福田村事件のレビュー・感想・評価
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集団のヒステリー
さすが森さん!と言いたい。
冒頭すぐの「戦争にいい戦争も悪い戦争もない」というセリフ。
山場(と言ってもいいのか?)虐殺の場面の「朝鮮人なら殺していいのか」
そして終わりに近いところでの「みんなそれぞれ名前があった」というセリフ。
どれも重たいけれど、とても大切な言葉。
見るべき映画…それも若い人に観てほしい。
それ以上に絶対見てほしいのは、腐り切った日本のマスメディアに携わる人。
女性記者の言葉を一つひとつ噛み締めて、みずからを律してほしい!いや、律せよ!
ジャニーズのチカラある人が犯した犯罪を死んでから騒ぎ立てる姿は、まるで福田村の人々の集団ヒステリーとどう違うのか?と、ジャニーズファンではないけれど、ふと思ったり。
最後の最後に、ナタ?で瑛太を一撃にした妻の夫が帰るシーン…とても残酷と思った。私がその妻だったら気が狂うなと思った。
掘り下げが足りない
史実を元に描いてるのに、リアリティーを全く感じさせない構成だった。
知りたかった部分である何故そうなってしまったのか(どういう心情で殺害が行われたのか)殺害した人にはスポットが少ししか当たらず、きっかけとなった最初の殺人がぽっと出の端役だったりで残念な作品。
堤岩里教会事件を取り扱うなら朝鮮動乱についても触れて欲しかった。
結果には必ず原因がある。流言の流布の恐ろしさを描いてるのは分かるが、何故そうなるのかまで描かないと人間の本質とは言えないのではないか。
色々と公平ではなく、切り取った描き方をしている印象。
何分100年前に起こった事件なので詳細は分からない部分が多い。それだけに期待していたのだが、キャラクターの動機の部分に粗が目立っていた。
そこまで大正時代の一般人は頭が悪かったのだろうか?
現代人の自分から見たら映画「福田村事件」の加害者達はサイコパス以外の何者でもない。
映画を見ていた人たちがもしあの場にいたとしたら、ほぼ全員が行商団を庇うだろう。
「『集団』、そして『不安と恐怖』。この2つが揃ったときに、人は変わってしまう」と監督は言っているが、あの村の状況からは不安と恐怖は読み取れない。セリフだけで具体性が無い。この監督の言葉は映画の補足にしかなっていない。
「あの場にいたら自分もそうなっていたかもしれない。でも殺してはダメだ」という気持ちにさせてくれないと、少なくとも現代性とは言えない。
不幸な出来事に対する傍観者にしかなれない。
現代社会が透けて見える
面白い作品だった。クセのある俳優をこれだけ集めたのも監督の意図があったのだと思う。しかし、ドキュメンタリー作家としての作り方が仇となっているきらいがある。先ず俳優に台詞として、自らの思いを語らせ過ぎている。その所為でカットしても良いシーンが多い。柄本明のシーンは必要がない。東京の社会主義者のシーンも必要がない。次にエピソードを詰め込み過ぎている。その分、長くなり少しだれる。そんな夾雑物とも言えるものを削ぎ落として、せっかく演技が出来る俳優を揃えているのだから、演技で語らせるべきだ。監督は言わば長編映画は素人であるから、俳優の可能性を知らないのかもしれない。そして、映像が語る見せ方と演出を知らないのかもしれない。ドキュメンタリーではないのだから、語らせてばかりでは見劣りがする。面白い作品ではあるのだが、集中力を阻害する要因が散らばっている分、少し残念である。閉鎖的な村社会の実情を語るのに時間をかけ過ぎたようだ。もう少し整理して、削ぎ落とすことで、更に良い作品になったと思う。次回の映画作品に期待をしたい。
映画の創作意欲
この実際の事件を映像化しようと思う活動は、義憤か興味か?
