福田村事件のレビュー・感想・評価
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さした。二度もさした。日が出てないのに二度も日傘をさした。
実話を元にしたらしい。
震災のあと薬売りらが悲惨な事件に巻き込まれる話。
日本人がうんぬん、外国人がうんぬんではなく、人の愚かさを描いているという視点で見るべき作品であろう。
最初は場面や登場人物が転々として分かりづらい内容だが、終盤にはちゃんと繋がる様。
良い点
・テーマ
・演技
・サイコ顔
悪い点
・序章がやや長い
・何月何日などと書かれても覚えていられない
・字幕説明が読み終わる前に消える
その他点
・1度は日の照っているときに日傘をさしているが、日を防げていない。
・ちと砂のついた≠ちょっと砂のついた
・カメラワークが楽しげにも見える
映画的豊かさに欠けるB級映画
好き嫌いはともかく、荒井晴彦さんの脚本の映画的な表現を悉く潰して、単なる活動家のアングラ映画に成り下がってる。大衆の耳目を集める主題選びは、さもするとあざとさだけが自己主張する。あるシーンは、B級ゾンビ映画かと仰け反った。
様々な時代、様々な場所で起きてきたこと
普遍的にヒトが抱える病理、ではあるが2度と起こさせたくはない歴史
少なくとも、one child nationやact of killingで同じことを目にしてきた
もちろんナチスもそうだし、ウクライナとロシア戦争でも、パレスチナとイスラエルの戦争でも
誰しもがそうしてしまう危険性があることを学ばなければ、人は人になれない
自分が正しいと思ったことが、真に正しいとは限らない。
自分が正しいと思ったことが真に正しいとは限らないと、常に心の片隅に持っていないといけないと感じた。自分の器を少しでも大きくできるように生きていきたい。俯瞰して物ごとを見ることも大切。
じゅうごえんごじっせんって言ってみろ
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生。
混乱する人々の間では朝鮮人の野蛮さを広める流言飛語が飛び交っていた。
朝鮮で教師をしていた澤田は、妻と共に故郷の千葉県福田村へ帰ってくる。
福田村でも混乱は広まっていたが、そこへ香川から薬の行商団がやってきたことで、阿鼻叫喚の悲劇が起きてしまう。
2023年最後の映画になります。
クリスマスにものすごく久しぶりに母親と地元で映画を観てきました。
この映画は絶対に地元の映画館で年内に観ておくべき作品だった。
というのも、私はこの福田村のあった隣の市に住んでいる。
関東大震災から100年、この映画が作られてプロモーションが行われている中でほぼ初めて事件の概要を知った。
近くの市に住んでいるのに、なんなら福田村のあった場所へ行ったこともあったのに、なんとなく名前しか聞いたことがなかった。
恥ずかしく、そして悔しかった。
だからこそこの映画を年内に観ることができて本当に良かったと思う。
気持ち悪い。ひたすら気持ち悪い。
時代だから……では絶対に片付けられない。
マスコミの問題や政府の統制の問題も勿論あるだろうが、「村八分」という言葉に代表されるような、閉鎖的で独特のコミュニティと結束感に吐き気が止まらない。
村民同士が監視し合い、そこに異端分子が現れたり、秩序の枠をはみ出たりするとすぐに排除を始める。
そこに軍国化のスパイスも加わって、勢いはさらに増していく。
止める者いたが、そんな力ではとても手に負えない感じがリアルで恐ろしかった。
惨劇までの顛末をゆっくりじっくり描いているのも印象的だった。
行商団と自警団が衝突してしまったあの場まで、ジワジワとことが進んでいく。
朝鮮あめを買ったり妊婦がいたり死亡フラグがどんどん立っていくのも辛い。
男の子だったらのぞむ、女の子だったらのぞみ、ええ名じゃ。
そしてあの惨劇、村民たちの憎しみの目線や竹槍を刺した時のブスっという音、色々と生々しく衝撃的であった。
キャストも一流。
当時あれほど信念を持った記者がいたかどうかは分からないが、女性記者役の木竜麻生は素晴らしかった。
