The Son 息子のレビュー・感想・評価
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身も蓋もないことを言います‥
子供が気づくところに銃を置くなぁぁぁ〜
感動系のドラマかと思って見たのですが、重い‥重すぎる‥トラウマ映画のジャンルでしょうか。
見終わって気分爽快とはいきませんでしたがインパクトがあったので★4です。先が気になり、集中して見ることができました。
鑑賞動機:『ファーザー』10割
猟銃の話が出た時点で嫌な予感はしていた。
ニコラスに対して「何がそんなに辛いのか説明してくれ!」とピーターと同様に苛立ってしまうのは、わかりやすい答え/原因を求めてしまっているからだろうか。「わからない」を理解するのはむずかしいけど。
選択したことの責任をこの先ずっと背負い続けなくてはいけないのだね。
重たい作品を立て続けに観てちょっと疲れた…。
もっと早く
この父親は死ぬまで、自分が妻と別れなければ、息子は死ななかったかもしれないと、ずっと
後悔して生きていくように思われた。
息子の心と身体に偏りがちな部分があるにしても、愛情たっぷりの両親が揃う家庭で育っていれば、逸れたり偏ったにしても頼もしい親の愛で軌道修正できただろう、と。
彼にとって母では駄目なのである。
父親でないと。だのに、父親は出て行った。
全て経験、過ぎないとわからない。事前には想像もつかず、ありふれた両親息子家族としてしか映らない。
父の元に行く為のスーツケースに息子が入れていたもの、幼い頃から愛して抱いていたぬいぐるみ🧸である。こんな息子だ❗️
父は、妻子がいるにもかかわらず若い女性に心惹かれ妻子を捨てた。
妻も息子も心が引き裂かれ辛い日々を送る。
妻はどうにか立ち直った体は保っているが、
息子は、取り返しのつかないところまで来てしまったようだ。
稀な難しい癌が発見されたり自覚症状が出たらもう手遅れ、と同じだ。
父が息子に関心抱き心配し始めたのは、遅すぎる。
愛では力不足
出世のチャンスを棒に振ってでも息子に寄り添おうとしたピーターは、悪い父親ではない。
しかし、目の前に座らせ、腰を据えて、「聞かせろ」と、あまりに真正面から対峙してしまう。
あれで話せる息子はそういない。
恐らく自身が“成功者”であることが、あの対応にさせてしまったのだろう。
そもそもニコラスは、言葉通り自身の“絶望”の原因が「分からない」のだ。
故に性急に出口を求めることは不可能なのだが、「前の学校で何かあった」などと明確な問題があると思い込む。
自分も今では『理解度』や『貢献度』といった実利でなく、『愛情』という中身で量ることが出来る。
だが、17歳の若者にそれを求められるはずもない。
ピーターもケイトもベスも、誰一人悪意などないのに、ひたすらにすれ違ってしまうのが哀しい。
父を反面教師としていたはずのピーターも、結局は「自分の人生だ」と言う。
優しく繊細なニコラスだからこそ、社会的にも精神的にも“強い”父との差に絶望を深めたかもしれない。
病院で、息子の目の前で判断を迫られたら、そりゃ連れ帰ってしまうし、むしろよく一旦断れたと思う。
ダンスやシリアルの投げ合い、そして最後に家族が揃ったときの笑顔に嘘はないだろう。
でもそれすら自身の闇を祓ってくれないことや、絶望との落差がよりニコラスを苛んだのでは。
愛の素晴らしさを謳った作品は溢れているが、愛の無力さを描く作品は稀で、しかし必要だとも感じた。
親というのは誰かの子どもでもあるという連鎖の中で、、、
いわゆる勝ち組・マッチョな思考をする父親。息子に対し一時的にシンパシーを感じることはある。しかし、関係性を俯瞰して理解するエンパシーを欠いている。職業が弁護士ということも示唆的だ。ロジカルな戦略と実行で成功してきた。自らの父親によって封印されてきたのだろうか、人としての揺らぎとか、思春期特有の実存的危機に全く無頓着。
「(君は息子の)悪いほうばかり見る」と非難された現在の妻から「悪いところをちっとも見ないあなたの方がもっと悪い」みたいに言い返されるところは白眉だった。息子の訴えに対しても図らずも「イッツマイライフ!」と漏らしてしまったところと共に。
救いは、ない。否、救いと見せてくれた「妄想」があった。
「ファーザー」の時も感心したけどこの監督、舞台としての室内のしつらえ(美術・小物)が示唆的でリアリティもあって素晴らしい。見ていて退屈するところがなかった。
ラストの悲劇はもう見え見えだったので、逆にビクビクさせられて、それはそれでエキサイティングだった。
父の息子が息子を
自分には必要ないと言いながら手放さなかった猟銃は「父の息子であること」の象徴。父親に反感を抱きつつも手放さなかった父の息子である生き方が、自身の息子を追い詰めてしまう。
繊細で賢い息子だったのに、、、と後悔の中で見る白昼夢にも、文筆で成功しガールフレンドがいて…と"誇らしい息子"であることを望んでるのがそーゆーとこ〜。
展開はびっくりするぐらい全て読めたけど、俳優陣の強さと雰囲気ある撮影でいい感じの映画になっていました!
