ペルシャン・レッスン 戦場の教室のレビュー・感想・評価
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Unorthodox Holocaust Survival Tale
With Timur Bekmambetov in the production credits, you can't ignore his contribution to making this film throw in a new approach to experiencing the hardship of the Jewish Holocaust. It's the story of Gilles, a Jew whose appearance lets him dupe Nazis into thinking he is Persian. Based on a German short story, the Russian producer's knack for swimming against the current produces emotional results.
ジルとコッホ大尉の闘い
ジル役の俳優さんが初手からずっと滝藤賢一さんに似ていると思いながらシリアスなシーンを実話のようになぞる演出に固唾をのんで見ていた。
ナチス将校たちのユダヤ人への虐待や偏見は当然だが、普通に一般社会のように働きながら恋や嫉妬もする、そしてベルトコンベアーと化したユダヤ人を奴隷にして殺していく。
それが淡々と展開していくがコッホ大尉がレストランを出す夢を持つことに親近感が湧いてしまったのには驚いた。彼は殺戮会社の重役で悪を理解していない幼稚な大人なのにだ。
生に執着するジルは無駄に頭が良いのでペルシャ人と偽り数カ月も生きながらえ、そのストレスはこちらまで伝わってくる。
デタラメなペルシャ語を覚える方法がクライマックスのシーンに繋がった瞬間涙が止まらなくなった。
緊迫のサバイバル
皮肉な最後が秀逸だった。
最も印象に残るのは、主人公がペルシャ語を教えることになるドイツ将校そのものだろう。
自身の行っている、加担していることについてあまりにも無自覚であり、無責任だ。その悪気のなさと、ないという態度がとれるほどの無責任さは唖然とするばかりである。
そしてないからこそ、主人公とどこかで分かり合えている、と信じているあたり、
もう目が当てられない。
レッスンが始まった当初、信じて一生懸命、単語を暗記する姿はコントかと笑いが止まらなかった。だが悲劇が過ぎると喜劇のように、喜劇が過ぎると悲劇は呼び込まれる。
未見だが「関心領域」も同じタイプの作品ではないかと感じたがどうだろう。
そういう意味で、ペルシャ人と偽りホロコーストでサバイバルするユダヤ人が主人公ではあるが、描きたかったのはそんな主人公の目から見た
「無自覚とおこなわれる悪の愚かさ」あでり、無知がゆえ気付かぬうちに誰もが加担しかねないことへの警鐘ではないかと考えるのである。
とは言え将校、薄々は罪悪感を抱いていた感もあるが、償いと主人公を逃がす程度ではやはり許されるような罪ではなかったと思うばかりである。
悲しき名簿
史実がベースの作品。
どうやって単語帳を作っていくんだろうか、とハラハラ。
名簿からヒントを得て架空の言葉を教え続ける。
ペルシャ人が聞いたら意味不明なんだろうけど、それらしく聞こえるから不思議。
コッホさん、嫌味な上官役がめっちゃ適役。←褒めてます
最近観た「すべての見えない光」(ドラマ)でも見事な胸糞さに腹が立って仕方がなかった。
一人一人の名前を言うシーンは切なくなる。
語学をツールに生き抜いたユダヤ人青年の話
語学をツールに生き抜いたユダヤ人青年の話だが、語学の教師として架空の語学をどう作り上げていくかに興味があったせいで、ストーリーとしてはあまり感激しなかった。アルゼンチンの役者で、主役ナウエル・ペレ・ビスカヤーの演技は抜群で、彼の表情から恐怖感を感じるが、強制収容所の生活を映画などで知りすぎちゃったのかもしれないせいか、恐怖感もスリル感もなかった。『Inspired by a true story』と字幕に出たのでこのフレーズに違和感があり、観賞後調べたら、ドイツの作家Wolfgang KohlhaaseのErfindung einer Sprache を元にして脚本家が脚本を書いていると。Erfindung einer Sprache に感動し、脚本を映画にしたわけだが、Erfindung einer Sprache が本当の話か検索したがみつからなかった。Inspired(感動)したわけであるが、本当の話を映画にしたとは書いてない。屁理屈を言うようだが、本当の話に感動して脚色もあると言うことだ。
