劇場公開日 2023年5月12日

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「リアリティのあるクラシック映画だが、あまりにネタが生臭くてくたびれました……」TAR ター じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5リアリティのあるクラシック映画だが、あまりにネタが生臭くてくたびれました……

2023年5月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

先に観に行った会社の後輩に「まさに●●さんのための映画ですよ」とか言われて、じゃあなるべく早く観るよ、と慌てて行ってきた。

たしかに、僕はマーラーをこよなく愛している。
年間100回を超えるクラシック鑑賞のうち、10%はマーラーの演奏会だ。
1980年代までのマーラー演奏のCD音源も、90%くらいは蒐集できたと自負している。
交響曲第5番は、第9番ほどではないにせよ、とても好きな交響曲だ。
しかも、主人公のリディア・ターは、レナード・バーンスタイン(愛称レニー)の弟子という触れ込みらしい。
さて、あの若い男が大好きだったレニーが女の弟子なんかとるもんかしらん、と思わないでもなかったが、いざ観てみたら、思っていた以上に「そっち方面」の話に深く食い込んだスキャンダラスな映画だった。

結論からいうと、さすがにちょっと生臭かったかな?(笑)
あまりにセクシャリティとMeTooの問題にのめり込み過ぎてて、音楽家としての苦悩とかの「ぜひ観てみたかった」話が3、同性愛やら告発絡みの「僕にとっては関心の薄い」話が7くらいの割合になってしまっている。
このバランスが逆くらいの仕上がりなら、もっと素直に楽しめたんだろうけど。

なんか、よりによって猿之助があんなことになっちゃった日に、
よもやこんな内容の映画を観るはめになるとはなあ、と
ちょっともやもやした気分に。

単なる同時性ってやつかもしれないし、ジャニーズ、歌舞伎、クラシックなど、旧弊な芸事における「支配者による性的搾取/表面化しにくい同性愛の性被害」に世界的にメスが入り始めた時代のただ中にいるということかもしれないが、現実ですでに猛烈にいたたまれない、報われない気分になってるのに、さらに追い打ちをかけるように映画でまでおんなじような話を観させられるとね……。

この映画の前提として、
●クラシック業界には星の数ほど同性愛者がいて、無視できない勢力を形成していること。
●レニーもバイセクシャルで、自ら「芸術家はホミンテルンじゃないとな」(ホモ+コミンテルン)とか言ってたこと(弟子も大植英次とか佐渡裕とか……)。
●近年、女性指揮者の進出が目覚ましく、ようやく女性の常任指揮者も増えてきたこと(昔はシモーネ・ヤングくらいしかいなかった)。
●ベルリン・フィルの常任指揮者は、大戦中のフルトヴェングラーから、カラヤン→アバド→ラトル→ペトレンコと引き継がれていて(映画で出てくるリディア・ターの前任者は架空の人物)、フルトヴェングラーは戦争協力者として訴追されたこと。
●カラヤンは1982年にクラリネット奏者のザビーネ・マイヤーを強引にベルリン・フィルに入団させようとして、当時100年近く「男性だけのオケ」でやってきた楽団員と対立し、マイヤーは入団できず、カラヤンとオケの蜜月も終わったという事件があったこと。
●ベルリン・フィルは自主運営の団体で、指揮者の選定から広報まですべてを楽団員自身が民主的に決定し、自ら業務にあたっていること。
●MeTooの流れはクラシック界でも席捲して、アメリカではドミンゴ、デュトワ、レヴァインなどの追放者が出て、コンセルトヘボウでもガッティが追い出されるなどしたこと。

といった、業界基礎知識がないと、なんでこんな話になっているのかよくわからないんじゃないか。ちなみに、目覚まし代わりに流れるショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」のオーラスで、リタルダンドをかけてリディア・ターに「性行為の喘ぎ声じゃないんだから」みたいなネタをかまされているマイケル・ティルソン・トーマスも、バーンスタインの弟子であり、かつカミングアウトゲイである。

全体に、実在の演奏家に対して、ずいぶんと「失礼」な映画ではある。
「失礼」だという言い方が耳障りならば、えらく「攻めてる」映画だなあと。
リディア・ターが脚でマーラー5番のレコード盤を「仕分け」していく印象的な冒頭のシーン(最後に残されているのは、レニーとアバド)や、実名で性犯罪者呼ばわりされるドミンゴ、デュトワ、レヴァイン、明らかに男色ネタを匂わせながら名前を引き合いに出されるレニーやMTTなど、個人的な印象でいえば、存命者もいるのに「よくこんな失礼な取り上げ方、実名出しながらできるな」と思わざるを得ない。
ベルリン・フィルも(映画内でモロの実名が出てたかは定かではないが)よくこんな映画で自分のオケが使われること許可したよなあ、と。たぶん、逆に長年女人禁制でやってきたことへの贖罪とか、ちゃんと近年のポリコレ機運には対応してるよとアピールしたかったんだろうけど(ちなみに実際に演奏したりしているのはドレスデン・フィル。マーラーだとケーゲルとの第1番のセッション盤と第3番のライブ盤がつとに名高い)。

