ホワイト・ノイズのレビュー・感想・評価
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ディザスター映画の衣を着た中年とっ散らかりコメディ。
いかにもノア・バームバックらしい、パラノイアに陥った中年がとっ散らかったことをやらかすヒューマンコメディでありつつ、スピルバーグやスコセッシなど多種多様な映画をカバー演奏するような映像面でのお遊びがわんさかあって、それが作品のメタ構造と密接に結びついている。かなり複雑なことをやってのけている印象がある。
エンドクレジットのダンスシーンは、大量消費社会を皮肉っているのは明白しても、われわれなりにこの社会を楽しんで生きるぞ!という決意表明のようにも感じ、ダークな批評性と祝祭感がいっぺんに押し寄せるようなカタルシスがあった。
煙に巻くような難解さから漂うインテリ感は、いけ好かないと捉えられかねないと思いつつ、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』のように、遠回りの果てにシンプルなところに着地することで、愚かな自分たちを肯定してくれる映画ではないかしら。`
この壮大な濁流を泳ぎ切ったことを評価したい
ドン・デリロの小説を映画化する。そう聞くだけで「出口なし」の企画だと分かる。これまで着実に良作を重ねてきたバームバックはこの難解な濁流をどう泳ぎ渡ろうというのか。冒頭では彼らしい家族の食卓の描写が重ねられ、小説が書かれた1985年そのままの時代の空気を刻印する。かと思えば、近隣で予期せぬ大事故が起こり、放出された化学物質をめぐって多くの住民たちが避難する事態に見舞われる。情報、知識が枯渇する際、人はどう考え、受け止め、生きるのか。そしてこの世で最も得体がしれず難解で、しかしあらゆる人々に確実に訪れる「死」の恐怖と我々はどう向き合うべきか。コロナでロックダウンを迫られた現代に本作が生まれたのは偶然ではないだろう。大混乱の描写といい、答えなき問題との格闘といい、従来のバームバックとは一線を画した怪作。が、難解さだけで終わらず、あのコミカルで楽しいエンドクレジットを添えるところが何とも彼らしい。
シニカル
主人公は、ナチスの指導者ヒトラーと、ファシズムに熱狂する群衆心理を専門としている。「人は不安なとき、神秘的な人物に惹かれがちだ。」
ヒトラーが憑依したような彼の演説を学生たちは賞賛する。
群集心理の愚かしさをを理解しながら、いざ危険な事故によってパニックになると、家族とともに群衆のなかに混じり、周りの人々と同じ行動をとってしまうのが現実。
危険な現場から少しでも遠ざかろうとする群衆は、人間が「死」の不安から少しでも逃れようとする本能の象徴だ。人間は巨大な黒雲のような「不安」に取り巻かれている。
結局のところ、人間は絶えず流れ続ける不安のノイズ(静かな雑音)を意識しないで済むように、刺激的な娯楽、消費、宗教、指導者を必要とする。
妻が、極秘研究のボランティア募集という広告に騙されるところは、最近の陰謀論に希望を見いだす中年や高齢者に通じていた。
薬物に頼ることで、この不安を払拭できるかもしれない。しかし、薬物の刺激は心身に深刻なダメージを与える。本作では子どもたち(若い人たち)のほうが、煙草や食品添加物の危険性を親たちに指摘していた。
冒頭のカークラッシュシーン、パニック時の報道、ミスターグレイ。作りものやニセモノに溢れる現代において、スーパーマーケットの商品棚でお気に入りを見つけることだけが救いなのか。
ほとんどが在庫(ゴミ)となる大量生産品の一部に、自分のお金を払って交換するシステム。
天国を信じない修道女が言う。「信じるふりをしなきゃ、世界が崩壊する。それこそ地獄だ。」
こんなシステムでもヒトラーの再登場よりはマシという皮肉か。
しかし、国家的な排外主義や覇権主義が再び台頭し、むしろ過去のファシズムそのものへと逆行している現代。笑ってもいられない。
コロナ禍を彷彿とさせる
個性的なディザスターコメディで、たぶん半分くらいしか理解できてない。笑
前半パートの、未知の化学物質流出によるパニックと人間模様は、現代設定ではなくとも最近のコロナウィルスによる世界的パンデミックを彷彿とさせる展開。不可解な言動や要素が散りばめられており、謎の多さにわくわくしていました。
後半パートはそれらの謎の正体や、化学物質事故のその後が描かれると思いきや、予想の半分くらいしか語られず、ちょっと肩透かし。思わせぶりな伏線的なものは何でもなかったのか…?
色々解釈が難しいけれど、飽きずに最後まで観れました。解説読んで勉強します。
エンディングのスーパーマーケットダンスが良かった!