息子が染谷将太に見えてくる・・・
家庭を顧みず全国を飛び回っていた実父(アンソニー・ホプキンス)のDNAを継いでしまったかのような父親ピーター。自分では二度と同じ轍は踏まないように心がけ、苦学の末に敏腕弁護士として活躍するに至った。しかし、前妻と息子ニコラスを捨て、新しい妻との生活を始め、新たな息子セオが誕生していた。「どう生きるのか?」
劇中会話の中では「abondon」という言葉が頻繁に使われます。高校時代英単語を覚えるために色んな参考書を買ってみたりするのですが、その中で○○連想記憶術なる本の最初に出てくるのがabondon=捨てる。覚え方は「あ、晩だと勉強捨てる」。もう最初から勉強する気無しの覚え方ですね・・・ちなみに次に覚えたのが「あの胃に悩まされる」。もうギャグでしかありません!annoyという単語が出てきたら、つい「胃」だったかなぁ~などと悩まされてしまいます。
実際は浮気に端を発してベスと再婚したんでしょうけど、息子からすれば母も自分も父に捨てられたと感じたに違いない。弁護士として大成した父を尊敬はしてるけど、どこかで憎んでいる部分もある。そんなニコラスがピーター家族の新生活に乗り込んでくるのだ。これを受入れたベス。いい人だ。しかし、ついニコラスの視線が気持ち悪いとかピーターに相談している会話を彼に聞かれてしまった・・・
リストカットも何度かやっていたニコラス。ついにピーターの家庭の中でもやってしまい、大騒ぎ。入院したほうがいいと医師に告げられるものの、夫婦がサインをすれば退院できると言われ、後者を選んでしまった。愛があれば克服できる!
重いうつ病。やはり周囲が本音を理解するのは難しい。その対処さえ誤ってしまえば悲劇に見舞われるのだ。終盤の銃声には驚愕のひと言。直前の会話ではそんな素振りさえなかったのだから、衝動を抑えていたんですね。メル・ギブソン主演の『それでも、愛してる』以来の衝撃でした。
エンドロール後のテロップにはハイティーンの自殺に関する文が載っていました。悩みを気づいてあげること、医者にかかるように勧めること、考えさせられました。尚、英語がわかりやすいので勉強になるかも。
いっそ愛していなければ…
子どもは簡単に親を嫌いになれないし、何があっても何をされても、諦められないのだとまた思わされた。決して愛されていないわけではない、それだけにどうしても苦しくて切なかった。
ニコラスの鬱状態のきっかけになった両親の離婚、多忙で家庭を顧みないピーターの父親、そんな親なら世の中に腐るほどいると思う人もいるだろうが、何だってそれが死ぬほど辛い人もいるし、気にしない、気にならない人もいる。
両親の不仲というのは経験したことのない人には決して理解出来ない痛みだと思う。ピーターが家を出て行った後に、母親が毎日悪口ばかりだったのを「半分に引き裂かれるみたいだ。」と言ったニコラスの言葉と表情が重過ぎて辛かった。
片方がもう一方を悪く言うとき、自分は両親の子だから、まるで大好きな人に大好きな自分のもう半分を否定されたようで、心臓が痛くて苦しいのだ。と私は感じた。
ピーターを何も見えていない馬鹿な親だと言ってしまえばそうなのかもしれない。見たいものだけを見て楽観的で自分勝手。でもピーターは、決してなりたくない父親像があって、彼なりに理想の父親であろうと苦心しているようにも見えた。父親も母親もそれが間違えていて、3人で常にすれ違っていることがまた切ないと言うかなんと言うか。
最後に退院して3人で過ごした時間のニコラスに嘘はなかったと思う。両親が揃って笑うだけで彼にとっては夢みたいだっただろう。もうとっくに絶望しているはずなのに、どうしてもどこかで信じそうになるニコラスを見続けるのが苦しかった。彼自身もそれをやめたかったのではないだろうか。
いっそ愛していなければ、愛されていなければと元も子もない事しか考えられないほど救われないラストに、終わってからもしばらく席で呆然とした。
「親だって人間だもんな。」というのび太の名言を思い出してしまった。
自分が親になった時には全然違う視点で観られそうだ。それこそ辛過ぎて無理かもしれないけれど。
自分のためにレビューします
キャストにはメジャーな俳優陣が揃っているし、どちらかというと軽めな気持ちでの鑑賞機会だったが、結果として非常に考えさせられる内容の映画だった。
大切なことを教えられた気がする。