なんにせよ、ニューロティックだとかひりひりするだとか、サスペンス的要素を評価する以前のところで、とにかく監督の「底意地の悪さ」がじゅくじゅくとにじみ出てるんだよね(笑)。
なんで、この文脈で実名出さないといけないの、みたいなのもそうだけど、
話のつくりにしても、全体にわたってかなり嫌~な話で、出てくるやつはみんな勝手なうえに精神不安定のメンヘラばっかり、どいつもこいつもターへの依存度が高いわりに、簡単に裏切るし、寝返る。「情」を感じさせる人間がどこにもでてこない。
あまりに同性愛絡みの話にねちねちと執着しているのも観ていてしんどいし、ちょっとでも問題が明るみに出たら寄ってたかって引きずりおろしにかかるキャンセルカルチャーも十分気持ち悪く描かれていて、このノリを150分の長きにわたって観ていると、だんだん心がうんざりしてくる。
観る前はダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』(2010)みたいな映画なのかな、と思ってたんだけど、あの作品ほどヒロインに感情移入させてから揺さぶって来る作りじゃないから、超優秀だけど高圧的なオバちゃんが、はめられてボロボロになってくのを観てても、そこまではまれないんだよなあ。いや、ケイト・ブランシェットはマジで凄いけど。

とはいえ、声高に性的虐待やLGBTQやMeTooを主張する側の論理と、それによってキャンセルカルチャーに攻撃される側の論理については、どちらも相応にバランスよく配されていた気はする。
たとえば、ジュリアード音楽院のレクチャーで、バッハが20人子供を作ったドイツ人男性だから受け入れられないと主張する黒人のゲイは、明らかに「ばか」で「くだらないやつ」として描かれていて、リディア・ターにこてんぱんにいじり倒されて留飲がさがる(あとあとここにも落とし穴が待っているのだが)。
また、フルトヴェングラーのナチ協力者疑惑についても、それなりに擁護者側からの反論が紹介されていて、視聴者に最終判断を預ける形をとっている。
とはいえ、「こんな話ばっかり頭から終わりまでしつづけている」こと自体が、観ていてしんどくなる理由だともいえる。

― ― ― ―

肝心のマーラー交響曲第5番のリハーサル・シーンは、なかなか見ごたえがあった。
大学生時代、学内オケに所属していた先ほどの会社の後輩も、「リハーサルシーンはすごい臨場感で、ほんとのリハの現場に居るみたいでした!!」と言っていた。
マーラー5番のリハについては、レニーがウィーン・フィルとの映像全集を作ったときのものが残っているので、たぶん映画製作者も結構参考にしていると思う。

あのレニーのリハ映像で、第一楽章冒頭のトランペットソロの12小節目、一般に「吹き癖」で直前の付点につられて「タッタタター↗」と節をつけがちなのを、ここは三連符だからちゃんと「タタタター↗」と吹くようにとレニーが指示する印象的なシーンがあるのだが、一応リディア・ターの演奏でもちゃんと「タタタター↗]となっていた気がする(少し怪しいけど)。
終盤出てくる「別の指揮者」の演奏だと、思い切り「タッタタター↗」になって聴こえるので、そこはやはり「わざと」差異を強調してあるのかもしれない。
ただ、冒頭のトランペットを下手袖のバンダ(別動隊)にするアイディアは、スコアや演奏効果を考えるかぎり、個人的にはあまりいいアイディアとは思えないけど……(最初のffのところでやっぱりTpの音は壇上から客席に突き刺さらないとダメでしょう)。これまでに誰か、こういう趣向やったことがあるんだろうか? たぶん、交響曲第1番の第1楽章のバンダに発想を得ているのかもしれないが。
ターのアプローチは、フレーズが引き伸ばされていてアタックも激烈で(とくに2楽章の入り)、アバドやラトル以降の趨勢から比べるとかなり主情的だ。師匠とされるレニーのスーパーロマンティシズムを引き継いでいるといえるだろう。

ライブの前半で演奏するエルガーのチェロ協奏曲は、劇中でロシア人チェリストが憧れていると言及してきたジャクリーヌ・デュ・プレの得意曲。彼女は難病に犯され早逝したが、リディア・ターが名前を挙げた、当時の夫ダニエル・バレンボイムとフィラデルフィア管がバックを支えたライブが残っている(バルビローリとのスタジオ録音もある)。

いずれにせよ、クラシックを題材とした作品だと、なんでこんな設定にするのだろう? という映画もたくさんあるなか(なぜかコンサートのメインが協奏曲になってる『オーケストラ!』とか、指揮者の勝負曲が「マタイ受難曲」の『ポンポさん』とか)、ちゃんとリアルな演奏シーンを緊迫感をもって仕上げてくれたのは素晴らしいと思う。
また、オケが崩壊したり指揮者が退任するのが、たいてい「人間関係」か「性的なもめごと」だという「クラシックあるある」をきちんと踏まえた内容になっているのも良い感じだ。基本、クラシック業界ネタ映画としては、今までないくらいの完成度だと思う。

その他、気づいた細かなことなどを。パンフを買い損ねたのでよくわからないことも多いんですが。

●会社の後輩から「TAR」が「ART」のアナグラムじゃないか、という話は事前に聞いていたが、作中で何度も実際に、ターや助手がアナグラムで人名を綴り変えるシーンが出てくるのね。これ、レニー由来で、ユダヤのカバラと関係あるんだろうか?