集団心理を扱った実験は古今東西色々な文献で探ることが出来る しかしそれはあくまで"実験"であり、現実に起った事象に対して分析を補強するに過ぎない
複雑な原因がレイヤーとなって沈殿する時、その暴発点迄に辿り着く過程は文章化しようにも困難を極める
文脈の間に読む人の想像力、経験値、そんな曖昧模糊を網膜の裏に表現してゆく "創作活動"である
勿論、フィクションであり、100人いれば100通りの表現が存在する その中には上記の持ち併せているモノ以外に、思考や主義、宗教観、そして感情度合いも左右されるだろう
でも、出来事はいつも繰り返される ループ物なんてSFの世界じゃなく現実に行なわれているのである
いつの時代でも、どの場所でも悲劇は同様の結果で着地する そしてその結果が要因となり、誘発され又繰り返される・・・
繰り返す輪廻の中で、生きるということ 希望とか絶望とかを体現せず産まれる事が叶わなかった"望"ちゃん
疑心案義、しっぺ返しの恐怖、ヒエラルキーの安心感、面白いように人間に湧き出るこの思い 次々と書き換えられていく感情に苛まれるのが"生きる"ということ
しかし人間は最後の安全装置を装備してしまっている 『死ぬことが恐い』 安全なのか危険なのか、他者を殺めても自分を殺めない、この"都合"をこねくり回し続ける 消し去ることなど不可能なのに・・・
怖いのは集団心理
見ていてなかなかの辛さだった。これが脚色はあれど実際にあった事件と思うと、ただただいたたまれない。
集団心理の怖さ、風評被害の怖さ、差別意識の怖さ。
他のレビューの人が、日本人が〜と言ってる人もいたが、日本人が、なのかなと。どの国でも、どの人種でも起こりうる話なのではと。日本人が〜と言う考えかたこそが、このような差別から起こる惨劇を産むのではないのかと。
怖いのは差別、集団心理、風評被害、そして自分は正義と思う思い込み。
これらが重なると人は人を殺めることすら簡単にしてしまう。
自分があの場にいたら、、
東出君をあのキャラクターにしたのは、適役なのか、悪意なのか!?このキャラをこの人にやらせるんだ!という配役があった。
思い込みの激しい、自分の正義を振り翳し、偏った思想の自警団を水道橋博士に演じさせたのは、なんとも言えない配役だった。
6,000 余名の無念と恐怖
終盤に向かうに連れ、小さなシアターの8割近くを埋めた観客が、息を潜めてスクリーンを見つめていました。
森達也監督の強い思いと熱量、井浦新さん、永山瑛太さん、豊原功補さん、田中玲奈さん、東出昌大さん、木竜麻生さん、他全ての演者の皆さんの圧巻の演技に圧倒されました。
僅か100年前に日本が、日本人が犯した罪深い蛮行は、胸が苦しくなる程でした。
是非、多くの人々に観て頂きたい。政治家の皆さんにも。
ドイツの方々が、どんな思いでヒトラーやナチスに関する映画を作り、どんな思いで観ていらっしゃるのかを、初めて理解出来た気がしています。
映画館での鑑賞
流言飛語が飛び交う怖さは描かれたのか?!
満員の映画館に入ったのは何十年ぶりだろうか、いや、この映画はそれだけで意義のあることかもしれない、
しかし映画を見入っていくうちに疑問ばかりが湧き出てくる、この映画で最も肝要なテーマは流言飛語の実態とその原因、人間の持つ狂気では無いか?!
全般いろいろなドラマが説明的に描かれるがその後、空前絶後の大震災が関東地方を襲った。福田村で行商をしていた、薬売りの行商団は何とか生き延び、帰路の船着場に到着する、そこで福田村の日本人自警団による日本人の薬売りの行商団襲撃が始まり、大殺人劇が描かれる、しかし観客の僕には、なぜ殺すのか?!何の説得力も持たない、つまり流言飛語の怖さは全く描かれない、それが描かれなければこの映画は存在しないと僕は強く思う。だから、演出家に指示されて踊っている俳優にしか見えない、つまり登場人物がこんな状況で殺すのか?と言う疑問しか出て来ない、9月1日空前絶後の震災の悲惨さ、木々は倒れ火災が発生し多くの命が失われていく、政府の失政やマスコミの腐敗、はたまた不逞の輩の仕業か?また、社会主義の弾圧か?など。
それらの描き方に説得力は全く無い、それ故にこの映画の本質は僕には浮かび上がらない、
舞台上で演ずる舞台劇ならば、初めから俳優の演ずる劇と捉えることが出来る、しかしそれとて本質は同じだろう、しかし映画は、特に現実的に見てしまう、
資料映像も使わない、資金の問題もあったのかも知れない、それらは、作り手もポリシーでもあろう、しかし何故使わないのか強い疑問が残った、
震災の悲惨さがもっと強く伝われば、映画の感想は大きく変わったであろう。
