熊は、いないのレビュー・感想・評価
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混迷と絶望。
パナヒが祖国イランを捨てることなく、国内に居続けながら、弾圧の中で映画を作り続けてきたことは偉業だし、本作も現実を反映した歪な寓話としてみごと。しかしパナヒがゲリラ的な手法で作り続けてきた近年の作品の中でも最もどん詰まりを感じた。
現実の厳しさ、辛さ、映画で世界は変えられない絶望、といった負の側面が本作のユーモアを凌駕して、途方もない圧迫感がのしかかってくる。映画作りが突破口にならないのなら、一体なぜこの映画を見ているのかとつい自問自答してしまうが、そもそも映画が答えをくれるなんて幻想が間違っているのであって、この映画が描く混迷はそのまま受け止めるべきなのだろう。パナヒが自国と自分と観客に突きつける刃は深くて鋭い。
この映画の後、パナヒは逮捕され収監され(この映画が直接的な原因ではないので日本の宣伝はミスリードだとは思うが)、ハンガーストライキを宣言した後に釈放された。パナヒを取り巻く状況は多少なりともいい方向に変わっているのかも知れないが、この映画が描いている閉塞感は解決してはいないだろう。同じ国境越えというモチーフを描いた息子パナーの『君は行く先を知らない』は興味深い良作だったが、父パナヒが描く多層的な底なしの閉塞感にはまだまだ太刀打ちできておらず、越えるにはあまりにも高い壁でしょうよと、こんな父を持ったパナーについ同情してしまった。
パノプティコン
イスラム法を土台とするイランの不条理な法制度の下、映画監督のパナヒは二十年間の映画撮影禁止と国外への出国禁止を命ぜられる。
国から監視されながらも国境近くの村でトルコでの撮影をリモートで試みる監督。このように国から不当な扱いを受ける監督が、この辺鄙な村で昔ながらのしきたりに縛られる村人たちと出会い、そして事件が起きる。
村の人々は昔ながらの迷信、しきたりに縛られていてそれに対して多くが疑問も抱かない。女性は生まれたときにへその緒が将来の結婚相手を決めるという。こんな迷信がもとで村では騒動が起き監督も巻き込まれてしまう。
村人は結婚相手が決まってる女性と駆け落ちしようとする男性を糾弾するために証拠写真を撮影した監督に提示するよう詰めかける。写真はないという監督に対して宣誓の儀式に出ろとまでいう。
馬鹿げたしきたりから逃れるために相思相愛の恋人たちは国境を越えて逃れようとするが警備隊に射殺されるという悲劇で幕を閉じる。折しも監督がトルコで撮影していたイラン女性もまたイランの不条理な法から逃れようとしていたが海に身を投げて亡くなってしまうという皮肉な結末に。
共に自由を求めて悲劇に見舞われた恋人たちの姿を通して、この国の理不尽なしきたりや法による支配を監督自らが演じて訴える。
イランはその革命以降、西洋文化を排除し厳格なイスラムの教えを国民に強いた。自由な言論も規制され女性の人権も制限された。それにより監督は撮影禁止となり、また女性の意思が尊重されない昔ながらのしきたりも残り続けた。
閉鎖的な村では昔ながらの掟とかしきたりというものが大抵残っていたりする。村を統制するためには住人をそのような共通意識の下で生活させた方が都合がいいからだ。確かにそれは秩序を維持するためにはいい面もあるが、その分個人の自由も制限する。バランスが重要となってくる。
劇中で訳知りの村人が監督に夜道はクマが出るから危険だという。これは村人がむやみに夜出歩かないようさせるための方便だという。
迷信やしきたりがこういう共同体では何かと重宝される。信仰などはその最たるものだ。天はいつもお前を見ておられる、そういわれたら人間は自分の行動を慎むようになる。
本当は見られていないのに、内心で自分を監視、規律する存在を人は作り上げてしまう。支配者側が秩序を維持するのにこれほど好都合なものはない。