それとなんと言っても、あの役を引き受けた東出昌大。
彼の演技は昔から色々言われているけれど、日本映画に欠かせない名優になったと個人的には思う。
日本人にしか作れない映画だと思う。
勿論、関東大震災による混乱期の朝鮮人虐殺が根底にはあるが、この事件はさらに勘違いから同じ日本人を殺してしまったという悲劇を描く。
そこで出てくる、だったら朝鮮人は殺していいのかという問い、被害者の彼らが被差別部落出身者であったということも含め、到底一言では語りきれない。
そして、我々はこの事件に関して実際に目撃したわけではない。
ここで犯人探しをしてしまっては、流言飛語に惑わされて福田村事件を起こした彼らと同じことだ。
現代でも似たようなことは起きるかもしれない。
混乱の時こそ冷静にあるべきだと深く考えさせられた
韓国語勉強中だから澤田が朝鮮で言った言葉が分かれば良かったのだが、それは少し残念。
良いものを観た。
偏愛と無知により暴走する村社会のお話。
▼明確な主人公がいない
主人公キャラを強いて挙げるなら、朝鮮から戻ってきた男、未亡人の女、行商のリーダーのどれかが主人公なのだろうけど、明確に誰というのがいないのが印象的。
その誰を主人公に据えてもいいぐらい、全キャラの存在感が際立っているし、むしろ明確な主人公がいないからこそ、本当の主人公である村の空気というか、当時の日本の雰囲気をより強く感じることができる。
その感じは多面的な取材をしていくドキュメンタリーの印象に近いものがあって、森さんが監督を務めた大きな意義はここにある気がした。
▼村人のディティールが生々しい
差別上等だぜ!という村人や、国を守るためなら何やってもいい的な暴走軍人、僕も国のために役に立つもん!な若者の感じをとにかく痛々しく感じさせる演技がすごい。
この手の伝記ものの映画はなかなか商業的な成功の担保が難しい背景から、どうしても再現ドラマ感が否めない作品が目立ってしまう中、キャラ造形、照明、シチュエーション形成の随所に本気度を感じた。
特にキャスティングの説得力がハンパない。いわゆる日本人が日本人をディスる作品に出ること自体がリスクにもなりうるなか、これだけの俳優陣が揃ったのは、キャスティングする側もされる側も相当な覚悟があったと思う。
特に柄本明さんのいろりに手をかけた、小指の演技がすごかった。
田中麗奈さんの色気がありながらも、うざったい愛嬌のある感じとか、コムアイさんの幸が薄そうなエロい感じとか、東出さんの身を削りまくってるキャラ設定の演技等々、役者陣が光りまくってる。
村の妻たちの群像劇の生々しさももの凄くて、もののけ姫の女衆の実写版を観ているような気にもなったし、国のために、村のために、自分の正しさのために躍起になる男衆の必死さもよく出ていた。
薄気味悪い善良な雰囲気をまとっている村長もめちゃくちゃ良い。
シナリオの中では悪役という存在のキャラの中にも、人間性や妙な愛嬌を感じさせる工夫があって、それが異様な生々しさを生んでいる気がする。
▼善悪のバランスが絶妙
抑圧された側、意図せず加担してしまった側の心情を描くのは当然だけど、
差別をしている側、暴力を振るう側が圧倒的な悪として描かれるとそれはそれで偏った表現になってしまうところを、
そうしてしまった背景には、国を守りたかった正義感があったからだというところをしっかり強調していて、うまくバランスがとられている。
しかも、ド右思想のキャラを水道橋博士が迫真で演じていること自体のカウンターパンチがもの凄い。
▼朝鮮ヘイトの根幹にあった思い
震災時の朝鮮人ヘイトによるデマの流布に至った背景に、当時の村人の中に「いつも虐めているから、いつ復讐されるかわからない」という意識があった描写が衝撃的だった。
この描写について裏が取れていて事実であるなら、常日頃から加害者意識と、その後ろめたさを自発的に感じていたということだし、かなり踏み込んだ表現だと思った。
日本人の徹底的な異端排除の精神を煎じて煮詰めたような作品である、マーティンスコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』よりも、より具体的に昔の日本人の異様性を描いている気がした。
