「ロバのつぶらな瞳」イニシェリン島の精霊 cmaさんの映画レビュー(感想・評価)
ロバのつぶらな瞳
何とも不可思議な物語だ。思い出されるのは、血が滴る指、自然豊かな島の風景、吉兆•凶兆定かでない、天上から広がる光。そして何より、動物たちのつぶらな瞳が忘れがたい。美しさにおぞましさ、滑稽さ、悲愴感が無いまぜになった114分だった。
ある日突然パードリックは、旧来の友・コルムから絶交を言い渡される。何が何だか分からず戸惑うパードリック。コルムが他の村人たちと楽しげに過ごしている姿を見ると、居ても立っても居られない。しかし、コルムは頑なな態度を崩さず、無理に話し掛けるならば、会話するごとに自分の指を一本ずつ切り落とすと宣言する。
きっかけも、その後の展開も、コルムの身勝手のはず。とはいえ、彼がそのような行動に至るには、何か原因があるのではとパードリックは悩み、焦る。何とか修復を試みたものの、別の生き方をしたい(そこにパードリックはいない)と告げられ、彼は身も心も粟立つ。
パードリックは、別のやり方、別の生き方の術を持っていない。毎日決まったように家畜たちの世話をし、午後になったらパブで酒を飲む。それで満たされていたはずが、友の離脱で歯車が狂い始めてしまう。
習慣を守り日々を重ねるのは、単調ながら平和で、穏やかだ。一方、そこから踏み出すのは難しい。自他を傷つけ、周りの心もかき乱す。こんな季節だからかもしれないが、卒入学、就職に転勤と、半ば外因から人生が動くのは、変化を求めながらも踏み出せない、人の性が少なからず影響しているのかも、とふと思った。
おどろおどろしさが加速する人間たちのやり取りの一方で、変わらず自然は雄大で、音楽は美しく、心に沁みる。さらに印象的なのは、パードリックの飼う羊や牛、そしてロバたちだ。特にロバのジェニーは彼にとって家族同然たが、妹には「家には入れないで!」と戒められる。
動物の潤んだ黒目は、深みがある。人間たちの争いを達観しているようでもあり、呆れているようでもある。(もしかすると、人間には特段の興味さえ抱いていないかもしれない。)友と妹を失ったパードリックは、ことさらにジェニーを可愛がり、昼夜共に過ごすようになる。けれども、所詮はロバと人。彼らには越えられない壁がある。触れ合っても会話はできず、やり取りは一方通行で、距離は縮まらない。その瞳から何かを見出せるのは、受け手であるパードリック自身なのだ。
砲弾の音が響けば、本島の内戦で屍は増える。そして、島でも喪失が増殖していく。幾つもの死を乗り越え、パードリック、そしてジェニーの瞳には、一体何が映ったのだろう。