この映画の主役は俳優にあらず、時代と状況であろう、
多くの監督が企画し諦めて行ったのは、その震災の状況は描けないと思ったのかもしれない、
しかし、この映画を企画し問題提起したこと自体は称賛に値する。
あまりに、絶賛評が多くてびっくり
あまりに、絶賛評が多くて少しびっくりしている。
もう少し賛否あってもいいかなと思ったのですが…。
香川県で生まれ育って、関東大震災での朝鮮人虐殺について教科書程度に、その騒動で
香川などの関東から離れた地域の人が言葉が違うとゆう理由で朝鮮人と間違われて犠牲になっていることは知っていたので、戦時下の人種差別や虐殺について知りたいと思って観たのですが。
映画で描かれているのは福田村での日本人虐殺についてだけ朝鮮人の殺害シーンは1人だけで
事件の背景として存在しているのみでした。
日本で起こったデマや差別意識が元に起こった虐殺を
朝鮮人ではない日本人も巻き込まれて、殺されたエピソードを入り口に多くの朝鮮人の人が殺されたことを描いて欲しかったなと思います。
ですが、そもそもこの事件を知らなかった人に
こうゆうことがあったことを伝える為に作られた意義はあると思いますし、朝鮮人虐殺はナイーブな話題なので避けたのかもしれません(避けるなら作る意義は果たしてあるのかと思いますが)
と色々思う所があるけれど
映画として上手く出来ていたのなら、考え方の違いとそてもう少し受け入れられたのですが、
映画としての出来もちょっとどうかと思いました。
前半の村人たちのメロドラマのどろどろ恋愛劇を延々と見せられてだいぶうんざり、いざ地震が起こってからの展開ものろまだし、わざとらしいセリフも多く
結果として暴走していく“男らしさ”に溢れた人物もレッテル的な描き方で深みがないから心底不快なだけ。
他人に足を踏まれる立場の人だからこそ、
より弱い立場の人。足を踏まれることの痛みが分かるとゆうのは、分かるけど、、、
ぐちょぐちょのメロドラマしてた人達が最後の虐殺のときに唯一香川の行商人達を庇おうとするのはなんか違う気がするんだよな、テレビのワイドショーで不倫スキャンダルされてネットリンチに泣いた人が、差別に敏感になるのか?みたいな腑に落ちなさ。
新聞記者の女性の取ってつけたような、正義感セリフとかも、韓国人女性が目の前で殺されたときの反応とか抵抗や葛藤も描かれないから空虚なものに見えるし。
香川行商人一行が、朝鮮人かと問い詰められて
ウンザリしたような様子でやおら、瑛太が朝鮮扇子を出して仰ぎだしたときは、バカなのかと思いました。
案の定「これは、朝鮮の扇子や!やっぱりこいつらは朝鮮人だ〜!」とか言い出して
馬鹿と馬鹿が会話してんのかと思った。
演出が露骨すぎでしょう。揉み合ったときに落ちるとかでいいじゃん。
色々な細かい部分で引っかかっているので
「じゃあ朝鮮人なら殺してええんか?」
と叫ばれても、当たり前なこと何言ってんだって思ってしまった。
そもそも人に囲まれた自分も家族も殺されそうになっている人は、命を守るのに必死でそんな人権的なこと叫ばないと思う。
衣装も、どこのコミュニティの人か分かりやすくしてるのだと思うけど、この時代の人たちのリアルな着こなしにみえなくて、そこも気になってしまいました。
言葉も、なまりキツくって朝鮮人に間違われた
とかいう割にちゃんと通じてそうだったし
あんまり香川の方言感もあるようなないような微妙な感じがしました。(千葉方面は分かりませんが)
映画としてよかったとこは、コムアイさんの演技はじめてみたけど自然かつ可愛いらしい人物に見えて素敵だった。
虐殺の始まりの一撃がショッキングさがあったこと。
学びとしてよかったことは
犠牲になった、香川行商人たちが部落差別を受けている人達だったと知れた。
こちらの方では差別が根強く、まだ問題が残っているので自分自身の差別意識とも改めて向き合えたこと。
この映画では、朝鮮人虐殺について分からないことが多いので自分できちんと勉強したいなと思いました。
私は映画や文化的なものは、共通点のない人物にも共感や興味が持てたする力があることだと思うので
被害者が日本人でなければ観ていなかった人にも
きの映画の犠牲の奥にもっともっと多くの犠牲があったことをはっきり描くべきだったと思います。
この映画を観て感動した考えさせられたと語っている人の中には
日本人が被害者にいたからこそ、共感できた人がいて、さらに一歩この事件を入り口に違う人種への差別、虐殺にも共感できる様な描き方ができると期待していたので、やっぱりこの映画の出来にはがっかりしてしまった。
今に通ずる事件の教訓とは?