1942年フランスでと字幕に。
この作品では、ユダヤ人の名前の一部分をとって、それをペルシャ語に変えているようだが、幸運にも誰もペルシャ語を知らないから、これらの言葉が本当にペルシャ語かどうかもわからない。これは、ジル(ナウエル・ペレ・ビスカヤー)が収容されたユダヤ人の姓名を記録として書き写す仕事をしていて、その帳面に、定規をまっすぐ置いたところから、この案が出てきた。それもナチスのコッホ大佐(ラース・アイディンガー)が完璧主義で一糸乱れずするジルの書き取りのスキルが気に入ったからだ。それに、また、コッホ大佐がジルに鉛筆を与えなかったから、記憶力が磨かれたのだ。完全にこのペルシャ語にかえるメカニズムを理解していないが、Youだとするとこの変換 なら ドイツ語名前のKlaus の AUをとってペルシャ語のAUの音にしている。これらの作業から、ユダヤ人の二千八百四十人の名前を覚えてしまったのである。最後のシーンで一人一人のユダヤ人の名前を記憶から蘇えさせ、発音していくシーンは心に響いたよ。スープを配るとき、一人一人の名前を尋ねるシーンとダブったね。アントワープ出身でドイツ語とフランス語、フレミッシュ語のできる、主人公のジルは記憶がいいねえ。記憶ばかりでなく、言語を変化させて新しい言語を生み出すアイデアと才能に長けている。ルドヴィコ・ザメンホフたちのエスペラント語の考案のようなものかもしれない。それに、おかしいところはコッホ大佐は四角四面で細かいようだけど、数のスキルがいまいち。一日4単語覚えて、一週間で24単語だと。日曜日は休むからこれでいいけど。ジルに40単語を訳せと言ったときに39しかないよとジルが答える。そして、その後、『本当』という単語を加えて40にする。こんな会話をしながら、コッホ大佐は最初、嘘をついていたら殺すという勢いだったけど、だんだん、『ジルが本当のことを言ってるかどうか、まだ、わからないねえ...』のような調子になり、囚人に缶詰をあげる時も、誰にあげるか念を押して聞かなかった。いいシーンだね。
圧巻はコッホ大佐が自分の身の上話(貧しく、夢にまで食べ物が出て、料理人になる道を選んだ)をジルにするところだ。これはジルに心を許し始めている証拠。じかし、逆に、ジルは自分も殺されると言う恐怖を超えて、自分一人が助かっていくが目に見えてわかるから、心が重くなっていく。スープを給仕してあげて名前を尋ねているがそれらのユダヤ人が一人一人消えていくのだから。そして収容所は空になって、また、他のユダヤ人が入ってくる。
圧巻の圧巻はジルがイタリアからの唖者の人にジャケットをあげ、ナチ強制収容所のバッジのあるジャケットをきて射殺されようとしその群衆の中に入っていくシーンから。コッホ大佐がジルを見つけつまみ出し...そこでの会話だ。ここではすでに、ジルはなんでも言える存在になっているより、殺される構えができている瞬間だ。だから下記の会話が存在する。この二人の関係を数字10で例えるなら、ジルの方が9くらいの力をもう持っている。コッホ大佐はジルとの会話(下記)で、1になっている。大佐の今までの権力も迫力よりもジルの方が優っている会話だ。『No. You just make sure that the murderers eat well.』がその意味をより明らかにしている。パワーのある言葉だ。
(会話を意訳した)
大佐:唖者を自分の命と引き換えにするのか?唖者のために、なもなき連中と(nameless Horde)一緒に死ぬのか?
ジル:ただ、名前がないだけだ。大佐は彼らの名前を知らないんだよ。彼らは大佐とおんなじなんだよ、(おんなじ人間)少なくても、殺し屋じゃないよ。
大佐:私は誰も殺してはいない。大佐は殺し屋たちを食べられるようにしているよ。No. You just make sure that the murderers eat well.