忘れたくないのでレビューしたい。
一筋縄ではないこの社会。
幸せなことも辛いこともある。
人それぞれが設定した多種多様な幸せに近づくため、
辛い物事には大なり小なり自らの精神を犠牲(ガマン)にして【乗り越える】のだ。
その意味で劇中のグランパの考えは正しい。
それらの集合が人間社会だ。
分かっている。
では社会のなかで形成される「家族」、
特に、子にとって親とは何なのだ。
(逆に親による子の意味合いは常に明白、愛だ)
その答えは、私も知っていたはず。
ただ、大人になり概念が深まった反面、
動物的な意味によるその答えを忘れてしまっていた。
この物語が伝えたかったのはきっと、
子にとって
父親は精神なのだ。
母親は生命なのだ。
ということではないか。
ヒトが人間である以上、
精神と生命はワンセットであるはずだ。
ボートに戻るため海で浮き輪なしで初めて泳ぐシーン。
海で溺れたら生命にかかわる。
それは幼い子供でも理解している。
それを乗り越える精神を伝えた父親。
なるほど、子にとって父は精神性の鑑なのだ。
やがて、、
幼い未熟な心ゆえ、
両親の別れを引き鉄に精神と生命が分裂してしまい、
人間としての自分をコントロールできなくなってしまった子。
家族3人は皆それを理解できない。
ただし当人=子がなぜ社会活動ができないのかメッセージしていた。
「わからない」と。
これは嘘ではなかったのだね。
悲しいことに社会的に成功している両親には理解できない。
これが唯々哀しい…
医師は分かっていた。
生命が失われるリスクを。
しかし際どい線で「理性的に」愛の可能性を選択した親。
愛は精神のかたちなのか?
愛が失われるリスクを選択しない両親。
子は親が理解してくれたことに感謝した。
(親はそれを理解していない)
子は精神と生命が繋がった瞬間、きっと
人間としてその瞬間を失いたくなかったのだ。
その幸せを享受し続けたかったのだ。
ふたたび精神と生命が分裂することをおそれたのだ。
… 落涙だ
心が揺さぶられる。
何という映画か。
素晴らしい鑑賞であった。
それでも生き続ける。
重厚な人間ドラマであるとともに秀逸なサイコスリラーの面も兼ね備えている。前作の「ファーザー」も一種ホラー映画と揶揄されたが、本作を観てこの監督は確信犯だと思った。
まさにイギリス版積み木崩しといえようか。
とにかく情緒不安定の息子ニコラスが離婚した父ピーターの家に来てからの展開は正直サイコスリラー要素が強い。生まれたばかりの弟セオと母から父を奪った新妻ベスとの同居生活はいつニコラスが何かしでかすかと緊張感が一切途切れない。ちなみに終盤の銃声に関しては観客の多くは聞こえる前に身構えしたのではないか。
ただ、やはり本作は人間ドラマの要素がメイン。子育てに正解はないというが、明らかに父ピーターのニコラスに対する接し方に問題はあった。表面的にしか息子を見ておらず息子の心の奥底まで触れようとはしなかった。だからこそ上辺だけ取り繕ってるニコラスの態度を見抜くことができなかった。これは多忙だからでは言い訳にはならないだろう。
ピーターは家庭を一切顧みなかった父を憎みそれをばねにして生きてきた人間。自分の息子も同じ様に強い人間だと思いたかった。フランス人インターンの彼と息子を重ね合わせてもいた。しかしいくら親子であっても人はそれぞれ違う生き物だ。
ピーターは自分は父とは違うと思いながらも、やはりニコラスに対して父と同じ接し方をしてしまった。
この連鎖を彼は止めたかった。何とか息子を自分の手で立ち直らせて自分は父とは違うのだと証明したかった。
しかし、結末は不幸なものとなる。正直、医者が正しかったのか、ピーターたちが間違っていたのかはわからない。ただ、最後の最後で元の三人家族に戻れたことをニコラスが喜んでいたことだけは確かだろう。
息子を救うことが出来ず自責の念に駆られるピーター。その彼にそれでもあなたは生き続ける、セオのためにとベスは言う。絶望の中の一縷の希望。ピーターは二度と同じ過ちを繰り返さないだろう。
思春期+○○=地獄ですな
妻子を捨てて愛人に走り子供を儲けたヒュー・ジャックマン(役名忘れた)の元に思春期真っ盛りの息子が学校行ってないと捨てた前妻が訪ねてきーの、件の息子クンは苦しい苦しい言う割に具体的な原因を言い出せず自分を捨てた父と愛人+腹違い弟家庭に転がりこむも、、、。
急性虫垂炎じゃなくて、急性鬱ってあんのね?