odessaで鑑賞(前売り鑑賞券使用)。
福田村事件については本作の製作が発表されるまで全く知りませんでした。発表後ウィキペディアで調べてその凄惨さに衝撃を受け、公開されたら絶対観ようと決めていました。
不安と恐怖が歪んだ正義感を増幅させ、最悪の事態へ発展する。実話故の重みが心にずっしりのしかかって来ました。
事件の起こるまでのドラマがやがて訪れる悲劇的な出来事へ向け、その下地となる人間心理や空気感を詳らかにする。
「朝鮮人ならば殺してもいいのか!?」と云う永山瑛太演じる行商人の言葉から惨劇へ移行するシーンがおぞましい。
猜疑が殺意に変わり、目を背けたくなる所業が繰り広げられました。日本人による日本人の殺戮。ただただ悲惨過ぎる。
SNSが発達した現代社会にも通ずる情報・印象操作や集団心理の危うさに、周囲に踊らされず自分の頭でしっかり考えることの大切さを痛感させられました。
当時よりもさらに情報が氾濫する世の中において、どこまで己を貫くことが出来るか。おかしいことに声を上げねば新たな福田村事件が容易に生まれてしまう。
しかしながら、傍観者になっていないかと問われれば、否と言える自信の無いことにも気づかされました。井浦新演じる教師のように、前に出られるかどうか…
【"関東大震災時の流言蜚語に踊らされた人々、利用した人々。"今作は、人間の愚かさ、醜さ、集団心理の恐ろしさを描いた作品であり、この国が且つての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。】
- 関東大震災時の朝鮮の民や、社会主義思想者が六千人虐殺された事は知っていたが、福田村事件に付いては、恥ずかしながら知らなかった。
何故に、東京ではない、千葉の福田村であのような虐殺が起こった理由を、今作品では、人間の愚かさ、弱さ、醜さ、集団心理、同調圧力の恐ろしさの面から嫌と言う程、見せつけるのである。-
◆感想
・大正12年に、朝鮮語教師だった澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)と共に故郷の福田村に戻って来る。
更に、同じ列車に乗っていた夫を亡くした咲江(コムアイ)が骨壺を持って戻って来る。
ー 大正デモクラシーが隆盛を誇っていたが、一方では日本が、第二次世界大戦に邁進していく時期である。
現代の日本が、大正時代に似ていると何人かの政治学者及び歴史学者が指摘している事はご存じの通りである。
朝鮮で、日本人による朝鮮人虐殺に不本意ながら通訳として関わった澤田は、
故郷に戻っても教職についてくれと頼む村長(豊原功補)の言葉を聞きながら、農家になると呟くのである。-
・澤田は、事件のショックで性的不能者になり、妻を抱くことができず、静子は不満を持つ。そして、わざわざ作った朝鮮料理の夕餉の際に夫に家を出ると告げるのである。
ー 静子は、渡し船の船頭(東出昌大)と船上で関係を持つが、その姿を船頭と昔、良い仲で会った咲江と澤田は黙って観ているのである。
澤田は、朝鮮でも日本でも”傍観者”なのである。豆腐屋を営む、咲江の表情は複雑だ。ー
■そして、同年9月1日に関東大震災が起こる。作品は当日とその後の日々を一日ずつ、描いて行く。
二日目には既に”鮮人が建物に火を付けた。””鮮人が女を犯している。”鮮人が水に毒を入れている。”という流言蜚語が流れている。”見たのか?”と言う問いかけには、皆が”嫌、噂で・・。”と言うばかり。
社会主義者の平澤計七(カトウシンスケ)は、その噂を流していた男の顔を見て”警官だ・・。”と呟くのである。
当時の政府が、関東大震災に乗じ、朝鮮人撲滅、社会主義者撲滅を画策していた事は衆知の事実だが、正にこの頃から日本は不寛容な国家になって行ったことが良く分かる。
又、日本国民がその流言蜚語に踊らされていた事も・・。
・東京に戒厳令が施行される中、福田村には四国の讃岐から穢多でもある薬売りの一団がやって来る。そして、彼らは讃岐弁が分かりにくい事もあり、鮮人ではないかと疑われるのである。
薬売りの団長(永山瑛太)が"朝鮮人なら、殺しても良いのか!"と叫ぶ言葉も重い。
ー このシーンは恐ろしい。団長が薬剤販売免許の紙を警官に渡し、警官が本物かどうか確認しに行った際に、夫が東京に出稼ぎに行って鮮人に殺されたと思い込んでいた女が無表情のまま手にした鎌を、団長の頭に突き立てるのである。
その後は国粋主義者の若者が日本刀で女や幼子に切りつけていく。
正に誤った集団心理の恐ろしさが、如実に描かれているシーンであろう。
河原に逃げたインテリの薬売りの若者が絶望の表情で呟いた言葉は、忘れ難い。
”何のために、生まれて来たのか・・。”
そして、彼は村人たちの竹槍でめった刺しにされるのである。