劇中では差別を正当化する理由として「国や村を守りたかった」としていたが、
日本人が「日本人の血」を守ることに固執するのは、神話に基づく天皇制の影響もあるのかもしれないけど、血を汚されたくない、文化を侵されたくないという意識からくるものなのかもなぁと思った。
そのジャパニーズ精神はどこか美しくもあるし、イカれてもいるという修羅さを、和太鼓に込めまくった鈴木慶一氏の音楽もヤバすぎた。
(以下ネタバレあり)
▼差別の根幹
江戸時代の身分制度で、商人以下の身分をえたひにんと呼び、住む場所を限定されたりと差別されていた層があり(現在も地続きだけど…)、
その中には外国から渡ってきた人々も含まれているだろうし、抑圧されてきた人たち同士で結束感のあるコミュニティを形成するのは当然のことだと思う。
そうすると必然的に混血の日本人が生まれてくるだろうし、そのことを本人達も、社会も知っていたからこそ生まれる差別なんだろう。
劇中の行商のリーダーが朝鮮飴(엿)売りに情けをかけたり、事件渦中の騒動で、「日本人なら殺さない、外国人は当然殺してOK」という論調になる集団にブチギレる&扇子出すのは、そりゃそうだよなぁと思う。
この手の軋轢は今も普通にあるし、劇中の雰囲気は今の日本にもあるどころか、今後より強まっていく予感さえある。
入管での難民強制送還の実態や、難民受け入れの許容ライン設定が異常に厳しいというような事実を見ると、現代の生活のすぐ近くで福田村的な空気が漂っていることがよくわかる。
2023年・最大の問題作で話題作で傑作
この映画が完成して私たちに届けられたことに感謝したいと思います。
この映画に携わった多くの映画人に敬意を表します。
見たくない真実であるし、知らんぷりを決め込みたい真実である。
関東大震災(1923年9月1日)の混乱と恐怖から、
千葉県福田村の村民により罪もない薬売りたち9名
福田村自警団によって(お腹の子を入れれば10名)が殺された事件を
克明に描いた実録的映画です。
重たい暗い内容ですが、大正の時代考証や衣装・美術・撮影などの
クオリティーが高い上に俳優たちの演技並びに意気込みも素晴らしく、
この映画を全員で成功させようとの意欲がまざまざと見えます。
(映画的な面白さの点でも申し分ありません)
薬売りの一団(リーダーは永山瑛太)は、讃岐(香川県)から
遠路を旅して置薬の販売のしながら旅をしていたが、
讃岐弁の訛りが強くて、福田村の人々には朝鮮語と判別が付かなかった
それもこの悲劇の一因ではなかったかとも言われています。
朝鮮人疑惑がかけられてからの後半40〜50分は
泣きながら観ていました。
涙もろいタチではないので、畳み掛ける演出が優れていたのでしょう。
永山瑛太が「朝鮮人なら殺してもいいんか?」と、
叫ぶシーン。
ここからは脚本と演出とせき立てるような太鼓の音に
私はすっかり理性を失ったのだと思います。
恐怖に駆られた集団(200人以上)が、竹槍で突き刺したり、
瑛太に至っては、出稼ぎに出た夫の安否を【朝鮮人の仕業】と
勝手に思い込んだ、赤子を背中に括り付けた若い女トミに
脳天を鎌(かま)でかち割られる。
女の無表情が本当に怖い。
自警団は逃げ惑う薬売りを追いかけ回し、鉄砲で撃ち殺し、
利根川に追い詰めて死体を沈めて流す。
そこからは、ただただ泣きながら観ていました。
クライマックスは針金で身体をグルグル撒きに縛られて、
手首をキツく結えられた薬屋の生き残りの5名が、
御詠歌なのか語りとも歌ともつかぬ言葉を唱和する。
これは日本人以外には出来ぬことだし、
流石に自警団も我にかえる、
そこに証明書が本物の知らせが警察から入る。
澤田夫妻が「ごめんね、ごめんね」と泣きながら縄を解く姿。
そして病院に運ばれた仲間のことを薬屋の少年が、
みんな名前がある。生まれてくる子はのぞむか?のぞみだった・・・
と言いながら、他の9名の名前を語るシーン。
永山瑛太の演技は見事だった。
被差別部落の民である薬屋たち。
穢多非人と朝鮮人の地位・・・どちらが上でどちらが下か?