ただでさえ不安定な思春期に加えて急性鬱ってそらーあーもなるわなーと。
最後、ハッピーエンドと思わせつつガッツリ強烈な心の傷を負わされてむせび泣くヒュー・ジャックマン(役名忘れた)に後妻のベス(役名覚えてたw)がそれでも人生はつづくんだからと(オメーも鬱息子キモイとか盗人呼ばわりしてたよな?たしか?)他人事みたく慰めてるシーンに女という生き物の罪深さを味わったw
それぞれの立場によって見方は変わるだろう。
何よりも悲しい結末に父親の無念さは残り続けるのだろう、と思うと切ない。あの時こうしておけば、何度も思い直しては違う結末を願ってしまう。これは観る方もそれぞれの立場によって意見が変わるだろうと思う。母親の立場、父親の立場、息子の立場、新しい妻の立場。わたしは父親の不倫が重きをおく問題のように見えたとしても、それは一つの素因でしかないように思う。
この時期の思春期の子が病に侵されれば、失恋、友人との相違、進路、親との価値観、性に関してなどなど…あらゆることが発端になって発症してしまう。親や環境のせいにすることは簡単だけど、避けられない事態が起こることも人生にはあるのだから。しいて言うならば、私は医療者として「あの対応」はないのではないか?と疑問をもってしまったな。
親に説明を促す時にも、本場の精神科医はあそこまで「感情的」にはならない。あんな風に答えを性急にすることも不自然。信頼関係ない状態で大切な決断をせまらなければならないのであれば、もっと姿勢を低く、穏やかに話し合いに臨むだろう。目の前であんな風に息子を連れ去られれば、どんな親だってああいう決断をするだろうと悔やまれてならない。
「大丈夫」は大丈夫じゃない
The Son 息子
① 「大丈夫」は大丈夫じゃない
② 「大丈夫」と言う理由 ...父の場合 → 自己中心的な親の姿、社会的成功
③ 「大丈夫」と言う息子 →観客を安心させるために、映画も嘘をつく
誰かがあなたのことを心配して「大丈夫?」と声をかけてくれた時、本当は大丈夫ではないのに、「大丈夫」と返答した経験はありませんか?
何か問題を抱えていても、私たちは「大丈夫」と返事をすることによって、他者と自己との間に一線を引きます。あるいは、「外」と「内」との間に線を引くこと。壁を作ること。
私たちが「大丈夫」と嘘をつくのは、問題を自分でコントロールしたいから。あるいは、問題をコントロールできていることを示すため、という意味合いがあるでしょう。
「大丈夫ですか?」と心配している側は、「何か問題があるのか?」「どんな問題が発生しているのか?」「自分にできることはないだろうか?」といった純粋な善意から尋ねています。
一方、「大丈夫」と答える側の心理としては、「あなたの手を借りる必要はない」「あなたの手を煩わせる必要はない」「あなたに問題の存在を知られたくない」といった意図が見え隠れします。
「大丈夫」と返答するのは、本当に「大丈夫だから」なのではありません。
自分で問題をコントロールしたいという意思や、あるいは問題を共有したり相談したりする意思の表れなのです。
(複数人である問題について話し合っている時、無関係な第三者が「大丈夫?」と話しかけてきた時、「大丈夫」と返答して、話し合いに戻る、という経験もきっとありますよね?)