更に、罪無くも殺された薬売り達は、川に流されるのである。
日本人が流言蜚語に踊らされ、同じ日本人を9人(お腹の赤子を入れると10人)殺めたのである・・。-
・残りの薬売り達は針金で縛られている。そこで、漸く澤田は”傍観者”の立場を振り払い”彼らは日本人だ!”と且つて妻、静子に薬を売りに来た少年を見ながら叫ぶのである。
ー 澤田が、過去の呪縛を自ら解き放ったシーンである。
そして、静子の澤田を見る表情が、少しだけ変わっているのである。-
<この作品は、実に恐ろしい。
人間の持つ様々な”業”が赤裸々に描かれているからである。
マイノリティに対して、不寛容な言葉を発する国会議員が居る日本。
ヘイトスピーチが無くならない日本。
今作は、この国が、かつての様な過ちを起こす国にならない事を切に願った作品でもある。
そのためには、マスメディアがキチンと真実を掴み、政府に忖度せずに、国民に正しい情報を流す機能を維持すること事が、必須なのである。
私たちは、過去の負の歴史を、今一度学ばなければいけない時が来ていると思うのである。>
<2023年9月10日 刈谷日劇にて鑑賞>
公開館数が少なすぎませんか。
折しも、現行の官房長官が「朝鮮人虐殺の記録が見当たらない」などと、国内どころか世界中に恥を晒した年に、この公開が重なったのも何かの巡り合わせ。
小池都知事も政府も、この件は「無かったこと」にしたいらしい。
それなら我々は「あったこと」としての認識を共有していく必要がある。
作品はゆっくりとしたスタート。
「村」での生活を送っているそれぞれの人々が、当然まったく異なる境遇や思い、苦しみや悩みを抱えて生きている様子が描かれる。
地震を引き金に始まる事件だと知っている観客としては、「まだかまだか」なワケだが、この生活を描く1時間がすごく後に効いてくる。
そして…。
朝鮮人じゃないのに
朝鮮人じゃないのに
観客は、彼ら行商団が日本人であることが確認され、殺されずに済むことを願う中、それをまさに当事者として願うはずの、瑛太演ずる沼部新介が叫ぶ。
「朝鮮人なら殺しても良いのか!」
ハッとする。
私たちの心のどこかに「日本人だから殺さないで」という思いがなかったか。
「それが誰であっても殺していいはずがない」と考えられただろうか。
この事件に注目すべきなのは、「間違えて日本人が殺された事件だから」じゃない。
「一般市民が自らの意志で一般市民を殺す」という地獄が、あくまで善意を元に同時多発的に発生したこと。純粋な「善意」が、「良識」や「道徳」を抑え込んで「暴力」におよぶ可能性。それを意識的・無意識的に扇動する集団心理や政府の方針やマスコミの影響の恐ろしさ。
そして、今後は間違いなくSNSという場で繰り広げられる流言飛語とデマ、それに振り回される人々。
これは決して過去の悲劇ではない。
そして、これが群像劇なのも興味深い。
いろいろな考えが、同じ環境で複雑に混じり合い、加害と被害が生ずるのと平行して、混じり合わない人々の罪にも及んでいく。
「傍観者は加害者である」と。
敬遠されるほど「胸糞映画」などでは決してないし、最後に「光」も用意されている、テーマも分かりやすい、ちゃんとしたエンタメ作品だ。
今後増えていくとは思うが、有名俳優が名を連ねていて、他にたいした話題作もないタイミングで、なぜこんなに上映館数が少ないんだろう。
今後政府がこの歴史を書き換えてしまう前に、我々国民は当時、日本の各地で起こったこういった虐殺に関する事件を共有しておくべきだと思う。
そして、役者さんの熱演も見事。
水道橋博士は登場した前半は(役柄じゃなくて)ヤバい感じがあったけど、後半はすごく良かった。
特に田中麗奈・コムアイをはじめ、魅力的な女優さんがたくさん出てたな。
残すべきか、忘れるべきか
みてよかった、思ったことを散文につらつらと。
歴史を描く映画を観るといつも考えることがある。この歴史を、史実を、残したくない、忘れたいと思う人がきっと居るのだろう、と。今回の映画もそうだった。何が正解か、私にはきっと答えを出すことはできないけど、少なくともこの映画を見た方たちとこの議論はすべきなんだと思う。
一度誰も口に出さずになくなりそうだった歴史を映画に残すことの意味や、重さをもう一度考えたい。
讃岐三豊から出稼ぎに出てきた彼らに同族意識を持って観ていた。私は香川に生まれ育ち、全国水平社宣言を道徳の授業で劇にしてまで学習した。驚かれるかもしれないが、同和問題は私の学校では週一の道徳の授業の頻出トピックだった。(十数年前の話だし、私の生まれた場所も関係あるのかもしれない)それくらい私たちにとってそれらの問題は今でも関係がある話だし、祖父たちの代までは普通にその名を口に出していた。数年前、香川という田舎から出てきた私に立ちはだかった方言という壁が、当時の彼らを悩ましたのだと思うと、どうしても重ねてしまう部分がある。愛おしい故郷の言葉たちが耳に残り、映画を見た後も消えない。じょんならんね。
