「破局から始まる、深淵なる愛の物語」イニシェリン島の精霊 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
破局から始まる、深淵なる愛の物語
上映が終わって、なんだか涙が止まらなかった。多分劇場で泣いているのは私ぐらいだったと思う。
自分でも、なんでこんなに涙が止まらないのか、悲しいのか、嬉しいのか、辛いのか、泣いている理由さえわからないまま、ただ猛烈に心が揺さぶられていることだけは確かだった。
BGMのように、本土で繰り広げられるアイルランド内戦は、この映画の表層的なストーリーが戦争の暗喩であることを明確に訴える。
絶縁宣言という宣戦布告をきっかけに、手を打つ場所を探りながらも互いの感情が擦りあわず、泥沼の諍いに突入していく様は当に内戦だ。
元々友達だったから、尚更タチが悪い。
「昔は単純だった。敵と言えばイギリス人だったから」と警官は言うが、コルムとパードリックの訣別も同様である。
敵でもあり同胞でもある。相手の大切なものは自分にとっても大切で、相手が傷つけば自分も傷つき、どんどん取り返しがつかなくなっていく。
パードリックにとにかく黙っていて欲しいんだ、というコルムの主張を聞いて、パードリックの妹・シボーンは「イニシェリン島に無口な男を量産する気なの?!」と突っ込むが、ある意味それは当たっている。
中身のない与太話と下世話な世間話、退屈な会話しかないイニシェリン島に文化をもたらす。
音楽を愛し、考えることを愛し、思想について語り合う。その為に本土から来た音大生とパブで生演奏を行い、その為に一番の親友を絶縁するところから始めたのだ。気が良くて優しいだけの、馬の糞の話を2時間平気で続ける男だから。
これはコルムの革命で、コルムの独立戦争なのである。
パードリックが「優しくすること」の価値を猛烈に主張し、コルムの態度を批判し、「モーツァルトなんて俺は知らねぇ!」と啖呵を切ったとき、初めてイニシェリン島に信念を競う議論が生まれた。互いの信ずる道標を賭けて主張をぶつけ合った。
はっきり言って主張の論拠はメチャメチャだったが、「今までで一番面白かった」とコルムが認めるほど、対等な意見のぶつかり合いが萌した瞬間だったが、それはほんの一瞬垣間見えた奇跡だった。
根本的な土壌のないこの島で、議論は萌芽しても育たない。
舞台は1923年、「自分らしく生きること」より社会通念や世間の「そういうもんだから」の方が強い時代。
無口で愛想がなく、世間話をしないコルム。いい歳で結婚していない女のシボーン。島の中で浮いている2人のうち、コルムは己の生き方を貫くために革命という戦争を選び、シボーンは本土へと「亡命」した。
戦争(おっさん2人の絶縁)の中で、パードリックに失望しシボーンを失い、失意の中でドミニクは若い人生の幕を閉じた。
息子を失って初めて、警官は人の死は娯楽として消費されるような軽いものではないと知った。
コルムは音楽という文化を失い、家を焼かれ、パードリックはかけがえのない家族を失った。
革命から始まった内戦の後、休戦の海辺にコルムのハミング、イニシェリン島の精霊のメロディが流れる。
死を予告する精霊だけが、この戦争の意味を知っているかのように。
アイルランド内戦のメタファーとしてのストーリーはこんな感じだ。
一方で、「イニシェリン島の精霊」は破局の物語だと、監督マーティン・マクドナーは語っている。これが裏に隠されたこの映画のテーマだ。破局は愛のない場所には生まれない。
愛しているからこそ、愛だけではどうにもならなくなった時に、破局は訪れる。この破局の物語を理解するためには、コルムを理解することが必要なのだ。
コルム曰く、パードリックと絶縁する理由は「ヤツのくだらないお喋りに時間を取られて、人生を浪費したくないから」だ。