・・・・
誰と問題を共有するのか。自分1人で問題をコントロールするのか。他者には頼らないのか。他者に頼れないほどに追い詰められているのか。
「大丈夫」という返答ひとつで、「その人は今誰に心を開いているのか」それとも「誰かに頼れないほど追い詰められているのか」という心理を察知することができます。
・・・・
ヒュー・ジャックマン演ずる父親が、家庭に問題を抱えているにもかかわらず「大丈夫」だと応えるのは、家庭の「外」の世界に浸っていたいからです。
彼は、大統領選に出馬する議員から、選対チームの参謀という仕事をオファーされています。
彼は弁護士として優秀さを示してきましたし、その姿を世間に示し続ける必要があります。そうすることが彼の生きていくすべだからです。
それは単に「生活のために必要な最低限の賃金を稼ぐ」という枠を超えて、彼の社会的成功という「+α」の領域にまで及んでいます。
彼は「自分の成功」という欲を生きがいとしており、弁護士として得られる利益を守り、さらなる仕事を獲得するために生きています。
(その結果、家庭を犠牲にしているのですが、その姿は、『ゴッドファーザー』を彷彿とさせます。主人公マイケルは、家族を守るためにマフィアのボスとなりますが、敵と戦い、自らの名誉や利益を守るうちに、いつの間にか家族を犠牲にし、孤独を深めていきました。最初は父を守り、汚職警官と戦っていたのですが、地位を手に入れた彼は"ファミリー"を守っていたはずなのに、いつの間にか本当の家族を傷つけていたのです)
弁護士としてやりがいのある仕事に、高額な報酬。社会的な成功。世間からの評判。安定した地位。「いい人だ」と思われたい。そういった「+α」を守るために、彼は、息子に問題があることを隠して、「大丈夫だ」と世間にアピールするのです。
家庭に問題を抱えていることがわかったら、「あの人、本当に大丈夫なの?」「家庭のことを無視して仕事をしているの?」「仕事をしている場合なの?」という指摘に耐えることができません。
彼の生きがいである仕事と報酬を守るために、彼は「問題がないフリ」をしなけれなならないのです。
しかし、「問題がないフリ」をして仕事を継続することは、本当に問題が存在していないかのように振る舞うことにつながり、彼は問題と向き合う機会を逸してしまうのです。
(出産・育児と仕事の両立の困難さとも共通点がありますね。性別役割分業が徹底された社会・共同体においては、子供の問題は女性に一任されますが、男性は仕事に集中できる反面、育児を放棄し、それが理由で家庭内における立場を失う、という姿がよく見られました。「本当は子供の面倒を見たいのに、仕事が大変だから子供と向き合う時間がない」という人もいるのでしょうが、「男性は子供の面倒を見ることを免除する」という役割に甘えて楽をしているだけの場合もあるのです。)
男性である主人公は、自らの利益を守るため、家庭の問題が存在しないフリをします。
このような行動の背後には、「競争社会において一度存在感をなくしてしまうと仕事が回ってこないかもしれない」というリスク管理の側面があります。
家庭の問題と両立するために小さな仕事を継続する、というライフスタイルもあり得るのですが...
現在の社会は、共働きを前提とし、家事・育児を分担するor役割分担をそれぞれの忙しさに応じて負担する、という、個々人の事情に応じて最適化されたあり方を推奨する方向へと転換を図っています。
彼が大統領選のチームに所属したまま息子の問題にも向き合う、というライフスタイルもあり得たと思いますか?
また、彼が自分の成功と育児とを両立できるかどうかは、単に「世間にどう思われるか」「世間がどう受け止めるか」(彼に両立を許すかどうか)の問題だと思いますか?
