「マーティン・マクドナー監督は、もともとは演劇畑のひと。 なるほどね...」イニシェリン島の精霊 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
マーティン・マクドナー監督は、もともとは演劇畑のひと。 なるほどね...
マーティン・マクドナー監督は、もともとは演劇畑のひと。
なるほどね、というのが感想なのですが・・・
いまから100年ほど昔、1923年のアイルランド本島から離れたイニシェリン島。
第一次大戦は終結したものの、本島では内戦が勃発。
とはいえ、島ではそれは対岸の火事。
そんなある日、妹と暮らす独身中年のパードリック(コリン・ファレル)は長年パブで飲み仲間だった年長の友人コルム(ブレンダン・グリーソン)から、「俺にかかわるな」と言い渡される。
理由がわからないパードリックは、聡明で教養のあるオールドミスの妹シボーン(ケリー・コンドン)や知恵遅れで島の皆からバカにされている青年ドミニク(バリー・コーガン)の助力を借りて、以前のようにコルムと仲良く付き合いたいと努めたのだが、コルムは「これ以上、俺に関わるな。さもないと、俺は俺の指を切り落として、お前に送り付けてやる」と宣言した・・・
といったところから始まる物語。
コルムの宣言を「これ以上、俺に関わるな。さもないと、お前を足腰立たないほど殴りつけてやる」ならば、まぁ、普通の話。
そうなのよ。ちょっと言い換えれば普通の話。
コルムにとって重要なのは「俺に関わるな」であり、そこんところをパードリックが理解していないので、どんどん泥沼化してしまう。
無理解から泥沼にはまってしまうのはキリスト教的社会のお約束のようなもので、他の島民から「いいやつだが愚鈍」と評されるパードリックは、友だちであることが最重要であり、それ以外には頓着せず、コルム宅への無断侵入やコルムの新たな友人に嘘を告げて追い払うなど、良心を欠いていくような行為に出ていく。
(ここいらあたりは『スリー・ビルボード』に似ている)
最終的には、火付けにまで発展するわけだが、パードリックの行為は、見ていて不愉快になってきます。
で、コルムの方の言い分なのだが、
1.俺は、もう老いさき短い
2.子どももいないし、なにかを残したい
3.お前とのパブでのバカばなしに時間を費やしたくない
4.わかってるだろ? わかってくれるだろ?
5.だから、これ以上、俺に関わるな
6.さもないと、お前を足腰立たないほど殴りつけてやる、と言いたいところだが、クリスチャンの俺には、他人を殴るなんてできない。
7.かわりに、俺の指を切り落とす。その痛みをわかってくれ
これは結構、映画の早い段階でわかるので、これがわからないパードリックは愚鈍としかいいようがない。
で、こんなわかりきったふたりを行動をみつづけるのは些か苦痛で、興味は脇役へ。
パードリックの妹シボーンと青年ドミニク。
シボーンは、コルムの裏面みたいな存在で、他人のあらさがし、噂話、秘密の暴露で人生つぶしをしているような島民に嫌気が差し、結句、島を出てしまう。
一方、島いちばんの愚か者と呼ばれるドミニクは、愚かかもしれないが、何かを残したいという欲望に忠実。
何か、とは幸せな子孫であり、「当たって砕けろ」の精神でシボーンに告白する。
個人的には、このふたりの挿話を膨らませてほしかったところ。
なお、そこそこ教養もあるコルムだけれど、それほどでないことが今回の事態を重くしたかもしれず、
シボーンに指摘されるようにモーツアルトの生きていた時代を誤ったり、そもそも他傷は罪だが、自傷は罪だと思っていなかったあたりが、欧米の観客には「まぁ、結局、どっちもどっちだねぇ」と思わせているのかもしれません。
原題「THE BANSHEES OF INISHERIN」の「バンシー」は、「人間の死を予告する老女の妖精」で、映画では、黒装束の老女がその役回り。
日本タイトルの「精霊」は間違いでないが、ややミスリード。
『イニシェリン島のふたつの死体』あたりが適切かもね。
風景描写もよく、アイリッシュ音楽もよいですね。
後者、コルムの演奏は、ブレンダン・グリーソン自らの演奏ということがエンドクレジットでわかります。