パノプティコン、一望監視施設と訳される。日本では網走刑務所にも採用された放射状に独房が並んでる監獄の形態である。この放射状に並んだ独房の中心には監視塔があり、常に囚人はその監視塔から見られる状況に置かれ、逆に囚人からは監視塔の内部は見えないつくり。すなわち、監視塔に監視者がいなくても囚人たちはいるかいないかがわからない監視者に常に見られていると感じさせればそれでいいのだという。それで囚人たちは脱獄などできず刑務所内の規律は保たれる。
この手法が権力者が大衆をコントロールするために用いられていると提唱したのが哲学者のフーコーである。政府にとって都合の悪い者を見せしめに罰することで人々は自分もいつ同じ目に会うかわからない、いつも監視されているのではという恐怖を人々の意識に植え込む。いるはずもない監視者に監視されている気がする。見えないはずの熊が見える気がする。これにより権力者は自然と大衆に自粛を促すことができる。
日本でも政権批判をするニュースキャスターの降板が相次いだ時期があった。放送法の解釈を変えて電波を停止するという政治家の発言なんかも飛び出した。結果、マスコミは忖度を強いられ政権批判をできなくなった。日本の報道の自由度ランキングはだだ下がり。その理由は報道陣の自粛によるものだった。
目には見えない迷信やしきたり、目には見えない熊が人々を統制すると同時に委縮させる。昔ながらのしきたりや迷信に縛られて、それがおかしいとはほとんどの人間は気づかない。
果たしてこれはイランだけの問題だろうか。日本のような先進国といわれる国でも目に見えない圧力により言論封殺が行われてるのではないか。報道の自由度ランキングを見せられて初めてそれに気づく人がほとんどではないだろうか。
熊がいないとはっきり言える監督や犠牲になった恋人たちは村八分にされ排除されてしまう。そんなイスラムの社会を風刺しつつ、これはとても他人事ではない話だと思い知らされた。
ガンバルは最後まで監督のことを思い頑張っていた。
追記
本作は三つのパートで構成されていて、一つは監督が撮影対象に選んだトルコに潜伏する夫婦、一つは国境の村でしきたりに縛られる恋人たち、そしてトルコの夫婦をリモート撮影しながら、村の恋人たちの問題にかかわってしまった監督自身を描いている。
前述の通り二組のカップルたちはイランという抑圧的な国の被害者であるとともに、監督自身の被害者でもあることを描いているように思えた。
トルコの女性ザラは自分たちをありのまま撮影したいと言いながらヤラセを要求する監督に異議を述べる。夫を残して自分だけ脱出させる映像だけを撮影してそれで観客を満足させようと。しかし、夫と二人で脱出できなければなんの意味もない。二人でそうするために今まで苦労を重ねてきたのだと。そんな自分たちの気持ちも知らずにただ脱出の映像を撮影するために自分だけを出国させようとする監督を彼女は許せなかった。
国境の恋人たちも監督が彼らを撮影しなければ、あるいはそう取られてもおかしくない行動を取らなければ、証拠を突き付けて彼らを非難しようとする村人たちに追いつめられて無茶な国境越えをして殺されることもなかった。
本作はイランという国の体制やしきたりを批判的に描きながら、監督自身の傲慢さをも自己批判している作品のように思えた。
カメラでとらえた映像はすべてを物語る、映像化されたものは人に訴えかける強烈な力を持つ。その力を信じていた監督だが、時にはそれが悪い方向にも作用する。カメラを向けることがその人にとっては暴力になることもある。己の映像への過信がザラや村の恋人たちを死に追いやってしまった。その死を目の当たりにした時の監督のうろたえる姿、本作はそんな自身の映像作家としての危うさをも描きたかったのではないだろうか。
【”今作における熊とは何か。”今作は、20年間映画製作と海外渡航を禁じられたジャファル・パナヒ監督が、ドキュメンタリータッチでイランの現状を暗喩と皮肉を込めて、命懸けで描いた作品なのである。】