・・・・
父と同様に、息子も「大丈夫」と嘘をつきます。
少年は、「学校へ行っている」フリをして、「もう自傷はしない」と嘘をつき、本当は大丈夫ではないのに「退院させてくれ」「家族で一緒に居させてくれ」と訴えたことが、結果的に彼の自殺を許してしまうことになります。
しかしこれらはいずれも、親を安心させるためです。
親が自分に期待しているイメージ通りにいるために、彼は嘘をつくのです。
同時に映画の中では、まるで「幸せな家庭」を期待する観客を安心させるかのように、父は理想的な親を演じ、親子の涙ながらのぶつかり合いがあり、最終的には離婚した両親と息子とで「安定」を象徴する三角形の構図が形成されます。
この「三角形」の構図は、ルネサンス絵画以降、安定感を演出されるために多用されてきたもので、聖母子像や聖家族像などの宗教絵画をはじめとして様々な作品の中で用いられているものです。
けれども、この「安定」を象徴する三角形の構図も、観客を安心させるために、映画がついた嘘です。
親を安心させるため。親の視界に入る自分の姿が、両親が息子に対して抱くイメージ通りであるため。親の理想でいるために、息子はその場しのぎの嘘をついたり、「ふり」をしたり、演技をしたりします。
それと同じように、映画自身が、心のどこかで理想的な家族像を願う観客のイメージ通りでいようと、その場しのぎの「ふり」をするのです。
父のいないところで、ふとした瞬間に息子の見せる本性。演技をやめた息子の姿には、どす黒い闇が感じられます。
そのドス黒さが、もはや虚言癖の域にまで達した彼の言動と相まって、物語は緊迫感をはらんでクライマックスへと向かうのです。
けれども、嘘に嘘を重ねるたびに、息子の心は傷つき、彼の「本当の姿」は押し潰されていきます。
「見せたいけれど隠したい」、そんな自傷の痕は、親から見える自分のイメージに付け加えられた傷であり、押し潰される内心への配慮への願いでもあります。
しかし父が、そんな息子の内心を配慮することはありません。
父にとっては、自分に見える息子の姿だけが全てです。
「外の世界」に適応し、内心を押し殺しても強くあることができる父は、「外の世界」を内面化し、それをそのまま息子にも適用しようとします。
けれども、息子の内心は、「外の世界」の重さに圧迫されています。
内面を「外の世界」(社会的成功)でいっぱいにした父親の中では「本音」がぺしゃんこになっていて、無視されています。父は、自らの「本音」、不安や心配、弱みを無視して「強さ」だけを見せており、それと同様に、息子の内面を回顧することがないのです。
父は、自分を眺める自分自身のあり方そのままに、息子を見ようとします。
それ自体が、「外界」と言うプレッシャーにより息子の本心を殺すことになります。
「外界」を内面化した父。
それは、かつて「なりたくない」と願った祖父の姿そのものでした。
男性性を象徴する、狩猟。
そこで使用される猟銃は、外界・外敵へと向かう男性の警戒心や闘争心、危機意識、暴力性の象徴でもあります。
(テロリストが学校を襲撃し、立ち向かう妄想をしたり、「護身用」と称して刃物を所持した経験が、あなたにはあるでしょうか)
祖父から父へと受け継がれた「猟銃」は、やがて息子へと受け継がれて、息子自身の身を滅ぼしてしまうのです。
ここに、脈々と継承されてきた男性の病を子供にも複製してしまうこと、そしてそんな男性の功名心や警戒心に基づいて形成されてきた競争社会のあり方、家族や自らの心をも犠牲にしてまで成し遂げられる「社会的成功」のあり方すら、見直しを迫られます。
あまりに表面的で、息子の本心が見えてこない。
息子に共感できない。息子の本当の問題が手にとるようにわからない。
それは、目に見えているだけの映像が、父の理想の世界であり、観客の期待に沿うハートウォーミングなドラマの「フリ」をした映画の姿です。
パンフにも書かれているように、帰ってきた息子の自殺がクライマック...
パンフにも書かれているように、帰ってきた息子の自殺がクライマックス。帰ってきた家庭での様子でほぼ予測できてしまう。あんなふうに現実を封印すれば、子どもは逃げ場がなくなり、その幻想の中で死にたいと思うはず。それに気づかない親だから、息子を失ってしまうのだと言うのはきつすぎるだろうか。
しかも、ごのケースは山程あるということ。
元妻には間違いなく問題がある。未だに夫を諦めきれず、夫との喫茶店での話し合いでは真っ赤な衣服を。今でも夫を誘惑している。ローラは、この病的な役をあまりにうまく演じている。そして、夫の感情もふらふらしている。
IPという考え方があるけれど、息子はその犠牲だ。母が諦めてなければ、息子も立ち直れない。
元妻が現実を排除しがちだからこそ、今の妻に彼が惹かれたのはよくわかる。