名もなきユダヤ人たちへ
このホロコースト映画は、おそらくラストのオチありきで組み立てられた作品だろう。ユダヤ人強制収容所でナチス親衛隊将校たちに美食を提供するコッホ大尉が、いくらペルシア語を学ぶためとはいえ、なぜあれほどまでにユダヤ人青年ジルを躍起になって守ろうとしたのだろう。テヘランに移住した兄と和解するためというのは口実で、当初からナチスドイツ戦局不利を予想していて、チャンスあらばテヘランにいつでも逃亡できる計画を予め立てていたからではないだろうか。
ユダヤ人収容者の名前と偽ペルシャ語の単語を結びつけ、2840語という途方もない架空単語を作り出し記憶したユダヤ人青年ジル。その言語能力の高さもさることながら、発話障害のあるイタリア系ユダヤ人の身代わりになろうとしたジルの精神的疲労が、相当のレベルに達していたことが伝わって来る映画なのである。偽ペルシャ語がいつバレるとも知れない恐怖にビクビクするよりも、いっそのこと“話すことができない”人間になってそのまま死んでしまった方がかえって楽になれるんじゃないのか。ユダヤ人青年にとっての収容所生活はそれほど地獄だったのだろう。
目をつけられた伍長に度重なる暴行を加えられ生死の境をさまようジル。その時ジルは無意識下で偽言語によるうわ言を繰り返すのである。「お母さんの家に帰りたい....」その言葉の意味はコッホ大尉にのみ通じる“暗号”となって、ジルの命をも奇跡的に救うことになるのである。一時は“ラージ”の記憶違いでコッホに疑われたジルではあったが、“スモール”所長の陰口が仇となって前線収容所に飛ばされる尻軽女班長とは対照的に、見事特権を回復するのである。
ナチスが退却する時に収容所のユダヤ人名簿を全て焼き捨てさせたのは有名な話だが、もし仮にペルシャ語教師兼名簿作成係に主人公が任命されさえすれば“その名”を思い出して、この現代に再び甦らせることができるのではないか。本作の原作者ヴォルフガング・コールハーゼは、ナチスに無惨にも殺されていった〈名もなきユダヤ人〉たちに“名前を与える”架空のシナリオによって、そこに鎮魂の意をこめたのだろう。
もう一人の主役、コッホ大尉
ナチスの虐殺から逃れる為に自らをペルシャ人と偽り、知りもしないペルシャ語の個人授業に励む主人公の苦悩を描く物語。
独創的で興味深い作品でした。
他のナチス物と比較して、収容所の描写が少し独特。残虐なシーンは勿論あるのですが、ドイツ人兵士達の生活や人間模様をしっかりと描いているのは興味深く感じました。
主人公の苦悩の描写も秀逸です。中盤迄は生き残る為にペルシャ人を、ペルシャ語をどうやって偽装するかを四苦八苦。後半は、虐殺される運命の同胞たちに対して、自らの待遇に対する自己嫌悪に悩む主人公を活写します。
この作品は、ペルシャ語の生徒役になるコッホ大尉をどのように描くか・・・が鍵だったように思います。不幸な生い立ち。意気軒高で威勢の良いナチスになんとなく入党し、そして大尉に迄昇進。ナチスを嫌悪した兄との別離を悔やみ、平和の詩を紡ぎ、人を殺していない・・・と叫ぶコッホ。
彼と主人公の友情を描くのか、或はあくまでナチス将校として憎悪の対象として描くのか・・・それが中途半端になってしまったように思います。
どちらかに寄せてもらえたら、よりカタルシスを得られたかもしれませんし、或は、よりを儚さを得られたかもしれません。
どちらにも寄せられなかったラストは、ある意味リアルではあるのでしょうが、映画としては少し損をしたように感じられました。
私的評価は4にしました。
ナチスの普通の人間模様
ナチスに処刑されるところだったジルは、自分はペルシャ人と偽り難を逃れる。しかしナチスのコッホ大尉に、ペルシャ語を教えることになってしまう。ジルは偽のペルシャ語を作り教えて、自分も必死で記憶する。マックス兵長は彼を疑い。
収容者の名前をもじって、単語を作り出していたジル。それがラストの感動につながりました。いくつかハッとするシーンがあり、ハラハラするところは幾多のホロコースト映画と同様。しかしナチス内部の、普通の人間模様が描かれていたのが特異でした。
ナチスとユダヤ人虐殺の新たなドラマ
実話を元にした映画。もう、ドイツのユダヤ人虐殺だけでもまた新たなドラマが。悲惨な時代のひとつの場所でもいろんなドラマが次から次へと。全ての戦争を思えばまだまだ知られていない事実は山のようにあるんだろうな。
今作は生き延びるために咄嗟についた嘘、自分はペルシャ人だと。ペルシャ語を話せるようになりたい大尉に教えることになり、悪戦苦闘する話。