知りませんが、忌み嫌われる被差別部落民の鬱屈した心情を
豊かに変わる表情ひとつで表現。
瑛太には華やかさと明るさがあった。
「朝鮮人なら殺してもいいんか‼️」が、
ハイライトである位に際立っていました。
実際にそんな火に油を注ぐ言葉を、部落とバレなように
用心に用心を重ねていた永山瑛太が言うのか?という
疑問も持ちます。
しかし演出としては優れていた。
船渡し人夫役の東出昌大。
小舟の中で田中麗奈を抱く赤銅色に焼けた背中。
労働で鍛えた男のフェロモンに目がクラクラ、
そして一番の嫌われ役・福田村自警団の分団長で惨劇を
誰よりも先導した男の狡さや嫌らしさを嬉々として熱演した
水道橋博士。
ややマゾっ気のある(?)水道橋博士にしか出来ない
嫌われ役でした。
主役の澤田(井浦新)は、朝鮮で日本軍の蛮行を目撃したPTSDで
不能になり妻(田中麗奈)を抱けない男。
その澤田が妻に「あなたはいつも見てるだけね!!」と
言われて遂に硬いの殻を破る。
しかし薬屋たちを朝鮮人と思い込み身分証の照合の僅かな
時間も待てずに凶行は行われてしまう。
時代は今から100年前、
ラジオ放送が始まったのは1925年(福田村事件の2年後)、
SNSもない時代、
関東大震災の情報は、東京から千葉へ戻ってきた人たちの口コミや、
千葉日々などや大手新聞社の記事から伝わったと思われる。
朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ・・・などの噂(デマ)は広がった。
翻って思うに、
東日本大震災(2011年)の際、アメリカは原発の半径80キロ圏内の
米国人に避難勧告を出した。
私の記憶では多くの外国人が先を急いで出国した。
これは今となっては大袈裟に思えるが、
(結果的は国外避難は必要なかったが、)
当時の日本国の混乱を思うとアメリカ政府の対応は
非常時には自国民を守る危機管理能力として適切な判断だったと思う。
私は米国人が続々と国外脱出する成田空港のニュース映像をみて、
日本の放射能汚染は政府の発表する放射線量数値が本当に正しいのか?
疑心暗鬼に駆られたものだ。
思えばあの時ほどNHK解説者の解説や各社コメンテーターの言葉を
真剣に聞いた経験はない。
それだけ、情報は命綱なのだ。
(それが偽情報だったら?ことは重大だ)
関東大震災では、穴を掘って死体を埋めていたとの記事を読んだ。
死体が山積みされ埋められる光景を目撃した人からの伝聞を聞けば、
その恐ろしさに畏れ慄くのが普通である。
3・11の記憶が頭にこびり付き【津波に放射能汚染のダブルパンチ】
忘れようにも忘れられない、多くの方々が亡くなった。
「千葉日々」と言う名前の新聞は堂々と報じた。
《朝鮮人による大暴動発生》
《朝鮮人の婦女暴行・飲料水に毒・略奪》の大文字見出し、
日本国民がそれを信じるのは当然のことだ。
そして更に恐ろしいのは震災当日と翌日に警察から
「朝鮮人に気をつけよ」
「夜襲がある」などと、官の側からの流言飛語を撒き散らしたのが、
村人の不安を煽った事実。
実際にこの機に乗じて朝鮮人と思想犯及び聾唖者が6000人も死亡した。
この映画が全て真実だとは言いません。
映画的演出もフィクションも含まれているでしょう。
骨のある日本映画を久しぶりに見せて頂きました。
「F ukushima50」(2020年)以来です。
「野火」「日本のいちばん長い日」「トラ・トラ・トラ」
日本人なら自分が生きている国を知るために、
一度は観ておいても損はないと思います。
森達也は初の劇映画ということで登場人物の多さを捌き切れてないかな、...
森達也は初の劇映画ということで登場人物の多さを捌き切れてないかな、3人の共同脚本家のうち荒井晴彦の要素(おそらく)がちょっとノイズになってるかな、という印象だけどその点差し引いてもみるべき作品だと思います。
惨劇
いまの世で言うリベラルとは日本叩きや自虐を身上とすることであり、マスコミはだいたいリベラルだと思います。
リベラルは時には自らを加害者だと告発しますが、同時に弱者(被害者or犠牲者)に寄り添うポジションに陣取ります。寄り添いポジションをとらずに省察することはありません。
この監督もイソコと組んでドキュメンタリーをつくるのでリベラルだと思います。
映画福田村事件はリベラルなのでリベラルなマスコミが絶賛し、それが世評のようになっていますが、下げ評価しにくい事件が高評を支えている──というのはあると思います。
善悪の色分けがあざといと思います。
悪はひどさが強調され、善は清らかさが強調されます。外見もぶさいくな俳優が悪に、ぶさいくでない俳優が善に設定されています。差別告発の映画でありながら映画内には美醜差別があるとオタキング氏も指摘していました。
