「人が産み出しながら人をも超越する「言語」なる神」ペルシャン・レッスン 戦場の教室 平野レミゼラブルさんの映画レビュー(感想・評価)
人が産み出しながら人をも超越する「言語」なる神
ナチスドイツによるホロコーストが進む二次大戦真っ只中、とあるユダヤ人の青年が銃殺寸前にまで追い込まれる。
しかし、彼は咄嗟の機転で「自分はペルシャ人だ!」とでまかせを叫び、そして運良くペルシャ語を習いたがっていたナチス大尉のコッホに言語教師として雇われることに。しかし、彼は偶然知っていた「Bawbaw(父)」という言葉以外のペルシャ語なんて知らないため、インチキ言語を創作し続ける命がけのレッスンを強いられることになる……!!
題材にユダヤ人大虐殺たるホロコーストを選んでいる時点で、物語のトーンは終始重めのシリアスではあるんですが、もうこのあらすじの時点で滅法面白いです。
いや、本当笑いごとではないんですけど、常に漂っている緊張感も相俟って、申し訳ないんだけど笑ってしまう……って場面は多いんですよ。
なんせ、この偽ペルシャ人のジルくん(ジルはペルシャ偽名で本名は“レザ”)生き残るために必死なあまり、意図せずして自分から追い込まれがちなんですもん……
「適当に単語ベラベラ喋っちゃったけど、これ俺も全部覚えなきゃいけないじゃねーか!!」
「あのドイツ人野郎、1日4語とか言ってたのに真面目だから40語も覚えやがった!!」
可哀想。
偽ペルシャ人のジルくん、そりゃ生き残るために必死なんですけど、生死の境目を飛び越えるために極めるのが「インチキ言語」ってギャップがやはり面白いんですよ。
そして、ジルくんが必死であるほどに、我々も彼を応援して物語により深く感情移入してしまう。この構図がよく出来ています。
コッホ大尉「そういや“木”って習ってなかったな。何て言うんだ?」
ジルくん「“ラージ”」
コッホ大尉「それは“パン”って意味じゃなかったか!?貴様、やはり嘘つきの豚野郎か!!」
ジルくん「ち…違いますゥ~!同音異義ってヤツですゥ~~~!!」
マジで大変……!!
コッホ大尉は正規の軍人ではなく、料理人として赴任しているってこともあってどこか妙に憎めない部分があるんですよね。ドイツ人らしい生真面目でキッチリした部分があるし、雇ったとはいえ所詮捕虜に過ぎない筈のジルくんも言語教師としての仕事を評価して向き合ってくれるし……
それはやがて奇妙な友情らしきものにまで発展します。
考えてみれば、このジルくんの「インチキ言語」って“世界でこの2人の間でだけ通じる言語”っていう特別で特大の関係性そのものなんですよね。
予告にもあるインチキ言語で得意気に詩を創るコッホ大尉と、それに対して「素敵です」と宣うジルくん。事情を知る端から見れば、とてつもなく滑稽な場面ではあるんですが、2人の間だけの共通言語という関係性を通して見ると、皮肉以上の“何か”は確かにあると思えちゃうんですよ。
ただ、結局はコッホ大尉も同胞を次々と殺すナチスの一味でしかない…ということも端々で突きつけてきます。
確かに大尉の本職は料理人であり、直接的な非道は働いていないんですよ。それでも迫害される側のジルくんに言わせれば「殺人者に食を提供している時点で立派な戦争犯罪者」です。
そもそも、コッホ大尉は本来なら戦争に関わらないことも可能な立場だったにも関わらず、自らナチを選んで士官しており、その時点で十分に虐殺に対する責任は問われる立場にあるわけです。
この複雑に捻じれた大尉との関係性のほかにも、同胞が次々死ぬ中で自分だけが言語教師として厚遇されることへの葛藤、遂に現れてしまった本物ペルシャ人への恐怖、激化の一途を辿る戦争……といった全てが絡み合っていくため、常にハラハラドキドキは続きます。
ジルくんもインチキ言語で切り抜けようとする胆力や、収容所の人々の名前に紐づけて単語を次々創作して覚えていく知能の高さを随所で示して鼻を明かしていくスタイルですが、同時にどこまでも善良で責任感がある好青年なため、重圧に押し潰されそうなところがひたすら辛い……
罪滅ぼしとしてイタリア人兄弟に親切にしたら、その恩返しに兄の方が本物ペルシャ人を殺してしまう展開なんかは、観ている側も胸を締め付けられる思いでいっぱいになりました。
そんなワケで面白いあらすじに見合ったレベルで、とにかく見どころに溢れまくりな作品なんですが、特に圧巻はラストに至る展開です。「一体どこに転がっていくんだ?」と最後までハラハラしていたら「もうこれしかない!」と納得しかないラストに転がりましたからね……
ところで皆さん、その圧巻のラストの話をする前に一つ質問をさせてください。
貴方は“神”の存在を信じますか?