パナソニック?
つまるところは、死とどう向き合うかという話のようでもあるが、3部構成がそれぞれ独立したテーマ性を含んでいたり、グレタの演技は現実のノアとの関係と重なり合ってるように見えたり、何かと寄り道のように注釈が多くて後ろ髪が引っ張られる。入ってくるような話を嫌うって、そう言っているグレタも言わせているノアも語り部なんだが。
メタファーで語られる宗教観はかなりキツく皮肉めいている。もの忘れが多くして、現実と言葉を混同させる副作用を伴う?ドイツ語を習得できぬ者が、見事なドイツ語で突きつけられる。
何回スーパーに行ったことか。つまらぬ世界でもささやかな欲で踊り続けていられる。LCDサウンドシステムの曲に踊るラストが素晴らしい。
【現代社会の病巣を皮肉たっぷりに】
アダム・ドライバー好きなんで映画館へ。ウクライナ侵攻に、コロナ狂騒に、地球温暖化対策に、大量生産大量消費の歪みに、国内外の諸課題山積のこのタイミングにぴったりハマってアイロニックに現代社会の病巣を描写。
国家や行政への信用失墜、デマやプロパガンダを垂れ流すメディアに右往左往する大衆、不安から宗教やら薬やら何かにすがる大人たち…対照的に達観して事実を受容する子供との掛け合いと家族の有り様が面白い。エンディングのシスターの台詞が痛快。
あたしのアダムドライバーが
おでこが禿げ上がり
お腹ぽっこり
なんというお姿…
見たくなかったこんなアダムドライバー
でも見ずにはおれないあたしのアダムドライバー
内容もよく掴めないでいると
うさぎのぬいぐるみを拾い上げるシーンに
フッと現れる死神のような男
⁉︎あのてっぺんハゲはメルド?
緑のガウンを纏うアダムドライバーはアネットのヘンリー?
カラックスの踏襲なのかしら…
そう思うとこの映画の見方が変わり
ヘタな期待はしないから
エンディングまで楽しめた!!
深いテーマ? 暗示? それとも意味不明…? 見る人を選ぶ作品かも…。
何か久々に意味が分からん映画を見た気がする。
同名小説の映画化で、作者のドン・デリーロは物事を変わった視点から描き、その筋では高い評価を得ているらしい。
監督はノア・バームバック。この人も主に家族を題材に、辛辣かつシニカルかつブラック・ユーモアで描いてきた人。
そんな両者の特色が合わさって、分かる人には分かる通好みの作品なのだろうけど…。
あらすじなんかによると、とある町に毒物性化学物質が流出し、避難を余儀なくされた家族…という内容。
この毒物をコロナや3・11の原発事故に置き換えれば、今や私たちが経験してきた事を鋭く比喩したものであろう。
しかし本作は、そんな社会派作品ではない。ある不条理に見舞われた家族を通して、人が抱える複雑な感情を突っ付く。
コロナや3・11もそうだが、前代未聞な異常事態を経験したら、もうかつてのような平穏な日常ではいられない。何か一変してしまったものを感じる。
劇中でも毒物流出で、まるで世界の終わりのような。雷鳴の中に浮かぶ毒雲はディザスター映画のように圧巻。こんな事があり得るのか…?
毒物を含んだ雨に打たれた父。後からその危険性を知らされる。
今は異常無くとも、何年後かには…。
えっ、死ぬの…?
平穏に暮らしていたのに、思わぬ事態で突然宣告された死。
もう全てが変わるざるを得ない。
一見は何事も変わりないで通す。
が、その実は…。
これまでの営み、人生、価値観に違和感。
何かの錠剤を服用している妻。それ絡みで、男の陰…。
疑心暗鬼からトラブルへ。
死への恐怖、不安…。デマ。
見舞われ、翻弄振り回される家族の姿。
それらを風刺的に、叙情的に描く。
それでいてラスト、スーパーマーケットで買い物する人々の姿を長回しで。
不条理な事に見舞われながらも、平常を装う人々の姿が印象的。
人々は何かを暗示されても、見て見ぬフリを貫くのか…? それとも、自分には関係ないと気にも留めないのか…?
