「福田村の子孫の方々が可哀想」福田村事件 羅生門さんの映画レビュー(感想・評価)
福田村の子孫の方々が可哀想
いくら流言蜚語に乗り同調圧力に流されたとは言え、なぜあそこまでの残虐行為が行われたのか?大被害にあった都内(当時は府内)や横浜などの大都会ではない千葉の田舎の福田村で。半島併合で内地移入が制限された中を非合法に潜り込んだ朝鮮の人々は、その貧しさ故に窃盗や闇商売に手を染めたり、真っ当な仕事でも日本人労働者より低賃金で引き受け、労働市場を歪ませていた。強欲な資本主義の皺寄せで、こうした朝鮮人住民は日本語も話せず身なりも汚く、日本人の仕事を奪った怨みや狼藉の恐怖が彼らへの差別を助長していった。そうした虐げられた低賃金労働者の恨みと社会主義・共産主義への警戒心がより一層恐怖心を抱かせた。3・1独立運動で半島を追われた朝鮮独立運動家は内地に潜り込み、日本人の社会主義者・アナーキストたちと連動していた。
国際コミンテルンが主導する「敗戦革命」混乱や動乱に乗じて革命闘争を仕掛ける、という風聞にも当時の大都会の人々は恐怖心を抱いていた。「資本論」は当時のベストセラーで、貧しい農民出身の兵隊が多く在籍した陸軍でも若者を中心に浸透していたことは有名、これが「二・二六事件」の下地になったと言われている。右も左も自由な資本主義は敵だった。
都会では、移り住んできた朝鮮人による犯罪や活動家のちょっとした騒乱は経験していただろうから、当時の新聞が煽った「朝鮮人が井戸に毒を入れた」流言蜚語がある程度リアルな恐怖として感じられたのだろう。官報では「〜との噂あり、厳格に対処せよ」だったはずが、新聞社の煽りで事実のように喧伝されてしまった。今も昔も新聞のアテンション・エコノミーには呆れてしまう。
しかし、福田村ではどうだったのか?田舎で労働環境の侵食も受けず、住み着いている朝鮮人もなく、都会から押し寄せる流言蜚語のみ。幾らフィクションのドラマ化だとしても、一見加害性のない朝鮮人たちを捕縛レベルではなく、いきなり殺害なんてするのだろうか?都会のように朝鮮人の狼藉も見聞したこともなかったはずだ。単に噂話ぐらいで。現代人の感覚で判断しても無理があるのだろうが、合点がいかない。大正時代とは言え、余りに非常識で余りに社会性が無かったとしか言えない。やはり教育水準も低かったのだろう。集団心理に同調圧力、日本人の悲しい性なのかも知れないが、その代表として福田村が脚光を浴びているのは些か可哀想だ。まるで人間性の欠片もない鬼のようだ。そのような鬼を生んだのは「天皇制と皇国教育」「謂れなき朝鮮人差別」「軍国主義」「強欲な資本主義」と言いたいのなら、余りにも安直過ぎないか。「貧しさ」が全ての悲劇の出発点であり、国や時代によって形は違う。
都会ならまだしも、数少ない田舎の事例を取り上げるのは残酷だ。福田村の子孫の方々はどう思って居られるのだろうか。韓国映画「金子文子と朴烈」のように大都会を舞台にすべきではなかったか?「菊とギロチン」はそういった配慮があったように思う。