ジル、焦っただろうなあ。バレたら即殺されるだろうし、でも適当に言葉を作るなんて、至難の技。えんぴつもないから適当につくった言葉を書き留める事もできないし、毎日生きた心地しなかっただろう。そこで考えたのが、囚人の名前をペルシャ語の名詞に置き換えて言葉を作った。後にラストでそれが役にたって、ユダヤ人の名簿の作成に協力できた。大勢の名前を語るジルに驚く軍人たち。とてもラストへの持って行き方が上手い。
特殊な才能 ✕ 生への執着 ✕ 強運²
ユダヤ人青年が主人公。
ドイツ軍親衛隊(通称はSS)に殺害される直前に、
自分はペルシャ人だと咄嗟にウソをつく。
・2840人のフルネームを暗記するという藤井聡太並の記憶力。
・突然殺されそうになる、その時とっさに「オレはユダヤ人ではない。ペルシャ人だ」と叫べる生への執着心。
・ペルシャ語を学びたくてペルシャ人を探していたドイツ人将校の部下に捕まる超強運その1。
・自らの命を投げ売ってホンモノのペルシャ人を殺害してくれた仲間を持つという超強運その2。
実話にインスパイアされた、と最初にテロップが出るが、どこからどこまでが実話か、まったくわからない。
※ネットで読んだ監督のインタビューでも、取材者を煙に巻いていた。
原作小説のタイトルは『言語の発明』。
まさにそうなのだが、その″新言語″を、残虐さで知られたSSの将校に対してペルシャ語として教えてしまう。
それだけでも、いつバレるか、なかなかの緊張感なのだが、
ほかにも、
ペルシャ人を自称する主人公を執念深く疑い続ける兵士(マイヤー)と、彼を取り巻く二人の女性兵士(エルザとヤナ)、男性器が小さいとエルザにディスられたことを根に持ち、ソビエト戦線送りにする強制収容所長。。
すべての登場人物が、実に人間臭い。
本題からは逸れてしまうが、、、
ユダヤ人強制収容所を舞台にした映画である以上、
生と死の隣り合わせを描こうとしている以上、
残酷なシーンはなくせないかもしれない。
しかし、個人的には、無抵抗な一般市民がなにもできず殺される映像は見たくない。
そのような劇薬がなくとも、死と隣り合わせの恐怖は描写できるはず、だと思えてならない。
ナチスに射殺される寸前、自分はペルシャ人であると偽り、ナチスの将校...
ナチスに射殺される寸前、自分はペルシャ人であると偽り、ナチスの将校にペルシャ語を教えることで必死に生き延びようとする男。
でたらめなペルシャ語を創作し、教え、しかもその一語一語を自分自身が記憶しておかなければならない。
なんともスリリングな毎日だ。
ありもしない言語を教えられた将校は時間の無駄だったが、収容されている人たちの名前をヒントに言葉を創作し、結果的に2840人の名前を覚えていたというくだりはなかなかの感動だった。
強制収容所に配属されたどこか人間味のあるナチスドイツ
あらすじを読むとむしろミスタービーンズのようで面白おかしい感じがする。特にペルシャ語を教える将校や、そこで働いているドイツ人達は血の通った人間で、完璧でないが故に主人公は危機を逃れて命が助かったり。
でもやっぱり彼らは強制収容所で働けるし、大量殺戮を行なっていくのだ。むしろその事が怖かったりする。
ショーシャンクの空にを彷彿させる
2022年劇場鑑賞94本目 優秀作 73点
数少ない劇場の上映前予告で気になり劇場で鑑賞した洋画作品
結論、世間の評価通り凄く満足いく映画体験でした
冒頭の国籍で無差別に殺すのに林に運ばれる箱の中で偶然本と食料の交換をし、これが運命を変えるポイントになり、その後の生き延びるきっかけになる。今作のテーマが母国語以外の不自由な言語を使いもがいて光を見つけるみたいな感じなので、冒頭のそのシーンはその後を円滑に進めるのに必要な設定だけど、まあ取ってつけた感はあるし、他にアイデアをパッと浮かばないけど、何か無かったのかな〜
主人公がまるで自分のことのように等身大で、偽造した単語の暗記や毎日二十個だか三十個教えなきゃいけなかったり、日にちが経つにつれてボロが出ない様にしないといけなかったりと、ハラハラが止まらない
構造としてはまさしくショーシャンクの空なので良い比較になると思います
2023年7月末現在配信され始めたので気になる方は
是非
人が産み出しながら人をも超越する「言語」なる神
ナチスドイツによるホロコーストが進む二次大戦真っ只中、とあるユダヤ人の青年が銃殺寸前にまで追い込まれる。
しかし、彼は咄嗟の機転で「自分はペルシャ人だ!」とでまかせを叫び、そして運良くペルシャ語を習いたがっていたナチス大尉のコッホに言語教師として雇われることに。しかし、彼は偶然知っていた「Bawbaw(父)」という言葉以外のペルシャ語なんて知らないため、インチキ言語を創作し続ける命がけのレッスンを強いられることになる……!!