ファーザーのホプキンズが、父なのは素晴らしい。80になっても力がある。
嫌ってた父を反復してしまう、反復強迫の表現はよくできている。
海のシーンは素晴らしい。映像的にも美しい。
そこから確かに彼は変わっていったのだろう。
子供は親を選べないから。
まぁ…この親(ピーター)に育てられたら、子供(ニコライ)はこうなるだろうなぁ、という見本のような作品。
そう思っていたら、その親(ピーター)も、また同じような親(アンソニー)に育てられていたことがわかった。
これじゃあ、是非もないや…というのが、偽らざる感想。本作を観終わって、評論子の。
結局は、子供は親を選べないからなぁ。
そう思うと、観終わって、とてもとても切ない一本になってしまいました。評論子には。
絶対絶望
「ファーザー」の監督にヒュー・ジャックマンが主演…躊躇うと事なく鑑賞しました。サービスデーという事もあり、結構混んでいました。
いやはや心にずしっとくる映画でした。「ファーザー」とはまた違う考えさせられる作品でした。
2つの観点から観ることができました。客観的に観るとどうにもやりきれない気持ちになるんですが、実の親だったらという視点で観ると辛い気持ちになるのが不思議でした。
ヒュー・ジャックマン演じる父親は決して悪い父親ではなく、子供のために尽くそうとはしているけれど、とにかく自分を良く見せようとしてしまうがために、色々なものを追い込んでしまう性格上、とにかく息子との会話がタジタジになってしまうところが多く見られました。自分の父親と自分を重ねて後悔したりと、改善の傾向を見せつつもどうにもなりきれない、未熟な父親そのものを体現しているようでした。
息子もまた、とんだドラ息子だなとは思いました。学校に行きたくない、それに理由なんかはいらないと思いますし、それに親は真っ正面から向き合わないといけない場面に直面してしまいます。ただ息子はワガママを通り越して学校に行かなかったり、義母にも冷たい態度を取ったりと険悪なムードを自分から作りに行ってしまうので、そこはこの息子の性格上の問題でもあるなと思いました。甘ったれではあるので、イライラはしましたが、演じたゼン・マクグラスの演技に魅了された結果なのでそこは良い収穫でした。
洗濯機の後ろにある猟銃、ズームアップで映される洗濯機、壁に頭をぶつける様子、虚ろな状態で弟の面倒を見ようとして、フラグビンビン立てて風呂場に行き自殺。これまで自分を傷つける行為は風呂場でやってきていましたが、最後を迎える場所も風呂場。メンタルが本当に弱くて、助けの手を施されてもプツンと切れてしまったがために真っ先に楽になる選択肢を選んでしまったというラスト。自殺で最後を迎えてしまう作品は「ミッドナイトスワン」でもあったのですが、あちらは軽快に死んでしまったのでその重みが感じられなかったのですが、今作はその重みがズシンと感じられました。
最後、息子の幻想を見て項垂れる父親、新たに作った家庭すらも壊してしまいそうな危うい状態に、観ている観客側の自分ですらもハラハラしてしまいました。なんて悲しく寂しい終わり方なんだと。
役者陣の演技力はとにかく素晴らしく、物語の完成度も高かったです。エンタメとして観ると「ファーザー」には敵わず、少し都合の良い場面も見られたのが残念でした。3部作の最終作、一体どうなるんでしょう。ペース的には再来年公開なので首を長くして待ちます。
鑑賞日 3/22
鑑賞時間 12:30〜14:45
座席 H-11
寅さんみたいな伯父さんがいたらよかったのにね
スターリン政権下でのウクライナに対するジェノサイド(ポロドモール)を描いた映画、「赤い闇」に出ていた女優のバネッサ・カーヴィーがべス役で出演していたので、悲しいストーリーとわかっていながらも朝イチから鑑賞。
ヒュー・ジャックマン演じるピーターは先妻とその間にできたひとり息子のニコラスと別れて、若い嫁べスとの間の赤子(なかなか大きくならない)と暮らしているやり手の弁護士。ポールの父親役はアンソニー・ホプキンス。神殿のような玄関の立派な家に住んでいました。
主役の息子ニコラス役はいかにもナイーブな少年でとても痛々しかったし、恐ろしいことしそうだった。
先妻ケイト(ローラ・ダーン)はニコラスがリスカしたり、自分をかえりみなかった父親と暮らしたいと言い出すほど悪~い母親には見えなかったのと、ニコラスを立ち直らせようとする二人がとてもラブラブで、昼間から酒飲んだりのんびりしていたのは大いに違和感。最初の設定に無理があるような気がした。別に離婚してなくても、この父子三代にはそうなる必然性があった。プライドが高いので、自分達の異常性に気がつかないことが悲劇。手遅れになりやすい。