■トルコとの国境に近い村に極秘滞在したパナヒ監督は、トルコ内でイラン脱出を図ろうとする男女バクティアールとザラとの映画をリモートで助監督レザに指示し撮影している。
そんな中、村の子供達をカメラで撮影するが、その後村人たちから若い男女ソルドゥーズとゴサルとの逢引きを撮ったのではと疑われ、村の掟により女の婚約者と言い張るヤクーブに糾弾される。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作では、二組の恋人達が描かれる。一組は映画の中で。もう一組はトルコとの国境に近い村の中で。
・映画の中の男女、バクティアールとザラは演技をしつつ、実はイランからの脱出を狙って居る事が徐々に分かる。
同じように、村のソルドゥーズとゴサル(彼女は映されない。)の関係を村の掟である”女の子が生まれた場合は、へその緒を切る前に結婚相手を決める”と言う旧弊的なモノにより婚約者となっている男ヤクーブから、パナヒ監督は糾弾される。
・結局、パナヒ監督は村長の申し入れを受け、写真は無いとカメラを見せるがそれでも納得しないヤクーブ。宣誓までさせられる監督は、村を去る決意をする。
<ジャファル・パナヒ監督は、それまでの映画作品では、イランの人権侵害、文化統制に対し、時にユーモアで抗議し、時に過酷な運命に対し、連帯感を示す事で抗議して来たが、今作の2組の男女の結末は、苦渋に満ちている。
バクティアールのパスポートが偽物と知ったザラは、トルコの湖に身を投げ、テヘランの大学で学んだ学のあるソルドゥーズはゴサルを連れ、国外へ逃亡しようとするが”何ものか”に射殺されてしまう。
ソルドゥーズが、川の中の大石に血だらけで突っ伏している道の横をジャファル・パナヒ監督は、沈鬱な顔をして通り過ぎるが、その後車を停める。サイドブレーキを引く音がして、そして画は暗転する。
当然の如く今作は上映禁止で、資料によるとジャファル・パナヒ監督は再び拘束されたようである。
パナヒ監督の制作した映画が、イラン国内で上映される日は来るのだろうか・・。>
トルコとの国境付近にあるイランの寒村に滞在しているジャファル・パナ...
トルコとの国境付近にあるイランの寒村に滞在しているジャファル・パナヒ監督(本人扮演)。
彼は、反政府主義と目され、政府から国外に出ることを禁じられている。
いままさに撮っている映画は、偽造パスポートを使用して国外へ逃亡しようとしている男女の映画。
撮影場所はトルコ。
パナヒは、村の宿の一室でPCを観ながらリモートで演出しているのだ。
物語はフィクションなのだが、主演のふたりも国外への脱出、亡命を企図しており、虚実相半ばしている。
さて、そんな中のパナヒ監督だが、旧弊な村のしきたりに巻き込まれてしまった。
結婚相手は両親が決めるもの・・・
なれど、隠れて愛を誓う男女は、どこにでもいるもの。
パナヒは、そんなふたりの密会の現場を写真で撮った、と疑われてしまうのだ。
トラブルに巻き込まれるパナヒ・・・
といった物語で、常に虚実入り混じるジャファル・パナヒ監督作品は今回もそう。
綿密な脚本の上に取っているのだろうが、ドキュメンタリーと見紛うシーンが続出する。
けれど、やはりフィクション。
冒頭、トルコでの映画撮影の長いワンカットから、離れたパナヒ監督が観るPC画面へとつなぐワンショット。
まるで、ブライアン・デ・パルマ監督の魔術のような演出。
これで「フィクション映画」の宣言をしているのだが、まぁ、そうは見えないよね。
村のややこしいしきたり、夜に助監督の車で国境際々まで行くシーンなど、ドキュメンタリーの撮り方だからなぁ。
今回は「熊」が暗喩として使われているが、しきたりや権力、それらからくる思い込み。
そんなもので縛られている。
「熊」などいない。
けど、怖いものは怖いのだ・・・
撮影中の映画の男女も、村の若い男女も、最終的には悲劇の結果となる。
「熊は、いない」のに。
監督にとって、熊は、権力のあるイラン政府?