●冒頭からしきりにターが手を洗う描写や、おまじないの九字みたいなのを切るしぐさ、不眠、薬漬け、冷蔵庫の音が気になる描写などがあって、彼女の潔癖症ぶりや虚勢、神経質な部分、支配欲などが端々の描き方でうまく出るように作られている。

●音響はいろいろすごかった。とくに異音やノックの音、咳などが、映画館の右後方から飛んでくるので、最初ほんとに観客のノイズかと。今はこんなことできるんだね。

●各シーンのつながりをぶつっとした感じにして不安を煽る編集や、廃墟の怪しげな描写、奇怪な隣人など、アロノフスキーやデイヴィッド・リンチぽい部分も含めて、雰囲気は良く出ていたと思う。ただ、いまいち意味のとりにくいショットが多いんだよな。

●最終盤に、ターが自宅の隠し部屋みたいなところで、レニーの「ヤング・ピープルズ・コンサート」のビデオを見て涙を流すシーンがあるが、あれ再現だよね?(声も顔もレニーとちがう気が) 総じて、ターがレニーの弟子っていうのも「眉唾」というつくりに映画はなってて、もしかするとこの録画テープを何度も何度も見ただけかもという疑念も……。
あと、家族の呼びかけで「リディア」が本名ではないふうな描写があって(それとも綽名で呼ぶのをやめただけ?)、リディア・ターというミューズが、片田舎の少女が背伸びをしてつくりあげた「虚像」であることがよく伝わる。

●ラストは最初虚をつかれてトンデモエンドかと思ったが、そのままエンドロールを見ていて「どういうコンサートで客が誰なのか」は理解した。なるほどその手のをやるところまで……って話なのね。そんな曲でも「作曲家の意図は?」とか言ってるのがまた切ない。でも、ポリコレの重要な本作で『地獄の黙示録』みたいな流れになるのっていいの?(笑) レズ性風俗も含めて、70年代映画の東洋見下してるトンデモ感がプンプンするけど。

じゃい
きりんさんのコメント
2024年1月19日

じゃいさん
返信ありがとうございました。
運営への依頼のメモが億劫とか、信じませんよ、毎回これだけ書けてて(笑)
中高でホルン、その後はパイプオルガン弾きだったきりんより。

きりん
humさんのコメント
2023年7月8日

なるほど。。。
「虚像」を=「理想の在り方」と捉えておりました。
解釈が深まり、返信いただき感謝いたします。

hum
humさんのコメント
2023年7月8日

詳しい情報が満載で大変勉強になりました。
片田舎の少女が背伸びをしてつくりあげた「虚像」に、天才を崇める世間が彼女を孤高に追いやり、もはや崩せず追い詰められるはてまでいったのでしょうね。平凡な実家での家族の様子とターの姿。「虚像」から流れおちる涙に人間らしさをみました。

hum
pipiさんのコメント
2023年5月21日

うわぁ♪
じゃいさんに褒めて頂くと先生から花マル貰ったような誇らしい気持ちになりますー。

コメントお許し頂けたらターにもコメさせて頂こうと虎視眈々お待ちしていました。
だって、年間100回以上のクラシック鑑賞なんて、じゃいさん、一体何者でいらっしゃるのですかー!
プロ関係者?趣味の域にしては凄すぎる〜。
でも、恐ろしく博識のじゃいさんですから、趣味という事も充分あり得る、、、と思い巡らせてしまいましたw

監督は底意地の悪さからではなくて、素直さによってこういう作風になった気がするんです。
監督はきっと、じゃいさんよりずっとクラシックに詳しくないと思うんですね。
だから、じゃいさんが列挙なさっているネタをターに投影しようとするとこんな感じになったんじゃないかなぁ?と。
素直に真面目に一生懸命考えた結果が本作の構成じゃないかと感じました。
(私自身の知識がそのレベルだから。なんとなく監督にシンパシー感じますw)

昨今の、不倫だなんだと本業に無関係なスキャンダルで騒ぎ立てる風潮、多様性もいいけどその為にかえって犠牲になっている本来もっと大切なはずの数々。
苦々しい思いに強く同意致します。

いやはや、大変お詳しいレビュー、とても勉強になりました。
また、共感作にて拝読出来る事を楽しみにしております。
今後とも宜しくお願い致します^ ^

pipi