こういう時は寅さんみたいなダメな伯父さんに相談するのがいいんだよね。
若い嫁のべス(バネッサ・カーヴィ)も育児にもっとイラついたり、ニコラスを誘惑するような人物設定にして欲しかったなぁ。折角、バネッサ・カーヴィなんだから。
洗濯機のなかのベビー服が映った時、ニコラスが赤子を放り込んで脱水ボタンを押したのかと思った。
オイラのほうがずっと病んでるな。
急性うつ病にしてはニコラスは病院でも、帰って来てからもハイで元気だった印象。悪徳病院だったかもしれないけど、懸念は的中。
子育てって、ボタンを掛け違うと修復困難になることを痛感。しかし、若い人はこの手の映画は観ないから、その効力は極めて小さいと言わざるを得ない。
The Son 自分の息子であり、息子だった自分であり
自身が子である目線、親となって子を見る目線、親となって親を見る目線と視点を変えることで、いくつもの思いが巡る。誰が悪いとこ良いとかではないし、何が正解で不正解かも分からい。
ただ、親より先に子が亡くなる事ほど切なく感じることはない。
急性うつより人格障害か?っ感じ。
【”現代版「車輪の下」”愛する父親が家族を捨て別の女性に走った事と、父親の無自覚なる自分への過度な期待に心折れた息子の姿を描いた、沈痛なる作品。家族愛の齟齬が齎した事の代償は限りなく大きい・・。】
■ヘルマン・ヘッセの名作「車輪の下」
文学好きの方は、一度は読んだであろう哀しき物語である。
周囲からの期待を一身に背負い、その軋轢の中で疲弊し、心を病んでいく少年の姿を描いた1905年公開作である。
だが、現代の進学に伴う少年少女の問題は一世紀過ぎても、何ら変わっていないのである。
ー 今作では、ヒュージャックマン演じる敏腕弁護士ピーターも、別れた妻ケイト(ローラ・ダーン)も17歳の息子ニコラス(ゼン・マクグラス)を愛している事が良く分かる。
だが、二人の愛はニコラスに上手く伝わらず、ニコラスは不安と、焦燥感の中、精神的に追いつめられていくのである。ー
◆感想
■息子を持つ者にとっては、キツイ内容の映画である。そして、私は息子に対し、”私も、ピーターのような過ちを犯す可能性があったな・・。”と思った映画でもある。
・ピーターは、ケイトとニコラスを残してベス(バネッサ・カービー)と再婚し、一児を授かる。
ー この辺りのピーターの行動論理が描かれないので、推測を余儀なくされる。だが、ニコラスは父の行動に深く傷つき”父さんは、母さんと僕を捨てた!”とピーターに言い放つ。-
・ニコラスは不登校になり、ケイトを憎しみに満ちた目で見てピーターの元に来る。
ー この幾つかのシーンで、ピーターが家を出た理由が推測出来るのである。-
・ベスは気味悪いというが、ニコラスをピーターが受け入れ順調な生活が始まったかと思いきや、ニコラスが新しい学校に初日にしか行っていない事が発覚し、ピーターはニコラスを激しく詰るのである。
だが、それに対し、ニコラスも”父さんは正論しか言わない!”と言い返し、険悪な雰囲気になる。
■このシーンを見ると、ピーターは、仕事一筋の野心家の父(アンソニー・ホプキンス)を少年時代から快く思っていなかったが、実は彼も又、父の資質を継いでいる事が良く分かるのである。”ピーターの父の言葉:サッサと乗り越えろ!”
ピーターは父親でもあるが、息子でもあるのである。
今作は父親は息子に多大なる期待を求める、負の連鎖も描いているように感じたシーンである。
・そして、精神病院に入れられたニコラスはピーターとケイトに懇願して、一時的にピーターの家に戻るが、(シーンは映されないが)ピーターが父から譲り受けた銃で自殺する。
ー 何とも、皮肉な設定である。-
■哀しき白眉のシーン
・数年後、ピーターの元にニコラスがやって来て、嬉しそうに作家志望だったニコラスがピーターに自分が執筆した本を渡すシーンである。本のタイトルは”死は待てる”である。
嬉しそうに談笑する二人。
だが、それは全てはピーターの幻であり、現実にはニコラスはおらず、ピーターは泣き崩れるのである。
<今作のストーリー展開は、観る側に解釈を委ねるシーンもあるが、家族間の愛の齟齬と、父親の息子への過度な期待が齎してしまった悲劇を描いている。
今作は不倫、離婚、両親と息子との確執が根底にあり、常に不穏な雰囲気が漂う作品である。
そして、衝撃的なラストを含めて、強いインパクトを受けた作品でもある。
フロリアン・ゼール監督は自身が家族をテーマに書いた戯曲三部作を「ファーザー」そして今作「The Son」を製作した。
戯曲の第三部は「マザー」である。どのような作品に仕上げ、届けてくれるのかを期待して待ちたい。>
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