「コミカルの陰にある真摯さは痛い」映画 イチケイのカラス talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
コミカルの陰にある真摯さは痛い
<映画のことば>
原告にどうするか一任されて。坂間さん、悩み抜いた末に(被告からの和解の申し出を)断りました。
坂間千鶴は、依頼人のために、最後まで真実を追い求めるつもりです。
こう言い切った時の入間判事の表情を、評論子は忘れることができません。
「法曹の意地」みたいなものが坂間弁護士から垣間見えたようにも思われました。
評論子には。
主役の裁判官・入間みちおを演じた竹野内豊自身が持っているのキャラクターもあって、どことなくコミカルに描かれている本作ではあるのですけれども。
しかし、事案の妥当な解決に腐心する法曹の真摯な苦悩も、そのコミカルさの陰に、しっかりと描かれていた一本ではなかったかと思います。
佳作であったと思います。
(追記)
<映画のことば>
悩んで、悩んで、悩み抜く。
結局…それでしか一番いい答えは見つからないと思うよ。
もっと悩め。坂間千鶴。
人の価値観を扱う法律学は、科学(社会科学)と言っても、多くの場合、法の適用結果には「結果的な妥当性」ということが常に求められますし、自然科学のように実験によって再現性を確認することが出来ないので、その意味では、「法律学の科学性」というものには、自(おの)ずから限界があるといわざるを得ないことでしょう。
とかく法律家が三百代言的に見られがちなことも、理由のないことではないと思います。
しかし、法律も、事案に応じた柔軟な解決策を求められながらも、なお紛争の解決のための指針となるような普遍的な真理を常に求めているという意味では、なお「科学」としての性質をを失ってしないようにも、評論子には思われます。
言い古された表現で置き換えるなら「法的安定性」と「具体的妥当性」とのバランスをどこで(どのレベルで)、どのように(どのような形で)図るかは、本当に悩ましいところで、上記の映画のことばの坂間弁護士のように、実務に携わる者は、悩んで、悩んで、悩み抜いているのが、実際ではないかと思われます。
その意味では、ずんと胸に重たい一本でもあったように思います。
(追記)
他のレビュアーの方々が指摘しているとおり、日本の刑事裁判所は、捜査まがいのことはしません。
法律=刑事訴訟法の建前としては、「真実の発見」が裁判所の責務にもなっているので、必要であれば職権での証拠調べができることにはなってはいるのですけれども。
(この点が、「当事者間に争いのないことは前提としなければならない」ということで、裁判所も、相対的真実に基づいて判断すれば足りる民事訴訟との大きな違いです。)
しかし、多数配置されている裁判所事務官は、組織としての裁判所の所属であり、決して裁判体としての裁判所に所属しているその「手足」ではないので、刑事裁判官の手足は裁判所書記たった一人で、証拠を整理したり、裁判の記録を管理したりするのがやっとこさで、とてもとても捜査機関がするような捜査まがいのこと(職権による証拠調べ)など、できる仕組みにはなっていないことを、申し添えておきたいと思います。
(ちなみに、行政事件訴訟法の規定によれば、行政事件でも裁判所は職権での証拠調べができることにはなっていますけれども。裁判所が職権で証拠を探してきたり、証人を採用して尋問したりしたという経験は、「訟務官」を務めていた当時には、それなりの件数の事件を扱っても一度もありませんでしたし、他の機関を含めた訟務官仲間から聞いたことも、ついぞありませんでした。)
行政事件でも裁判体としての裁判所の機構は同じで、裁判官の「手足」の裁判所書記官(民事事件と行政事件ではこう呼び、刑事事件では裁判所書記としか呼ばない。なぜだ?)は、たったの一人ですから。
たぶん、刑事事件でも、そうなのだろうと思います。
(追記)
もっとも…。
映画作品としての本作と言うことでは、本作がそういうふうに実態をはみ出していることを、減点要素とはしていません。
それは、「映画作品=常に真実の生き写し」とは、評論子も考えてはいないからです。
しかし、全くのフィクションとして物語を構築するならいざ知らず、「裁判所」「弁護士」「刑事裁判」といった現実のある現場を物語の舞台として設定するなら、全くその実態を踏まえない作品は(少なくとも実態を知っている者には)荒唐無稽に見えてしまいますし、せっかくそこに着想を得て映画を作るなら、実態の良いところをクローズアップする、良くない点を(必ずしもその世界にいるわけではない、いわば素人の視点から)痛烈に皮肉るなどすることで、現実を止揚して、製作陣には製作陣なりの「考えていること」「理想とするところ」を観客には見せて欲しいところです。
そして、映画というものは、そういうチカラを備えていると評論子は信じているからです。
そういう映画は、実態を知る者の胸にも、知らない者の胸にも、深く深く突き刺さる作品になることでしょう。
そして、評論子は(も?)そういう作品を探し続けているからだろうとも思います。
(ドラマが当ったから、二匹目の泥鰌を狙ってただ映画化するだけのことなら、もはや論外なのですけれども。)