いきなり何を怪しげな質問をしてるんだ…とお思いでしょうが聞いてください。
ここで僕が言う“神”というのは信仰的な意味合いは持ちません。人の手で産み出されながらも、人の手を離れて超越してしまった存在のことを指し示しています。
僕は「言語」がその“神”に該当する存在だと考えております。
古く聖書において、神の怒りによってバベルの塔と共にバラバラにされてしまった「言語」が神というのも皮肉な話ではあります。しかし、生物でないにも関わらず国や時代を超えて絶えず淘汰と進化を繰り返し続け、人々をその独自のルールの下に縛り付けるその在り方は“神”以外に形容のしようがないとも思うのです。
この「言語≒神」論を前提に置きつつ、話を映画に戻しましょう。
映画終盤、戦争も末期に差し掛かりナチスドイツの敗北が濃厚となる。ジルくんのいる捕虜収容所も放棄が決定され、非道な戦争犯罪の証拠書類と共に捕虜たちも次々と虐殺されてしまいます。
コッホ大尉もナチスを見限り、収容所を捨てるどさくさに紛れて、以前より準備を進めていたペルシャへの亡命を決行。しかし、大尉は逃亡の折にジルくんも連れていき、そしてペルシャ語を教えてくれた感謝を述べながら解放してくれるのです。
それはもうリスク承知の義理堅さによる行動であり、大尉にとってジルくんとの友情は“本物”であったという何よりの証左でした。
この一連の流れで、第三者である観賞者からしても、大尉に対する感情が変わっちゃうんですよね。
自らの意志で虐殺に加担した戦争犯罪者ではあるけれど、助かってしまってもいいんじゃあないか?と……
しかし、結果は明白でした。
大尉は亡命先で話す言語がインチキペルシャ語であるため、正体がすぐにバレて捕まってしまう。誰にも通じないインチキ言語をがなり立てながら、惨めに、ワケもわからないまま連行されるという末路を遂げます。
一方、ジルくんはというと、連合国に無事保護され、逃亡に成功します。
その際、ナチスに焼却されたユダヤ人の同胞の名前が記された名簿の情報が知らないかと問われるのですが、彼はそこで2000を超えるインチキペルシャ語の語源である収容所の人々の名前を次々と伝えて驚かれるのです。
この瞬間、ジルくんと大尉の間のみで通じ合っていたインチキペルシャ語の“関係性”は破棄され、名前を失った無辜の民の無念を伝える“記録”という新たな意味がもたらされます。
この瞬間、我々は悟るのです。
大尉は「言語」によって裁かれ、ジルは「言語」によって救済をもたらした……と。
これはもう言語たる神による「神託」に等しい結論なんですよ。
神たるものの裁定であるが故に、我々が感情を差し挟む余地は微塵もなく、ただひたすらに納得するしかない。
まさかインチキペルシャ語にここまで「意味」と、明暗分かれたクライマックスに対する「説得力」を持たせてくるとは……終盤は本当に脱帽しきりでした。マジでスゲェ……