いずれにしろ、いじめっこといじめられっこの単純さは、のび太とじゃいあんのように子供向けです。
ふつうに考えて、それを指摘しなければならないほど、観衆が映画慣れしていない──とは考えられませんが、クオリティのアラは、都合良く重い主題に隠れてしまいます。
『生き残った被害者の証言によると、関東大震災発生から5日後の1923年(大正12年)9月6日の昼ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いで、「15円50銭」などと言わせ、休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた。福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので駐在所の巡査が本署に問い合わせに行った。この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が2発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに15人中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。かけつけた本署(松戸警察署野田分署)の警察部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が生き残った。』
ウィキペディア「福田村事件」より
結局映画福田村事件は、事件のすさまじい重さ・むごさがクオリティの甘さをスポイルしていると思います。
そもそも映画は方言とぶっきらぼうなことばづかいによって半分以上聞き取れません。
また、描き方や立脚点が「わたしは解っていて、弱者に寄り添っている」という、贖罪を成し遂げたポジションにいて、ポストモダンな社会正義になっていると思います。
木竜麻生演じる女性記者が虫酸の走るようなイソコ的正義感を振りかざしますが、作者の代弁者とみていいと思います。
脚本には荒井晴彦が参加しており日本映画臭も強烈でした。同氏のこの国の空(2015)や瀬々敬久の菊とギロチン(2018)によく似ています。
日本人が悪いのはもちろんですが、描き手が、じぶんは朝鮮人の味方に立ちながら、日本人の悪さを告発するというスタンスがとても日本映画的・業界的・リベラルだと思います。
釜山へ持っていき「わたしは日本人を告発し贖罪・解脱を果たした日本人である」という安全圏内から韓国上映に立ち会ったというスタンスがとても日本映画的・業界的・リベラルだと思います。
史実については日本の恥だと思います。
コロナが始まってまもなく、感染者が出た会社や店舗が報道されていた頃、近所の会社に感染者が出て、未明にその会社が投石されるという事件がありました。
福田村事件とはくらべものにならないかもしれませんが、コロナの草創期、感染者にたいして抱いた心情はこの映画にでてくる官憲と大差ないかもしれません。
あのときわたしたちはたいがい感染者を「なにやってんだ」という憎悪のまなこで見ていたはずです。
わたしは日本に愛着を持ち日本を擁護しますが日本人(自分)をあまりよく思っていません。拾った財布を届けることとちゃんと列になって並ぶ以外に取り柄のない民族だと思っています。わたしは被害者でも犠牲者でもなく寄り添いもしません。わたしは言うなれば自虐型の保守です。それでもリベラルよりははるかにましです。
人間とは
人間とは,いかなるものかを
真っ向勝負で問われた映画だった。
貧しく,何かに縛られ
幸せそうには思えない日常を
何とか生きる
どこにでもいる人たち。
たがが外れた虐殺シーンでは
テレビで見た
興奮状態に陥った
猿の群れを思い出した。
猿と同じような
群衆心理による
残虐さがありうるということ。
被差別部落の人が言い放つ
「朝鮮人なら殺してもいいんか。」は
厳しい差別を受けているからこそ
真実を見抜くことができた言葉だ。
でも,それでは悲しい。
自分がその立場にいなくても
相手の立場に立てるような自分に
自分を育てていくことが大事だ。
こういう良作に出演している
大好きな井浦新さん。
奥さんを背負うときの
背中や足取りが
情けなくて温かくてたまらなかった。
人間の残酷さ
この時代なら、当たり前なんか?
朝鮮人と部落の人は人としてあらず。
思い込みの怖さ 正義とは何?
ピェール瀧と東出が久しぶりだ。
長谷川みたいな人はどこにもいてる。
胎児は、国民ではないんだ?
災害に乗じてややこしい人を消すは
過激な元作家の知事か言ってました。
恩赦になるんだ?
秀作!