新聞記者はどうして最後真実を書くというのか。今世まで残らなかったということは、書かなかったのでは??嘘ではないのか…と思ってしまった。
一緒に見てくれた友人とは「人の弱さ」話になった。集団心理の中で、自分の思ったことを大きい声で伝える勇気はどこから生まれるんだろう。そんな人ほんとにいるんだろうか。人の弱さは集まっても弱いまま、汚い刃物になって誰かをボロボロにする。強さをもって、あつめて、それらから誰かや何かを守りたい。硬くありたい。その強さは教育から生まれる正しい知識からできるんではないか。そんなこんな。
弱さと愚かさを持つ人なら胸をえぐられる映画
凄い映画でした。
今年のマイベストワン。クライマックスでは身体が震えるほど泣いた。
関東大震災に乗じた日本人による朝鮮人の大量虐殺。しかも発端は内務省が流した誤報、つまりデマ。市井の人が朝鮮人を殺さないと自分たちが危険だと狂乱状態になり、朝鮮人とみるや竹槍や銃で次々に殺戮。しかも、日本人や中国人なども誤って殺されている。自衛意識もあったとは思うが、根本は差別意識。
しかも福田村事件は、香川県からきた薬の行商団が朝鮮人と勘違いされ、子どもや妊婦も含む10名が殺された無惨な事件。
自分たちが下に見ている人間は酷い目に遭わせてもやむなしみたいな、歪んだ選民思想は、現代も感じることがある。
本作が描き出す人間の弱さと愚かさは胸をえぐります。
あらすじの核は上述の行商団虐殺ですが、誤報を訂正しない地元新聞社と若い記者の対立や、共産主義の日本人の役者が斬首された話(これは史実)なども織り込まれ、当時の社会に巣喰う病巣を何層にも描いています。
作品は重苦しいだけではなく、エンタメ要素もバランスよく配合されているので、140分集中して見ることが出来ました。
もしお近くで上映中ならば、ぜひ劇場でご覧ください。
忘れません
NHK「クローズアップ現代」でこの映画が紹介されていて、この事件を初めて知りました。
殺される場面の残酷さに、どれほど怖かっただろうかと、胸が痛みました。鑑札を確認しに行った人も、早く帰ってきたらいいのに…。インテリ村長は、ダメだと言っておけばいい、自分は言ったからな、という感じで、迫力がない。でも、実際にあの場にいたら、私もああいう感じになるのかもしれない。
勇気を出してその人たちは日本人だと言っても、狂った皆には聞こえない。そのことがとても怖かったです。
現代は、あんなにあからさまな差別はなく、人を堂々と殺すのもあり得ないけれど、ネットでの誹謗中傷があります。人の中身なんて、そんなすぐには変わらない。今の私たちも、どんなきっかけで福田村の人たちと同じように暴発するかもしれない。
せめてデマを流す片棒を担がないようにしたい。
この事件を忘れないようにします。
打ちのめされた
たまたまテレビで特集をみて興味をもちました。
このような事件があったことすら知らなかったです。
近くの映画館で上映していたことは幸いでした。
鑑賞後、こんなに打ちのめされた映画は今までにありませんでした。あの場にいたら、自分も少なくとも傍観者になっていたでしょう。いじめと同じで、止めようとすれば自分も虐められることが容易に想像できました。ましてやあの興奮状態。
鐘がなった時、村八分になるぞ、と若者が母親に言いましたが、ムラ社会の閉塞感が冒頭からよく描かれていました。葬式行列にあの人もこの人も並んでいて、壮行会にも全員集合。村の中での男女の濃厚な人間関係。誰もが清濁併せ持って描かれている(濁だけの人もいたかも?現代の田舎にもいる詮索好きなおばさん)ムラの閉塞感もあの群集心理にハッパをかけたように感じました。
清濁という意味では行商リーダーの方も同じで、らい病患者を下にみる一方でそれらの行いへの罪滅ぼしか僧にお布施をしたり、仲間の差別発言に怒ったりと多面的に描かれている。差別されるものもまた差別する。
上下をつけるのは人間の、というか動物の本質なのでしょうね…
被差別部落のことは教科書で学んだだけでよく知らないのですが、もっとちゃんと知らないといけないですね。死ぬまで幸せになれない、何のために生まれてきたんだ、というセリフが痛ましかったです。水平社宣言を読んでみよう。
日本人かもしれないぞと集団をなんとか止めようとした時の、朝鮮人なら殺してもいいのか、のセリフの重さ。
相反して、分団長の事後のセリフは一番不快でしたし、奥さんの夫を労るセリフも気味が悪かったです。
加害者の人達は実刑になりその後恩赦になったようですし、その後の人生をどんな気持ちでどう生きたのかが気になりました。
偉大なる失敗作か?