確かに通して見れば、今の世や私たちを揶揄した作品ではある。
が、どうにも分かりづらい。
抽象的過ぎというか…。
この揶揄や暗示めいたものが人によっては刺激的に響くのだろうけど、私にはさっぱり…。
アダム・ドライヴァー、グレタ・ガーウィグ、ドン・チードルら実力派のアンサンブルは見ものだが、意味不明に足を引っ張られてその醍醐味すら味わえなかった。
冒頭、ハリウッド映画に於けるバイオレンスやカークラッシュで作品のプロットを説明するシーンで始まる。
これも作品について何らかの暗示を示しているのだろうが、皮肉にも私は、そんな分かり易い欲求の方がいい…と作品を見終わった後思ってしまった。
死を抱きしめながらスーパーマーケットで踊れ
傑作「マリッジ・ストーリー」のコンビ、ノア・バームバック×アダム・ドライバー「ホワイト・ノイズ」を観る。この2人が組むからには、「家族愛こそはすべて」に着地するデザスターものではないだろうなと思いながら観たら、やはり一筋縄ではいかない作品だった。私たちが日常で見て見ないふりをしている“死”の恐怖というものとどう向き合うかというテーマをシュールな会話劇を使ってコメディに落とし込んだ秀作。まあ好き嫌いははっきり分かれるだろうけど、「マリッジ・ストーリー」が好きな方は必見ですね。
あと、LCDサウンドシステムの主題歌が流れるエンドクレジットシーンが最高。
何か変わった映画!!
時事ものかと思ったら、ずっと世間話を聞いている感じでした。好き嫌いはあると思いますが、真面目な展開など気にしなくて良いのが良いのだと思います。
また、削除されるかなぁ?
また、削除された。
『すずめの戸締まり』と同じ様な主旨と感じたから、率直にレビューしたのに、僕のレビューは消された。
しかし、この映画を見れば、あの事故を、シュールに笑い飛ばしていると感じると思う。
ウム、
削除された理由は『宗教』の事かなぁ?
宗教の事は、映画の中にそんな台詞があった様な気がしたので、レビューしたのだが。まぁ、どうでも良い。アイロニーと思っているので。しかし『宗教』は『死にたくない』と言う生き物の本性に由来するものと僕は思っている。
いずれにしても、削除された事は良いが、共感頂いた方々には申し訳なく思っている。
事故と消費生活と感情
不条理ドラマの「もう終わりにしよう。」(I'm Thinking of Ending Things、2020)になんとなく似ている。
チャーリーカウフマン風に飛躍する話を、ジャームッシュな諧謔ムードで描きつつ、バームバックが持ち味とする夫婦愛へおとす。
出来事は非現実的で、風刺や隠喩として積まれていくが、おぼろげなニュアンスしかつかめない。
が、バームバックを見ているとは思えない意欲作だった。とても他の監督(の映画)を研究・観察しているように感じた。
話がシンボリックで厄介だったので、解釈をもとめて、ホワイトノイズ原作者Don DeLillo(ドンデリーロ)のウィキペディアを見たら、以下の記述があった。
『デリーロの小説は、現代の社会と人々のありようを鋭い視点と鮮やかなイメージによって(しばしばスケールの大きな作品として)描き出そうとするところに特色がある。そこでは社会に流布され人々の態度や行動を左右する様々な事柄と、いかに社会が変容しバーチャルなものが拡がろうとも逃れようの無い物質的なものとが二重写しに捉えられる。つまり一方ではメディアや政治的陰謀、大衆文化、消費文化といったものとそれらによって社会的に流布されたイメージとが人々に対していかに支配的に振舞い、人々に深い影響を及ぼすかが語られ、他方でゴミや身体、有毒物質などといった、あるいは目を背けられあるいは自覚されずにある社会と人々の物質的・身体的側面が強調される。このような二つの側面が絡み合ったり背反したりしながら互いに関わりあい、現代の社会と人々のありようを規定している様子を、デリーロは巧みな構成によって浮き彫りにしてみせた。またそのような社会の実相において、核戦争や死、災害といったカタストロフ的なものが重要な要素となっていることにも目が向けられ、核戦争の恐怖が人々の生活や振る舞いを左右したりメディアが流す災害の映像に人々が見入ったりする一方で、そのような災厄や死に対して人間がその生と身体において逃れようのないものとして直面させられるという両面性が語られる。これらの事柄をはじめとした現代社会に対する鋭い洞察に支えられた物語を、デリーロは的確な筆致によって、鮮やかなリアリティと高度なイマジネーションとを兼ね備えた小説として作り上げた。』
(ウィキペディア「ドン・デリーロ」より)
これを読んでさらにわかんなくなったwが、映画内台詞をつかって簡単に言うと『人は事実という敵に囲まれた弱い生き物』という話。(だと思う。)
消費文化を象徴し「消費するか死ぬか」という命題をドラマに変換している。ジャック(ドライバー)はヒトラーの研究者なので、とうぜんヒトラーやそのカタストロフィはメタファーであろうが、映画ではそこまで深い所は語っていない。
