「流布される情報をただただ鵜呑みにするな」福田村事件 浮遊きびなごさんの映画レビュー(感想・評価)
流布される情報をただただ鵜呑みにするな
関東大震災の五日後、千葉県福田村の住民が香川の行商団を“不逞鮮人”(当時の蔑称)と誤認し殺害した事件を映画化。
敵愾心・恐怖心を煽る偏向報道と、異質な者を恐れ排除せんとする集団心理が招く悲劇。貴方の縋った情報は事実か? 自ら考え判断したか?
いまの時代だからこそ観るべき秀作です。
不要と思える人物描写(特に男女関係)によるテンポの悪化など、劇映画としての不満はある。だが後半以降はまるで緩やかに加速してゆく悪夢のようだし、最終盤は劇映画であることを忘れるほどの緊張感・恐怖感・嫌悪感。
“異質”だからこそ外部の目で冷静に事態を判断できていた人々、そして血の通った“人間”への不当な扱いに怒りを燃やす人々。彼らの無念が伝わる終盤に泣いた。
恐ろしいのはまず、この事件が関東大震災直後の流言飛語による犠牲のほんの一部に過ぎないということ。不確かな情報を信じた民衆に殺害された朝鮮の人々は数千人に及ぶと言われているし、震災に乗じるようにして殺害された反政府活動家も存在する(本作でもそこは抜かりなく描写されている)。
もうひとつ恐ろしいのは、僕自身がこの環境に置かれた時に正しい判断が出来るか自信が持てない事。誰かの伝聞や侮蔑の声や組織に流されず、目の前の“人間”そのものを信じて行動できるだろうか?
役者陣について。
下手をすれば四方から叩かれ兼ねない題材にも関わらず、自ら出演を申し出たという東出昌大氏。あの大きな体躯が最後、小さく小さくうずくまる姿に、思わず目頭が熱くなった。
部落差別を受けてきた“えた”の立場として朝鮮の人々に同情を示す役柄の永山瑛太氏も見事。「朝鮮人なら殺してもええんか」の一言に内包された怒りの深さに震えた。
井浦新氏は観客あるいは作り手の視点に最も近く、真偽を見定める事の難しさも示す。過去を独白する場面の切実さよ。
田中麗奈さんは都会的で奔放・コケティッシュ。周囲の役と浮いて見えると思いきや終盤、その芯の強さと純真さが、この救いの無い物語における微かな光明になっていたと思う。
水道橋博士は一番の憎まれ役。最後の独白に怒りが沸き……すぐ引いた。「デマだと思わなかった」なんて泣き言が通じない事は、彼自身が一番分かっていた気がしたから。あれは誤った情報を信じ続けた者の末路。明日は我が身よ。
留意すべきなのは、本作は「為政者側の嘘を信じるな!」とか、そんな単純なテーマじゃないという点ですよね。監督自身も以前から述べてる通り、本作の物語もまた作り手の主観。どこまで信じ何を受け取るかは観客に委ねられてる。
劇中で流布される「震災に乗じた“鮮人”の犯罪行為」も、あの時あの状況で聞けば100%デマと断言できるだろうかという怖さを感じました(井浦新氏の「でも、やるかもしれない」という台詞が俯瞰的で見事)。しかし情報を鵜呑みにした集団が恐怖に駈られて動くと、もう歯止めが利かない。たとえそれが誤った方向に向かっていたとしても。
宗教団体・芸能事務所が絡む隠蔽・情報操作、SNSによる裏付け不詳の誹謗中傷やフェイク映像等々と、昨今ほどにマスメディアの信憑性が揺らいでいる時代も無いのでは。
流布される/されない情報には常に何者かの意図や目的があり、我々受け取る側はその中で一体何が正しいかを“各々で”精査しなければいけない。そして、意見が一方に偏るような状況を避け、ベストな選択を見定めなければならない。
とても難しいけれど、そういう事だと思います。
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追記:
映画の題材とは直接関係無いところで感じ入ってしまったのは、監督と役者の関係性の所。
先にも書いた通り、本作が必ずしも劇映画として優れているとは僕は思っていないんですよ。リアリティを削ぐメロドラマ的要素やテンポの点で。
だけどこの映画の登場人物達には、彼等の放つ言葉やその眼差しには、強力無比のリアリティがある。本物の怒り憎しみ哀しみを覚える。
監督の伝えたい物語に、映画の顔たる役者陣が、そして骨子を支えるスタッフが、血肉を与えて命を吹き込む。そんな映画の、超常的とすら呼べる力をひしひしと感じました。その点でも忘れ難い映画。