化。意見があったときの冷静な対処。議論がかみ合わない相手には1対1であっても懐に飛び込む勇気と決断力。だからこそスピードある意思統一ができるのか。なんか会議の見本を見ているような、ビジネスにも活用できそうなイメージである。こんなコメントを書く自分は途中まで思考が麻痺していたんでしょう。しかし、映画の後半の中頃あたりから、ふと強烈な違和感に気づきます。
だれも“ユダヤ人を根絶やしにする”ことに異論を唱える人はいない。
一瞬ユダヤ人のことを考えて、さすがにまずいのではと思われる節を持つ人がいる。さすがに人道的に・・・かと思いきやよくよく聞けばそれをする“ドイツ人の肉体的・経済的・精神的負担”を危惧する内容なんです。夥しい数のユダヤ人が死ぬことに誰一人罪悪感を持っていない。ここにいる皆の共通認識は、ユダヤ人=害虫、である思想だと感じてしまう。つまり本作で描かれているのは、如何に効率よく、負担が少なく、ユダヤ人を処理するか・・・。
民族を滅ぼす計画を、害虫を駆除するビジネスのように語っていること。
この映画はそこに焦点を当てている。映画を観てて途中麻痺してしまっていたが、これが実際の歴史であったことと思うと静かな恐ろしさを感じます。戦争とゆがんだ認知(=差別)がもたらした結果がホロコーストを加速させた。関係者は対岸の火事を見ているかのように。
そしてふと気づく。現代でも起きている戦争・人種差別・迫害のなかでこうした会議が起きているのではと。ゆがんだ認知を持つ者たちだけの会議が行われていないかと。この映画は、そうした人にならないように、そうした人(政治家)を生み出さないようにと訴えているように思う。過去にそれを起こしてしまったドイツだからこそ描けた作品なんでしょう。今起きていることを過去から学ぶかのような、なにかには気づいてくれと言っているような映画でした。
talismanさん、先程のコメントで“tailsman”と見間違えて呼んでしまいました。申し訳ございません🙇♂️
しかし、コメントから仕事に真面目な方なのでしょう、熱い方であると感じました。改めてコメントありがとうございます🙂
(続き)
他方、多くの“意見”を聞くというより、多くの“価値観”を聞くことが戦争を防ぐ糸口になるのではという気持ちがあります。というのも、同じ価値観の者たちだけでは「ゆがんだ認知」が当たり前なだけに気付けないからだと思うのです。もし真正面から違う価値観を持つ人がいれば、この会議は変わっていたかもしれません(当時の状況を考えれば非常に困難ですが)。その部分を訴えたかったのかなとも、自分は思うのです
tailsmanさん、コメントありがとうございます🙇♂️
ホント(時代と議題を除けば)会議のお手本のような映画で、あまり会議に出た経験のない拙者でも「勉強になる」と思えました。決められない(スピード感のない)日本政治とは決定的に違う部分で、特に日本の政治家はこの会議の手順を見習うべきかもしれませんね。(続く)
気づいてくれと言ってる映画だと同様に思いました。議題と時代を除けば、準備万端かつ皆の意見を汲み取るのが会議では?と日本の国会、委員会、議会、会社や大学の会議に対して言いたいです。手ぶらで会議に来るな!なあなあでなく真剣に言葉で語れ!