若松孝二だったらヒューマニズム落ちなんて、死んでもあり得ないだろう。
ちらとでもそう思われるてる時点で、あの森監督が…という感じだ。
森監督は好きだし、若松孝二も大好きだが、脚本は詰め込みすぎて無理があるし、虐殺シーンが緊張感がなさ過ぎてあちゃ〜だし、もう突っ込みどころがあり過ぎて、後半ため息ばかりであった。
低予算と言えば、「野火」をあのレベルに纏めた塚本晋也とエラい差である。
しかもヒューマニズム落ちはつかしんが1番避けた落ちだ。
これはボロボロと言って言いだろう。
あの森監督が劇映画となるとこれなのか…映画って難しいんだな…と…。
次作に期待します。
観終わった後、外に出たら日常の世界が噓のような気分に囚われた。普通...
観終わった後、外に出たら日常の世界が噓のような気分に囚われた。普通の人々が忙しそうにそれぞれの用でそれぞれ方向にそれぞれの速さで行き交っていた。自分も含めこんな普通の人たちが競合脱線のようにある条件の重なり合いで、とんでもない事態に発展してゆく恐ろしさの高まりを見せつけられた。個人的に香川に住んでいた事もあり差別も承知していた。しかしその件に関しては、それは後付けの話であり、あくまで大衆のモッブ化メカニズムと暴力の遍在性をまざまざと見せつけられた。興行的に性的要素は必要だろうが、これほどいるのかなとは感じた。女性記者の存在の定型性が気になった。それよりも脚色的には元教師と村長と村のボスの少年時代の姿との対比などがあればなぁーとも思えた。しかし難しい問題に切り込んだ制作者の皆さんの勇気は称えたい。
虚しい…
映画を見て身体が震えたのは初めてだった。
身体が震える程の恐怖は、東日本大震災の津波の映像を見た時以来だ。
「本当に怖かった。」
この事件を私は知らなかった。
以前、別映画鑑賞時に本映画の予告を見たことがきっかけでこの事件を知ることとなった。
とても惹きつけられる予告映像だったので、強く印象に残ったことを覚えている。
その時、この映画は絶対に観なくてはならないという謎の使命感を抱いた。
と、大袈裟に書いたが、実のところは
「この企画は、森達也監督がNHKや各配給会社にこの企画を提案したところ全て突っぱねられたから、自分で映画を撮ってやろうと始まった」という制作秘話がある。
もしかしたらDVD化もサブスク配信もされないんではないかという焦りから、急いで映画館へ駆け込んだというのが本音だ。
事前に予習をしていた為、大まかな事件内容は知っていたが、これを映像で見せられるとなるとかなりの覚悟が必要だと思った。
この上映が終わった後、自分がどんな感情を抱くのか予想した。
「憤怒」か「悲壮」か…
そして「熟考」した後に何かしらの言葉を紡ぐのだろうと…
そう思っていた。
その結果は「虚無」だった。
鑑賞中、急激に血の気が引いて行く感覚に襲われた。
様々な感想が頭の中を駆け巡っていく。
「完全にディストピア…」
「どうして、村人達は駐在の確認を待てなかったの?」
「本当に朝鮮人が怖かったの?人を殺す為の大義名分が欲しかっただけじゃないの?」
セリフにもこだわりを感じた。
事件前に登場人物達が発したセリフが、事件発生から事後に起こった事の皮肉になっている。
例えば、「教育は大事」と言っておきながら、風評を疑いもせず、怖いという理由だけで無抵抗な人間を殺したり、
「天皇は俺たを助けてくれない」のようなセリフがあったが、大正天皇が崩御すると福田村事件の逮捕者は皆釈放されたりと
なんとも胸糞悪い…
登場人物に誰一人清廉潔白な人物は居らず、皆が生きていく為に、家族を守る為に、欲望を満たす為に、自分たちの主義主張を正当化する為に何かしらの悪い部分を持っている。
中にはまともな意見を持っている人もいたけれど、残念な事に100年前の世界線では、その価値観はマイノリティだったようだ。
「俺は待てと言った」とどんなに主張しても殺された人達は戻って来ない。
「どんなに自分達を正当化しようと、朝鮮人であろうと人を殺してはいけない。」
事件から100年経った今、このような発言をしたとしても非国民だと罵られたり、逮捕されることは無いし、その価値観は殆どの日本人に共有されている。
【私は、今の日本に生まれたことを心の底から幸せだと感じている。】
最後に一つだけ言いたい。
この映画は絶対「PG12」では無い。。。
不穏な空気感、惨殺シーン、所々のエロ要素など含めるとR15以上は必要だろ!