題材にユダヤ人大虐殺たるホロコーストを選んでいる時点で、物語のトーンは終始重めのシリアスではあるんですが、もうこのあらすじの時点で滅法面白いです。
いや、本当笑いごとではないんですけど、常に漂っている緊張感も相俟って、申し訳ないんだけど笑ってしまう……って場面は多いんですよ。
なんせ、この偽ペルシャ人のジルくん(ジルはペルシャ偽名で本名は“レザ”)生き残るために必死なあまり、意図せずして自分から追い込まれがちなんですもん……
「適当に単語ベラベラ喋っちゃったけど、これ俺も全部覚えなきゃいけないじゃねーか!!」
「あのドイツ人野郎、1日4語とか言ってたのに真面目だから40語も覚えやがった!!」
可哀想。
偽ペルシャ人のジルくん、そりゃ生き残るために必死なんですけど、生死の境目を飛び越えるために極めるのが「インチキ言語」ってギャップがやはり面白いんですよ。
そして、ジルくんが必死であるほどに、我々も彼を応援して物語により深く感情移入してしまう。この構図がよく出来ています。
コッホ大尉「そういや“木”って習ってなかったな。何て言うんだ?」
ジルくん「“ラージ”」
コッホ大尉「それは“パン”って意味じゃなかったか!?貴様、やはり嘘つきの豚野郎か!!」
ジルくん「ち…違いますゥ~!同音異義ってヤツですゥ~~~!!」
マジで大変……!!
コッホ大尉は正規の軍人ではなく、料理人として赴任しているってこともあってどこか妙に憎めない部分があるんですよね。ドイツ人らしい生真面目でキッチリした部分があるし、雇ったとはいえ所詮捕虜に過ぎない筈のジルくんも言語教師としての仕事を評価して向き合ってくれるし……
それはやがて奇妙な友情らしきものにまで発展します。
考えてみれば、このジルくんの「インチキ言語」って“世界でこの2人の間でだけ通じる言語”っていう特別で特大の関係性そのものなんですよね。
予告にもあるインチキ言語で得意気に詩を創るコッホ大尉と、それに対して「素敵です」と宣うジルくん。事情を知る端から見れば、とてつもなく滑稽な場面ではあるんですが、2人の間だけの共通言語という関係性を通して見ると、皮肉以上の“何か”は確かにあると思えちゃうんですよ。
ただ、結局はコッホ大尉も同胞を次々と殺すナチスの一味でしかない…ということも端々で突きつけてきます。
確かに大尉の本職は料理人であり、直接的な非道は働いていないんですよ。それでも迫害される側のジルくんに言わせれば「殺人者に食を提供している時点で立派な戦争犯罪者」です。
そもそも、コッホ大尉は本来なら戦争に関わらないことも可能な立場だったにも関わらず、自らナチを選んで士官しており、その時点で十分に虐殺に対する責任は問われる立場にあるわけです。
この複雑に捻じれた大尉との関係性のほかにも、同胞が次々死ぬ中で自分だけが言語教師として厚遇されることへの葛藤、遂に現れてしまった本物ペルシャ人への恐怖、激化の一途を辿る戦争……といった全てが絡み合っていくため、常にハラハラドキドキは続きます。
ジルくんもインチキ言語で切り抜けようとする胆力や、収容所の人々の名前に紐づけて単語を次々創作して覚えていく知能の高さを随所で示して鼻を明かしていくスタイルですが、同時にどこまでも善良で責任感がある好青年なため、重圧に押し潰されそうなところがひたすら辛い……
罪滅ぼしとしてイタリア人兄弟に親切にしたら、その恩返しに兄の方が本物ペルシャ人を殺してしまう展開なんかは、観ている側も胸を締め付けられる思いでいっぱいになりました。
そんなワケで面白いあらすじに見合ったレベルで、とにかく見どころに溢れまくりな作品なんですが、特に圧巻はラストに至る展開です。「一体どこに転がっていくんだ?」と最後までハラハラしていたら「もうこれしかない!」と納得しかないラストに転がりましたからね……
ところで皆さん、その圧巻のラストの話をする前に一つ質問をさせてください。
貴方は“神”の存在を信じますか?