事件が起こるまでの福田村の様子、行商人の様子を丁寧に描きながら飽きさせず、とても見応えのある作品になっていた。予算が付きにくいテーマにもかかわらず、しっかりした俳優が多く出ていたのもよかった。
日本人同士が殺し合った悲劇、ではない
愛着を持つことも情報の不足も「かたより」であり、一方へ偏る重さが歪みにひずみを作り出す。それは時代に関係なく、エコーチェンバー、推活等々、まったくもって今も何も変わらない危うさを啓蒙しているとうすら寒く鑑賞した。巡る情報のスピードなど現代の方がより早く、そのぶん膨れ上がる群衆の大きさも「村」どころでないなら、なおさらだ。
史実のため物語のなりゆきについてはおおむね皆が理解しているところだが、そこへどれだけ何を詰め込み見せるのか、その部分に史実を越えた作り手のメッセージは表れるはずで、人種が違えばあやめていいのかという堂々たる問いかけや、福田村がいかに閉鎖的であるかの描写、鑑賞者を感情から引き離す第三者的視点、東京の記者の描写など、バランスのよい構成は最後まで冷静に見届けることを可能とし、より深く考えさせるようと導いていることに成功していると感じた。
なにはさておき「あやまって日本人同士が殺し合った悲劇」という誤解を与えない行き届いたシナリオの鮮やかさが(おそらくそこを一番恐れ、それこそが言いたかったことではないのとうがるが)とにかく胸に残った。
村人から見れば常識ハズレのとんでもない女だろうが、田中麗奈さん演じるシズコが一番、現代的で良識ある開かれた人物として映り、観ていてほっとする。
知(情報)の、持つことがヨシとされる場合とは、一点の深さではなく、浅くともきっと分母を増やす事なんだろうな、と改めて感じさせられた。
今年見た邦画の中で最高過ぎる
文句無しの100点満点💯
今年見た邦画の中で素晴らしい作品でした。
関東大震災後、混乱した世の中において人々は誰の情報を信じて良いのやら、当時のマスコミによる過ったデマが拡散されたことにより更なる人に対する恐怖と偏見が生まれます。これが、どんなに恐ろしいことか。間違った情報に踊らされた末に待っているのは情報不足が招いた虐殺でした。非常に痛ましく、これが真実に基づくと知り、色々なことを福田村事件の映画を通し学習させて頂きました。
この映画は、ドキュメンタリーでもありますがわたしはヒューマンホラーを題材としたヒトコワにも感じてしまいました。田中麗奈さんが演じる元はお嬢様育ちの奥様も世間体を気にしない、日傘を指し暑いわ〜と何事もなかったかのように場の空気を変えてしまう、当に適材適所なキャスティングでした。
※9月10 日に末日で閉館となった京都みなみ会館様で鑑賞しました。
「村を守る」って?
水道橋博士演じる長谷川秀吉が、「村を守りたかっただけ」と言いながら、妻に抱きかかえられて涙するシーンのおぞましさに震えた。豊原功補演じるデモクラシーを語る村長が、「これからも村で生きていかなくては」と語りながら、見て見ぬふりをした自分を肯定するシーンでも吐きそうになった。それはきっと、自分の奥底にも同様の思いがあることへの嫌悪からだろう。
瑛太演じる沼田新助の「朝鮮人なら殺していいのか」という投げかけの普遍性と共に、水平社宣言の力強さが光っていた。
制作側の熱意とメッセージに共感しつつも、個人的に不要ではと感じるシーンや、説明調のセリフで冷めてしまう所もあって、3.5。
差別とは
自分があの輪の中にいたら、どっち側についたのだろうか。「殺さない」と100%言える人は少ないと思いました。そこが恐ろしい。今起こっている戦争も然り。「朝鮮人なら殺してええんかい」という台詞が深く突き刺さりました。
瑛太さんも井浦さんも麗奈さんも素晴らしかったですが、東出さんやピエールさんが普通に出演されていたのが個人的には嬉しかったです。
一番怖いのは人間
今年観たどの映画よりも怖かった。人間の脆さ、危うさを描ききった秀逸な作品だと思う。田中麗奈の演技が物凄く良かったし東出昌大も素晴らしかった。どの俳優も女優も心に迫るものがあった。決して風化させてはならない歴史、こんなご時世だからこそ尚更心に刻みたい。森監督に拍手。最近最も皆に勧めた映画だ。
「世界に対し自分達の知は常に不足している」
常に無知である事、視野が狭い事を意識して、同時に夢や理想を心に描き更新して生きようと思いました。 今の時代であれば、情報戦によって敵国等他国や他集団に、日本人の「大勢に呑まれ流され易い」そういう部分を巧みに突かれ、知らぬ間に混乱させられて一見真っ当に見えても彼らの思う壺になって行くのではと考える人も多いと思います。
太鼓の音が
前半は何だかさらりと過ぎてしまった感が。
性描写(というほどではないけど)は必要なかったとか、感想にあったけど、必要でしょ。
それよか後半に向けて、もっと「人間の欲」みたいなものをえげつなく表現されていることを期待していました。
いきなり群集心理がはたらくわけでなく
じわじわとねじまがったものが積み上げられ、
そして「自分もいかないと村八分になる」と
タガが外れる。
蔑むための存在を勝手に作りあげ、
無知がゆえの想像力のなさ。
竹やりを別の物に替え、
現代の私たちもその渦の中にいるのでは。
東出さんがいい味出してましたね。
群れない人は、集団ヒステリーに飲み込まれないのかも。
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