この映画はイラン国内で監督(政府に監督業はできないと言われてる。)として自分の生き方を強く主張している作品になっていると思う。なぜかというと:1)アザリ語(Azari)を話すイラン北部の村で、トルコとの国境に足を一歩踏み入れたシーンがある。その時、ここは密輸だけの問題でなく、武器や軍需品や薬品などのコントロール( contraband) するところで、ここが国境いだよと言われて、パナヒ監督は足を一歩咄嗟にイランがわに引っ込め
た。これが物語っていると思う。恐怖からのようにも観察できるが、それより何があってもイランを出ないよという強い意志の表れだと思う。
2)また、アザリの村で、パナヒ監督は優柔不断そうな動きを何度か示す。例えば、村の長や警察長に『撮った写真を証拠として見せろ』と言われ........見せた。私はここでひと段落かと思ったらが、イヤイヤ、村長たちはコーランに誓えと。そのための儀式をするから、そこへ来て証明せよと。パナヒ監は強烈な即答を控えて、村を出ようとするが、途中である村人に捕まり、おちゃを飲んでいけと言われる。断れないようで、茶屋で、ご馳走になる。そこで、ある村人は大変かしこいアプローチをする。記憶から書いてみるが、『熊がいるから危ないよ、一緒に行きましょう.......写真を撮ったって問題ないよ。嘘の誓いだってできるんだよ』と。『この村には迷信の問題があり、町の人の考えとは違う。....... 熊なんていないんさ。ただ、怖がらせるための作り話さ!』このある村人のアプローチと言おうか、交渉術にはアッパレ。このシーンが好き。
偏見かもしれないが、イランの監督の素晴らしさはこのような交渉術にある。パナヒ監督の師匠、アッバス・キアロスタミ監督もそうである。手綱を引いてうまく緩めて、人をその気にさせる。この交渉法に感激。
そこで、パナピ監督は宣誓の場所に戻っていって『アザリ村の伝統を尊敬するために』きたという。このように、イランのアザバジャン人の村の人々の伝統からくる意見や助言を聞いて尊敬し、パナヒ監督は一歩止まって考えるシーンがよくある。しかし、最後のシーンはパナヒ監督は早くテヘランに帰れとの村人の忠告で(車の故障の合図???これがわからない)若者の死(Gozal/ Soldooz)の現場を通り過ぎそうになるが、車をとめて考え、立ち向かうように我々に見せてくれる。これが、また、パナヒ監督の政治・社会体制に立ち向かう意志と同じ姿勢であると思う。事実をこの目で見据えるという意思も。このパナヒ監督の判断の仕方が大好きだ。
別件だが、そのほかに、パナヒ監督の迷信や伝統にとらわれない(テヘランの町の人と言われているが)思考が冴えている。ここは明らかで、パナヒ監督の論理的な判断はごもっともと思える。
Gozal/ Soldoozの二人が胡桃の木の下にいたという。パナヒ監督はその二人の写真を撮ったか村長に聞かれる。その追求の執拗さはよく聞くと村の伝統から来ていて女の子が生まれた時、臍の緒は将来の夫となる人に切ってもらうと。Gozal が生まれた時、Yaghoob がそれを切ったから、もう年頃の二人は結婚するべきだと。しかし、テヘラン大学に通っていて、デモに一回参加しただけで、退学させられた、Soldooz がGozal に恋していると。二人でいる写真をSoldooz の親に見せて証明し諦めさせることができると。