いきなり何を怪しげな質問をしてるんだ…とお思いでしょうが聞いてください。
ここで僕が言う“神”というのは信仰的な意味合いは持ちません。人の手で産み出されながらも、人の手を離れて超越してしまった存在のことを指し示しています。
僕は「言語」がその“神”に該当する存在だと考えております。
古く聖書において、神の怒りによってバベルの塔と共にバラバラにされてしまった「言語」が神というのも皮肉な話ではあります。しかし、生物でないにも関わらず国や時代を超えて絶えず淘汰と進化を繰り返し続け、人々をその独自のルールの下に縛り付けるその在り方は“神”以外に形容のしようがないとも思うのです。
この「言語≒神」論を前提に置きつつ、話を映画に戻しましょう。
映画終盤、戦争も末期に差し掛かりナチスドイツの敗北が濃厚となる。ジルくんのいる捕虜収容所も放棄が決定され、非道な戦争犯罪の証拠書類と共に捕虜たちも次々と虐殺されてしまいます。
コッホ大尉もナチスを見限り、収容所を捨てるどさくさに紛れて、以前より準備を進めていたペルシャへの亡命を決行。しかし、大尉は逃亡の折にジルくんも連れていき、そしてペルシャ語を教えてくれた感謝を述べながら解放してくれるのです。
それはもうリスク承知の義理堅さによる行動であり、大尉にとってジルくんとの友情は“本物”であったという何よりの証左でした。
この一連の流れで、第三者である観賞者からしても、大尉に対する感情が変わっちゃうんですよね。
自らの意志で虐殺に加担した戦争犯罪者ではあるけれど、助かってしまってもいいんじゃあないか?と……
しかし、結果は明白でした。
大尉は亡命先で話す言語がインチキペルシャ語であるため、正体がすぐにバレて捕まってしまう。誰にも通じないインチキ言語をがなり立てながら、惨めに、ワケもわからないまま連行されるという末路を遂げます。
一方、ジルくんはというと、連合国に無事保護され、逃亡に成功します。
その際、ナチスに焼却されたユダヤ人の同胞の名前が記された名簿の情報が知らないかと問われるのですが、彼はそこで2000を超えるインチキペルシャ語の語源である収容所の人々の名前を次々と伝えて驚かれるのです。
この瞬間、ジルくんと大尉の間のみで通じ合っていたインチキペルシャ語の“関係性”は破棄され、名前を失った無辜の民の無念を伝える“記録”という新たな意味がもたらされます。
この瞬間、我々は悟るのです。
大尉は「言語」によって裁かれ、ジルは「言語」によって救済をもたらした……と。
これはもう言語たる神による「神託」に等しい結論なんですよ。
神たるものの裁定であるが故に、我々が感情を差し挟む余地は微塵もなく、ただひたすらに納得するしかない。
まさかインチキペルシャ語にここまで「意味」と、明暗分かれたクライマックスに対する「説得力」を持たせてくるとは……終盤は本当に脱帽しきりでした。マジでスゲェ……
ナチスは価値観が狂ってるだけで、普通の人なんだと思った。 恋の話も...
ナチスは価値観が狂ってるだけで、普通の人なんだと思った。
恋の話もするし、密告もするし、真面目だし、優しいし、ピクニックを楽しむし。
こんな人たちが、平気で人を殺せるのが、人をゴミのように扱うのが、怖かった。
一歩間違えてたら、この人たちと友達になれてたかもしれない。
主人公はどうやって造語を覚えたのだろう。
人の名前を使って言葉を作り出したとしても覚えられる量ではないだろうに。
そこがピンと来なかった。
イタリア人がイギリス空軍のペルシャ人を殺したのは、戦争で関係が悪かったからとかかな。
嘘のペルシャ語がバレることにハラハラするだけの映画ならキツいと思ったが、そういうストーリーではなかったので良かった。
最後のシーンで主人公が名前をたくさん言えるのに感動的な音楽をつけていたが、うーん、唐突すぎて、ちょっと感動が空回り。
生き延びるために紡いだものは?
