「不撓不屈の監督自身を描いた力作」熊は、いない 鶏さんの映画レビュー(感想・評価)
不撓不屈の監督自身を描いた力作
監督のジャファル・パナヒが、本人役として主演も務めた力作でした。全く背景を知らずに観ると何のこっちゃという感じですが、少しでもパナヒの置かれた状況を知ると、俄然面白くなって来る異色作でした。彼は1990年代から映画監督として活躍し、数々の国際的な映画祭でも評価を受けて来たそうですが、2000年代に入りイラン政府と対立。2010年には家族や友人とともに逮捕され、イラン政府へのプロパガンダの罪で懲役6年と、20年間の映画制作禁止という判決が下ります。
しかし執行猶予だったのか、直ぐには収監されず、秘密裏に映画制作を続け、2013年に「閉ざされたカーテン」、2015年に「人生タクシー」を上梓するなど、精力的に活動を続けている延長で本作が創られたようです。
映画の内容としては、現実の世界でも表立って映画を撮れない状況同様の映画監督として主役を演ずるパナヒが、偽造パスポートを使ってイランからヨーロッパに逃走しようとする男女2人のカップルを追跡するという映画を撮影しているところから始まります。最初はこの劇中劇、単なる創作なんだと思っていましたが、どうやらドキュメンタリー仕立ての(映画の中での)本当の話のようでした。この辺りは現実と虚構が入り交じり、何が真実なのか、そうでないのかが分からなくなってくるのが、観客を不安と陶酔に導いている感じで非常に面白く感じられました。
また表に出ることが憚られるパナヒは、トルコとの国境近くの集落にいて、リモートで撮影現場に指示を出しますが、この集落でも若い男女の駈け落ち騒動が勃発し、パナヒ自身も巻き込まれて行きます。パナヒが撮った写真を巡り、”よそ者”であるパナヒも窮地に追い込まれそうになりますが、この過程で題名の「熊」の話が出て来ます。ただ面白いことに、物理的、生物的な熊は出て来ません。しかしある村人の口を通じて、「熊」という存在を使って人々を怖れさせる奴がいて、そういう奴が利益を得ていることが観客に訴えかけられます。この「熊」の正体は何なのか?
冒頭にも触れたパナヒの背景からすれば、イラン政府以外に考えられない訳ですが、その辺りは明示されず、2組のカップルの顛末とともに物語はエンディングを迎えました。
劇中劇もドキュメンタリー仕立てであり、また監督が本人役で出演していることからも、本作そのものもドキュメンタリーに近い構成になっていて、非常に幻惑的で、魅力のある作品でした。政治的弾圧にも屈せず、抑圧され、閉鎖的なイラン社会の息苦しさが伝わってくる作品でしたが、熊ばりごついパナヒ監督の様子はどちらかと言うと軽やかで、常に冷静沈着。どんな危機的状況にも慌てず焦らない彼の姿は、観る者を勇気づけるものでした。