テヘランの町の人、パナヒ監督は自分をここから出させたいからそんな手を使うんだなと解釈する。そこに、Soldooz が無礼に許可を取らず監督の部屋に入ってきて、彼の見解を伝える。『もう一度やり直そうとして村に戻ってきた。それに、Gozal に会いたかった。彼女を愛しているから二人で村を出ていく』と。問題はYaghoob (臍の緒を切った男)で、写真を村人のみせないでと頼む。監督はなぜ村長に話さないのかと。(当然だね)しかし、Soldooz は監督の名前を言葉に出して使ってパナヒ監督にかかっているよと。
村長・警察がまた訪れる。ここからが笑っちゃう! パナヒ監督が写真を撮っているときにいた賢そうな少年がパナヒ監督が写真を撮ったと細かく証言する。(へえ....なぜよく覚えてるの?)パナヒ監督は子供が状況を説明してるのになぜ私の写真がいるの?と。(誠に!)そしたら、『9歳の子供だよ、証拠にならないよ』と。(エエエ.....)パナヒ監督『じゃあ、なぜ子供の証言を私の証拠にするの』と。(爆笑!最も)
伝統にハマっていると、それに囚われ、現状維持になってしまい思考能力を失い、論理的な欠けるところがある。問題意識があるパナヒ監督はそれに気づいて言い返すという形でこの映画は作られている。
これだけの説明では不十分かもしれないから、この映画のポイントを説明する。イランの北部の村で、アザリ語を話すアザバジャン人とパナヒ監督は言葉で交渉している(戦っている)。これはパナヒ監督が国内にいてイラン政府という組織と戦っているのと同じ。テヘラン大学中デモに参加したSoldooz はパナヒ監督と同じ立場の人。でも彼はGozal と国境を越えようとして国境コントロールに殺される。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女をパナヒ監督がズーム?か何かで間接監督?をしている映画撮影(直接のカメラクルーはトルコにいるらしい。)が挿入(二層になってる?)されている。パナヒ監督は国境を超えないで、主義主張を(上手に隠して?)映画に盛り込んで世界に発信。アッパレ!
じゃあなぜ、『熊は、いない』熊は、なの?これは比喩だとわかるが、なんの比喩?村人が怖がっているから、かわいい熊じゃなさそうだ。想像すると、『権力』イラン政府? 熊が怖いから行かなく、何もできないんじゃないよと。権力(熊)に挑戦する姿勢が、映画の最後で車を止めて考えてるところでわかる。
「熊」がいるのは外じゃない
映画自体はドキュメンタリーではないものの、内容は限りなくドキュメンタリー寄り。
劇中で監督が撮っているトルコのカップルのドキュメンタリー映画と本作と、監督自身の境遇のドキュメンタリーが入れ子構造になっているようです。
トルコから国外逃亡を望むカップル、村の因習から逃れるために国境を超えたいカップル、二組のカップルの悲劇もさることながら、国境の村の、ヒトが良さそうな村人たちの抱える闇が不気味と思っていたら。
密輸で生計立てていたら、政府の監視対象の映画監督は招かざる客。監督が注目されたら村ぐるみの密輸発覚の危険が高まってしまうので。
村人たちが監督の行動を監視するのは当然でした。
「熊」は外にはいない。内側のようです。
不謹慎ながら、劇中で監督の下宿先のお母さんがつくっていた料理が美味しそう、ナンのようなパン(?)のついたワンプレート料理をみてから、頭の中がインドカレーでいっぱい。
ツレもそうだったようで、映画終わってからふたりで近くのインドカレー屋さんにダッシュ、美味しくいただきました。
食べたいと思ったときに、何の障害もなくそれを食べに行ける
命がけで作った映画も、映画館を出たら、ただの「作品」として流せてしまう自分たち
どれほど稀有で幸せなことなんだろうかと思いました。
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