見事な物語です。それはそれは見事なラストに結実していく素晴らしいドラマでした。
イタリア人兄弟捕虜が絡むエピソードだけはちょっと首を捻ってしまいましたが、それ以外には文句のつけようがなかったですね。
ホロコーストを題材にした作品は多くありますが、その中でもかなり異色な作品ではないでしょうか?短編小説に着想し作られ、「実話に基づく」とクレジットされていますが、実話部分をパッチワーク的に使っているんじゃないかなぁ?って思います、あくまで想像ですが。お話はなかなかの奇抜さを見せてくれます。奇抜ではあるものの、「あぁ、あるかもなぁ」って気分になってどんどん引き込まれていくんです、不思議ですが。
「嘘だろう!」って言いたくなるような物語なんですが、ホロコーストの日常、ナチスドイツ軍の日常が妙に人間臭く、リアリティがあることとサスペンスタッチで展開することが相まって引き込まれちゃったのかもしれません。綿密な取材も重ねたようですしね。
主人公はもちろん余裕がありませんから自分が生き抜くために必死です。死に物狂いで生を見出します。ですが、彼が最終的に行き着いた心情が一体なんだったのか?彼が生き抜くために紡いできたものはなんだったのか?そして「紡いできたそれら」が最後にもたらすものはなんだったのか?ラストを見て、そこに大きな大きな制作側のメッセージがあるように思えてしかたないのです。
人が居たから、生きていたからこそ歴史は作られ、紡がれ、継がれていくのだと。決して無かったことにもできないのです。背負っていくものなのです。爽やかな感じもありつつ、重い、それは重い問いかけをしてくれる作品だと思います。
自分だったらそこまでやれない
自分だったら、嘘をつき続けることを諦めて、早々に運命に任せるだろう。この主人公も、ちょうど半分の時点で強い疑いを向けられ、そこで終わりかと思った。女性兵士の思惑も、どこで影響するのかわかったものではない。一人だけ優遇されるようになり、仲間に食糧を分けてやる様は、『アウシュビッツのチャンピオン』に似た感じを受けた。最後の危機にも、助けた者から助け返されるとは、思いもしなかった。生き延びて、犠牲者たちの名前を伝えることができたのは、確かに『アウシュヴィッツ・レポート』にも匹敵する。助命した大尉が報われなかったのは、加害側として仕方ないところかな。
緊張感ハンパない
ここまで緊張してみた映画は久しぶりというかそうそうない。
あまりに息を詰めていて、鑑賞中に何度かハァーと息を吐いた。それぐらい主人公と緊張を共にした。
事実を基にしたというよりは着想を得たという話のようです。ナチス収容所モノは何本観ても辛い憎らしい事実なのですが、1人でも生き延びた人の話は一筋の光。
偽ペルシャ語の語源
製作陣を見てほしい。ドイツ・ロシア・ベラルーシ合作、監督はウクライナ出身。政治的には今やあり得ないチームが、喜劇とも悲劇ともつかないホロコースト映画を作った。まことに歴史は変化するもので、決して一面では語れない。敵は敵のままでなく、味方も味方のままではない。
もちろんナチスの行為は永遠に正当化されることはないだろうが、この映画は、ナチスにいた人間をきちんと人間らしく描いている。彼らもささやかな希望を持った普通の人間であり、だからこそ普通の人間が大罪に加担してしまう怖さを考えさせられる。
コッホ大尉も、生き延びてほしいと願わずにいられない愛すべき人物だった。貧しい育ちで教養もなく当然ペルシャ語はおろか外国語習得の経験もないのだろう。ジルをペルシャ人と信じることで希望にしがみついているのだ。
一方、ペルシャ人を装うジルの、生か死かの綱渡りの展開にはハラハラさせられるものの、彼の事情がユダヤ人ということ以外まったくわからない(見逃しか?)ため、コッホほど感情移入ができない。それでも次第に自分の特権的立場がつらくなり仲間を助けるに至る姿は見る者に希望をくれる。地獄のなかにあって身を捨てて善を行う、これも人間の一面と信じたい。
でまかせのペルシャ語の語源となった数千の名前をそらんじるラストは感動的。その名を持っていたひとりひとりの生の重みが余韻となっていつまでも胸に響く。
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