「救いの糸は切れない」ファミリア グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
救いの糸は切れない
痛切。
そうとしか言いようのない映画でした。
そんなことがあって欲しくない、起きて欲しくもない、だけど、現実には世界のどこにでもあるし、もしかしたら、あなたの家族に関わるほど身近で起きるかもしれない。
客観的な立場にいたら、自分だってきっとこう言ってます。というか、それしか言えない気がします。
「まずは落ち着いてください」
では、あなたが当事者だったら、どうしますか?
①逆恨みだろうが、なんだろうが、怒りの矛先を見つけて攻撃する(海斗の場合)
②不確かな情報であっても一縷の望みを抱き、自分のできることで何とかなるかもしれないと縋る(誠治の場合)
③絶望して自殺する、もしくは返り討ちで死ぬことを前提の反撃に出る(マルコスの場合)
現実の社会ではどれも難しいし、もし実行できたとしても解決することはほとんどないし、そのことで癒やされることもない。
映画的な決着としては、主人公の犠牲的行動で、一定の救いと希望がもたらされたが、脅しによる証言は裁判の上での信憑は得られないだろうし、犯した罪に見合うほどの懲罰は受けない可能性もある。
なので、誠治のような犠牲的行動も、現実味が薄いし、この映画も決してそのような行動を美化したり、容認しているわけでもない(と思う、たぶん)。
理不尽な出来事がもたらした不幸が、次の理不尽のきっかけ(例えば、被害者側から逆恨みによって加害者側に回る、というようなこと)にならないこと。
そのためには、自分ができる範囲で、誰かに救いの手を差し伸べること。
とここまで書いていたら、中島みゆきさんの『倒木の敗者復活戦』の歌詞の一部を思い出しました。
望みの糸は切れても
救いの糸は切れない
生きていてくれ、という願いは叶わなくても、誰かを救うことで、自分もまた救われることもある。
そういうことだと解釈しています。
コメントありがとうございます。
誰かを救うことで、その縁が自分を救うこともある。たとえ国籍が違っても、そんな絆から家族と呼べる関係になり得るのだと納得させられる物語でした。
美紅さん、コメントありがとうございます。
結果的には暴力の形になってしまった人たちも、元々は純粋な家族愛から、ということもあるんですよね。
我々の住む社会が、迷ってる人がいたら誰かが別の道に導く手伝い(救い)をしてくれる社会であって欲しいと思います。
ブラジル人のマルコスが
父親役の役所広司さんに亡くなったお父さんの姿を重ねて見ているように見えました。そして学さんの代わりに焼き物をしようとする場面がラストにありました。
家族を失った深い悲しみが表現されていました。