時代設定はスマホやネットがない頃で、事故で大気汚染がおきて家族は避難する。
そのように大きな災難と、スーパーで食品の成分表示を眺めながら買い物をする──といった穏やかな日常を対比しながら『人は事実という敵に囲まれた弱い生き物』であることを浮き彫りにする。
アダムドライバーは下腹をふくらまして中年を演出し、ガーウィグからは夫の映画らしい精神的余裕がかいま見えた。
──
アメリカ映画では大人よりも子供のほうが賢く成熟している──という描写が(とても)頻繁にある。
いま思いついたもので網羅性はないがアダム&アダムとかブックオブヘンリーとかヴィンセントが教えてくれたこと、スパイキッズなんちゃってかぞくおばかんすかぞく・・・。そもそもホームアローンからジョンヒューズからナショナルランプーンから、ほとんどのファミリードラマで大人より子供のほうが利口に設定されている──気がする。
それが本作にもあったのだが、ドンデリーロの原作に対するかたちで評論家がこの現象を論説している。
それによると、大人や親というものは常に自己不信感、あるいは自責の念を抱いているため、未熟で偏執狂的に見えるのであり、さらに80年代以降は(それ以前よりも)子供がマスメディアや消費行為へアクセスできるようになったことで、子供の大人化が進行した──ということだった。
スマホやネットが発展している今は尚更であり、仕事や生活や欲望にからめとられている大人にくらべて、子供のほうが物事の真義を捉えている──ことが常態化している。
ところで、この論説において「大人が持っている自己不信感」という説明が、そのままバームバックの作風につながってくる。
言うなれば「愛しているのに自信がないために素直になれない大人像」。
それをフランシスハやマイヤーウィッツやマリッジストーリー、本作でもバームバックの一貫したテーマとしてみることができた。
が、本作では意欲と挑戦は伝わったものの、投げたメタファーに着地点があったとは思えない。
どんどんメタファーが投げられる雰囲気は悪くなかったが、見終えて俯瞰したとき、ヒトラー研究者、エルヴィス研究者、大気汚染、ダイラーの処方箋、ミスターグレー・・・解消されたとはいえない未消化の隠喩が残った。とは思う。
風刺人間ドラマという謎ジャンル
面白い?か微妙な感じだったけど、何もなく楽しめた感じでした😅
風刺人間ドラマってどう観るのが正解かわかんないけど、ゆるいノリと映画でありそうなシチュエーション、ふざけたセリフを真剣に言ってるアダムドライバーがなんかツボりました👍
何処に向かっていく話かと思って観ていたら、色んな騒音に振り回されている現代社会と現代人の深淵を浮き彫りにしたなかなかディープなコメディでした。
①題名の「ホワイトノイズ」ってどういう意味?と OXFORD で調べたら“noise containing many frequencies with equal intensities (等しい強度の多くの周波数を含む雑音)” とのこと。日本語訳よりも英語原文の方がニュアンスがよく分かるね。
②映画の4分の3くらいまでは、何処に辿り着く話なのか頭を捻りながら観ていたが、最後の4分の1くらいに入ってから“ああ、そういうことを言いたかったんだ。結構、奥の深いコメディだったんだ。”、と腑に落ちた。
③そこまで観ないと分からない、というのは私の洞察力が悪いのか、映画として成功していないのか、直ぐには分からないけれど最終的には私には面白かった(もう一度見直して映画の隅々に配してある伏線を見つけたいくらい)。
②原作者のドン・デリーロという人は、現代アメリカ文学を代表するくらいの作家とのこと。
原作は1985年発刊というから約40年近く前。それでも現代の話と見ても決しておかしくないのは原作がそれだけ普遍的なテーマを扱っているのか、現代に合わせて脚色したのか。
これは見極めなくちゃと原作小説の「ホワイトノイズ」をAmazonで探したら¥3,300円(高!)だと。でも買いました。
死への恐れをコミカルに描けるか
2022年。ノア・バームバック監督。子どももいて家庭円満なカップル。夫はヒトラー学を教えるカリスマ教授、妻はフィットネスクラブなどで教える明るい母親だが、それぞれに死への恐怖を抱えている。有害物質を載せたトラックの事故と一斉避難をきっかけに、妻の様子がおかしいことに気づいた夫は妻を問い詰めていくと、と言う話。
有名な原作があるということなので、それを読めば楽しめるのかもしれないが、死への恐怖という重い話題をコミカルに処理しているのについていけなかった。作り物めいた人間関係は意図的なものだろうが、一斉避難とか、人生の虚しさとかがやってくるので、作り物めいた関係が生きていない。
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