コルムは自分の芸術性を、思考の時間を、共に分かち合うことを求めている。それは即ち「自分を理解して欲しい」という欲求だ。
対して、パードリックが求めるのは「ただ側にいて優しく接して欲しい」という欲求である。
「悲しい時はロバを家に入れるんだ」と、ジェニー(ロバ)に寄り添われながらパードリックは言い訳する。言葉なんて、意思なんて通じる必要を求めていないのだ。
長年の友人でありながら、コルムとパードリックは求めるものが全く違う。コルムは大勢の人に囲まれていても、誰も自分を理解してくれないなら孤独を感じる。パードリックは例え動物でも側に居てさえくれれば孤独を感じなくて済む。
親友として、ずっと一緒に過ごしてきたからこそ、大切な人であるからこそ、その存在が自分の孤独を深めてしまうなら、それはコルムにとって絶望的なことなのである。
寄り添うことは出来ても、相互理解することは既に諦めている。だから、いっそ構わないでくれというコルムの願いは、信念を違えるパードリックには届かない。
よせば良いのに性懲りもなくコルムに近づき、結果コルムは宣言通り指を切り落とし、二人の諍いは温度差を保ったまま決定的となった。
この二人の関係性は、色んな人物の関係にスライドすることが出来る。パードリックとシボーンにも当てはまる。妹さえ側にいてくれれば孤独を感じないパードリックと、両親を失った孤独感や本の内容を分かち合えないシボーン。
ドミニクとシボーンもそうだ。ドミニクは優しくしてくれたシボーンに「付き合って欲しい」と告白するが、シボーンは「それは無理だと思う」と断る。
助けたり、親切にすることは出来る。だが、シボーンが求めているものもコルムと同じ、自分の気持ちや考えを理解してくれることだ。
兄やドミニクに「ただ側にいること」だけを求められる人生は、コルムが「退屈なお喋りで時間を無駄にする」ことを拒否したように、彼女にとってももう限界なのである。
この映画のストーリーが巧妙で素晴らしいのは、この救いようのない拒絶を生み出したのが、深い愛情である点だ。
思えば、コルムは「俺に構うなら、俺の指を切り落とすぞ」と脅す。普通は「お前の指を切り落とす」のハズ。なのに、自分の指なのだ。
パードリックを傷つけたくない、それはコルムの本心なのだろう。それと同時に、この脅しはこう言い換えることも出来る。
「俺に構うなら、お前の親友の指を切り落とす」
コルムとパードリックの間に、深い結びつきがあることは、本人たち自身が良くわかっている。口をきかないままでも、殴られたパードリックを馬車に乗せ、帰路の手助けをする。
話さないと決めたままでも、手綱を握らせ、その手を包んで励まし、そして別々の道へと別れていく。
側にいる孤独、誰も残らない孤独、どちらが悲しいのだろう。
愛する人と理解し合えない絶望、愛する人と一緒に居られない絶望、どちらが深いのだろう。
突き放すのもつきまとうのも愛で、コルムの愛情はパードリックがジェニー(何度も言うけどロバ)を失って絶望の淵に墜ちた時、暴力という形を取りながらも、最も強く現れていた。
パードリックの愛情は、全てを失い憎しみに燃え、諍う相手となってもなお、側にいて優しく親切にするのが自分の道なのだと訴えていた。
破局から始まり、どうしようもなく相容れなくて、どうしようもなく愛おしい。
そのあまりに大きな愛のうねりが、色んな感情をごちゃ混ぜにして、ただ涙となって溢れたのだと、今は思う。
皮肉な笑いを散りばめながら、葛藤と反復を詰め込んだ脚本は精巧で緻密で野心的。全編キッツいアイルランド訛りの英語も味わい深い。
原題は「THE BANSHEES OF INISHERIN」。死を予告する精霊は複数形だ。ひょっとするとイニシェリン島の島民は皆バンシィで、彼らが予告した魂の死に抗い続ける為に、コルムは生き延びたのかもしれない。