というクレームを1件入れて、今回のレビューを終わりにしようと思う。
狂気化する群衆心理は人間の本性(追記有)
関東大震災から100年という日に公開された実話に基づくストーリー
1923年9月1日は、関東大震災から100年の節目。関東大震災の直後、多くの朝鮮人が犠牲になった。朝鮮人たちが「放火している」、「井戸に毒を混入している」、「略奪をしている」などの流布やデマを信じきった民衆の行動が招いた惨劇だ。この映画で犠牲者の中心として扱われているのは、朝鮮人ではなく日本人である。現在の千葉県野田市にあたる当時の野田村に香川県から来た行商が朝鮮人と間違えられて惨殺されたのだ。この事件を本映画では被害者側からだけの視点ではなく加害者側からの視点で描く。正直、筆者が映画を見る前に思ったのは、日韓関係が改善に向かっている時期に、韓国人の反日感情を再燃させるようなものを日本人が作ったのかと直感したが、その直感は事件について無知な筆者の的外れなものであった。100年前に発生したこの事件は、特殊な環境で起きた異例の事件ではない。現代の世界中のあちこちで現在進行形で起きていてもおかしくないことであり、我が国もその例外ではない。どこでも起こり得る、誰もが被害者にも加害者になり得ると訴えているように思えてならない。
野田村という半ば閉ざされた空間で生きようとした3種類の加害者
この映画で加害者として扱われている野田村は、震災で大きな被害を受けたわけではなかった。しかし未曾有の災害、というより災害に乗じて根拠のない噂を信じた結果、在郷軍人会などが中心となって自警団を組織し、朝鮮人に対する差別意識、恐怖心に加え、最高潮に達した警戒心のあまり、たまたま香川から来て村に入ろうとした行商人を朝鮮人と決めつけ殺害してしまったのである。ただ、村の中の全ての人がそのような人達であったとはしていない。筆者は映画の中で殺害現場にいた人たちは3種類に区分した。1つ目は、前述の表現がそのまま当てはまる人たちだが、村の中で周りの人たちと支え合い村の中で生きていく人たち、つまり村の中心層である。2つ目は村を出入りする人たちを渡す船頭と自由や民主主義思想で村の人たちを啓蒙しようとする村長、すなわち、村で生きながらも村の外の世界に眼を向け、中心層をある種冷めた目で見ることができる人たちで、3つの層と中心層の中間層である。3つ目は村で生まれ育ちながらも村には馴染まず村の外の人となったもの(朝鮮に行って帰ってきた)と新聞記者であり、ほとんど外側で村を客観的に見ている外層である。
殺戮に手を下していな人も加害者として描写
この事件で起きた殺戮で、第一の中心層の人々は当然直接の加害者として描かれている。ただ、第二層、第三の層の人たちも加害者と見ている。第三の層は、朝鮮人がこの機に乗じて放火や略奪などしてるなどということが事実でないことや政府や新聞までもがデマの流布に加担していることを知りながら、歯止めを掛けられなかったという意味での責任である。第二の層は、第三の層ほどの確信は持っていないが、第一の層より外の世界との接点があり、デマや流布を鵜呑みにしないで良心に基づいて行動しようとするが、結局は村人として生きていかなければならない境遇に囚われて、目の前で起きている殺戮を止められなかった責任である。
悪意ある情報に脆弱な中心層
冷静に考えれば、日本に滞在している朝鮮人たちも同時に被災して困窮しているはずだから、そのようなことは起こらないだろうし、そのような噂が立っても広がらないだろう。しかし、行政やメディアまでもが根拠のない噂を拡散した。そうした情報を鵜呑みにして、忠実に守ろうとする人たちが野田村の人々だった。彼らは農村として団結して生活し、お国が兵隊を出せと言えば命を投げ出す志願者を出す。伝統を守って生活し、なかには色事などで揉め事も起こるが、最後は村民として団結して生きる。昔も今も変わらない自分の置かれた境遇に反発心もありながら、受け入れ必死に生きていく決して特殊とは言えない人々なのだ。これを特殊だと言えばみんながそれぞれ特殊であるということではないか。不貞など今でもあるし、これからもなくならない。普通選挙も始まっていないから政治は上の人がやることで自分たちは従うしかない、変えられないと思っているし、実際に変えられない。今の人々にも選挙権は持っているが行使しないで、自分たちは変えられないと思っている点で当時の人とは全く違うと言い切れるだろうか。
(追記)
他の方のレビューを拝見していると行商の親方の最後の言葉に反応しているものが少なくない。確かに平等を訴えている言葉を発した後に自分の夫が朝鮮人に殺されたと思い込んでいた女性に殺され、それが堰を切ったように虐殺の場に発展したのは衝撃的なシーンであった。ただこの部分は実話だろうか?裁判の証言記録を見たりして書き上げられたのだろうか。混乱した状況で何がトリガーになったのかが検証されたのか。映画を通じてメッセージを伝えたい思いが出ているのはわかるが、割り引いて冷静になって考えてみても良い気がするのだ。
人間の命は平等である!
集団心理、先入観、そして相手を卑下して自分が優位に立とうとする醜い自尊心。
この話はもっとキチンと後世に伝え続けなければならない事件だと思いました。
そもそも、いくら国益だからって殺しても良い人間なんていません。戦争反対。
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